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第70話

 黒須澪の正体については、未だにわかっていないことが多い。

 例えとして“ニャルラトホテプみたいなもの”なんて言われているが、それだけだ。仮にクトゥルフ神話のかの神と同格だった場合、そこらへんの邪霊なんか目じゃないほどの大邪神ということになってくるが。

 とはいえ、今回は“彼なりに扉鬼の拡散を止めたがっている”ことはわかっている。対扉鬼に対しては敵じゃないと思って間違いないだろう。同時に。


「黒須澪は、扉鬼に人間として計算されていない。招待者じゃない、完全な異邦人だから怪物にも襲われない。そして……一番最初にえりいが遭遇した時の様子からして、扉鬼の異空間の中に自分の安全地帯を自由に作ることができる、ってかんじでしたよね」


 織葉はえりいの話を思い出しながら言う。


「つまり、空間をいじるだけの能力を持っている。ならば、場所も時間も無視して、扉鬼の世界を自由に動き回るくらいのことはできそうです。というか、多分外法を使ってあの空間と外を行ったり来たりしてるんでしょうし」

「ええ。わたくしも、彼の力を借りるしか方法はないとは思っています」


 頷く大郷。


「扉鬼の呪いから完全に脱出するのは困難を極める。しかし、同じ扉鬼の空間の、もっと安全なエリアに移動するということならば……彼の力をもってすればそう難しいことではないでしょう。ただ……」


 わかっている。

 その澪自身を見つけることが、容易ではない。えりいも一度しか会えていないようだし、大郷も結局扉鬼の空間では澪を見つけることができていない模様。

 果たして今夜一晩で、織葉が澪に会うことができるかどうか、まずこれが問題だが。


「俺が扉鬼の世界に入れば、あちらからアクションを取ってくる可能性さえあると思っている。貴方もそれがわかっているから、覚悟が必要だ、と俺に言ったのでは?」

「…………」


 大郷は沈黙する。それはもはや、肯定に他ならない。


「彼は、扉鬼の拡散を嫌がっているはず。それなのに何故、紺野彩音に声をかけて間接的に拡散を助けるような真似をしたのか。それは最終的に、その果てに自分にとって有用な人間を味方につけたかったから」


 そうだ。

 えりいは澪と会った時に、そのような話を聞いたはずである。




『本当に声をかけたい人物は、私にとっては少々相性が悪い相手でしてね。直接その前に姿を現すのは避けた方が無難だろうと考えました……私のためではなく、彼のために。だから最終的に彼に繋がるであろう人物にスカウトをかけたのです。それが紺野彩音さんです』




 直接現実で会話するのを避けるべき相手。最終的に、紺野彩音がその人物に繋がる。

 その性別は――“彼”。


「恐らく、黒須澪が本当にコンタクトを取りたかったのは、俺だ。カスい程度のものだが霊能力はあるし、ある程度経験からの知識もあるしな。加えて、扉鬼で犠牲になった人物とある程度年が近いというのも重要だったと思われる。俺が、扉鬼に致命傷を与える可能性があるニンゲン……奴がそう思っているのなら、向こうから招きたいはず。違いますか?」

「……まったく、その通りですね。そこまで理解した上で、わたくしのところに来たわけですか」


 やれやれ、と大郷は肩をすくめた。

 もちろん、澪に接触したところでどこまで協力を取り付けられるかは別問題。しかし、えりいを助けることが扉鬼の除霊に繋がるとなれば、向こうもある程度力を貸してくれる可能性が高いはずだ。


「……わかりました。でしたら……貴方には、これを」


 きっと大郷もわかっていたのだろう――ここに来た時点で、織葉の覚悟は揺らがないものだということは。

 彼は織葉にお守りを差し出した。茜屋神社、と金色の文字で書いてある、掌サイズの赤いお守りだ。珍しいことに“家内安全”などといった願望に関わる文字は一切刺繍されていない。

 見た瞬間に気付いた。

 これはここ数日で、大郷が大急ぎで作ったものだということに。


「一人分しか間に合いませんでした。ひとまず、織葉くんが持っていてください。えりいさんに渡すかどうかは任せます。これを持っていれば……気休め程度ですが怪物を遠ざけられるかもしれません。あるいは、怪物にある程度強いダメージを与えることも」

「……それに、貴方の気配もしますね。貴方が黒須澪と旧知の仲だというのなら、そういう意味でも彼が引き寄せられてくれるかもしれません」

「そういう期待もあります。……あまりお役に立てなくてすみません。どうか、えりいさんをお願いします。わたくしも、全力で調査を続けますので」

「はい。……本当にありがとうございます」


 本来ならこれは、彼が自分で持っていても良かったはずのものだ。それを織葉に渡してくれたのである。

 中に水晶の欠片が入っているようだし、刺繍も彼が自分でしたものだろう。何か織り込んでいる気配もある。相当霊力をこめたものであるはずだ。

 大事に使わなければいけない。場合によってはこれが、現世に戻る道標としても機能するはずだ。


――えりい、待ってろ。


 織葉はぎゅっとお守りを握りしめた。


――必ず、俺がお前を助けてやるからな。




 ***




 扉鬼の世界に入るのは、難しいことではなかった。

 積極的に情報拡散を行っていたジュリジュリという人物は死んだようだが、それでも彼女が書き込んだ情報はネット上にいくらでも残っている。オカルト系ユーチューバーが彼女の情報を受けて作った動画も、だ。

 今までは自分のセンサーを頼って意図的に決定的なものを見るのを避けていたが、今回は逆に自分から見に行けばそれでいい。拡散者が扉鬼を知った経緯。それから、扉鬼の世界を描いた絵。その両方を見れば条件が達成され、扉鬼の世界の招待者となることができる。


――黒須澪。その力と影響力は、本来ならばニンゲンなんて足元にも及ばないほど、強い。


 自分はその邪神の正体について何も知らない。

 ただ、えりいから黒須澪、という名前を聞いた時に“感染”してきたビジョンがあるのだ。強い力を持つ者に接触した者は、その影響力を魂に残していることが多い。えりいを通して一瞬だけ、織葉は彼の姿を幻視したのである。

 これは、大郷にも、えりいにも話していないこと。恐らく知ってしまうことそのものが地雷になりかねないと思って伏せた事実の一つだ。

 それは白く、何もない空間だった。

 真っ白な肌、金色の瞳、長い黒髪の美貌の青年が立っている。黒いスーツを身に纏った彼は、えりいが言っていたような子供の姿ではなく、大人の男性の姿をしている。

 傍に、どこかえりいに雰囲気が似た、ボブカットの女の子の姿があった。メイド服。従者の象徴。強い忠誠心。黒須澪にとって、恐らく特別な存在。

 わかるものは、名前だけ。それでも十分だ。


「……来たか」


 織葉が目を開くと、そこは灰色のコンクリートの廊下だった。

 既に、強い力の気配を感じている。どうやら自分が今日ここに来ることも、澪にはお見通しだったらしい。

 彼は、試している。織葉に何ができるのか、自分の期待通りの人間であるのかを。ならば、自分は、“それがわかった”と彼に伝えて引き寄せる必要がある。

 鍵は、名前。だから織葉は。




「黒須澪」




 暗闇の中に、呼びかける。




西垣由羅にしがきゆらは、元気か?」




 途端、ぐにゃり、と空間が歪んだ。強い重力に、力任せで全身を引っ張られるような感覚。ここまでの力か、と織葉は冷や汗をかいた。想像していた以上だ。人を、あらゆる物理法則を無視して壁を通りぬけさせ、空間を吹っ飛ばし、己の目の前に召喚する。

 しかもその召喚した場所が、自分自身が特別に作り出した空間の中。生半可な妖怪や妖精程度では、こんな真似はできないだろう。

 気づけば織葉は、白い長方形のテーブルの前に着席していた。お洒落な洋館の応接室のような部屋。テーブルの上には、既にティーカップが用意されており、砂糖とミルクも備え付けられている。歓迎の証。歓待の証。招待の、証。

 そして、目の前にいるのは。


「初めましてになりますね……翠川織葉くん」


 長い、ウェーブした黒髪に長い睫毛に縁どられた金髪が美しい、小学生くらいの少年。

 その特徴を見るまでもなく察していた。間違いない。この人物が、黒須澪本人だと。


「私と貴方は相性が“悪い”。わかっていたのに、私の元に来てくださるなんて。……貴方にとってあのえりいさんは、よっぽど大切な人間であるようだ」

「……もちろんだ」

「命を賭けるつもりである、のも本当のようですね。私しか知らない、私の唯一無二の使徒である“彼女”の名前をあえて出すのですから。……私の機嫌が悪ければ、それだけで八つ裂きにされていたところです」

「わかって、いる」


 気圧されてはいけない。

 あの少女は、黒須澪が現実で生きるにあたり、唯一無二と認めた従者。傍にいることを許した人間なのだ、ということはすぐに察した。下手に彼女を傷つけようとしたりすれば、この邪神は嗤いながら鉄槌を下すのだろう。

 それだけに、彼は彼女の名前が表向き見えないようにしていたはず。

 裏を返せば、彼女の名前だけでも知ることができる、それだけの力は持っていると織葉証明してみせたわけだ。それこそが、澪が今要求しているものだと知っていたがゆえに。


「あんたと俺は、相性が“悪い”。……正確には、力の相性が“良すぎる”から、あんたは俺に近づかないでくれたんだろう?えりいを巻き込んだのは癪だが……まあ、一応優しさはあったんだと受け取っておく」


 冷や汗をかきながらも、織葉は彼に真正面から向き合った。

 紅茶が注がれている時点で、澪はけして不機嫌ではない。むしろ上機嫌であるはずだ。最初に彼が狙った、目論見通りに状況は動いているはずなのだから。


「扉鬼は必ず、俺達がなんとかする」


 最初から、そのつもりだ。しかし、織葉一人では恐らく足りない。

 扉鬼の元となった少女と同じ、“未成年の女の子”であるえりいの存在がきっと重要となってくるはず。だから。


「えりいを助けるため、力を貸してほしい」

「彼女は赤のエリアにいます。怪物に追い詰められ、メンタルハザードにやられて幻覚を見てパニックになっています。連れ出すのは至難の業だと思いますがね」

「わかっている。それでもあんたなら、俺をあいつのところに飛ばすことも、そこからさらに別のエリアへ脱出させることもできるはず。力を貸してくれ」


 ここで説得が通じなければ、もう打つ手はない。

 祈るような気持ちで澪の顔を見つめる織葉。しばしの沈黙の後、澪は深く深くため息をついて言った。


「……いいでしょう」


 そして。あまりにも予想通りのことを言う。


「ただし、条件があります」


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