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第63話

 ジリリリリリリリリリリリ。

 鳴り続ける目覚まし時計を、震える手でどうにか止めた。心臓が、ばくばくと五月蝿いくらいに鳴っている。夢の中から現実に戻ってきた以上、夢の中での疲労や怪我は全て回復しているはずだった。実際、転んだりお尻を打ったりしたのに、えりいの体に痛いところは一つもない。

 それなのに、頭がぐらぐらして、視界がバチバチと明滅する。息が荒い。今が本当に現実なのか、まだ夢の中にいるのか、それさえも曖昧になってしまう。

 苦しい。全身が、べったりと汗で湿っている。じわり、と溢れてくる涙を止めることがどうしてもできない。


「あ、あああ、ああああああっ……」


 ついに、やってしまった。

 入ってはいけないと言われていた赤いエリアに入り込んで、バケモノに追い詰められて殺されそうになっている。まだ捕まっていないので希望がゼロというわけではないだろうが、あの部屋に怪物が入ってこない保証はどこにもない。

 ドアに鍵はかけたが、地震で壁そのものが崩壊しそうになっていた。その前に脱出しなければ、自分も闇に飲み込まれてしまうかもしれない。

 そしてドアの向こうでは、たくさんの怪物たちが蠢いている。あれをかいくぐって、自分のような体力もないただの女子高校生が逃げ切ることなどできるだろうか。

 答えは、否だ。

 ほぼほぼ、詰み。次に眠った時自分はきっと――死ぬ。


「うううう、あああああああ、ああああああああっ……!」


――死にたくない、死にたくない、死にたくないよっ……!


 確かに、己は弱い人間だった。自分の願いで叶えられる願いを叶えようともせず、愚かなおまじないに頼ってしまった結果このような状況に陥っている。それが罰だというのなら受け入れなければいけないと、そう思っていた。

 だがしかし。

 こうして今まさに死の瀬戸際まで追いつめられると、どうしても思ってしまうのだ。自分は、こんな目に遭わなければいけないほどの罪を犯したのか。どうして自分だけが、こんなに苦しい思いをしなければいけないのかと。

 そんな風に思うべきじゃない、死んでしまった彩音にも失礼だとわかっている。わかっていても、弱い心はどうしようもない。

 己が生きられる日は、あと一日かもしれない。ならば自分は、自分はこの世界で一体どうするべきだというのか。何ができるというのか。

 もう何もかも――終わりかもしれないというのに。


「ちょっと目覚まし時計鳴ってたけどー?起きてきなさいよ、えりい。遅刻するわよー……えりい?」


 ノックも何もせず、母がいきなりドアを開けてくるなんて珍しくもない。朝ならば尚更そうだ。あまり寝起きがよくないえりいの部屋に踏み込んできて、彼女がシーツをひっぺがすなんてよくあることだった。

 それでも今日は、母の顔に戸惑いの色が浮かぶ。

 そりゃそうだろうな、とどこか他人事のように思った。起きて早々、娘が布団に入って泣いていたなら当たり前だ。


「お、おかあ、さ……」


 ああ、何もかも話して、ブチ撒けてしまえたらどんなに楽になれるのだろう。

 そんなことをしたって何も解決しない、むしろ悩ませるだけだとまだわかってしまっている自分が憎い。


「ご、ごめんなさ……こ、こわいゆめ、み、見て……そ、それで」

「……どうしたの。怖い夢?何があったの?」

「う、ううううっ」


 母は何も知らない。それでも黙ってベッドの横に座り、えりいの背中を撫でてくれる。

 小さな頃のことを思い出していた。今でこそ一人部屋で眠っているえりいだったが、幼い頃は本当に甘えん坊で、絶対にお母さんと一緒じゃなきゃ寝れない!と駄々をこねていたものである。

 クラスの子はみんなとっくに一人で寝ていても、えりいは“卒業”するまでかなりの時間を要したものだった。夜眠る時、朝目覚める時。一人で暗闇に閉じ込められるんがたまらなく不安で、たまらなく寂しかったものだから。


――お母さんの匂い、昔から、全然変わらない。


 もう、こうやって撫でて貰えることもなくなるのかもしれない。今日で何もかもがおしまいになってしまうのかもしれない。

 不安がらせたくないと思うのに、そんな風に思えば思うほど涙が止まらなくなってしまうのだった。


「あ、あのね、あのね……お母さん」


 思わず、ぽつりと呟いていた。


「ほ、本当に怖い、夢、で。……へ、変な、真っ赤な部屋みたいなところに閉じ込められて、ば、バケモノに追われて。ほ、本当に怖いバケモノで、歯がギザギザの気持ち悪い猿みたいなので……。つ、つか、捕まったら、こ、殺されるって。絶対殺されるって思って怖くて……本当に、死ぬかと思って」

「うん」

「わ、私、時々夢の続きとか、すぐ見ちゃう、から。……次眠ったらあの夢の続きかもしれないって思ったらもう、怖くて、怖くて……」

「そっか」


 たかが夢。彼女にとっては、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。だって夢の中で死ぬことがあったって、現実で自分が死ぬわけではない。普通ならばそのはずだし、母だってそう思うに決まっているのだから。なのに。


「それは、怖かったわね」

「……うん」


 そんな程度で泣くなんて、とか。高校生なのに情けない、なんて言わなかった。

 ひょっとしたら母もなんとなく、えりいが知らないところで頑張っていることや悩んでいることに気付いているのかもしれない。その中身までは想像がつかなくとも。


「思った、の」


 しゃくりあげながら、えりいは続ける。


「もし……もしも、夢の中、みたいに。明日死んじゃうんだって、それがわかったら。私は、どうすればいいのかなって」

「何をするべきかってこと?」

「うん。死にたくないけど、でも、きっとそうなるってわかってたら。後悔しないために、あと一日、どう生きればいいのかなって。だって、あと、一日しかなくて、逃げられなくて……だったら、どうにかして、一日で人生、満足するしかない……じゃない?でも、生きるのを諦めるのって、すっごく難しいっていうか」

「……そうねえ」


 なんじゃその例え、と笑われても仕方ないことだったはずだ。あまりにも脈絡がない。真剣に考えてもらえなくても仕方ないし、むしろあまり真剣に受け取られてもそれはそれで困る話なのだから。

 それでも、母は天井を見上げ、はっきり言ったのだった。


「もし、貴女が見た夢みたいに怪物に明日自分が殺される、っていう話だったとしたらね?私だったら……考えるわ」

「考えるって?」

「だって死にたくないもの。でもって、死にたくないって思うのは普通のことでしょ?そりゃ、一日で人生満足して、未練なくして、今日で死んでも大丈夫!ってなれる人がいるならそうすればいいけどさ。普通はそんなの無理じゃない。残る人生が一年あればちょっとは考える余地あるけど、あった一日よ?一日で人生に満足して、生きるのをすっぱり諦めるとか普通できないでしょ。無理無理。私だったら絶対できないわ!」

「そ、それはそうだけど……」


 だからね、と母は続ける。


「考えるわ。生きるのを、諦めなくて済む方法。生き残れる方法」


 ふふ、と彼女は子供の頃と同じ――娘を安心させようとする母親の笑みをえりいに向けてくれたのだった。


「バケモノっていうのがどういうモノなのか、今の説明じゃさっぱりわからないけど。でも、ゲームでもそういうのって、倒す方法とか逃げる方法とか用意されてるもんでしょ?弱点があるとか、武器を使うとか、まあそういうの?……本当に袋小路で、決まってしまっている運命なんてあるものかしら」

「戦うってこと?」

「倒せないなら、逃げてもいいわ。どっちでもいいのよ、生き残れるなら。そしてその方法って、考え続けた者にしか見つけられないものだと思うの。人間の最大の武器は、考えることだと私は思うわけ」

「考える、こと……」

「そうよ。考え続ければ、可能性の道は繋がる。生き残れる確率は、完全なゼロにはならない。……勝てる見込みが薄くても、考え続けた方がずっと建設的じゃない?生きるのをどう諦めるのか、なんてできもしない努力をするくらいならね」


 確かに、そうなのかもしれない。

 あと一日。あと一日しか命がないと、そう決めつけるのは早計なのかもしれなかった。確かに状況は限りなく詰みに近いが、完全な詰みではない。だったらその一日を、あと一日で死ぬと決めつけてびくびくして過ごすより、もっと建設的な使い方があるのではなかろうか。

 無論、まだ涙は出るし、汗で全身はびっちゃびちゃだし、心臓はばくばくしているし、と酷い状態だけれど。どこまでも怖い怖い死にたくないと思ってしまう気持ちはあって、そこから手を離すことなど到底できないけれど。


「……お母さん」


 私は強引に、パジャマの裾で顔を拭った。


「今日……洗濯物、お風呂場に干す?」

「ん?」

「今日いい天気だって、昨日天気予報で言ってたから。外に干すならお風呂、空いてるよね。……朝ごはんの前に、シャワー浴びてもいいかな」


 汗を流したいのもそうだが、とにかく頭をすっきりさせたかった。

 そうだ、ホラー映画の主人公たちだってそうではないか。ギリギリまで生き残る方法を考えて、時間いっぱいまで運命に立ち向かう手段を講じて――それで生き残ることができた者達だって存在する。

 ましてやえりいの物語のジャンルは、えりいが決めるものだ。そしてこの世界の主役は自分以外にはありえない。これが、女の子が成長して立ち向かう青春ファンタジーとかそういうものであるならば、まだまだ神様は自分を見放したりしないはずである。そうだ、無茶な理屈でも、それがファンタジックなものでもなんでもいい。諦めない理由なんて、そんなものだっていいはずなのだ。


「目、覚ましたいの。……こんなひっどい顔で織葉に会ったら、また心配されちゃいそうだし!」

「そうねー。今のあんた、結構ブッサイクな顔だし」

「ちょ、お母さんひっど!」


 えりいが思わず肘でつつくと、母はけらけらと笑ってみせたのだった。


「そりゃーそうでしょ!女の子の一番可愛い顔は、笑ってる顔に決まってるんだから。泣いてる顔なんかみーんな不細工なの。好きな子に、一番可愛い顔見せなきゃダメでしょうよ!」

「も、もう……!」


 やっぱり、自分が織葉にベタ惚れなことは母にはとっくにバレているのか。思わずその背をぽこぽこ叩くえりい。

 心臓はまだ煩いけれど、それでも少しだけ落ち着いた。大丈夫――まだ、戦える。


「……ありがとう、お母さん」

「うんうん。頑張りなさい、えりい。あんたのペースでね」

「うん!」


 自分は一人ではない。

 愛してくれる人も、手を繋いでくれる仲間も、この世界に存在しているのだから。


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