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第74話

 結局。

 えりいは織葉と一緒に鍵を使って、いざ青のエリアへ――といったところで、夢は終わってしまった。思ったよりも時間が経過していた、ということなのかもしれない。どうにも、夢の中で感じる時間がいつも一定でないような気がする。逃げたり彷徨ったりしている間に、時間の感覚が狂ってしまっているだけなのだろうか。

 その日の、朝。

 えりいは織葉と一緒に、鬱々とした気分のまま改札を抜けることになった。

 学校に行く道中、しばしお互い沈黙が続く。今夜の夢のこと、これからのこと。話すべきことはいくらでもあるはずだというのに。

 理由は単純明快。自分達にとって最大の味方であり、最も頼りになる人が――茜屋大郷が死んだ、と。彼のメールアドレスから送られてきたからだ。送信者は、大郷の奥さんだった。自分が万が一死んだらえりいたちに連絡してくれるようにと妻に頼んでいたということらしい。


『扉鬼、の世界の事情は私も聞いています。夫は、後頭部に殴られたような傷がある状態で死亡していました。恐らく怪物に殺されたわけではなく、なんらかの事故、もしくは招待者によって殺害されたものと思われます。あの世界で死んだ人間の中では、恐らく格段に綺麗な遺体であったことでしょう』


 辛いだろうに。

 大郷の妻は、冷静に、状況を分析してメールをよこしてくれたのだった。


『何が起きたのか、詳しいところまでは私にも図り切ることはできません。ただ前日の段階で、胡桃沢星羅を尾行していたことまでは知っております。いつかこういう日が来る可能性は元々ありましたし、私はそれを了承した上で夫を怪異の世界に送り出しました。とても悲しいですが、夫は人を、世界を守るため立派に役目を果たしたと思います』


 えりいの脳裏に、いつも落ち着いていて、他人のために一途だった大郷の顔が思い浮かぶ。自分達を落ち着かせるために、優しい笑みをずっと浮かべていた。――笑った顔は確かに、娘の舞によく似ていたと思う。

 あの溌剌とした先輩がどれほどショックを受けているか。そう思うと、心臓が引き絞られるように痛んだ。


『夫は、最後までお二人を案じておりました。……あとは頼みます。私も、できることがあればお手伝いさせていただきますので、いつでもご相談ください。夫が本当にお世話になりました。誠に、誠にありがとうございました』


 実感が、わかない。

 あの大郷が本当に、そんなにあっさりと死んでしまったのかと思うと。特に、織葉は直前まで大郷に会っていたはずだ。えりい以上に、ある意味ショックだったのではないか。


「……昨日」


 学校まで、もうすぐ。

 公園の横を通り過ぎる時、織葉がついに口を開いた。


「大郷さんと会った時。あの人は、自分がえりいを助けに行くのは難しいと、本当に申し訳なさそうに言っていた」

「うん。胡桃沢星羅を尾行してたんだよね?」

「ああ。でも、ただ尾行していただけではないと思う。……短い付き合いだけど、あの人の性格はおおよそ想像がつく。翔真への対応からしてもわかりやすい。……多分、子供が好きなんだ、あの人。できることなら、俺達みたいな子供を巻き込みたくなかったって、その感情がいっつも言葉の端々に滲んでた」


 だから、と織葉は続ける。


「俺が扉鬼の世界に入るのだって反対したかったはずだ。それでも、それしかないと思ったのは……本当の本当に、助けに行ける状況じゃなかった、ってことなんだろう。ひょっとしたら、昨日の時点で胡桃沢や橙山が人を殺す現場に遭遇してどうにか隠れていたとか、身動き取れないとかそういう状態だったのかもしれない。……それでも、俺のこととえりいのことばっかり心配していた」

「……そっか」


 得難い存在だった。彼がいなければ、自分達だけではここまで謎を解くことなどできなかったことだろう。本当ならば、一緒に脱出して、同じ朝日を見たかった。悪夢の終わりを、扉鬼の浄化を。――彼こそ、最も報われるべき人だったはずなのに。

 どうして、貴い心を持つ人ほど、あっさり亡くなってしまうのだろう。

 自分の命より、兄の命と家族の未来を考えていた彩音。その上で、自分のようなクラスメートを心配して声をかけてくれた、彼女。

 いじめをなくしたい、苦しんでいる友達をなんとかしたい、そう願いつつ、理不尽な圧力に抗おうとした翔真。

 そして、世界を、みんなの未来を守るために危険を承知で扉鬼の世界に入り、一人戦い続けていた大郷。

 彼らの本当の心を知り、引き継げるのは――自分達だけだ。


「可能なら、今夜中にでもケリをつける」


 織葉が意を決したように呟く。


「えりい。……覚悟を決めよう。俺達が倒れたら、大郷さんたちが報われない」

「うん。……うん」


 絶対に、生きて帰る。

 扉鬼の悪夢を、自分達が終わらせるのだ。


「!」


 学校の前。正門のところまで辿り着いた時だった。オレンジ色のパーカーにハーフパンツの女の子が、門の前に寄りかかっているのが見えたのである。

 えりいは驚いた。蓮子だ。何故、制服ではなく私服でそこに立っているのだろう。しかもまるで、誰かを待ってでもいるかのような。


「……金沢はん」


 彼女は自分達に気付くと、疲れた顔で笑ってみせたのだった。


「大事な話があるねん。……学校に入って友達の顔見たらうち、多分未練で動けなくなるから。……悪いんやけどちょっとだけ、一緒にサボってくれへんかな」




 ***




 三人は結局、公園まで逆戻りしてそこで話すこととなる。ベンチに三人並んで腰かけて、少しの時間だけサボりを決行することになった。さっき遠くで予冷が鳴ったので、まあ一時間目はまず間に合わないだろう。

 まさか、蓮子の口から大郷の状況を訊くことになるとは思いもしなかった。

 正確に言えば蓮子は大郷が死ぬところを見ていたわけではないが――それでも彼女がいろいろ教えてくれたことから察することはできる。

 大郷は恐らく、蓮子を守るために橙山大貴と刺し違えたのだ、と。


「みぞおちあたりを思い切り短剣でぶっさしてから……さすがにあれで、大貴はんが生きてる、いうことはないと思う」


 蓮子は静かな声でえりいに告げた。先日、こちらに食ってかかった時とは別人のような様子だ。

 顔色は悪いが、どこか吹っ切れたようにも見えるのは気のせいだろうか。


「生きとったとしても重傷やし、扉鬼の世界で負った傷は翌日にも引き継がれる。あれで、長く生きることはできんと思うで」

「そう……」

「だが、胡桃沢星羅の方は……」

「顔にでっかい傷があるように見えたし、ひょっとしたら片目は潰れたかもしれん。でも、まだ動けると思うで。うちを殺したらその次は……あんさん達の番かもしれん」

「…………」


 状況的に見て。占い師カルナ、はもう胡桃沢星羅で確定でいいだろう。

 同時に、彼女が何を目的として扉鬼を目覚めさせ、布教してまわったのかもわかってしまった。あまりにも、あまりにも身勝手がすぎる理由。まさか本当にこんな理由で、人を不幸にして回るニンゲンがいるだなんて。




『みんなを救うため?うふふふふ、はははははははははははは、そんなの、嘘に決まってるじゃない!私はね、最初から……みんながそうやってもがき苦しみ、死んでいく様を特等席で見物したくてここにいるんだもの!』




 蓮子はほぼ一字一句、そのままに星羅から聞いた話を教えてくれた。

 元々は、黒戸村を滅ぼして終わるはずだった紫原奈津子。己の霊能力を用いて彼女とコンタクトし、彼女の恨みの念を煽って世界全部に広げたのが星羅だったのだ。

 まさに、悪霊を鬼に変えて操る――最悪の、鬼使い。

 その理由が世界への復讐でも奈津子への同情でもなく、ただ人々が苦しむのを眺めて楽しみたいからだなんて、あまりにも狂っているではないか。


「……金沢はん」


 蓮子は苦悩にまみれた声で告げる。


「うちは……うちは、彩音はんを取り戻したかった。退屈な学生生活を変えてくれたのも、うちみたいなひねくれものを友達にしてくれたのも、面白いことたくさん教えてくれたのも全部……全部彩音はんやねん。うちもっともっと、彩音はんと見たいものがあって、やりたいことがあってん。こんな早く、こんな簡単に、こんな残酷な形で別れが来るなんて……受け入れることが、できんかったんよ」

「うん。……わかる」

「だから、取り戻すためなら何でもやったるって思った。それをあんたに否定されて、ブチギレて……ほんまは、凄く動揺した。……堪忍な。酷いこと、言ってしもうて、ほんまごめんなさい。あんたに嫉妬してたんや。醜い嫉妬や。あまりも、情けないねん」


 彩音はんに気遣われてたことだけやないねん、と蓮子。


「あんたは、うちと違って誰かに流されてへん。星羅はんに縋って、楽な方にも逃げてへん。それが、すごく眩しくて、妬ましかった。……せやけどあんたと話したあと、落ち着いて考えてたら、な。その時、知ってしもうてん。……白根翔真くんが、死んだニュース。ああ、これ、星羅はんたちがやったんやって、悟ってしまったら、もう。……まだ立場をはっきりさせとらんかったのに、あんな小さな子を……。いくらなんでも、うち、うちは……」


 えりいは、どこかでほっとしていた。

 少し苦手意識もあった蓮子。彩音を、星羅を妄信しすぎて怖い人だというイメージはあったのである。思い込みが激しい人間と落ち着いた対話ができるほど、えりいはコミュニケーション能力に優れた人間ではなかったから。

 でも。

 彼女は、自分で自分を見つめ直すだけの強さがあったのだ。

 前に聞いたことがある。本当に強い人間は間違えない人間ではないと。自分が過ちを犯した時、それを認める勇気を持つ人間こそ真の強者であるのだと。


「……銀座さん」


 織葉はえりいの隣で、ただ沈黙を守ってくれている。その優しさに感謝しながら、えりいはそっと蓮子の手を握った。


「私、銀座さんのことちょっと苦手だったと思った時もあったけど……でも、友達になりたいと思ったのは、間違いなかった。翔真くんの死に、小さな子供の死に心を痛めることができる人に……悪い人なんて、いない。ありがとう。最後に……胡桃沢たちに立ち向かってくれて」


 だからこそ。大郷も、命がけで蓮子を守ろうとしたはずだ。


「私達、絶対扉鬼を浄化する。その方法を見つめてみせる。だから……それまで待っててくれる?」


 彩音。翔真。大郷。そして――蓮子。

 彼らの命と誇りは、自分達が持っていく。


「……うん。ほんま、おおおきに」


 蓮子の頬を一筋の涙が伝った。


「友達や。あんたも、大事な友達。翠川くんと一緒に、無事……帰ってきてな」


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