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第68話

 昔、こんな話を聞いたことがある。人は失ってから、取り返しがつかなくなってから初めて本当に大事なものに気付くのだと。

 それは恋人であったり、友達であったり、家族であったりとまちまちだろう。あるいは宝物に思っている品物や家、故郷ということもあるかもしれない。毎日の当たり前にあると思っていた、平穏で優しい日々もまたそう。大切なものほど、傍にある時には気づけない。いつも当然のようにそこにあってくれると過信してしまう。思い込んでしまう。

 さながら人が生きるのに不可欠な酸素が、人の目にはけして見えないように。毎日息をしているのに、その存在を意識することさえないように。


――そう、私にとって、一番大切なものは。……家族がいて、織葉がいて、茜屋先輩や学校の友達がいて……そんな退屈だけど穏やかな毎日、そのものだった。


 今日死ぬかもしれないこと。昨夜の時点でそれを自覚し、一日をかけてある程度覚悟したつもりだった。織葉にも想いを伝えたし、絵もプレゼントできた。完全に未練を断ち切れたわけではないけれど、少しは心が軽くなったはずだと思っていたのである。

 同時に、覚悟した上で全力で生き残る努力をすることを決めていた。今夜夢に入ってすぐの時は、怖くても一人で立ち向かうのだと考えたものだ。それが自分を信じてくれる人達への報恩。諦めることこそ、最大の裏切りであると知っていたから。冷静に、冷静に考えて、情報を精査して出口を探そうと決めていた。

 そのはず、だったのに。


――何も、わかっていなかった。


 自分は、愚かだった。どこまでも愚かで、大事なことが何一つわかっていなかった。――まったく、滑稽な話ではないか。本気でそれを理解し、後悔した時にはもう、何もかもが遅いという有様になっているのだから。

 死への恐怖を思い出してしまっている。そして、思い出したらもう忘れることができない。

 このおぞましい夢で殺されて、永遠に閉じ込められるということ。二度と愛する人達に会えないということ。それがどれほど恐ろしいことか。覚悟したつもりで、まったく足りてなどいなかったのだ。


『アアア、ウ、ア、アアア、ア』


 まるで地を這うような、しゃがれた呻き声が近づいてくる。ずる、ずる、ずる。びしょ濡れの体で地面を這いずるような、足音とも言えぬ音とともに。

 あれは、扉鬼の怪物に殺された人の、なれの果て。

 きっとあの男性の体は、ぐずぐずに腐り果てているのだろう。まだ距離があるのに、吐き気を催すような腐臭が漂ってきているのがいい証拠だ。えりいが見捨ててしまったあの時から、一体どれほどの距離を、時間を、激痛の中彷徨って這いずり回ったのだろう。それはどれほどの苦しみで、恐怖だったことだろう。

 しかし今は、その痛みを慮る余裕さえない。

 捕まったら最後、同じモノになるか、あるいは彩音たちのように生きたまま解体されて殺されるか。ろくな末路にならないことだけは明白だった。

 アンデットが、這いずりながら近づいてくる。そのさらに無効からは、さらに怪物の群れが。今ドアを開けても、間違いなく男性の屍とは鉢合わせすることになるだろう。群れ、ではない野良怪物たちもそのへんをまだ彷徨っているはずだ。

 次に地震が起きても、果たしてそれらから逃げられるかどうか。

 一体二体ならともかく、怪物の津波が押し寄せてきたら、もう自分は。


――お願い、来ないで。


 えりいはただただ、ドアを抑えて声を殺していた。今、廊下からやってくる怪物と自分を隔たるものはこのドア一枚だけ。一応鍵はかけたが、怪物たちが本気で攻撃してきたら簡単に壊されてしまうだろうことは明白だった。一体二体の攻撃でも破壊は必死なのに、怪物が大量に押し寄せてきたらもう一秒でさえもつのかどうか。

 自分にできることはただ一つ。自分がこの部屋に隠れていることに気付かれないこと。バレないまま、あの怪物たちが何事もなく部屋の前を通りすぎてくれること。そして、そうなることをただひたすら祈ることのみである。

 そんなこと、あるはずもないとわかっていながら。


――お願い、来ないで、来ないで、来ないで……!


 自分には、特別な力など何もない。

 むしろ何か少しでも力があるならば、こんな恐ろしい場所にのこのこやってくることなどしなかったはずだ。

 ああ、どうしてあんな馬鹿な話を聞いてしまったのだろう。己の願いは、己の力で叶えなければ何の意味もなかったというのに。

 いや、自分だけじゃない。あの時点なら彩音は止められなくても、蓮子はまだ止められた。自分が弱かったせいで、助けられるものも助けられず、本当に何をやっているのかわからない。


――ああ、織葉……!


 ぎゅっと瞑った瞼の奥、大好きな幼馴染の少年の顔を思い浮かべた。びっしょりと汗をかいた頬、頬に張り付くボブカットの髪。もし彼がここにいたら、「しょうがない奴だな」と髪をハンカチを差し出してくれただろうか。

 助けてなんて、思ってはいけない。そんなことを考えたら、彼が本当にここにきてしまう気がする。ああ、でも。


――最後に一目、君に会いたかった。


 怪物の足音と腐臭が近づいてくる。

 死の恐怖の中、えりいはひとすら織葉の顔を思い出し続けた。それが唯一、自分を守ってくれるお守り。彼への想いだけは、例え殺されることがあっても、生ける屍となり果てても、どうか失われることがないように。


――好きだって言った。でも、その言葉だけじゃ全然足らない。本当はもっともっと、君とやりたいことがある。だから、お願い……。


 奇跡を願った、その時だった。がちゃり、と鍵が開けられる音が響いたのだ。


「え!?」


 怪物がドアを被った音ではない。何故、外側鍵が開くのか。というより、このドアは外から鍵が開けられるような形状になっていただろうか?

 茫然としているえりいの前で、ドアノブが回る。


――ま、まさか……胡桃沢星羅?もしくは銀座さんじゃ……!


 明らかに動きが怪物ではなく、人間のそれ。

 そして入ってきたのが人間だったとしても、彼女らであったならば詰みも同然だ。蓮子から、えりいの反発はもう伝わっているはず。

 彼女らの目的に賛同しない以上、自分はもう彼女らの敵。見つかれば最後、他の招待者と同じように排除されるのは明白だ。


――ならば、結局……。


 殺される。

 何もかも、終わり。

 えりいは絶望的な目で、開いていくドアを見た。赤い光が射しこみ外にいた人物が素早く中に駆け込んでくる。


「……え、え?」


 その人物は後ろ手でドアの鍵をかけると、すぐさまえりいに飛びついてきた。

 違う。

 抱き着いてきたのだ。慈しむように――守るように。


「……良かった、えりい。間に合って、本当に良かった」

「なん、で……」


 嬉しい気持ちと驚く気持ちと悲しむ気持ち。全部がぐちゃぐちゃになった状態で、えりいはどうにか声を絞り出したのだ。


「なんで、来たの……織葉!」


 駆けつけてくれたのは。

 扉鬼の世界にけしているはずがない、翠川織葉その人だったのだ。





 ***





 話は、今から数時間前に遡る。

 織葉は一人、茜屋神社にいた。理由は単純明快、えりいの様子がおかしかったからだ。

 織葉には、えりいの“後ろにあるもの”が見えている。真っ黒な扉と、その扉からえりいの全身に繋がる無数の黒い糸。これは、あの銀座蓮子の後ろにも、それから茜屋大郷の後ろにも見えていたものと同じだ。扉鬼の夢に入り、囚われている人間は同じものを背負っている。ただし、呪いが浸食し、より危険な状態になった者は状況が多少変わってくるのだ。

 扉がどんどん、開いていくのである。同時に扉と、憑りつかれている人間の距離が狭まってくるのだ。

 えりいがおまじないをやったその日はまだ、扉はぴっちりと閉じていて、遥か遠くに位置していた。だが今は、その扉が半ば以上まで開いていて、奥から真っ赤な目玉なようなものが覗いている状態。扉とえりいの体の距離も、手を伸ばせば届きそうなほど近づいている。

 その上で、えりいの態度。

 本人も確実に気づいている、自分が危ない状況にあることを。だから今日一日で、可能な限り未練を解消しようと足掻いたのだ。もし織葉がえりいの立場でも、きっとそうするだろうから。


――馬鹿野郎……!そんな状態になってまで、まだ俺に助けを求めないつもりか!


 扉鬼の世界に、行く。織葉の決断は早かった。えりいを救うるためには、もう他に方法がない。

 だが、冷静さを失っているつもりはないのだ。もし大郷が彼女を助けられるくらい近い場所にいるのなら、任せた方が無難ではある。彼の現在地とえりいの現在地、入手できる限りの情報は入手するべきだろう。

 同時に。

 ただ闇雲に扉鬼の世界に入ったところで、今夜中に合流できなかったら何の意味もないのだ。


――えりい、お前はわかってないんだろうけどな。


 神社の社務所で大郷を待ちながら、織葉は自分自身の誓いを再確認する。


――俺はもう、とっくに覚悟を決めている。お前が本当に危ない時は、命を捨ててでも助ける。どんな方法を使っても、何を、誰を犠牲にしたとしても。


 少し霊や、人あらざるものが見えるこの力。

 知らないはずのことが知れる、たったそれだけの力ではあるけれど。

 今役に立てずして、いつ役に立てるというのか。


「……お待たせしました、織葉くん」


 十分ほど待ったところで、大郷が現れた。用件は既に伝えてある。無駄話も必要あるまいと、大郷は即本題に入ってくれた。


「結論から言いましょう。現状、わたくしがすぐにえりいさんを助けに行くのは極めて難しいです」


 ただし、と彼は続けた。


「貴方にならば可能かもしれません。翠川織葉くん……貴方に、それだけの覚悟があるのであれば」


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