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第67話

 織葉を、泣かせない。

 そのために、一人の力だけでも全力で生き残る。

 えりいはその夜、制服のポケットに彫刻刀を入れておいた。美術の授業で、中学生の時に使ったやつだ。刃が深くないので殺傷能力は高くはないが、カッターナイフと比べれば折れにくいし、目などの弱点に刺せば少しは効果もあるだろう。

 前に入手したデッキブラシをまだ所持していたら使えたかもしれないが、あれは部屋を走り回るうちに落としてしまっている。今はこれが持ち込めることを祈るしかない。


「がんばれ、えりい。……負けるな、えりい」


 口に出して、己に暗示をかけてから眠った。意識が落ちると同時に、鼻孔がどこかカビくさい臭いを感じ取る。

 お尻が冷たい。コンクリートの床に座り込んでいる。息が急に上がってきた。そうだ、自分は逃げていて、怪我はほとんどしていないが疲れ果てていたんだと思い出す。


「はあ、はあ、はあ……!」


 壁も床も灰色の、八畳間もないような小さな部屋。外で怪物がのしのしと歩く足音が聞こえる。そのたびに、頼りなく室内を照らす裸電球がゆらゆらと揺れた。


――落ち着け、落ち着け。……とにかく、一端は安全地帯に逃げ込めたんだ。今のうちに、疲労を抜かないと……!


 ドアを破ってくる可能性もなくはないが、今のところはまだその気配はない。

 今のうちに考えなければいけない。この赤い、危険地帯エリアからどうやって抜け出すのかを。

 思い出すべきは、大郷が今までくれた情報だ。怪物への対応策。それから、この赤いゾーンへの抜け方。教わったことを、思う一度冷静に考えるべきである。


――万が一怪物に捕まってしまったら、目つぶし。……よし、ポッケにちゃんと彫刻刀、入ってる。これでぶっさせば、幾分時間稼ぎはできるかもしれない。最悪の場合、その間に逃げる……!




 あとは、怪物に見つかって追いかけられてしまった時の逃げ方。




――ドアを開けて部屋の中まで追いかけてくる可能性は、ある。障害物があるなら隠れた方がいい。……とりあえず、ベッドの下に入って隠れていれば、やり過ごすこともできる、かもしれない。


 結局この部屋から出られないままでは、探索は一切進まない。それに、この部屋が地震で崩壊する可能性もある。なのでいつまでも籠城することはできないが、ドアが破られだと感じたらドアの下に飛び込んで隠れるしかないだろう。

 それから、この赤いエリアについてだ。

 このエリアでは、時々地震が起きる。その時部屋や壁が地割れのようになって、その隙間に怪物が飲みこまれることがある――というのはさっきえりいも知ったところだ。地震をうまく使えば逃げる時に役立つが、地震のタイミングは恐らくほぼランダムだろう。もっと言えば、地割れに飲み込まれたらえりい自身も恐らく助からない。地震を利用して、怪物を振り切りながら逃げつつ、自分は穴に落ちないようにしないといけないというハードミッションだ。


――出口は、上へ続く階段。多分大郷さんが言っていたことは間違ってない。実際私は、上の階から階段みたいなので滑り落ちちゃって、ここに入っちゃったわけだし……。


 問題があるとすれば。

 さっき走り抜けたかんじだと、ひたすら広い空間に太い柱のようなものが規則的に並んでおり、柱にドアがあって一つずつ部屋があるっぽいということだ。部屋の中に逃げ込めば一時的に安全は買える。が、遠くまで見通せないほど空間が広いように見えたし、果たして出口となる階段までどれほど距離があるのかどうか。方角だって一切わからない。怪物を振り切りながら、その出口を探すなんてことができるかどうか。

 自分の足は、呆れるほど遅い。ついでに結構なドジを自覚している。柱を右に左に曲がりながら進んだところで、長期戦になればいずれ捕まってしまうのは目に見えている。

 どう考えても、勝ち目が薄い戦いだ。AIに勝率を計算してもらったら、きっと絶望的な数値が返ってくることだろう。


――それでも……やるしか、ない!


 まだ、怪物がドアを破ってくる気配はなかった。ずしん、ずしん、ずしん、と部屋の前を通り過ぎていく足音が聞こえる。ゆっくり歩いているということはつまり、追跡モードになっていないということ。自分を追いかけてきていた怪物たちはえりいを見失って、追跡モードを解除したということだろうか。

 歩いている状態のバケモノならば、距離を取ることもできなくはない。

 それと恐らく昨夜追いかけられたかんじだと、発見してから“追いかける”モードに切り替わるためには少しだけタイムラグがあるはずだ。


――ドアの下から、少し覗けない、かな。


 えりいは音を立てないように地面に伏せると、ずりずりと頭を下げてドアの下の隙間を覗き込んだ。またしてもゆっくりとした足音。隙間から外の様子までははっきり見えないが、怪物が通り過ぎる時は赤い光が遮られるので、ドアのすぐ近くにいるかどうかまではわかるようだ。

 怪物が通り過ぎてから外に飛び出すのは最低条件。しかし、それだけでは足らない。怪物が通り過ぎても、すぐに見つかって追いかけられたら何にもならないからだ。

 チャンスがあるとすれば、地震が起きた時。えりい自身も足をとられかねないが、少なくとも覚悟していれば壁に掴まって進むこともできよう。怪物たちは長らくこのエリアにいるはずなのに、地震に対しててんで耐性がないようだ。でなければ地割れに飲み込まれるなんてポカをするはずがない。

 地震が起きた瞬間、ドアを開けて飛び出す。

 ぐらぐら揺れて怪物がスッ転んでいる間に、おおよその周囲の状況を把握。最低でも、次の部屋に飛び込むまでは進まなければ。一部屋ずつ、一部屋ずつでもいい。ゆっくりとでも進んでいけば、光明が見えるかもしれない。場合によっては、部屋の中に出口がある可能性もゼロではないだろう。


「!」


 覚悟を決めたその瞬間、まるでえりいに応えたかのように地震が起きた。


『グオオオオオオオオオオ!』


 少し離れたところから、怪物のうめき声のようなものが聞こえる。同時にどすん、どすんと転ぶような重たい音。やはり、怪物たちは地震に全く慣れていないようだ。


――すぐ傍に、怪物はいない!なら、チャンスは……今!


 えりいは鍵を開けて、部屋を飛び出した。瞬間、瞳を突き刺す真っ赤な光。目に痛い、なんて言っている場合ではない。揺れる足元、割れる地面を必死に避けながら、無理矢理足を動かしていく。

 そして、えりいは見てしまった。自分の右手側。広間の奥の方に見える、真っ黒な津波のようなものおを。


――う、うそ……。


 それは、大量の怪物の群れだった。地震で転び、一部が地割れに飲みこまれていくが、それ以上に大量の怪物たちがこちらに向かってくるではないか。

 右手側には、逃げることができない。よろめきながらも左へ逃げる。まだ距離はあったが、地震が収まって全力でダッシュされたら一分もたたずに追いつかれて捕まってしまうだろう。


――うそ、うそ、うそ、うそ!少なくとも昨夜は……あそこまでの数はいなかったのに!


 何故、自分が部屋に入っていた僅かな時間であんなにも増えたのだろう。ひょっとして、部屋に入ると怪物が増えてしまうとか、そういう条件が課されていたのだろうか。

 あんなものに捕まったらひとたまりもない。彫刻刀一本でやっつけることなどできるはずもない。


――に、逃げなきゃ……逃げなきゃ、逃げなきゃ!


 左手側の通路を、ひたすら走る。進行方向にもぽつりぽつりと化け物がいて、彼らは地震で倒れて床でもがいていた。


「ひっ」


 怪物の一体が倒れたまま、えりいの足を掴もうと手を伸ばしてくる。ぎりぎりで避けたが、肝が冷えた。倒れた状態の怪物も一切油断できない。


――出口……出口はどこ、どこなの!?


 少しでも遠くへ逃げなければ。そう思ったが、追いつかれるよりも前に体力の限界が来てしまった。


「あぐっ!」


 地割れに足を取られ、思い切りスッ転ぶ。顔面を打ち付け、目の前に火花が散った。

 地震が弱くなってきたような気がする。今のうちにどこかの部屋に逃げなければ、転んで動けなくなっている怪物たちが一斉に立ち上がって襲ってくるだろう。大群に飲み込まれるよりも前にジ・エンドだ。


「う、ぐ、ぐううううううっ!」


 歯を喰いしばって立ち上がった。鼻をしたたかに打ち付けたせいで、痛みが脳天まで響く。生ぬるい雫が顎まで伝っていくのが見えた。鉄臭い味――どうやら鼻血を出してしまったらしい。


「くそ、くそ、くそおおおおおおおおおおおおおお!!」


 自分を振るい立たせるように咆哮し、残りの力を振り絞るように全力で走った。そして、さっき自分が出てきたのとそっくりな赤茶色のドアに飛びつく。


「開いて、お願いっ!」


 がちゃり、とノブが回った。飛び込んだのは、やっぱり廊下とは違う灰色の小さな部屋だ。入ってすぐ、もう一度鍵をしっかりかける。あまりにも頼りない、がちゃん、という音が響き渡った。


「はあ、はあ、はあっ……!」


 そこは、さっきより家具が多い部屋のようだ。クローゼット、ベッド、鏡台、本棚。無機質なそれらが部屋の中心を向くように並べられている。

 えりいはその場で、力なく座り込んだ。

 なんとかなるかもしれない、なんとかするしかない。そう振るい立てたはずの気持ちが、一気に弱くなっていく。あんな大量の怪物の群れ。あれがこちらまで到達したら、どう転んだってもう逃げられない。ドアが破られるのを、袋小路の空間でじっと待つしかないだろう。


「どうしよう、どうしよう、どうしよう……!」


 希望なんて、どこにもないというのか。

 自分はそんなものを得る権利さえないというのか。


「ひっ」


 しかも、恐ろしいことに――聴覚は、怪物以外の声も拾ったのだ。吐き気がするような腐臭と共に。


『アアア、ア……おれ、おれはどうな、なんで、いだいんだ、ああ、あああっ……おまえが、たすけでくれなかったから、おれ、おれは、アアアアア……!』


 ずる、ずる、ずる。這いずるような音。血の川が流れる音。その言葉は――庭エリアで、えりいが助けられなかった男性のもの。

 彼はまさかこんなところまで追いかけてきたというのか。あのエリアから上半身だけになってしまった体を引きずって?


「嘘、でしょ……」


 脳裏に、恨めしそうな中年男性の血走った目が、だらんと垂れ下がった下が、ぐずぐずに腐った上半身だけの体が過ぎった。

 怪物と、怪物になってしまった人が、えりいを殺そうと近づいてきている。

 悟るしか、なかった。

 この世界に、神様なんていないということを。


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