「間違い、ない」
木製のスライドドアを触る。6-1と書かれたプレートを見上げる。
「これだ。……これが、本物の……扉」
「確信があるんだな?」
「うん。……伝わってくるんだよ。奈津子ちゃんの無念が。本当は……本当は自分の苦しみのためじゃなくて、大好きな霞ちゃんを助けたかったんだってことが」
ああ、とえりいは項垂れる。なんで、こんなにも共感してしまうのか気づいた。
彼女は、彩音に似ているのだ。
幸せになりたくて、不遇な環境から抜け出したくて、でも誰かを恨むより――誰かの幸せのために頑張ろうとした女の子。それがあらぬ方向に向かってしまって、それでも怒りや醜い感情を抑え込んで眠りにつこうとしたのに。
あの女が。
占い師カルナこと、胡桃沢星羅が全てを壊していったのだ。自分が面白いものを見たいという、ただそれだけの感情で。
――許せない。でも……でも、怒りや憎しみに囚われちゃいけない。あいつを恨むより、奈津子ちゃんを解放して……扉鬼という物語を浄化しないと。
「……あとは、鍵を見つけるだけ。でも、本当に方法はあるの?」
鍵は怪物が持っているのではないか――織葉はそう推理した。問題は、鍵を入手するためにはほぼ確実に怪物を倒さなければいけないということだ。
えりいが持っているのは、彫刻刀一本のみ。こんなものだけでは、人間ならいざ知れずあの恐ろしいバケモノと戦うなんてできるとも思えない。ましてやこの学園エリアは、奈津子の恨みとトラウマの根源とも言える場所。一番強い、ゲームで言うところのラスボス級が出現してもおかしくないはずだが。
「さっき方法訊こうとしてしれっと流れちゃったんだよね。お織葉は思いついてるみたいだけど」
「ああ、それは……」
織葉が自分の考えをえりいに耳打ちしてくる。怪物を警戒してのことだろう。えりいも、なるべく声を潜めて答える。
「た、確かに、それならできなくもない、かもだけど。いや、私もちょっとは考えたけど……」
「えりい、彫刻刀持ってきてるんだよな?なら、トドメはえりいがやった方がいい。もし、向こうが俺ではなくえりいを標的にしてしまったらポジションを変えよう。その時は彫刻刀を俺に渡してくれ。いくら敵が強くても、アキレス腱のあたりを刺せばすっころばせることくらいはできるはずだ」
「……やるしかないか」
作戦は、他に思いつかない。かなり危険だが、挑戦する他あるまい。
えりいが腹をくくって息を吐いた、その時だった。
「ふふふふふふ、凄いじゃない、本物の扉を見つけちゃう、なんて……ふふふふふふっ」
空気が、凍り付いた。
織葉の少し後ろから、歩いてくる女がいる。顔の半分を血まみれにして、足をずり、ずり、と引きずりながら。
自分は、彼女の顔を知らない。それでも彼女の纏う空気、長身な三十代程度の美女――という特徴で充分想像はつく。
「く、胡桃沢、星羅……!?」
「!」
織葉もぎょっとしたように振り向く。女はえりいの呼びかけに、にやにやと笑いながら応えた。
「せーかい。やっぱり私のことは知ってるわよね。銀座蓮子ちゃんから聞いたのかしら?ああ、なんで今日は面白い日なのかしらね、本当に楽しい……うふふふふふふふっ!」
見たところ、顔以外にもあちこちに傷があるし、足を引きずっているということは捻挫でもしているのだろう。満身創痍。それなのに、余裕そうな笑みを崩さないのが恐ろしい。
「ぎ、銀座さんは、どうしたの!?それに、何で貴女が此処にいるの!?」
まず最優先で尋ねるべきはこれだ。えりいは後退りしながら問う。星羅はにやけながら、“死んだに決まってるでしょ”とにべもなく答えた。
「ほんと、首を絞められながら随分と抵抗してくれて、おかげでこの有様よ。顔の傷をやってくれたのは、あの茜屋大郷って人だけどね。ああ、私の愛しい大貴も死んじゃったみたいだし、私もこの通りボロボロにされちゃったし……本当に厄日。これもこれで、面白いゲームになったと言えばそうなんだけど」
「げ、ゲームって……!」
「ゲームよ、決まってるじゃない。退屈でつまらない世界、くだらない人間しかいない世界!それを忘れられる、最高に面白いゲームをしていたってだけ。大嫌いな連中が苦しみながら死んでいく以上に、面白いことなんかこの世にある?だってみんな大好きじゃない、“ざまぁ系”ってやつ。私はその対象が、ちょっと人より多いだけ。何もおかしなことではないでしょう?」
まるで正論でも語っているような口ぶりで、斜めすぎる台詞をつらつら吐く星羅。
話が通じる人間じゃない。それは、すぐに悟った。まさに、蓮子が言っていた通りだ。
――やっぱり、銀座さんは、もう……。
明日の朝、自分は蓮子の訃報を聞かなければいけないというのか。えりいはぎゅっと拳を握りしめる。この忌々しい女をぶん殴ってやりたい。でも、殴ったところでもう――失われた命は、戻らない。蓮子も、大郷も、もう二度と。
「私が此処にいる理由は簡単よ。とっくに見つけていたから……この学校エリアはね。でも、私には“本物の”扉を見つけることはできなかった。……あの子が引き寄せた人間でなければ、見つけられないようになっていたみたい。私では駄目だったということね」
「なるほど。……俺達がこの学校エリアに来ると踏んで、自分が知っていたルートでこちらに先回りしていたのか」
「そういうこと。本当に扉を見つけてくれるとは思わなかった。でもこれで……あとは鍵を手にいれるだけ」
させるものですか、と女の真っ赤な唇が動く。
「その扉を使って……扉鬼が救いを求めている貴女が脱出したら。本当にこの鬼は、浄化されてしまうかもしれない。そんなつまらないことさせないわ。その扉は、いつか私が自分のために使うものよ。貴女たちなんかに渡さない。そしてもっともっと、この空間に人々を引きずり込んで面白いショーを見物するの!」
狂った言葉、狂った思想。両手を広げて、まるでショーを行うマジシャンのように力説する女。
彼女は自分が正義だとしか思っていないのだろう。自分はいつだって強者の側だと信じているのだろう。
だから多少の反撃も、小蠅の抵抗のようなものだと切って捨てることができる。でも。
――……!
えりいも、恐らくは織葉も気づいている。
恍惚に浸る女の背後に迫ってくる、天井まで届かんほどの巨大な影に。
そうだ、こんな大声で誰かさんが話していたら、引き寄せてしまってもおかしくないではないか。
「だから、私こそ、が」
星羅の声が、唐突に途切れた。彼女の広げた両腕を、がしっと後ろから掴んだものがあったからだ。
「は、え?」
理解が及ばないのは、星羅一人だけ。そして彼女が振り返るよりも先に、怪物が行動を起こしていた。
灰色の、筋骨隆々の両腕で――彼女の両腕を、同時に逆方向へ引っ張ったのである。何が起きるかなど語るまでもない。そう、それは。この世界にやってきた、多くの者達とまったく同じ末路。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ぶちぶちぶちぶちぶち、ぼきっ!
彼女の右腕が、肩から引きちぎられて宙を舞っていた。
「ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!?な、なんで、なんで、私、私がっ!?」
血の噴水を噴き上げ、左腕をまだ掴まれながら星羅が叫んでいる。
「わた、私、私があんたに力をあげたんでしょ!?本物の鬼に、いっぱい殺せる強い鬼に育ててあげたんじゃない!なんで、お、恩をアダで返す気なの、ねえ!?あ、あああああああっ!」
その時、射し込む夕陽に、怪物の姿がはっきりと照らし出された。
今まで自分達が見てきた、巨大な猿のような化け物とは違う。全身を包むのは、灰色の毛ではなく――同じ色の、うねうねとした触手だ。触手の集団から、筋骨隆々な両手足がにょっきりと突き出していた。真っ赤な両目からは血のような体液を流し、だらだらと口からは涎を溢れさせている。
今までの怪物が可愛く見えるほどの、醜い異形。
確信する。これが、これこそが本物の“扉鬼の鏡”。紫原奈津子の、恨みと苦しみの根源であるのだと。
「あ、あああっ!」
怪物は、星羅の残った左腕に噛みつく。そして、そのままばりばりと肉を引きはがしていった。
「ぎゃああああああああああああ!いだい、いだい、だいい、あ、あああああああ、があああああああああっ!!」
「えりい!」
「う、うん!」
まだ、怪物は星羅を食うのに夢中になっている。チャンスは今しかない。
「囮は予定通り俺がやる。えりいがトドメを刺せ!」
「わ、わかった!」
これが最後の戦いだ。
二人は走り出す。そのままえりいは適当な教室に飛び込んでドアを閉め、織葉は廊下を走り続けた。これで、怪物が星羅を喰ってある程度満足した時、最初に見つけるのは織葉の方となるはず。今までの怪物と知能レベルが同じなら、えりいの方を先に見つけることはないはずだ。同時に、二人の人間を標的にすることも。
――一番確実に倒せるとしたら……あそこ!
「あああ、あああああああああっ!げぶっ」
ボキボキボキバキ!と骨が粉々に砕かれるような音がした。全身を踏みつけられたのか、あるいは脊椎ごと首でもひっこぬかれたのか。いずれにせよ、星羅の断末魔が唐突に途切れた。――忌々しい人間だったが、だからといってここまでの死に方をしてほしいとまでは望んでいなかった。できることなら、きちんと法で裁かれてほしかったものを。
「来い、バケモノ!俺が相手だ!」
織葉が力強い声で叫ぶ。怪物が再び吠えるのが聞こえた。窓からこっそりのぞくと、どたどたどたどた、と重たい足音を立てて怪物がえりいがいる教室の前を通過していく。狙い通り、織葉を襲撃しにいったのだ。
――よし!
一人を狙っている時、怪物は他の招待者に目もくれない。標的を変えるのは、怪物の体にうっかり触れてしまった時だけ。ならば堂々と背後でドアを開けて廊下に飛び出しても、そいつがえりいを気に留めることなどないだろう。
思った通り、織葉は女子トイレのドアを背に佇んでいる。怪物が、今まさに織葉に襲い掛かろうとしていた。
「今だ!」
えりいは、怪物の背後に回った。織葉に襲い掛かろうと、怪物が前に体重を傾けて右足を浮かせた瞬間にしゃがみこむ。そして怪物の軸足となった左足首のアキレス腱あたりに、彫刻刀を突き立てたのだ。
「グオオオオ!?」
痛みがあるのだろうか。絶叫し、体を支えられなくなって前ののめりに倒れていく怪物。織葉が思い切り女子トイレのドアを開けた。その向こうにあるのは、灼熱の炎に飲まれた空間。先ほど自分達がひっかかりそうになった、即死トラップだ。
次の瞬間――物の巨体が、炎に焼かれたトイレの中に飲み込まれた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
そう。
自分たちの力では、バケモノを倒すことなんかできない。
でも、扉鬼の世界のトラップは、この怪物さえ避けて通っているのがわかっている。ならば、トラップの力を使えば怪物を倒すことも可能なのだ。
断末魔を上げて、怪物が黒焦げになっていく。すると、その真っ黒に焼けた背中から、金色のものがはじき出されるように飛び出してきた。
「か、鍵が……!」
えりいは慌てて、それを拾い上げる。
ついに、この時が来た。本物の扉と鍵の両方が揃う瞬間が。そしてもう、星羅も死に、怪物も死んだ。自分達のゴールを阻むものは何もない。
否、一つだけ、あるとするならば。
「……えりい」
織葉は。鍵を握ったえりいの手を握りしめて、はっきりと言った。
「この鍵をつかって、あの本物の扉、から出るんだ。……扉鬼に招かれ、呼ばれたえりいがそこから出ればきっと……扉鬼そのものが、浄化される」
「で、でも」
扉から、出られる人間は一人だけ。
そして扉鬼が浄化されても――実際のところ、その時生き残っていた招待者たちがどうなるのかはまったくわからない。全員救われ可能性もあると信じているが、望んだ結果になる保証はどこにもないのだ。下手をしたら、崩壊する空間に飲み込まれて、織葉も。
「大丈夫」
織葉は、不安に思うえりいにはっきりと言ったのだった。
「俺は絶対、えりいの元へ戻る。時間がかかっても……どんな方法を使っても、必ず戻るから」