えりいを助けるために、力を貸してほしい。
織葉はあの日、黒須澪にそう頼んだ。すると彼は少し考えた末、こう織葉に告げたのである。
『……いいでしょう』
それは、あまりにも予想通りの言葉。
『ただし、条件があります』
『あんたの手伝いをしろ、か?』
『察しがいいですね、その通り』
くすくすくす、と相変わらず食えない笑みを浮かべて、澪は告げる。
『私と貴方は相性が悪い。もしくは良すぎる。……私の“魅了”の影響を貴方は受けませんが、その代わり私の力が馴染みすぎる傾向にある。私の近くにいればいるほど、貴方は私と同じモノへ緩やかに変わってしまうことでしょう。この扉鬼の世界で出会うことさえ、本来避けるべきことだったはずです。……貴方に、覚悟がなかったのなら』
そんなことだろうな、と織葉は思っていた。
目の前の邪神は――人の愛憎を、本人の意思とは無関係に引き寄せて、狂わせてしまうモノ。恐ろしく美しい見た目をしているから、というだけではない。人によっては澪を人目見ただけで一目惚れをし、彼の全てを手に入れるためあらゆる手段を講じようとしてしまうことだろう。
手に入れる、と一言で言ってもまちまちだ。監禁しようとする者もいれば、恐らく拷問や強姦に走る者もいる。澪の視線をひとりじめするために、彼の傍にいるあらゆる者を殺戮しようとする者もいるのではなかろうか。
彼は、そういったモノとして生まれついてしまった存在。生まれてすぐの頃は己のそんな忌まわしい力を呪ったこともあったのかもしれない。だが、呪ったところでどうにもなるまい。それは人間が人間であることをやめるのと同義。人が、人であることをやめるなど並大抵のことではないように、彼には神や悪魔であることをやめる権利などなかったのだと思われる。
だから、愉しむしかなかったのだろう。
どうせ破滅と悪意を引き寄せるならば、それさえ快楽にしてしまうしかない、と。
織葉は数少ない、その“魅了”がまったく効かない存在。裏を返せば澪にとっては、心から欲しがっているモノだったということなのかもしれない。ただし。
邪神の傍にいるためには、自らも邪神になるしかないのだ。
『何度でも言う。俺は、えりいを救いたい。……たとえその結果、人の理を外れることになるのだとしても』
決意は、揺らがなかった。
えりいと同じ時間を生きることができなくなるのだとしても。自分は、えりいが幸せに生きられる世界を望む。それこそが、自分の存在意義でもあるのだから。
『……わかりました』
そして、澪は鍵を渡してくれたのである。邪神が持つ黒い鍵。契約の、鍵を。
『それを使えば、二度、この扉鬼の世界の法則を無視してエリアを移動することができます。ただし、それを使えば、貴方は私との契約を受け入れたことになる』
『問題ない』
そもそも、最初からそれが狙いだ。
『この世界から非合法な方法で抜け出すためには……どっちみち、人のままではいられない。そうだろう?』
だから、織葉は選んだ。
えりいと共に生きられなくても――えりいを一番泣かせない方法を。待たせてしまうかもしれないけれど、いつか必ず彼女を迎えに行く方法を。
――えりい。……大好きだよ。
鍵が開かれた扉の向こうには、真っ白な光の空間が広がっている。えりいが一歩踏み出すと、彼女と一緒にもう一つの影がドアの向こうへと跳び出した。
真っ黒に焦げた、さきほど自分たちが倒した怪物。そのボロボロになった黒い皮膚が少しずつ、少しずつ剥がれ落ちていく。どんどん小さくなっていく怪物の肉の中から現れたのは――ツインテールの、可愛らしい女の子だ。
「奈津子ちゃん」
えりいは、彼女に呼びかける。
「本物のドア、見つけたよ。もう、霞ちゃんは“鬼”じゃない。鬼ごっこはもう終わり。……大好きなお姉ちゃんが、待ってるよ」
「ほんと?」
「うん。一緒に、霞ちゃんに会いにいこう」
「うん!」
白い光の中、ボブカットにセーラー服姿の女の子が立っているのが見える。桃瀬霞。彼女が両手を広げると、奈津子はえりいを置いて駆けだしていた。
「霞ちゃん!」
霞の胸に飛び込む、奈津子。真っ白な光が強くなっていく。
えりいが一度だけ振り返った。織葉は、自分にできる精一杯の笑顔を浮かべて頷く。
「……またな、えりい」
「……うん」
光の世界は、天国と現実の両方に繋がっている。えりいたちの姿が消えると同時に、織葉が残った学校の空間が音を立てて揺れ始めた。
扉鬼の空間が、崩壊していく。
現時点で残っていた人間は解放されるのか、それともみんな死んでしまうのか。だが少なくともこれで、既に亡くなって閉じ込められていた魂たちは浄化されるはずだ。
同時にもう、新たな犠牲者が、招待者が迷い込むこともない。
――大丈夫。
織葉はぎゅっと拳を握って、目を閉じる。
――俺は……必ず。
***
「はい、じゃあ、今日の講義はここまでー」
教授のどこかのんびりとした声が響く。あ、いつの間にか授業終わってるや、とえりいは顔を上げた。すっかり船をこいでしまい、講義自体を全然聞いていなかった。この“建築デザイン”は必修科目だというのに。
「ああ、ちなみにー」
間延びした口調で、長い髭をたくわえた年配の教授は爆弾を落としてくる。
「レポート、忘れずにねえ。締め切りは来週だからねえ」
「んぎゃ!?」
さあ帰ろう帰ろう、と立ち上がりかけていた大学生たちが一斉に凍り付いた。えりいも同じだ。そういえば、先週課題が出ていたのをすっかり忘れていたではないか。思わず隣に座っていた友人のサヤカの方を見る。
「えりい、マジで忘れてたの?」
「……忘れてた」
「住宅展示場の見学しに行かなきゃいけないんだよ、あのレポート。ギリギリで仕上げられるものじゃないんだから、もっと早く手をつけなきゃダメじゃんか。今週土日は遊んでる場合じゃないねー」
「うええええ……」
買い物行きたかったのに、とえりいはがっくりと肩を落とす。ついでに、隣町のお祭りにも今週末は行こうと思っていたのだ。なんで先週のうちに片付けておかなかったんだ、ていうかなんで忘れてたんだ自分――と盛大に責めてもどうしようもない。
「ちなみにアタシはもう終わってまーす」
友人は容赦なく席から立ちあがった。
「一人で書かなきゃいけないんだから、まあ頑張んなよ。ていうかえりいさ、大学受験終わってすっかり気が抜けたタイプでしょ?大学生になったら楽できるーとか思ってたでしょ?」
「ぐぐぐぐぐぐぐぐ」
「それで結局さー、単位落として留年したら笑えないからねー?うちの大学、一年生で留年もあり得るから頑張りなよね。でもって留年したらものすごーくお金もかかるのもお忘れなく」
「うぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐっ」
本当に容赦なく、ずけずけ刺してくる友人である。えりいは再び、講義室の机に突っ伏して撃沈したのだった。
確かに、自分は大学生というものをナメていた、のは否定しない。なんとか好きな私立に合格できて、これで辛い受験勉強から解放されるヒャッホウ!とテンションが上がってしまったことも。
「んじゃ、また明日ー」
「……薄情者めえええ……」
えりいは力なく、去っていく友人に手を伸ばしたのだった。
***
扉鬼の騒動から、二年が経過していた。
織葉に促され、“本物の扉”を潜った時――えりいは、再会する奈津子と霞の姿を幻視したのである。
ずっと見つけて欲しかった扉を、やっと第三者に見つけて貰えた。
そして、その心を受け取って貰えた。
彼女達はきっとそう思ってくれたのだろう。最後にえりいに向かってお辞儀をした二人の顔は、最高に眩しい笑顔だった。とても、元々怨霊だったとは思えないほど。
恐らく。
扉鬼の怨念の中にいたのは、奈津子だけではない。霞も無念のまま死んで、そのまま一緒に飲み込まれてしまっていたのではないだろうか。そして、あの空間の奥底で閉じ込められていた。誰も扉鬼のゲームを終わらせてくれなかったばかりに。
それが解放されて、二人はやっと成仏することができた、ということだと思っている。天国に行ったのか、そうではなかったのか、残念ながらそこまではえりいもあずかり知らぬところであるけれど。
――目覚めた時は、大騒動になっていた。……織葉の姿が、一瞬にして消えたから。
彼は肉体ごと、部屋から姿を消していたという。扉鬼の話を何も知らなかった彼の母親からすれば、織葉が突然失踪したようにしか見えなかったはずだ。ただし、財布もスマホも何もかも置いたまま、鍵のかかった部屋から忽然と消えるという不自然な形で。
それから。
扉鬼を試していたと思しき多くの者達が――次々と、変死体で発見されたというニュースも。
残念ながら、扉鬼を浄化しても、扉をくぐった人間以外を救うことはできなかったということらしい。ただ、変死体で発見されたという者達はみんな、穏やかに、眠るような顔で亡くなっていたという。ならば、あの空間の崩壊と同時に、苦しむことなく死んだと思っていいのだろうか。それが、えりいにとって唯一の願いである。
変死体として見つかったのは、分かっているだけで日本中に十五人。想定したよりずっと少ないのは、それ以外の者達はみんな殺されたあとだった、ということなのだろうか。実際のところはわからない。
確かなことは、一つ。えりいは、彼らを犠牲にして自分だけ生き延びてしまったということ。自分は一生、それを背負って生きなければいけないということ。それから――織葉も。
――織葉は、死体にならなかった。ならきっと……戻るために、今もどこかで頑張ってるはず。
人あらざる者になれば、あの空間から抜け出せる。それは澪も言っていたこと。
ならばえりいは、その言葉を信じて待つ他ない。それがどれほど身勝手な願いだとしても。
――織葉、私、大学生になったよ。相変らず勉強できないけど、でも……新しい学校で友達もできたし、それなりに頑張ってるよ。
会いたい。
えりいは大学のキャンパスを出て、駅に向かって歩きだす。
もう、あの日以降自分は扉鬼の夢を見ていない。自分以外の誰も見ることはなくなったのだろう。実際、あれ以来“扉鬼のおじないを試した”という人はいても、“それで悪夢を見るようになった”という報告はネットで見かけることがなくなったのだから。
――犠牲は多かった。失ったものも、たくさんあった。それでも私達がやったこと……無駄じゃなかったって、そう信じたい。
赤信号の交差点。横断歩道の前で、えりいは足を止めた。声を失って、立ち尽くす。小さな駅だから、人通りは多くはない。だからよく見える。
懐かしい高校の制服姿で立っている、シッポのように長い黒髪の男の子。彼はえりいを見つけると、恥ずかしそうに手を挙げた。
まだ少し距離があるから、声は聞こえない。それでもわかる。唇が動いたこと。その言葉。
「ただいま」
ああ、間違いない。
「……ばか」
えりいは、掠れた声で呟いた。
「おかえり。……遅いよ、織葉!」
目の前の信号が今、青に変わった。