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第77話

 気づけば滑るように、床に転がっていた。


「は、はあ、はあ、はあ……!」


 えりいは荒く息を吐く。膝がじゃり、と砂の感触を覚えた。砂だらけの廊下だ。それもあちこちささくれて穴があき、カビが生えた木の廊下。お世辞にも清潔ではない。思わず触ってしまった手と膝が、砂だか埃だか木くずだかもわからないものでざらついて不快だった。

 ぽた、ぽた、と床に汗が垂れる。思わず、自分のお尻に手を伸ばしてしまっていた。――湿っているなんてことはない。それなのに、まだあの嫌な感触を覚えている。


「えりい、大丈夫か」


 すぐ傍から声がした。えりいはどうにか頷き、顔を上げた。こちらを心配そうに見下ろす織葉の顔がある。良かった、どうやら自分達は同じ空間に転移できたらしい。

 まだ息は上がっているが、一人ではないというだけで心の底から安心できた。織葉が伸ばしてくれた手に捕まり、立ち上がる。


「来られた、んだ……私達」

「ああ」


 そこは、どこかの木造校舎のような空間だった。左手に並ぶ窓の向こうからは、オレンジ色の光が射しこんできている。右手には、1-2とか理科室とか書かれたプレートがかかった教室が並んでいるようだった。窓の向こうを見ると、広々とした校庭が広がっている。外は血のように真っ赤な夕焼けだ。綺麗だけれど、なんだかぞっとするような色をしている。

 窓の景色から察するに、ここは二階くらい、だろうか。


「……酷いもの見たね」


 自分を落ち着かせるために、えりいは言葉を紡ぐ。


「ほんと、最悪だよ。小学生の女の子をゴミ箱に閉じ込めてさ、そのまま自分達は家に帰るんだよ?ご丁寧に、ゴミ箱の蓋をガムテープで止めて、内側から簡単に開けられないようにしてさ」


 奈津子が受けたいじめのビジョン。思い出すと、段々ショックよりも怒りがこみあげてきた。

 彼女は神主の家に生まれた、というだけで理不尽ないじめを受けていた。荒れ果てた神社と社務所。押し込められるようにして、肩身の狭い思いをして生きる紫原一家。神様を邪神だと村人たちが決めつけるようになってから、代々苦しい思いをしてひっそりと生きてきたという。

 何故神様が邪神ということになったのか、人々が神様と神主一族を迫害するようになったのか、その決定打となる事実を奈津子本人も知らないようだった。そもそも、何百年も前のことすぎてろくに伝わってもいないのである。

 ただ、当たり前のようにそういう空気があって、先生さえも奈津子を助けてはくれなくて。


「ゴミ箱の中に閉じ込められて……蓋はちょっと開いてるから酸欠にはならないし、涼しい時期だから熱中症にはならなかったけどさ。それでもお腹はすくし喉はかわくし、トイレだって行けないじゃん?ゴミ箱の中は汚れててすっごい臭いしさ」


 そんな中に閉じ込められたら、私だったら耐えられない――えりいは吐き捨てる。


「ついにトイレが我慢できなくなって、泣きながら漏らしてるわけ。あの絶望……ほんとないよ。気持ち悪いし、恥ずかしいし、人としての尊厳も何もありゃしない。そのくせ、朝になって開けた時、糞尿まみれで泣いてる女の子を見てみんなで指さして嗤うんだよ?冗談じゃないよ!」

「ま、待てえりい」


 えりいの様子を見かねたのだろうか、織葉が止めに入った。何、と思って彼の顔を見たえりいは戸惑う。

 織葉が明らかに、驚いた顔をしていたからだ。


「さっき、ゴミ箱を触った時に見たビジョンの話、だよな?」

「うん、そうだよ?」

「俺も同じものを見たが……俯瞰した視点だった。離れたところから小学生の……ツインテールの女の子が、いじめっ子たちに教室のゴミ箱に押し込められるところだ。いじめっ子たちが作業を完了させると、笑いながら離れていって……そこで映像が途切れたんだが」

「え」


 それはどういうことだ、とえりいは目を見開く。だって。


「わ、私……私完全に、奈津子ちゃん視点だったよ!?ゴミ箱に閉じ込められて、真っ暗で……私が彼女に成り代わっていじめられたみたいですごく気分悪かった……」


 閉じ込められた後のゴミ箱の饐えた臭い。

 折り曲げられた手足が窮屈で、痛くて。お尻は最初は汚い泥やジュースなんかの汚れで濡れていて、それが次第に自分の糞尿で汚れていくという救いようのない感触。

 泣いても喚いても、誰も助けに来ない。

 やっと朝が来たと思ったら子供達に笑われて、ゴミ箱を蹴り飛ばされて無理やり外に出されて、自分で掃除しろと強要されて。


「私と織葉で、見ていたものの視点と長さが違う、ってこと?」

「ああ」


 織葉は頷いた。


「何か、理由があるのかもしれない。……そして、この空間には紫原奈津子の記憶が大量に詰まっているのであれば」


 彼はボロボロの天井を見上げて呟いた。


「その記憶の欠片を拾っていけば、わかるかもしれない。彼女を救う方法も……その苦しみの本質も」

「……うん」


 さっきの記憶。少し体験しただけで、酷い吐き気を覚えた。正直、何度も似たような経験をしなければいけないなんて御免被るところだが。


――やるしか、ないか。


 この学校空間の、あらゆるものを触ってみるしかない。

 えりいは額の汗を拭って頷いたのだった。

 二人でまずは、この二階のフロアから探索してみることにする。二階のトイレに入った時、えりいは早々に次のビジョンを見ることになるのだった。

 今度は、トイレで虐められている奈津子の様子を。





 ***




『ギャハハハハハ!ハハハ!マジではっずかしー!』


 あたしの目の前で、サチちゃんがお腹を抱えて笑っている。その隣ではサチちゃんの友人たちが同じようににやけており、そのうちの一人の手にはインスタントカメラが握られているのだった。


『ほら、もっと恥ずかしい踊りしなさいよ、ほらほらほら!大昔の巫女さんの滝行ってこんなかんじでしょー?』

『う、ううううううううっ』


 なんで、こんな目に遭わないといけないんだろう。あたしはびしょ濡れの状態で、唇を噛みしめた。濡れているのは、トイレのホースの水を頭からぶっかけられたからだ。掃除で使う、カビだらけのホースから浴びせられる水は変な臭いがした。

 それだけじゃない。

 あたしは今、靴下と上履き以外何も身に着けていない。服は全部、サチちゃんたちに取られてしまった。どれもびりびりに破かれてしまってゴミ箱に投げ捨てられてしまったので、取り返したところでもはや着ることなどできないのだろう。

 彼女たちの前であたしは今、手を頭の後ろで組んだ状態で、恥ずかしいスクワットをやらされている。大股びらきで、股間を突き出すようにして一心不乱に腰を振るように要求されているのだ。

 当たり前だけれど、おっぱいも股間も全部丸出しの状態。

 二次性徴が早めだったあたしは少し胸も大きめで、股間も結構濃く毛が生えた状態だった。彼女たちはそんなあたしのコンプレックスを指摘しては、もじゃもじゃきもちわるーい、バイタってやつじゃねー?と酷い言葉を浴びせてくる。

 しかも、カメラで写真を何枚も撮影するのだ。全身が映っているもの、顔のアップ、股間のアップまでいろいろ撮影したと言っていた。――あんなもの、他の人に見られたらどうなってしまうのだろう。


『ほらほら、もっとオマタ突き出して、きもちわるーく媚び売ってみせればー?小学生がイイっていう変態もいるしさ、この写真高く売れそうよね。東京の変態雑誌とかに送ってみるう?』

『や、やだ、やめて、やめてくださ……』

『何人間の言葉喋ってんだよ。巫女さん?あ、イタコだっけ?まあいいや、お祈りの最中なんだから、もっと化け物っぽく叫べよー』

『う、ううううう、ううううううううう、おおおおおおおおおおおおお!』

『あははははは、いい声出るじゃないの、おもしろー』


 悪意しかない、嗤い声。彼女たちだって同じ女の子のはずなのに、何でこんな酷い真似ができるのだろう。

 そのあとも、足ががくがくして動かなくなるまで、あたしはスクワットをさせられた。

 最後は汚いトイレの床に座って、大股開きをしたところを写真に撮られて終了である。


『じゃ、この写真は大事にとっておくから』


 サチちゃんは心底楽しそうに笑いながら、カメラをひらひら振って言った。


『明日も、いつもの場所に集合だかんね。遅れたら、この写真ぜーんぶバラ撒くから。この村に、あんたら一家の味方なんていないんだからね。……さっさと神様捨てて、村を出て行けば良かったのにね。馬鹿みたい』

『うう、うううううっ……』


 そんなこと言われたって、とあたしは床に座り込んで泣き続けるしかない。

 確かに、この村には嫌な人がたくさんいる。何百年も前に神社と村であったトラブルをいつまでも引き合いにだして、神様とうちの家族に酷いことをする人ばっかりだ。

 それでも、あたし達はこの村で育った人間で、この村の外のことなんて知らない。別の土地でなんて、生きていけるはずがないのだ。それに。


――神様は、本当にいるのに……。


 あたしは知ってる。

 黒戸村には、本当に神様がいる。神様の名前は知らないけれど、いつもあたし達に呼びかけてくれて、心配してくれる優しい神様が本当にいるのだ。あたしは小さな頃からその声を聴いていて、神様に慰めて貰っていた。神様はいっつも、あたし達一家に謝っていたのだ。

 助けてあげられなくてごめんなさい、と。

 無力な神様でごめんなさい、と。

 本当はもっと大きな力を持っていた神様だったのに、今は力を失ってあたし達と会話をするくらいしかできないという。だから、いつも虐められている神主一族が可哀想で、申し訳なく思っているというのだ。


――この村の人より、神様の方がずっと優しい。なのに、どうして村の人は神様に冷たくするんだろう。


 本当に邪神は、果たしてどちらか。

 そんな優しい神様を置いて自分たちだけ村から出るなんて卑怯なことはできない――紫原家がこの村を出て行くことができない最大の理由はそこなのだった。

 なんとかして、神様の力を復活させることができないものか。神様が本当に正しい神様だとわかれば、村の人も昔みたいに神社と神様を大切にしてくれるようになる。自分達も虐められなくて済むようになるかもしれないのに。


『……どうしよう』


 サチちゃん達がトイレから出て行ったところで、あたしは途方に暮れてしまった。さすがに、ほぼ全裸の状態では帰れない。服はもはや着られる状態ではないし、タオルのように身を隠せるものもない。

 トイレの外は、普通の生徒も通る廊下だ。先生や男の子たちもいるだろう。こんな姿を見られたら、何を言われるかわかったものではない。何より、恥ずかしすぎて死にそうだ。


――いっそ、死んじゃったらもう、幸せになれるのかな。裸で死ぬのは、嫌だけど、でも……。


 ふらつきながら、あたしが窓の方へ近づいていった、その時だった。


『なっちゃん!』


 トイレのドアを乱暴に開き、飛び込んできた人物がいたのである。 


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