えりいの状況について、どれくらい知っているのか。
大郷に尋ねられ、織葉は即座に答えたのだった。
「背中に見えている扉が、手が触れる位置まで来ている。扉が半ば開いていて、その向こうにある怪異の本体が見えている。そしてえりい本人が今日一日で盛大にフラグを立てまくったこと。それらから判断するに、今夜にでも危ないというのは間違いないと思います」
「やっぱりそうですか」
「もう少し補足するのであれば。えりいも、俺に嘘をついたら即バレる、というのは自覚しているはずなんですよね」
なんせやったらめったら長い付き合いだ。織葉が隠し事をすればえりいにすぐわかるだろうし、えりいが隠し事をしたらすぐ織葉が知るところとなる。もはや腐れ縁を通り越して白骨化するレベルの仲ではなかろうか。
「俺がえりいの立場なら嘘はつかない。代わりに、嘘にならない範囲で……本当のことだけで誤魔化しにかかります」
彼女が自分に言った言葉は主にこれだ。
『大丈夫だよ。バケモノに、捕まったわけじゃない。危ないトラップに引っ掛かってるわけでもない。逃げるために、ちょっと隠れてるだけ』
恐らく、これは本当。
まだ化け物に捕まっていないし、致死性のトラップにかかってしまって抜け出せなくなっているわけでもない。
『目の前で見たバケモノが思ったより怖くて、ちょっとびびっちゃって。大丈夫だよ、絶対死ぬとか、そういうレベルまで追いつめられてるわけじゃないし』
これも、あるところまでは本当だろう。今夜を切り抜けられる可能性も、恐らくゼロというわけではない。ただ、奥手なえりいが告白しておかないと後悔するだろうと思うくらいには切羽つまっている。
『いつ死ぬかわかんないから。それでも、頑張って生き抜く力が欲しいなって思って。私、臆病だから』
本人は、本気で生きようとしている。絶望的な状況でも、まだあきらめているわけではないはずだ。
それこそえりいの場合、本当の本当にもう駄目だと感じているのなら現実の世界で自殺することを検討しそうで、それもそれで恐ろしいのである。彼女はまだその段階になかった。そこまで目が死んではいなかった。
このあたりから推察される、彼女の状況は。
「怪物に追われて、どこかに隠れている。あるいは……」
今まで大郷たちと話した情報。トラップや怪物ではなく、それ以前にエリア全体が危険とされた場所。
「うっかり、赤いエリアに迷い込んで、出口がわからないか。このどちらか、もしくは両方と踏んでいる」
「……あの場所ですか」
「えりいが望んで足を踏み入れるはずがないから、逃げているうちにうっかり入ってしまったとか、そういうことだと思います。今扉鬼の世界をうろついている危険因子は怪物だけではありません。胡桃沢星羅などの殺人犯と遭遇しても危ないし、今の状態なら銀座蓮子を見かけてもえりいは逃げるでしょう。こういった状況なら、錯乱している人がいてもおかしくないから……そういう人から逃げた可能性もある。いずれにせよ、俺はえりいがうっかり赤いエリアに入ってしまっている確率、七割はあると見てます」
半ば勘のようなもの。
そもそも昨日の時点では、えりいの背後に見えていた扉はもっと遠かったし、扉も指先程度しか開いていなかったのだ。それが、一気に悪化した。それくらいの状況でもなければあり得ないことではないだろうか。
「……わたくしも、その可能性はかなり高そうだと見ます」
大郷は難しい顔で呻いた。
「本当はわたくしが助けに行けるのが一番いいのですが……大きく分けて問題が二つあります。……あの異空間、主なエリアの配置は覚えていますか?」
「ああ。白い大理石エリアがほぼ中心部。灰色のコンクリートエリアが北。屋敷エリアとそこに付属する庭エリアが東。赤いエリアが南で、青いエリアがおおよそ西。……教室エリアは、青いエリアの付属エリアっぽくて、そこから行ける可能性が高い……でしたっけ」
「はい南の赤いエリアに入ってしまう可能性が高いのが、屋敷の屋内エリアとされています。実際、わたくしが以前赤いエリアにうっかり入ってしまった時も、屋敷エリアを経由してのことだったと記憶しているので」
その言葉で、ピンときた。どうやら大郷は今、屋敷エリアからも赤いエリアからも遠い場所にいるのではないか、と。
「あんたの位置からでは、赤いエリアが遠いのか」
「残念ながら」
それに、と大郷は告げた。
「胡桃沢星羅を、白い大理石エリアで発見。灰色のコンクリートエリアまで尾行したところだったんです。彼女と仲間たちの会話を聞けば、何か新しい情報が得られるかもしれないと思ったからですね。場所も遠いですし……今ここで胡桃沢星羅を見失うのはかなり厳しいです」
確かに、彼女を見かけて尾行できる体制になっただけ奇跡だろう。えりいを助けて欲しい気持ちはあるが、今後のことを考えれば大郷にその場から離れてくれとは言いづらい。
ならばやはり、織葉が助けに行くしかないだろう。
「えりいを助けるためなら、悪夢の世界に入るくらいわけないことだ。あいつの為に命を賭ける覚悟はある。だから、俺がなんとかします」
織葉ははっきりと、大郷に告げた。
「大郷さんがくれた鈴。あれを俺が使えば、えりいが使うよりもかなり高い効果を得られるでしょう。とはいえ、恐らく最初に目覚める場所は完全にランダムです。同じ赤いエリアで目覚められる確率に至っては恐らく皆無に等しい。ものすごく遠い場所にリスポーンしてしまう可能性もありますよね」
「そうなんですよね。……織葉くんの能力と鈴があれば、同じエリアにいればおおよその方向はわかるとは思います。例えば同じ赤いエリアに入れば、彼女がいる場所を目指して動くことはできるでしょう。ただ、前にも言った通り、赤いエリアは怪物がわんさか湧いていますし、地震による地割れも発生しています。人を探して探索するのは極めて難しいでしょう」
「それは、承知の上だ」
「距離の問題、危険の問題。まだあります。……赤いエリアでえりいさんを見つけられてもそれで終わりではありません。二人で、そこから脱出しなければいけないのです。広大なあの場所から、出口を見つけるのは至難の業と言えましょう」
できればやめてほしい。大郷の顔には苦悩の色が滲んでいる。
無論彼とて、えりいを見捨てたくはないはずだ。恐らくはそれ以上に、赤いエリアの危険を理解しているということなのだろう。この様子だと、先日自分達に語った話が全てではないようだ。
織葉が助けに行ったらそのまま、ミイラ取りがミイラになると恐れている模様である。その理由は。
「赤いエリアには、怪物以外にも危険があるということでしょうか?」
知っていることがあるなら全部話せ。暗にそう告げると、大郷は深くため息をついた。
「貴方には叶いませんね。……先日は、ショックを与えると思って伏せたことがあります。というか、知っていても対策のしようがないので言わなかったとも言えますが」
「他にもトラップのようなものが?」
「多分ですけど……あの空間にあるのはいつも通りの怪物と、それから定期的に起きる地震だけです。ですが、どうやら精神汚染を引き起こす要素もあるようなのですよね。実は、赤いエリアに入った時、私は一人ではなかったんです。他にもう一人、招待者の若い女性がいて、彼女と話していた時に怪物に追われて二人で逃げたら……そちらに入り込んでしまったんですよ」
大郷が言うに。
赤いエリアに入って暫くしたところで、女性の様子がおかしくなったというのだ。彼女は広間の奥を指さして、怪物の群れが来る、おしよせてくる、あんなのに襲われたらひとたまりもない――と繰り返すようになったのである。次第にはパニックになり、意味不明なことを叫び出すようになってしまった。
『あああ、ああああああああ!なんで、なんで、なんでよおお!?あたし悪くないじゃない、あんた、あんたがあたし、お、置いて、逃げようとするから!だから、だからあたしだって同じことしてやっただけで、わ、悪くない、悪くないでしょ、なんで責めるの、なんで、く、腐って、そんな体でこっち、こっちに、いや、嫌よ、近づかないで、来ないで、あああ、ああああああ来ないでええええええええ!!』
なんと。宥めようとする大郷を突き飛ばしよりにもよって怪物がいる方に突っ込んでいってしまったのだ。
当然、彼女はすぐに捕獲され、生きたまま足を引っ張られて引きちぎられて殺されてしまった。皮肉にも大郷はその隙に逃げることができ、さらに幸運にも階段を見つけて脱出することができたという。
「その前に彼女とは少し雑談をしました。この扉鬼の世界に来て一週間ほど過ぎていたこと、同じタイミングで入ってきた友人の女性と奇跡的に出会うことができて行動を共にしていたこと。……その女性を見捨てるような形で死なせてしまったこと。恐らく、彼女はずっとそれを悔やみ続けていたのでしょう。それが、幻覚として現れた。わたくしの目には、彼女の言う怪物の群れとやらも、腐った友人の死体とやらも見えませんでしたからね」
「厄介だな。……あんたは幻覚にやられなかったということか?」
「恐らく霊能力が高い人間は、ある程度耐性があるのでしょう。なので、織葉くんも即座に幻覚にやられるようなことはないと思います。ですが……長時間いれば恐らく我々でも精神的なダメージを負うし、それが死につながる可能性は高い。そしてえりいさんは一晩以上あそこにいるのなら、既に幻覚でパニックになっているかもしれない。そうなれば、暴れる彼女を連れて逃げるだけでリスクがあるでしょう」
えりいのところに、えりいが死ぬ前に辿り着く。
彼女を助けて、赤いエリアから脱出する。
どうやら織葉が思っている以上に、困難なミッションであるらしい。
「わたくしは、えりいさんを助けたい。ですが……彼女を助けるために、貴方まで犠牲になるのでは本末転倒なんです。わたくしは彼女に死んでほしくないと同時に、織葉くんにも死んでほしくないので」
それをはっきり言うのは、大郷が優しくて聡明な人間だからだろう。
織葉は深く深く息を吐いた。ここで、えりいを見捨てる気か!と織葉が怒り出す可能性も十分あったはず。それなのに、自分が憎まれることを承知で提案した。――彼はとても、とても心優しい男だ。紛れもない、人の親になるに相応しい人間。
わかっている。だからこそ。
「そのリスクを知っていてなお、俺はえりいを助けに行くつもりです。そして、その方法がまったくないわけじゃない、そうでしょう?」
えりいを助ける方法。
たった一つだけ、心当たりがある。それは。
「黒須澪の力を借りることができれば、えりいを赤いエリアから脱出させるくらいのことはできる。違いますか」