「か、か、かか、か」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
「かかかか、怪物の中あああ!?うっそ、え、うそ!?」
「……何をそんなに驚いているんだ。想像はつくことだろう」
えりいの反応がよっぽど意外だったらしい。織葉は呆れたように言った。
「怪物の体内にあるか、怪物が持っているのかのどっちか。そう考えるのが自然だ。何故か?……紫原奈津子本人にとって、この世界を脱出する鍵は最も重要なものの一つ。安易に招待者に見つかるようでは意味を成さない。なら、一番堅実なのは、“門番”に持たせて守らせておくことだ、違うか?」
「そ、それはそう、かもしれないけど……」
「扉鬼の怪異の内容と、過去の出来事からある程度彼女の望みは推察できる。彼女は元々村を滅ぼして満足したはずだった。それでも成仏できなかったのは、本当の自分の苦しみを理解してくれる人間が現れなかったからじゃないだろうか。現れなかったのはまあ、彼女のいじめを知る人間を彼女自身で全部滅ぼしてしまったからなわけだが」
「あー……まぁ」
黒戸村は土砂災害か何かでまとめて潰れてしまったと聞いている。それも、状況から見て紫原奈津子の呪いだったということなのだろう。
復讐を果たした代わりに、誰かに理解してもらうことも、誰かに浄化してもらうこともなくなってしまった少女。その心の隙を突かれて占い師カルナこと、胡桃沢星羅に引きずり出され、恨みの念を増幅されて本物の鬼にされてしまったのだろうが。
「彼女は、自分のトラウマを再現した空間であろう“学校”に隠された扉を、誰かに見つけて欲しがっている。それはつまり、自分の心の傷を見つけて、理解して欲しいと願っているということだと思う」
「じゃあ」
自分でも考えなければ、とえりいは口を開く。
「鍵というのが、“理解する”ために必要ってことなのかな。心のドアを開ける、っていうもんね……」
「ああ」
「でも、ただ自分が助かるためだけにドアを開けようとする人間には用がない。……門番を倒すくらいの強い意思と勇気を持った人間に救ってほしい……とか?」
「恐らくそういう意図もある。……何より、招待者たちを殺しまわっているあの怪物は、彼女の恨みや憎しみの具現化だろうからな」
それは、なんとなくわかる。
猿のような見た目。暴力的なほど筋骨隆々で、いかにも他人に危害を加えてきそうな牙と爪。見つけた人間を無差別に襲い、襲ったらどこまでも残酷に殺そうとする本能。
それらは彼女が受けてきた苦しみの投影であり、それを晴らすための唯一無二の手段であり、憎悪そのものだとも言えるのだろう。
誰かを少しでも苦しめて殺してやりたいと考える“心”が、美しい姿をしているはずもないのだから。
「怪物を倒すって、どうやって?」
問題はそれだ。
織葉の考えには筋が通っているように思う。実際、今まで散々多くのエリアを回ったが、鍵らしきものを見つけることはできなかった。
勿論胡桃沢星羅らがとっくに入手してこっそり隠している可能性もゼロではないが――彼女の場合、自分が持っているなら嬉々としてそれらを振りかざし、皆に絶望を与える手段にしそうな気がしている。
ならば怪物が持っている、とするところまではいいとしよう。だが、奴らを倒すのは並大抵のことではない。目玉をほじくればダメージを与えることはできるかも?らしいが恐らく倒すまでには至らないだろう。
「一つだけ、方法を思いついている」
織葉は難しい顔で言った。
「問題は、俺達が次に辿り着くであろう学校エリアに“それ”がどれくらいあるかどうか、だ」
「え?この青いエリアじゃなくて?」
「このエリアには怪物がいないかもしれない、って話だろう。なら怪物との対決は学校エリアでやるしかない」
「あ。そういえばそうだった」
角を左に曲がり、織葉が示すままT字路を右へ曲がる。と、そこまで歩いたところでえりいにも思いついた。
怪物を倒せる方法があるとしたら、それは。
――確かに……鍵がそんなに重要なものなら、そんなに簡単に壊れるはずもないし、やれる、かもしれないけど。でも、そんなにうまくいくかな……。
「ばっふ!?」
突然、織葉が立ち止まった。えりいは思い切りその背にぶつかってしまう。
「ちょ、おりふぁ!いひなり止まらないでひょっ!」
驚きで噛みまくりながら言ったえりいは、前方を見て気づいた。
ドアがある。教室で見かけるような、スライドドア。それも現在の学校ではない、古びた木造校舎のドアだ。
その隣には、鉄製のロッカーがあり、その隣には赤いプラスチックのゴミ箱がある。えりいの学校でも使われていたような、上に白っぽい回転する蓋がついたタイプだ。
どちらもえりいが知っているロッカーがゴミ箱よりあちこち汚れたり、欠けたり、錆びたりしている。長らく使われていたとか、乱暴使われていたということなのだろう。
「……学校にありそうなもの、だな?」
「うん……」
コンクリートの通路に現れた、不自然な三つのモノ。
すぐにピンときた。この中のどれか一つが、学校エリアに繋がる道となっているだろう、と。
間違ったものを選べば、この青いエリアからも離脱させられてしまうかもしれない。下手をすれば、赤いエリアへ逆戻りだ。もう織葉が渡された“黒須澪の鍵”は使えないはずだから、そうなったら一巻の終わりである。
否、もっとわかりやすく即死トラップの危険もある。慎重に、慎重に選ばなければいけない。
いけないはず、なのだが。
「ロッカーは……前にも庭エリアで私が入ったけど、何も起きなかった」
えりいは、ぽつりと呟く。
「でもって、スライドドアも、多分違う」
「何故そう思う」
「……織葉、ドアの向こうの景色、見えない?」
木造校舎だが、ドアには硝子がはめ込まれており、向こう側の景色がある程度見えている。
あちらに見えるのは古びた教室だ。さながら、このドアを開ければ学校エリアに行けるような気がしてくることだろう。だが。
「私にはドアの向こうの景色が……“朝”に見えるの。窓の向こうが青空で、光が射しこんできてて、すごく綺麗でさわやかで……だから違う、って思う」
学校エリアは、紫原奈津子のトラウマの根源であるはず。
そんな場所が、爽やかな青空や、朝の風景であるはずがない。
「なら、消去法で……ゴミ箱、だと思う」
「……正しいかもな。俺の眼には、ドアの向こうの景色は真っ暗闇一色にしか見えない」
霊能力、と言う意味では織葉の方が遥かに素質がある。にも拘らずえりいと織葉で見える景色が違うなら理由は二つ。霊感のある者にしか見えないものが見えているか――怪異が、えりいに絞って意図的に見せている景色があるか。
これは、両方なのかもしれない。織葉の眼から真っ暗に見えるなら、そこは虚空、罠である可能性が高く。さらにえりいの眼から見える爽やかな教室の風景はトラウマとは真逆であり、違和感しかないからやっぱり罠ということになる。
えりいは恐る恐る、ゴミ箱に近づいた。待て、と織葉がえりいの左手を握る。
「触った途端発動する可能性がある。俺から離れるな」
「うん。……行くなら、一緒に行こう」
えりいは恐る恐る、くすんだ赤いゴミ箱に手を伸ばした。回転蓋に触れた、次の瞬間である。
「!」
目の前に、まったく別の光景が広がった。
彼女――紫原奈津子の記憶。それは、彼女が過去に受けた、苦痛と恨みの欠片。えりいの意識は“彼女”のそれと同化し、まるで水に沈むように呑み込まれたのだった。
***
『あんた、神主の子供なんでしょ。じゃあ、お祈りとか、そういうの得意なんでしょー?』
今日もサチちゃんはイジワルなことを言う。クラスみんなのリーダー。サチちゃんと、サチちゃんのことが大好きなオウくんは背も大きくて力持ち。喧嘩しようとしたって、勝てるはずがない。そもそも、サチちゃんやオウくんに歯向かったら、あたしが全部悪いことになるって知ってる。
クラスのみんなは、ううん、この村のみんなは、一から十まであたしの敵だ。
だから、あたしの敵になる人に、みんな味方をする。
あたしが、うちの家が、神様を守ってるからって、それだけで。
それが悪い神様だから、悪い神様を信じる神社だからって理由で。もう神様のどこが、何がいけなかったのかなんて、みんなろくにわかってもいないくせに。
いけなかったところで、それをやったの、あたし達じゃないっていうのに。
『あんたが立派にお祈りできるように、今日はいい場所を用意してあげたわ』
サチちゃんは言いながら、あたしに向かってゴミ箱を指さした。数年前に先生達が新しく買ったっていうゴミ箱。でも、みんなが乱暴に使ってるせいでもうだいぶ汚くなってしまっていた。飲み物が垂れた後とか、みんなが鼻かんだティッシュがこびりついていたりとか。ゴミ袋を交換して使わないといけないのに、時々面倒臭がってそのまま捨てる人がいるせいだ。
それもこれもみんな、掃除をするのはみんなあたしにやらせればいいと思ってるから。
この間、クラスの子が吐いてしまった時の掃除もあたしが一人でやった。先生も誰も助けてくれなかった。
『ご、ゴミ箱で……何、するの?』
ゴミ箱は今、蓋を取り外されて、ゴミ袋が抜かれた状態になっている。つまり、からっぽだ。かなり大きいので、子供一人ならすっぽり入れてしまえそうだけれど。
『この中で、お祈りとやらをしてみろよ』
オウくんがにやにや笑いながら言った。
『お前の体なら入るだろ。中で体育座りしろや。そしたら俺らが上から蓋を閉めて、お前のお祈りをしーっかり見守ってやる』
『や、やだよ!ゴミ箱の中汚いし、こんな狭いところに入るなんて……!』
『あ、文句があるってのか?おれらに口答えできる立場だってのかよ、ええ?』
オウくんは笑いながら、あたしのスカートの股間を蹴り上げた。いっつもそうだ。あたしが一番痛がるからって、いっつも股間ばかり蹴る。女はチンコついてないくせにそれでも痛いんだなー、とか笑いながら。
『うううううううっ!』
女の子だって、お股を蹴られたら痛いに決まってる。しかも、オウくんは力持ちで、蹴りもすごく強いのだ。前に蹴られた時は血が出てパンツが血まみれになったこともあった。あの時は恥ずかしくて悔しくて、もうどうすればいいのかわからなかったくらいだ。
そしてあたしが苦しくなって蹲れば、他の子たちが寄ってきてあたしを無理やりゴミ箱に引きずっていく。なんで、どうして。いつもあたしばっかり、こんな目に遭わされないといけないのだろう。
無理やり足を畳まれて、ゴミ箱の中に座らされた。ゴミ箱の底にあった牛乳や泥の汚れが、べちゃり、とお気に入りのスカートのお尻を汚した感覚があった。多分パンツまで染みた。あたしはもう、とっくに泣いている。
でもって、これで終わりじゃないのだ。
『明日の朝になるまで、そこでお祈りしてたら助けてやるよー』
『そうね、それがいいわ。あはははははっ』
『助けて、やめて!』
上からゆっくり蓋をかぶせられていく。
その光景を、あたしは絶望的な気持ちで眺めることしかできなかったのである。