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第65話

 絵を描くのが、昔から好きだった。

 今でこそ美術部で油絵をメインに描くようになったが、えりいが最初に絵に親しんだツールはクレヨンや色鉛筆だったのである。幼稚園の時、ひらすら思うがまま、手がべたべたになるほど思い切った絵を描いたのが始まりだ。女の子がいて、おうちがあって、お日様と花があって。ようはどこにでもあるような、ありきたりな絵だったと思われる。

 ただし。


『すごい。えりいは、えかきさんをめざしたらいいと思う』


 織葉にべた褒めされて、調子に乗ったのだ。ついでに幼稚園の先生も親もやたら褒めてくれたものだから(上手かったわけではなく、褒めてのばす方針の人が多かったというだけだろう)ますますえりいはテンションが上がってしまって、自分は絵の才能があると思い込んでしまったのだった。

 さすがに大きくなってくれば「あれお世辞だったっぽい?ていうか私そこまで絵上手くなくね?」という現実も見えてはくるのだが。それはそれとして、気づくまでの間にたくさん絵を描くようになり、絵を描く面白さを知ってしまっていたとあってはどのみちやることは変わらなかったのである。

 上手か下手か、ではないのだ。

 絵を描いている間は、自分ではない別の自分になれるような気がするのである。

 絵の世界に入り込める、とでも言えばいいのか。気弱で、優柔不断な自分を忘れることができる。おとぎ話の世界のお姫様にも、リンゴの国の妖精にも、青空を自由に羽ばたく鳥にもなれるような気がするのだ。

 物語そのものを作るのはあまり得意ではなかったが、イメージやアイデアだけなら充分にある。

 自由な世界、しがらみがない世界、新しい世界。いろいろな世界を想像して色を塗り重ねていくのは、それはもう楽しいことだったのだった。


「えっと……こっちのがいい、かな」


 ぶつぶつ呟きながら、えりいは紙の上でひたすら手を動かしていく。

 うちの美術部では、一応“一年に一度はコンクールに出す”という暗黙の了解こそあるものの、実際はみんな好きなタイプの絵を自由に描いていいことになっていたのだった。ようは、ものすごーくゆるゆるな部活だったのである。

 部活の活動日こそ決まっているものの、別に毎回来なくてもヨシ。

 油絵を描く人が多いといえど、色鉛筆やクレヨン、水彩や鉛筆オンリーの絵だってヨシ。

 モチーフだって決まっていない。さすがに、前に入部した男子部員がえっちな雑誌を見ながら裸のおねーさんを描こうとした時にはみんなにフルボッコされていたが、それくらいである。

 甘すぎる部活だと言われるかもしれないが、えりいはの部活のゆるさが気に入っていた。誰にも縛られない、囚われない。だからこそ何だってできるし、何にだってなれる。将来本格的に絵描きを目指してもいいし、趣味だけでのんびり描いたっていい。困った時に仲間にアドバイスを求めてもいい。

 自分のように、やりたいことがその時々で変わる人間にはぴったりだと言えた。


――違うな。もっと、輪郭は細い方がいい。


 スマホを見ながら、えりいは線を重ねていく。まずは鉛筆で軽く下書き。濃く書きすぎると後に影響が出てしまうので、うすーく輪郭や表情を描いていく。

 えりいが今、必死で取り組んでいるもの。それは、スマホの写真を参考にした――織葉の絵だった。

 本当は油絵にしたい気持ちもあったが、油絵だと今日一日で終わる気がしない。なんとかして今日中に完成させて、織葉にプレゼントしたかったのだ。きっと彼なら、完璧には程遠いえりいの絵でも喜んでくれることだろうから。


――織葉、顎は尖ってないけど、全体的に顔がすっきりしてるんだよね。……って、こうしてみると、あいつ首ほっそいし肩幅も……隣の男子との差が歴然すぎるわー。


 参考にした絵は、織葉がクラスの男子二人と映っている写真だった。去年撮影したやつで、その場のノリでスマホを向けたら三人揃ってこちらを向いてくれたのである。

 写真一枚見ても、性格やよく出ているというものだ。ぽっちゃり系男子と筋肉マッチョな大柄男子の間に挟まれて、織葉は完全にきょとんとしている。ぽっちゃりくんはニコニコ笑っておどけてみせているし、筋肉男子はマッチョポーズのようなものを取っている。対して織葉は、完全に不意打ちだったせいできょとん、と目を丸くして棒立ちだ。こんなに性格が違うのに彼らが仲良しだったのだから、人間というのはわからないものである。

 今年もあまり背が伸びなかった織葉。確か今年もまだ身長165cmで、去年より3ミリしか伸びていないと嘆いていたような気がする。えりいは今年162cmになって、4cmも伸びたというのにだ。いずれ追い抜かされそうで嫌だ、と彼が戦々恐々としているのを知っている。どうにも、男の子は身長というのに、女の子以上に拘りがあるらしい。


――ふふふふ、こうしてみると、ちんまりしてて可愛いなー。


 こんなこと言ったらきっと機嫌を損ねるが。屈強な男子二人に挟まれた女子並の体系の織葉はなんだか可愛くて、ついつい笑ってしまうのだった。原因の一つは彼が小食だということもあるのだろう。もう少しご飯を食べるべきだと思う。特に、白米の美味しさをもっと彼に布教してやるべきか。

 目は大きく、睫毛は長く。しかし、少しきりっと吊り上がった目尻のあたりに男の子らしさもある。外国人の血が入っていることで、青く宝石のように見える織葉の瞳。えりいが一番好きなところの一つ。丁寧に丁寧に色を塗りたいものだ。

 線を重ねて輪郭を描いたら、次はいよいよ色塗りである。白いけれど、病的ではない健康的な織葉の肌の色。彼がひそかに誇りに思っているであろう、艶やかな長い黒髪。そして、ちょっと薄目の唇は、淡いピンクのリップでも塗っているかのようにいつもつやつやと輝いている。

 頭の中で思い浮かべ、写真を何度も見るうちに、今度は別の理由で笑えてきてしまった。自分は今まで、どんだけ織葉の顔を見つめてきたのだろう。瞼を閉じれば、いつでもそこに彼の姿があって、思い出すたびに胸が高鳴った。もう否定しようもないくらい、救いようがないくらい、好きなのだと自覚したのはいつの頃だっただろうか。

 彼の顔が、たまらなく好きだ。

 声が好きで、撫でてくれる手が好きで、でも一番好きなのは大人しそうで繊細な見た目に対して正義感の強い性格で。


――恋は、幸せになれる感情。……本当に、そうだ。


 この気持ちは、幸せだった。

 ううん、まだ、過去形になると決まったわけではないけれど。


――だからこそ、ちゃんと……決着、つけなきゃ。こんなにもたくさん、素敵なものを貰って私はここにいるんだから。


 髪にテカリを入れていく。上からなぞるように、白と水色で光を加えていく。上から重ね塗りすることで、色鉛筆の線は僅かに滲む。時々消しゴムで広げながら、丁寧に、丁寧に。

 長い睫毛の光。瞳の奥の光。写真の顔よりも少し、微笑んでいるような唇。


「うわ、びっくり……!」


 後ろを通りがかった舞が声を上げた。


「どうしたの今日!?昨日は全然描けなかったのに……すごくいい絵じゃん!」

「ありがとうございます」


 時間がなかったので、肩から上だけだけれど。

 白い画用紙の上には、えりいが世界で一番大好きな人が生まれ落ちていた。こちらを見て笑ってくれている。よく見るとあちこち粗もあるが、一番伝えたかったことは伝わる絵になっているはずだ。


――織葉、あのね。私ね。


 えりいははみ出した線を消しゴムで消しながら、そっと呼びかける。


――君に、伝えたいことが、あるんだ。




 ***





「……え、え?」


 今日は靴箱で、織葉が待っていてくれていた。彼に絵を見せると、織葉は目をまんまるにして固まってしまう。

 その顔が、スマホの写真にあった“突然カメラを向けられてぽかんとした顔”とまったく同じだったものだから、思わずえりいは噴き出してしまった。本当に彼ときたら、頭はいいのに不意打ちには弱いのだ。


「こ、これ……俺?」

「そうだよ!織葉以外の誰がいるの?」

「……俺、こんなにイケメンじゃない」

「ちーがーうー!本物の織葉のがイケメン!……その、写真見て描いたんだけどさ。どうしても、私の目から見た織葉になっちゃうというか、それもうまく表現できてないというか、美術部員にしては絵が下手な自覚はあるのでそのへんは申し訳ないと言いますか、そのあたりのことはできればご容赦頂きたいと申しますか……えっと、そのお……」


 段々と声が小さくなっていく。そこまでそっくりに描けなかった自覚はある。でも、やっぱりそんなに似ていない、だろうか。いや、間違いなく本物の方が絵の彼よりもかっこいいとは思うけれど。それはもう、絶対的に越えられない壁だと思うけれど。


「申し訳ないなんて、そんなこと、ない」


 織葉は少し掠れた声で――えりいの手から、絵を受け取ってくれたのだった。


「凄い。……今日一日だけで、描いてくれたのか?」

「まあ。本当は油絵が良かったんだけど、流石に一日じゃ無理っぽいかなって。どうしても今日のうちに描き上げて、織葉にプレゼントしたかったから……」

「ありがとう。……本当に、嬉しい」


 織葉の声が、一気に小さくなる。本心を語る時、本気で照れている時、彼は声がどこまでも掠れて消え入りそうになるとえりいは知っていた。

 少しだけ目が潤んでいるような気もする。どうやら、本当に喜んでくれたらしい。


「筒持ってきたから、それに入れて持って帰ればいいと思う。……ちょっと邪魔かな、サイズ的に」

「大丈夫。無理矢理にでもバッグに入れて帰る。入りそうになかったら、代わりに教科書を置いて帰る」

「ぶっ……宿題とか予習とかできないんじゃないの、それ」

「そんなものより、えりいが心をこめて描いてくれた絵の方が百億倍大事だ」

「あーもう、もう……!」


 またこれだ。えりいはその場で壁に額をくっつけて、無理矢理興奮を収めようと努力した。

 自分は結局のところ、織葉のこういうところも含めて好きなんだよなあ、と思う。彼は本気で誰かを褒める時ほど恥ずかしい言葉を使うし、一切嘘をつかない。特に、えりいに対しては隠そうとする気が一切ないのが厄介だ。そのたびにこちらは心臓を射抜かれてぶっとびそうになっているというのに。


――ああ、好きだな。


 ぎゅっと、胸の奥が痛んだ。


――ずっとずっと……一緒に、いたいな。


 わかっている。

 一緒にいるためには――生きるためには、誰よりも自分が頑張らなきゃいけないことくらいは。

 そして頑張る勇気を貰うために、今自分はこうして彼の前にいるということくらいは。


「……あのね、織葉」


 靴箱に、今他の人はいない。

 チャンスは今しかない。


「私ね。ずっと前からね……」


 大丈夫かもしれない、なんて傲慢で甘い期待。ちゃんと、駄目だった時のことも覚悟しておかなければいけないと知っている。

 自分は妹みたいなもの。きっとそう思われていて、だからこそ大事にされているだけ。

 それでも十分貴いことだと理解している。してはいるけれど、それでも。


「織葉のことが、好き。そういう意味で、好き。世界で一番好き。将来……本気で、結婚したいくらい、好き」


 ぎゅっと目をつぶって、掠れた声でえりいは言葉を重ねた。

 一粒でも多く、本気の気持ちが伝わりますように。そうしたらきっと今日が最期であっても、少しは未練が減るはずだからと。


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