夜。
夢の中にて、いよいよえりいは織葉とともに、赤いエリアを脱出することとなった。みしみし、と部屋が軋む音がする。ドアの向こうからうめき声も繰り返し聞こえていた。半分くらいはえりいの幻聴かもしれないが、いずれにせよこれ以上赤いエリアに長居するのはまずいということだろう。
「行くぞ」
「うん」
織葉が鍵を握り、壁に向かってがちゃりと回す。途端、視界がぐにゃあああ、と派手に歪んだ。さながら、飴細工が一気に溶けだしたような違和感。思わずよろめいて転びかけたところで、織葉に手を掴まれることとなった。
「ご、ごめん。コケそうになった。ありがと……」
助かった、と言おうとして顔を上げたところでえりいは固まった。その瞬間にはもう、目に見える景色がまるっきり変わっていたからである。
「わあ……」
この場所に来たのは、本当に久しぶりだ。コンクリートの無機質な壁と床。左手に窓が並び、右手側にはいくつものドアが並ぶ。全体的に青く見えるのは、外から差し込んでくる光が妙に青白いからだ。同時に、天井の照明も青色っぽい色がついているようである。
窓の外に見える景色だけは、どこかお屋敷の庭エリアに近いように見える。ぼうぼうに生えた草、大きな月が浮かぶ夜空、そしてコケむした大きな噴水――から水は出ている様子がないが。確か自分が知っている庭エリアには噴水はなかったはずである。
ドアはどれもこれも、こげ茶色ののっぺりとしたドアばかり。違いのようなものが一切見えず、どれを選べばいいか見た目だけでは全く判別がつかない。と、これも以前来た時に思ったことではあるが。
「ここが、青のエリアで間違いないか?」
「う、うん」
えりいはこくり、と頷いた。
「良かった……本当に、あの赤いエリアは脱出できたんだぁ……」
まずはそこで安堵してしまう。もう二度とあの場所に入るのはごめんだ。怪物一体に追われるだけでも恐怖だというのに、津波のように押し寄せてきて、そういう幻覚や幻聴にまで襲われるなんてもう冗談ではない。場合によっては、死ぬまえに発狂して壊れていた可能性さえあったことだろう。
「まだ安心することはできない。このエリアに関しては、あまりにも分かっていないことが多すぎるからな」
思わずへたりこみそうになるえりいに、織葉はピシャリと言う。
「大郷さんがこのエリアについて何と言っていたか、覚えているか?」
「え?えっと……」
えりいは記憶を辿る。扉鬼の世界にメモは持ちこめていないので、自分で思い出すしかない。――メモの紙をポケットに入れてくればよかったのでは、と今更ながら気づいた。我ながら抜けすぎである。
そう、確か大郷が言っていた言葉は。
『わたくしが見た胡桃沢星羅のノートにも“怪物はいないかも?罠は多め”みたいなことが書いてありました。怪物との遭遇事例がないのかもしれません。ただ、だからといっていないと決めつけるのは早計ですし、罠が多いなら安全とは言えないでしょう。ドアが多い場所は、それだけでトラップを引き当てる可能性が高くなりますからね』
「罠が多めで、怪物はいないかも?だっけ。あとは、“ドアを開けると罠に行くか、高い確率で別のエリアに転移してしまって戻れなくなる”みたいなことも言ってたような……?」
「あってる」
えりいの言葉に頷く織葉。
「基本的に、トラップはドアを開けた部屋の中にあることが多いみたいだ。とはいえ、廊下にトラップがない保証はない。注意深く進むしかない。無闇にドアを開けるのは危険だ。どうしても開けることを試みるなら、ドアの前で中の音を確認してからにするべきだろう」
「耳をすませるのが大事なんだよね。それと、鈴のおかげで極端にヤバイトラップは感知できる、んだっけ」
「俺が一緒にいるから余計精度が上がっているはずだ。とはいえ、力が強い者ほど“隠れる”のも上手くなってくる。気配を殺せる罠もあるかもしれないから、絶対じゃない。そこは了承するように」
それから、と彼は続ける。
「どうしても部屋に入る時は俺から入るからな。そこは譲れない」
「…………」
えりいは思わず織葉を睨んだ。織葉がそういう風に言うのはわかりきっていたが、いざ“万が一の時は自分が盾になります”を堂々と宣言されるのはまったくもって面白くない。
心配してくれているのはわかっている。わかっているけど。
「……ねえ」
思わず言ってしまった。
「私と織葉、今後は両想いってことでお付き合いするってことでいーんですよね?」
「え」
「い・い・ん・で・す・よ・ね・?」
思わず丁寧語になってしまう。突然何を言い出すんだ、と困惑した顔になる織葉。が、これは非常に重要なことだ。どうなんだ、ともう一度繰り返せば、彼はこくこくと頷く。
「え、えりいがそうしてくれるのであれば、そうしたい」
「だよね?じゃあさー。恋人同士になるわけだけど。恋人って、片方が片方を一方的に守るなの?一方的に奉仕したり、一方的に溺愛したり、一方的に庇ったりするもんなのー?……違うでしょ。本当の恋人っていうのは、お互い対等な関係だと思うわけ、わかる!?」
男性の方が基本的に女性より力が強い。が、えりいが言いたいのはそういうことではないのだ。
守る、というのは何も暴漢が襲ってきた時に喧嘩でヒロインを守る、みたいな意味合いだけではないはずである。
生活面とか、精神面とか。そういうものでお互い守り合うこともできずに、何が男女平等だろうか。
「危ない罠があった時の耐久力の無さは、織葉も私も変わりません!下手したら私の方が頑丈です!織葉モヤシだもん!モヤシ織葉!無駄に語呂がいい!」
「え、えええ……」
「だから、一方的に守るとか庇うとかもうナシにしよう!……私、織葉にただ守られて溺愛される“妹”なんか嫌だからね。後ろじゃなくて、隣にいる恋人がいいんだからね。……危なそうだったら二人でちゃんと様子を見る。それでいいね?」
びし!と織葉の目の前に人差し指をつきつけて宣言するえりい。
「織葉が私を守るなら、私も織葉を守ります!文句は言わせねーぞこんにゃろー!!」
そうだ。自分が本当になりたい、変わりたい人間とはそういうものなのだ。
真っすぐに彼の眼を見つめれば、少し戸惑った後――織葉はこくりと頷いた。
「わかった。……えりい」
そして、どこか微笑ましそうに言うのだ。
「強くなったな」
今まで織葉に山ほど褒められたことがあるけれど――それに照れたことは何度でもあるけれど。
ひょっとして今日の、何よりシンプルな賞賛が、今までで一番嬉しいものであったかもしれない。
***
最初は一つ一つ、ドアを確認していたのだ。
ところが、数枚確かめたところで嫌になってしまった。さっきからドアの前に立ち、中に耳を澄ませ、鈴に意識を集中させるということを繰り返していたわけだが。
『いやあああああああああああああああああああああああ!蟲、蟲、ムシムシムシムシいいいいいいいい!ゴキブリ!!』
がさがさがさがさと音がすると思ったら、中に大量のゴキブリがつまっていてその群れに埋もれて窒息する自分の姿を幻視したり。
『お、おなか、おなかの中身、持ってかないで……や、やめて、うげええええええええええええ!!』
天井から吊り下げられ、お腹を裂かれて腸を引きずり出される光景が見えたり。
『あづ、あづい、あづいいいいいい!燃えちゃう、燃え、も、も、もえぢゃ、ううううううううううっ!!』
炎の中、真っ黒こげになりながら転がりまわって苦しむ自分の様子が見えたり。
ドアの中から変な音がする、と思って鈴に意識を集中すれば、その都度罠にはまって苦しむ“えりい”の姿を幻視するのである。あくまで幻視、なので痛みを感じることはない。それでも本物としか思えない光景を繰り返し見せられるのはなかなか堪えるというものだ。ただでさえ、赤い部屋でメンタルを削られたばかりだから尚更に。
「……ねえ」
六つ、七つとドアをチェックしたところで、えりいはげんなりしてしまった。
「さっきから、まともなドアが全然ないんだけど、ナンデ……?おかしいな、私は前に来た時、一発で黒須澪のところに行けたのに……」
「それは、まあ。あっちが招いたからだろうな」
えりいと分担して、十個くらいドアをチェックした織葉も微妙な顔をした。
「普通にドアを開けていたら、えりいが入ろうとした部屋も元は罠だったのかもしれないぞ」
「うわー……一発死……」
「本当にラッキーだったな。……しかし、こんなに罠だらけとは。これでは、どこのドアにも入ることができない」
「だよね……」
どうしよう、とお互い顔を見合わせる。どこかのドアが、学校エリアに繋がっているのでは。最初はそう思っていたが、どうにもそう簡単な話ではないらしい。
ということは、この廊下をもう少し、ドアを無視して進む必要があるということだろうか。
「学校……に関するモノが、出入口の鍵になっている可能性がある。と、いう推測は本当なのかもしれないな」
うむ、と織葉は顎に手を当てた。
「ならば、そういうものが見つかるまではひたすら廊下を進むべきかもしれない」
「学校にありそうなロッカーとか、ゴミ箱とか?」
「ランドセルとか、学校っぽい階段とか、そういうものも重要かもな」
学校っぽいもの。とっさにそういう風に言われると、なかなか思いつかないものである。考えながら、再び廊下を歩き始めるえりい。時々ドアの前を通ると、人のうめき声のようなものや、ドアをひっかくような音も聞こえて背筋が泡立った。
罠だらけの空間。大郷が言っていたことはやはり間違っていないようだ。
「ねえ、織葉。扉鬼を浄化すると共に……この空間から脱出するためには、本来のルールである“本物の鍵と扉”を見つけることが必要、なんだよね?」
時々ドアをちらちらと見ながら言うえりい。
「扉、は学校エリアのどこかにあるとして。鍵、の場所に心当たりはあるの?」
「……まあな」
そして、織葉はとんでもないことを言い出すのである。
「恐らく鍵は……この空間をうろついている怪物が持っている。俺はそう踏んでいる」