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第62話

 彼女はあのチェーンソーで、誰かに襲われたのだろうか。

 もしくはそう思い込んで自分が襲ってしまったのだろうか。

 そもそもあんな凶悪な武器を、どうやって夢の中に持ち込んだのだろうか、あるいは屋敷のどこかで見つけてきたのだろうか。

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる、いろいろなことを考えたものの、答えが出るはずもない。わかっているのはただ一つ、絶対に足を止めてはいけないということだ。


「しにたくない、たすけて、たすけて、たすけてえええええ!」


 助けて、と言いながら追いかけてくる老女。ぶるんぶるんぶるん、というノコギリの音が時折震えることからして、どうやら闇雲に振り回しながら追いかけてきているらしい。あんなもの、掠っただけで大怪我するのは必至ではないか!


――嫌だ嫌だ嫌だ!し、死にたくない、私だって死にたくないよおおおお!


 泣きたい気持ちでいっぱいになりながら、階段を駆け下りていく。一階の廊下を走るべきか、さらに階段を降りるべきか。迷っている暇はなかった。足は、さらに階段を降り続ける。


「アアアアアア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 幸いにして、いくら火事場の馬鹿力は働いているとはいえ、老女の足は速くないようだった。若いえりいが階段を駆け下りる速度に追いつけなかったらしい。降りれば降りるほど、次第に彼女の叫び声が、チェーンソーの駆動音が遠ざかっていく。


「ぜえ、ぜえ、はあ、はあ、はあっ……!」


 自分は、どんどん地下へ降りているはずだった。月明かりが届かなくなり、周囲が暗くなっていく。今まで、この屋敷エリアの地下へ降りたことはない。本当にこっちで良かったのか、と思いつつも、気づけば一番下まで降り切っていた。

 ここが、地下何階なのかもわからない。気づけば周囲は、赤井レンガで囲まれた壁と、松明が灯った牢獄のような空間になっている。本当に地下牢でもあるのかもしれない。


――まだ追いかけてくるかもしれない……。


 周囲を見回したが、遠くから微かに聞こえてくるチェーンソーの音以外に拾える音は何もなかった。できればさっさとこのエリアから逃げるか、庭に出てしまった方がいいだろう。ただ、今までの経験上、屋敷の屋内エリアから直接庭へ空間が繋がることは極めて稀なことのようだったが。


「ど、どっか、ドア……!」


 怪物はいなさそうだ。しかし、悠長に探索している余裕もない。えりいは一番最初に見つけた赤いドアに飛びついて、開いた。


「え」


 視界を染める真っ赤な光。そこへ一歩踏み出した途端、足が宙を切る。がつん、とかかとが何かにぶつかった。階段だ、とようやく理解する。ドアの向こうが、さらに降りる階段になっていたのだと。

 そして自分は今、慌てた拍子にその階段を踏み外したのだと。


「わ、わ、わああああああああああああああああああ!?」


 えりいは悲鳴を上げながら、ごろごろごろごろ、と下へと転がっていった。お尻を、肩をしたたかにぶつける。痛い。結構な距離を転がり落ちてしまったような気がする。目の前で真っ赤な火花が散って、頭がぐらぐらと揺れた。


「あたたたたた……も、もう、なんなの、今日は厄日なの……!?」


 そういえば、占いはどうだっただろう。これで一位とか言われたらもう何も信じられなくなるんだけど――と思って、尻餅をついたまま顔を上げた時だった。

 言葉を、失った。

 さっき、視界に赤い光が過ぎったと感じたが、あれは幻覚でも火花でもなんでもなく現実の光だったのだ。


「う、そ……」


 そこは、打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた、灰色ののエリアとよく似た空間。ただし。

 壁も、天井も、床も。何もかも、真っ赤な塗料で塗りたくられている。




『わたくしも一回だけ、うっかり足を踏み入れてしまったんですけどね。生き残れたのが正直奇跡だったなと思います』




 大郷の言葉を思い出す。

 ノートにもはっきりと“極めて危険、怪物大量発生、万が一は言ったら即座に脱出すべし”と書かれていた。

 赤一色の、絶対に入ってはいけないエリア。怪物が大量に発生し、時折地震が起きることもあると。


「や、やばい」


 逃げなければ。というか、これはもうあのチェーンソー老婆に遭遇する危険を冒してでも、元来た道を戻るべきだ。

 えりいは慌てて立ち上がり、自分が落ちてきた階段を振り返って――絶句した。


「な、なんで!?」


 そこには、何もなかった。

 ただのっぺりとしたコンクリートの壁があるばかり。自分は確かに今、階段を滑り落ちてこのエリアに入ってしまったはずだったのに。


「う、嘘、やだ、やだ!戻して、元のところに帰してよ、ねえ!!」


 慌ててどんどんと壁を叩いても、どうにもならない。自分は、この恐ろしい場所から自分で出口を探さなければいけないのだ。じわり、と額に汗が浮いた。空間を、塗料と同じ赤い光が照らしている。その光が、どうやらあまり体によくないものらしい。暑いのだ。まるで、空間を質の悪い蛍光灯で照らしているかのよう。いや、それよりも、もっと――。


「厄日、どころじゃない……」


 泣いても喚いても、今自分を救えるのは自分しかないのだ。えりいは泣きたい気持ちを堪えて、壁に背を向けた。

 自分の目の前にあるのは、十字路。前へ進む道、右へ向かう道、左へ向かう道がある。きっと迷路のような構造になっているのだろう。そのどこかから、己は別の出口を見つけなければいけないのだ。


――どっちに行けばいい?……ああもう、どっちに行っても、嫌な予感しかしない。


 こういう時はクラピカの法則だ、とえりいは半ばヤケになりながら右へと曲がった。有名な少年漫画のキャラが言っていたことを信じる他ない。どうせ、どこが正解かなんてわからないのだから。


――なんとか、怪物に遭遇する前に息を整えなくちゃ。


 早足で歩きながら、出口らしきものを探す。確か、大郷はこう言っていたはずだ。




『最終的に、わたくしは階段を見つけて上に登ったところで別のエリアに逃げることができました。その階段は下へ続くものもあったのですが、下へ行ったらどうなったかはわかりません。明かりがついていなくていかにも暗く、嫌な予感がしたので多分登る方で正解だったのだと思いますね』




 上へ続く階段を、見つける。

 他にも出口はあるかもしれないが、それが確実だろう。実際自分は階段を降りた結果ここに入り込んでしまったのだから。


「!」


 鈍く低い地響きが、断続的に鼓膜を揺する。だから気づけなかった。

 暫く歩いて左に曲がった途端、そこにいた存在に。


「ウ、グウウ……」


 そいつは、こちらに背を向けていた。

 軽く2メートル以上ありそうな巨漢。が、人間というより、灰色の猿といった風貌。固そうな毛が、分厚い筋肉に包まれた背中を覆っている。


――ば、ば、バケモノ……!


 追いかけっこになったら、逃げきるのは至難の業。これも大郷から聞いた話だ。直線に並ばれてしまうと逃げ切れない。どうしても逃げるならば、角を曲がりながら振り切るか、どこかの部屋に飛び込むしかないと。

 気づかれないようにしなければ。見つかったら、自分の体力と足で逃げ切れる自信がない。

 えりいは足音を立てないようにそっと後退った。ゆっくりゆっくり、元来た道を戻れば――。


「オオオウウ?」


 しかし。

 今日はとことん、運に見放されていた。

 怪物の姿が見えないところまで後退したと思った次の瞬間、左側から別の怪物が角を曲がってきたのである。

 そいつは少しだけ固まって、えりいの姿を見て瞬きをして、それから。

 黒い顔の中心。血走った赤い目が、歓喜に細められたのがわかった。そして。


「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

「きゃああああああああああああああああああああああ!!」


 怪物が咆哮する。えりいはついに堪えられずに絶叫した。絶叫して、右の通路へと飛び込んだ。

 怪物の足音はすぐそこまで迫っている。どすんどすんどすんどすん、と地面を打ち鳴らすような音。簡単に逃げることなんてできない。直線へ並んでは駄目だと、えりいは右へ左へ通路を曲がりながら逃げ続けた。


――だ、だめ、私の体力じゃ……!


 だが。ただでさえ、老婆から必死で逃げて疲れていたのである。ところどころドアもあったが、いかんせん罠かどうかを確かめる余裕もないし、入って安全なのかもわからない。ドアにとびついて鍵がかかっていたら詰みだ。しかし、もう息はぜえぜえと上がり、心臓が痛いほど鳴っている。頭がぐらぐらして、涙と鼻水が溢れた。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない。

 足が僅かによろめいた途端、何かがえりいの髪をかすめた。怪物の手だ。もう、終わりか――。


「きゃあ!?」


 その時だった。ずずずず、と地面が大きく揺れた。えりいは派手に転倒する。


「ゴウフッ!?」


 怪物もすっころんでいた。ぐらぐら揺れる地面に酔いそうになりながらも壁に手をついて立ち上がり、振り返ってぞっとする。いつの間にか、後ろから追いかけてきていた怪物が一体ではなかったということを。

 三体の怪物が地震のせいで立ち上がれなくなってもがいている。びしびしびしびし、と地面に亀裂が走った。怪物の一体が亀裂に飲みこまれ、闇の中へと滑り落ちていくのが見えた。


――き、気持ち悪い……!酷い揺れ……!


 そういえば、このエリアでは定期的に地震が起きると言っていた。最悪の災いではあるが、今だけは救われたとみて間違いない。えりいはよろめきながらも角を左へ曲がり、適当なドアに飛びついた。


「開いて、お願いっ!」


 縋るような気持ちで、赤黒いドアのノブを握る。がちゃり、と回った。音がするかどうかはわからない。地響きの音と怪物のうめき声で聴覚が働かないからだ。

 もう、こうなったら賭けに出るしかない。いちかばちか、ドアの中に滑りこむ。


「あっ……」


 そこは、簡素な部屋だった。さっきまでの廊下とは違って、壁も床も灰色で、小さな裸電球が室内を照らしている。ベッドがあり、茶色の小さなタンスのようなものが一つあるだけ。自分が入ってきた場所以外に、出口はない。

 ひとまず安全なのだろうか。ドアに鍵をかけ、えりいはへたりこんだ。まだ地震は続いている。びしびしびし、と部屋の壁にも罅割れができた。割れた壁の向こうに漆黒の闇を見て、えりいは絶望的な気持ちになる。


――いつまでも、ここに籠城はできない。


 息を整えながら、えりいはその場に座り込む。


――どうしよう、どうすればいいの?もう一度化け物に追われたら、もう私は……!


 そして。

 その日の夢は、そこで終わったのだ。目覚めた瞬間のえりいに、どこまでも絶望的な心地を残して。


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