「!?」
最初に大郷に気付いたのは蓮子だったようだ。こちらを見て目を見開く彼女。が、今は詳しいことを説明している余裕はない。
――これだっ……!
蓮子が掴み上げられた時に落ちた短剣。恐らく屋敷エリアの鎧などのアンティークから持ってきたものなのだろう。それを拾い上げ、思い切り振り上げる。
「ああああああああああああ!」
「ぎゃああああっ!?」
「星羅!!」
ロープを蓮子に巻きつけようとしていた星羅の顔を思い切り斬りつけた。顔面を斬られて平然としていられる人間はいない。顔を押さえてよろめく星羅と、彼女の名前を呼んで凍り付く大貴。その手が緩み、蓮子が床に倒れる。
――わたくしの体格と力では、橙山大貴と真っ向勝負はできない。でも、不意打ち、ならば……!
「おおおおおおおおおおおおおおおお!」
全身の力を持って、大貴にぶつかっていった。短剣が、男の屈強な鳩尾に埋まる。
「ぐ、ぐううっ!」
「蓮子さん、逃げなさい、今のうちに!」
覚悟を、自分も決めなければいけない。守るために、殺す覚悟を。
これ以上、若者たちに背負わせないために、自分は。
「早く!」
「あ、あああっ……」
蓮子を振り返ることはできないが、彼女が立ち上がり、逃げ出した足音は聞こえた。
「ま、待ちなさい!」
星羅が苦痛が滲む声で叫び、後を追いかけていったこともわかった。ドアの開閉音。隣の部屋、あるいはエリアに逃げていったのだろう。
星羅の傷がどれくらいのものかは確認していないが、それなりに深い傷は追わせたはずだ。うまくいけば目もやられている。なんとか蓮子が逃げ切ってくれればいいのだが。
――だから、せめてわたくしは……こいつが追いかけられないようにしなければ!
ナイフの刃先を上の方に向けて、抉るように再度突き刺した。鳩尾から突き上げるように刺せば、心臓を貫くこともできると聞いたことがある。失敗しても、胃を破壊すれば相当なダメージになるはず――というか、多分致命傷になりうるはず。
このままもっと深くねじこめば。
「て、てめえっ……!」
「がっ!」
しかし、それはさすがに叶わなかった。屈強な腕に背中から服を掴まれた、と思った次の瞬間、思い切り体ごとぶん投げられる。
その怪力に、大郷が抗えるはずもない。
「ぐあああっ!」
思い切り体ごと本棚に激突した。がつん、と後頭部を打ちつけた感覚。痛みに景色が明滅し、ずるるる、とその場に座り込む。何かのスイッチを強引に切られたような感覚だった。体の自由がきかない。良くない頭の打ち方をした、と感じた。
「くそっ……くそっ……!この体を、支配するのは、星羅だけなのに……!星羅以外が、おれに、こんな傷を……ぐおおおおっ!」
大貴は不満を漏らしながら、己のみぞおちの刺さった短剣を引き抜いた。びゅうううう、と噴水のように噴き上がる血。その短剣を持って大郷のところに来ようとしていたようだが、それは叶わずその場に崩れ落ちることになる。
どうやら、即死とはいかないまでも、致命傷を与えることには成功していたらしい。男はうつ伏せで倒れ、びくびくと体を痙攣させながら呟いていた。
「なんで、だ。なんで、星羅の顔に傷まで……くそ、くそ、おれの存在理由は、星羅のため、星羅、ああ、星羅、会い、た……」
橙山大貴。この男が、どういう理由で胡桃沢星羅に付き従っていたかまではわからない。彼にも彼なりの、他の人間にはわからない苦しみや悩みがあったということなのかもしれない。
だが、どんな苦悩があったのせよ。それを理由に、無関係な誰かを傷つけていいなんてことにはならないのだ。誰かを傷つけたならば、因果応報でかならずその苦しみは自分に帰ってくることになる。天はいつだって、全てを見ているのだから。
――……えりいさん。織葉くん……。
『そのリスクを知っていてなお、俺はえりいを助けに行くつもりです。そして、その方法がまったくないわけじゃない、そうでしょう?』
織葉の、意思の強い瞳を思い出していた。
彼は無事に、愛しいお姫様を助けることができただろうか。自分はちゃんと、その手助けができただろうか。
できることならば、彼らがハッピーエンドを迎えるその時まで見守っていたかったものだけれど。
――すみません。そして……どうか、断ち切ってください。
大郷はゆっくりと瞳を閉じる。
自分は人を殺した。天国にはきっと行けない。でもどうか、彼らがこの世ではない場所へ向かうのが、少しでも遅ければいいと願う。
彼らにはまだまだ、無限の可能性が存在するはずなのだから。
***
「はあ、はあ、はあ、はあ……!」
蓮子は真っ白な通路をひたすら走っていた。
白い大理石エリアは比較的安全と言われているが、それだけに星羅たちがほとんどのマッピングを終えていたはず。ならばここで逃げ回っていてもいずれ見つかって捕まってしまう可能性が高い。
なんとかして、別のエリアに逃げなければ。この際、赤いエリア以外ならどこでもいい。
――さっきのあの人……!写真で見た。前に、星羅はんが言っておった人ちゃうか……!?
茜屋大郷。
神社仏閣をまとめて、扉鬼を調査している神主の一人。この男も扉鬼の空間をうろついているはず、絶対に仲間にならないだろうから見つけたら即始末していいと言われていたのだ。
なかなかイケメンな神主さんだな、なんて思ったのを覚えている。まさか、あの図書室みたいな部屋で隠れていようとは。そして、命がけで自分を助けてくれようとは。
『この男は、扉鬼を悪と決めつけて、みんなの願いを奪おうとしている大罪人よ。優しそうでかっこいい見た目をしているけれど絶対信用してはいけないわ。見かけたら不意打ちでもなんでも、即始末しなければ危険よ。……ええ、絶対油断しないで。これは、貴女と、私達みんなのためなんだから……』
――ほんまに大罪人なら、助けてくれるはずないやんなあ。
本当に笑えてきてしまう。
何から何まで、星羅の言葉は嘘だったというわけか。自分達を助けたいと言ったのも、この扉鬼の空間に迷い込んだ人達全員を救いたいと言ったのも。
全ては人を騙して、裏切るための布石。絶望し、苦しむ人達を眺めたいがために言った方便でしかなかったわけだ。
そんな人に騙されていたなんて、と思うと悔しい。同時に、己が情けなくてたまらなくなってくる。結局、えりいが言ったことは正しかったのだ。自分は、彼女になんて酷いことを言ってしまったのだろう。
確かに、えりいに嫉妬していたのは事実。彼女がいることで、彩音の興味がそちらに移るのが悔しくてならなかったのも事実。でも、同じく彩音という大切な人を失った者同士、同じ苦しみを分かち合うことはできたのである。一緒に手を取り合って、解決策を探っても良かったのに――どうして自分は目の前で会って何度も話をしたクラスメートではなく、得体の知れない占い師の方を信じてしまったのだろう。
嫌いだった、なんて。本当は、そこまでのことを思っていたわけではなかったのに。思っていたところで、言うべき言葉ではなかったのに。言葉の刃がどれほど重いかは、自分よく知っていたのに。
騙される方が悪い、なんてことは本来ない。騙す人間が一番悪いに決まっている。でも。
今回だけは――騙された自分も、悪い。
甘い言葉につられて、彩音の本当の気持ちも見失ってしまった。引き返せるポイントは何度だってあったはずなのに。
――あ、あのドア!
廊下の先、灰色の金属のドアが見えてくる。確か、あの向こうは灰色のコンクリートエリアに繋がっているはず。そこまで行けば、星羅を撒くこともできよう。
力を振り絞ってドアまで走り寄ると、蓮子はドアノブを掴んだ。しかし。
「!あ、開かない……なんでっ!!」
鍵が、かかっている。ドアノブが回らない。
そんなバカな、と何度もドアノブをがちゃがちゃと揺らし、鍵のつまみがないかどうかを確認する。
つまみはなかったが、鍵穴のようなものはあった。まさかこのドアが鍵がかかるタイプだったなんで。しかし、一体誰が鍵をかけたのか。鍵はどこにあったのか。
――こんなこと、する人は……。
気配。ぎょっとして後ろを振り返った直後、蓮子の首にロープが絡みついた。
「ふふふふ、追いついたぁ……!」
そこにいたのは。
顔の右半分を真っ赤に染め、凄まじい笑みを浮かべた星羅。
「私の美しい顔に傷をつけたあの男……絶対に許さないわ。そして、あんたもね。さあ、じわじわ絞め殺してあげる……」
「あ、ああ……!」
もう、助けは期待できない。恐らくあの大郷という人は、橙山大貴の相手をするだけでいっぱいいっぱいだろう。むしろ、あれだけ体格差があるのだからやられてしまっていてもおかしくはない。
――金沢、はん。ほんま、ごめん……
絶望のまま、諦めて目を閉じた時だった。
リーン、リーン、リーン、リーン!
鈴虫のような、独特なベルの音。これは、と蓮子が気付いた途端、周囲の景色がぐにゃりと歪んで溶けていく。
これは、ここ最近自分がずっと待ち望むようになった音。自分の部屋の、目覚まし時計の音だ。
「あっ……ああ……」
ベッドの上。見慣れた天井。なくなった、首にかかった縄の感触。
思わず自分の首をさすって、蓮子は――深く深く、息を吐いたのだった。
「……そういうことか」
誰のためでもなく、自分自身のために呟く。
「神さんは……最後に、うちに。責任を果たせと、そう言うつもり、なんやな……」
次に眠ったら、自分は確実に蓮子に締め殺される。あそこから逃げる方法は流石にないだろう。
猶予は一日。その一日の間に、自分は。
――贖いになるとは思わん。それでも、うちは。
やるべきことをしなければならない。
彩音もきっと、それを望んでいるのだから。