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第64話

「何かあったか?」


 いつものように、家の前まで迎えに来た織葉。顔を見るなり言われた言葉に、えりいはついつい苦笑してしまった。

 自分はそんなにわかりやすいのだろうか。母に話を聞いてもらってシャワーを浴びてご飯を食べて、少しは落ち着いたつもりだというのに。


「言っておくけど、俺に隠し事なんかできないぞ」

「だよねえ。……織葉、昔から鋭いもん」

「だからストレートに訊く。……危ないのか?」


 危ない。

 それが扉鬼の夢の世界であることなど、今更説明するまでもないことだ。


「大丈夫だよ。バケモノに、捕まったわけじゃない。危ないトラップに引っ掛かってるわけでもない。逃げるために、ちょっと隠れてるだけ」


 こういう時、下手な嘘は逆効果だ。かといって、赤いエリアに入ってまさに殺されそうになっています、なんて言えるはずもない。どうしようもない心配なんて、かける必要もないのだから。

 ゆえに嘘ではない範囲で、誤魔化す。真実だけで。本当の言葉だけで、真意を隠す。それがどれほど難しくても。


「目の前で見たバケモノが思ったより怖くて、ちょっとだけびびっちゃって。大丈夫だよ、絶対死ぬとか、そういうレベルまで追いつめられてるわけじゃないし」

「本当か」

「本当だってば。織葉に、嘘はつかないよ」

「どうだか」


 エレベーターホールまで来て、ボタンを押す。当たり前のように、今日も自分達は一緒に学校に行くのだろう。そして、彼は今日も放課後、自分を迎えにきてくれるはずだ。

 木曜日だから、今日は美術部の活動がある。帰りも少し遅くはなるが、きっと織葉はそれでも待っていてくれるはず。胡桃沢星羅らが襲ってくる可能性がゼロではない以上、少しでもえりいが危なくないよう全力で護衛してくれようとするはずだ。

 何故って、昔からそうだったから。

 自分の身より、えりいの身を心配するような人だったから。


「織葉さあ」


 エレベーターが、徐々に上に上ってくるのが見える。


「今日も迎えにきてくれるの?部活の後」

「そのつもりだが」

「……今日、ちょっとがっつり絵、描いてくるつもりだから。遅くなるかもしれないけどいいんだ?」

「いいに決まっている。えりい一人で帰らせるのは危ないだろう。俺みたいなモヤシでも、いないよりはマシなはずだ」


 モヤシの自覚あったんだ、と思わず声に出して笑ってしまった。確かに彼は、お世辞にも屈強なタイプではない。小さな頃はよく喧嘩していたが、けして腕力が強いわけではなかったので、いつも作戦と足の速さだけで勝っていたようなものだった。

 殴られて怪我をすることも少なくなかった、彼。けれど思えば、織葉が泣いているところなんてほとんど見たことがないような気がする。幼稚園の頃からだ。


「織葉、昔からだよね。幼稚園の頃から、私を守ってすぐ喧嘩してくれて。……でも、ちょっと心配だったんだ。殴られて大怪我したこともあるのに、全然泣かないんだもん。いっつも無表情でいきなりキレるから先生も結構びびってたんだけど、知ってる?」


 えりいからすれば、織葉が何を考えているのかおおよそ想像もつくところはあるが。

 あまり親しくない人間には、いつも織葉は“何を考えているかわからないやつ”と思われていたことを知っている。多分、感情が顔に出にくいタイプなのだろう。しかも言葉数に対してアグレッシブに動くから、急に怒って殴りかかったようにも見えて周囲を驚かせることも多かったのだ。


「俺はそんなにわかりづらいか?」


 織葉はちょっとムスッとしてこちらを見た。


「別に考えていることを隠しているわけじゃないし……昔よりは、思っていることをちゃんと口にするようになったと思う。ていうか、そう言う風に心がけている。黙っているせいで誤解されることもあるって段々わかってきたし」

「あ、やっぱりそうなんだ。昔はもっと無口だったもんねえ」

「でも、痛いとか、悲しいとか、そういうのがないわけじゃない。ただ俺の場合は……悲しい、よりもすぐ怒りが来ることが多くて。だから、あまり涙にならないんだと思う。多分これは、性分みたいなやつだ。ただ」


 ぽつり、と。彼は消え入りそうな声で言った。


「えりいに何かあったら……泣かない自信が、ない」


 本当に、どうしてそういうことばかりストレートに言うのだろう。普段は言葉が足らないのに、こっぱずかしい台詞ばかりケチるということをしないのだ。

 そのたびに、えりいが嬉しいのと恥ずかしいのとで倒れそうになっていることも気づかずに。


「ありがと。……でも、逆も然りってのは、忘れないでね」


 いつも、自分を守ってくれた織葉。

 でも自分は。えりいは、果たして彼を守れたことが一度でもあったのだろうか。


「私も織葉に何かあったら、泣いちゃうよ。だからもう、怪我とかしないでよね」

「……善処する」

「政治家の言い訳みたいな言葉使わないの!そこはちゃんと約束してよ、いーい」

「……………………ああ」

「沈黙なっが!」


 こんな平凡で、当たり前のやり取りを――自分はあと何度、できるだろう。

 わかっている。母にも言われた通り、本当にするべきことは“諦めないこと”だ。生きる事を諦めないこと。突破口を探し続けること。諦めるのは死んでも遅くはない――織葉にだって、確かにそう言われたのだから。

 わかっている。それでも、どうしても。


「放課後」


 保険のようなことを考えてしまう自分は、きっととても弱い人間だ。


「美術部の活動終わったら、話があるんだけど、いい?」

「別に構わないが」

「ありがと。一緒に帰る時にでも、言うね」


 もし、ここで全て終わるとしても。生きる事を諦めるなんてできないとしても。

 僅かでも未練を解消できたなら――それだけで、自分は。




 ***




 今日は、何が何でも眠るわけにはいかない。

 例え面倒臭い数学の授業であったとしても、だ。


「えーっと、はい。じゃあ教科書の28ページ開いてくださいねー、はい」


 数学の田淵高太郎先生は、ことあるごとに“はい”を最後につけるのが癖となっている。それが妙にテンポがよくて眠気を誘うのだ。しかもかなり高齢の男性で、ものすごくゆっくり喋るのがいけない。声がいいのもあって、まるで子守歌のように聞こえてくるのである。

 さらに言うなら。数学が得意な生徒は指されても問題ないが、えりいは問題ありまくりの側である。ただでさえ、最近は予習も復習もろくすっぽできてないのだ。


「はい、そこに式出てますね?三番の問題です。AとBが以下の方程式で成り立っているのがわかると思います。その上で、皆さん一番から三番までの問題を解いてみましょうA+2Bはいくつかってやつですねえ。難しくないので、頑張りましょうねえ」


――難しくないとか、わざわざ言わなくてもいいじゃん、ああもう!


 普通に元の計算式がわからん。AもBも謎すぎてまったく計算できそうにない。これ指されたら詰むな、と思いつつえりいはちらりと左側に視線を投げた。

 ぽっかりと一つ空いた席。銀座蓮子は、学校を休んでしまっている。

 彼女も相変わらず、扉鬼の世界からは脱出できていないはずだった。まだ人を殺し続けているのだろうか。それが本当に、自分やみんなを救う唯一の方法だと信じているのだろうか。

 自分の訴えは――何一つ、彼女には届かなかったのだろうか。




『間違ってるわけない!間違ってたなら、うちは、もうっ……!』




 最後に見た蓮子の顔が、忘れられない。

 怒りに染まった顔。けれど目の奥が泣きそうで、自分が間違っていると認めたくなくて――えりいを殴って、無理矢理黙らせようとした彼女。あれは、心のどこかで己が過ちを犯しているかもしれないという恐れがあったからこそではないだろうか?

 前々からムカついていた、というのは多分本当だ。彩音はえりいに親切にしてくれたが、蓮子の態度はどこか壁があるように感じていたから。自分だけの友人だと思っていた彩音を取られたようで悔しかった、というのもきっとあるのだろう。嫉妬というのは、何も恋愛感情だけで生まれるものではないのだから。


――そんな私に指摘されたから腹が立った、っていうのもゼロじゃないとは思うけど。


 彼女はこれから、どうするのだろうか。えりいの言葉を完全に無視できるほど強い人間なら、あんな顔はしなかったような気がしてならない。

 とはえい、既に蓮子は自ら退路を塞いでしまっている。恐らく一度星羅たちの仲間になってしまったら、もう抜け出すことなどできないはずだ。


「そろそろ答えてもらいましょうかねえ。じゃあ、問い1を、金沢さん」

「……げ」


 先生の緩すぎる声によって、えりいの思考は半ば強引に断ち切られたのだった。




 ***




 放課後、美術室。

 昨日のトラブルを知っているからだろう。入室して早々、舞が真っ先に駆け寄ってきたのだった。他の部員たちも、どこか心配そうにこちらを見ている。


「金沢さん!その、昨日はあの後大丈夫だった?その……」

「銀座さんのことだったら、もう大丈夫です。本人も休んでるし」

「そう……」


 舞は、ある程度事情を把握している。多少突っ込んだことを話せる相手がいる、というのはそれだけでありがたいことだった。


「休んでるからこそ、心配なんですけどね。結局、私の説得がどこまで通じたのか怪しいし」

「……人の心配か。あんなひどいこと言われたのに、あんた優しすぎるっての」

「優しくないです。ただ、銀座さんの気持ちがちょっとわかるって、それだけですし」


 そうだ。

 自分でも驚くほど、蓮子に対する怒りがない。苛立ちもないし、不快感もない。結構きついことを言われたし、本来ならもっとショックを受けてもいいはずだというのに。

 それは多分、ある程度予想できた言葉であったからというのと――蓮子の気持ちが理解できてしまうから、というのが大きいのだろう。

 自分だって、織葉が死んだなら同じことを考えてしまう。生き返らせることができる方法があるなら、それを模索したい。死んだ人を蘇らせるためには人知が超えた方法が必要で、それが目の前にぶらさがっているのなら手を伸ばさずにはいられないのが人間なのだから。

 彩音が、怪物に追い詰められていたにもかかわらず、自分が出口を見つけるまで除霊を待ってほしいと懇願してきたように。


――そうだ、どこかで安心してもいるんだ。銀座さんもまた、私と同じ……弱い人間だったんだって。救われるべき、人間なんだって。


 自分には何ができるだろう。今晩の命さえ怪しい自分に、そんなことを考える余裕がないのはわかっているが。


「……先輩」


 えりいは不安そうな舞をまっすぐ見つめて、精一杯笑顔を作ってみせた。


「今日は、描きたいものがあるんです。自分自身のために。その、今日一日で終わらせたいから、色鉛筆になるけど……いいですか?」


 寄りかかってはいけない。依存しすぎて、脆くなってはいけない。

 それでも今、間違いなく折れそうなえりいの心を支えてくれているのは人の存在だ。自分を愛してくれる、助けてくれる人達がいるからだ。そして、世界で一番、大好きだと伝えたい人が。

 だからこそ、自分は。


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