彼女――
かつてはたくさん子供がいたこの学校も、今では小学生から中学生まで一緒の教室で勉強するようになっている。彼女はいつも、四階の中学生クラスの教室で勉強しているはずだった。にも拘わらず、時々あたしの様子を見に来ては、こうしていじめから助けてくれたり、庇ってくれるということをしていたのである。
確かに、小さな頃、何も分からなかった頃から姉妹のように仲良しだったのは確かだ。
それでも彼女はもう十五歳だし、物の分別がつかないほど幼くはない。あたしが、正確にはあたし達一族が村の人からどんな風に見られているかなんて、彼女もよく知っているはずだというのに。
『これ。その……私のジャージだから、ぶかぶかだけど。とりあえずこれ来て帰りなよ、なっちゃん』
『うう、ありがと……霞ちゃん』
もし今日、彼女は来てくれなかったら。あたしは裸の状態で、泣きながら先生たちのところに行くしかなかっただろう。もちろんそれで先生たちが助けてくれる保証はないが、少なくとも十二歳の女の子を全裸で帰すほど鬼ではなかったはずだ。
とはいえ、びしょ濡れで全裸という恥ずかしい恰好を多数の前に晒さなければいけないのは恐ろしいし、もちろん羞恥心だってある。職員室には男の先生もいるから尚更に。
霞が見つけてくれたのは本当に幸運だった。感謝と同時に、あたしは心の底から申し訳ない気持ちになったのである。
『本当は……なっちゃんのジャージか体操着、持ってこようとしたんだけど』
霞は気まずそうに視線を逸らした。
『あいつら、用意周到すぎるよ。あんたの体操着とジャージも綺麗にズタズタにしていきやがって。……ごめんね、助けてあげられなくて』
『ううん、いいよ。……霞ちゃん教室遠いし、部活もあるし……でも』
彼女の、少しサイズの大きいジャージに袖を通しながら言うあたし。――下着もないので、ズボンをパンツもないまま履くしかない。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ちゃんと、綺麗に洗って返さなければ。
『あたしのこと、助けてくれてるせいで……霞ちゃんも嫌なこと、言われてるんでしょ?本当に大丈夫なの?霞ちゃんせっかく美人だし、成績もいいし……良い高校に入れるかもしれないって、先生言ってたのに。あたしのせいで内申、下げられちゃうかもしれないって……』
『はあ?誰がそんなこと言ったんだよ!?』
『みんな、言ってる。……霞ちゃんの足、あたしが引っ張ってるって。あたしがいたら、霞みちゃんの将来がめちゃくちゃになるから、離れないといけないって……』
『はあああああ!?』
霞は眉を跳ね上げた。
『あんた、そんなこと気にしなくていいんだよ!ていうか、そんな風にあたしの心配するフリするくらいなら、村ぐるみでのいじめをやめろって言いたいね!……いい?なっちゃん。あんたは、何も悪いことしてないんだよ。あんたの家族だってそう。もしかしたらご先祖は何かトラブルを起こしたのかもしれないけど……そんなもん、子孫のあんた達には関係ないことなんだよ。それで、あんた達がこんな目に遭わなきゃいけないってのはおかしなことさ』
彼女はあたしの肩をぽんぽん、と叩いて言った。
『私、もっともっと知識を身に着ける。黒戸村の神様のことも、政治のことも、いろいろ勉強する。だから多分、卒業したら一回村を離れなきゃいけないけど……でも絶対この村に戻ってくるよ。そんでもって、村のエライ人になってみせる。そして、村の仕組みを私が変えてやる!』
『霞ちゃんが?』
『うん。私が一番偉い人になったら、誰も文句なんか言わなくなるっしょ。そうしたら……あんたらへの村八分だって、号令かけて解かせてやるんだから。だから……それまで待ってて。絶対絶対……私が、あんた達を助けるから!』
『う、うん……!』
霞は綺麗で、優しくて、とても強い人だった。正義感が強くて、駄目なことは駄目とはっきり言える人。
この村の人は誰もあたし達一家を助けてくれなかった。先生もみんな、いじめを当然のものとして見て見ぬふりをした。この村にも駐在さんはいるけれど、警察でさえ私の訴えなんか全然受け付けてくれない。
そんな中、ただ一人――彼女だけがあたしにとっての光だったのだ。
この村には、嫌なことがたくさんある。でも彼女と出会わせてくれたことだけは、間違いなく奇跡だったと思うのである。
『……とはいえ』
彼女はあたしの体を見下ろして、苦々しく呟いた。
『さすがに今回のいじめはやりすぎだ。私も堪忍袋の緒が切れたよ。全裸にして、恥ずかしい写真を取るなんて……女同士でも十分に酷い暴力だ。絶対に許しちゃいけない。ていうか、前にも恥ずかしい写真撮られたことあったんだっけ?』
『うん。……その時は、おっぱいだけだったけど、今回は……』
『本当にありえない!……私、あいつらから写真取り返すよ。最悪殴ってでも、取り返す』
『で、でも……』
確かに、霞は私と比べて力もあるし、陸上部で鍛えているから喧嘩も強いだろう。
でも、相手はいくら下級生とはいえたくさん数がいるのだ。力持ちのガキ大将みたいな子たちもいるし、霞一人でなんとかなるんだろうか。
『大丈夫、私、強いから!』
そんな私の心配をよそに、霞はにっかりと少年みたいに笑って言ったのだ。
『なんとかするよ、絶対。あんたのことは……私が絶対、守るから。今度こそ、必ずね』
ああ。
もしあの時、あたしにもっと力があったら。彼女に頼らず、自分でいじめっこたちに立ち向かう勇気があったら、何かは変わったのだろうか。
『霞さー、ほんっと物好きだよなー!』
『まったくね。ていうかこれ見てよ、この気持ち悪い写真!』
『うげえええ、真っ黒でもっじゃもじゃ!きもっちわるー!』
数日後。
霞はあたしたちの学年の教室で、いじめっ子のサチちゃんやオウくんたちと対峙していた。相変らずサチちゃんはプリントした写真を持っていて(あんな変態的な写真のプリントを許すなんて、町の写真屋さんも終わってるとしか思えない)、それをお互いに見て笑いものにしている。あたしは恥ずかしくて恥ずかしくて、霞の後ろで俯くしかなかった。
『気持ち悪いのはあんたらの方だよ。知ってる?小さな女の子のハダカ見て悦ぶやつらって変態って言われて、都会じゃすごい嫌われるんだよ。ロリコンって言うんだってさ。気持ち悪いーって笑われて、警察に捕まるんだ。あんたらも、大人になったら警察に捕まるな!親御さんたちが泣くなー!』
負けてないのは霞ちゃんだ。下品なからかいをしてくる小学生たちに、べーっと舌を出して挑発する。
『今写真を全部返すし、今後ああいうことをしないってならお前らが変態だって村の外に言いふらさないでやるよ。うちの村は全然ないけど、都会じゃインターネットでどんどん情報が拡散するっていうし?お前らの名前も顔も晒してやるけど、それでいいわけ?』
『ふん。何よ偉そうに。邪神の味方するそいつらがいけないから、わたし達が教育してあげてるだけなのにさー』
『そうだそうだ!』
『ふうん、じゃあ、本当にいいいんだな?あたし、これから高校受験で都会まで行くんだけどなーお前らの写真も持ってるんだけどなー』
『…………』
暫く、いじめっ子たちと霞のにらみ合いが続いた。
やがて、サチちゃんとオウくんが何かをひそひそ話し始める。それに、サチちゃんの取り巻きの女の子も加わって、何やら不穏な相談をする。
『……いいわ』
やがて、サチちゃんがにやりと笑って言った。
『その代わり、条件があるの。……奈津子にいっつもやらせてた鬼ごっこ、今日はあんたがやりなさい。わたし達を満足させたら、あんたの勝ちってことで写真は返してあげる』
まさか、とあたしは目を見開く。彼女が言う鬼ごっこなんて、一つしか心当たりがない。よく、あたしを虐めるのに使っていた大嫌いな遊び。
『扉鬼、をしましょ。あんたも大好きでしょ?鬼ごっこは』
***
「!!」
はっとして目を見開くえりい。全身ががくがくと震えている。また胸がむかむかしてきて、思わず嘔吐いた。口を押えてどうにか吐き気を堪えたところで――えりいはやっと、自分が置かれている状況がおかしいことに気付く。
「え、え?」
これは、どういうことだろう。
自分は二階のトイレに一歩足を踏み入れた、ところだったはず。どうして薄暗い個室の中にいるのか。
しかもトイレの壁に背を向けて、織葉に壁ドンみたいなことをされているのか。
「お、おり、おりば?」
これは、夢にも見た乙女ゲーム的シチュエーションというやつなのでは?思わず頬を紅潮させた時、そっと織葉に口元を塞がれた。
「んぐ!?」
「静かに」
見れば、織葉の顔は――少女漫画の告白場面、とは似ても似つかない、険しい表情となっている。
「簡潔に説明すると。えりいと俺は、トイレに入った途端意識が飛んだ。俺の方が早く目覚めたが、そしたら廊下の方からのしのしと怪物の足音が聞こえてきたんだ。トイレの洗面所は鍵がかからないから、やむなく個室の中に避難して今に至る。……大きな声を出したらバレるかもしれないから、静かに」
「ふ、ふえっ……」
そうでした、ここ怪物もいるんでした。壁ドンなんてそんな甘いものじゃなかったですね――なんて言っている場合ではない。
確かに、ずし、ずし、ずし、と廊下の外を何かが歩くような音が聞こえてくる。歩いている、ということは自分達は見つかってはいないということなのだろうが。
「……織葉」
彼の手が外れたところで、えりいは深くため息をついた。
「目覚めた時間が違うのは……多分また、私の方が長くビジョンを見たから、なんだと思う。でもって……その理由も、わかったかもしれない。同時に……この学校エリアのどこかにあるっていう、本物のドア、の在処も」
「なに?」
「本当に奈津子ちゃんが怒ってたのは、自分達一族が虐げられたから、ってだけじゃなかったんだと思う。彼女は……」
紫原奈津子にも、ただ一人味方はいた。
彼女はえりいと年が近い女の子で――どことなく見た目も似ていた。だからえりいは強く引きずられたのだろう。
桃瀬霞。
彼女がもし無事ならば、扉鬼という怪異は生まれずに済んだのではないか。
「彼女は、大好きな“お姉ちゃん”がいじめっ子たちに殺されたから……それが一番許せなくて、悲しかったんだと思う」