えりいがそう告げた途端。
蓮子の顔から、形だけの笑みが――消えた。
「……何言ってんの?」
低く、唸るような一言。覚悟を決めて言葉を紡いだえりいが、一瞬たじろぐほどには。
「うちのやってることが、間違ってるとでも言うつもりか?」
「うん……間違ってる」
「なんで?うちは、彩音はんを生き返らせるために戦ってるんやで?彩音はんだけやない、扉鬼の呪いに飲みこまれた全員を助けるための方法や。一時的手を汚しても、最後にはちゃんと感謝される。そういうことやろ?」
「それは違う」
前に、どこかの漫画で見たことがある。
憧れとは、理解から最も遠い感情なのだ、と。
蓮子は、えりいとは違うのだ。えりいにとって彩音は、優しくて素敵な友達で、クラスメートだった。でも蓮子は、彩音に掛け値なしの尊敬を向けていた。それを通り越して、信仰さえしていた。
そういう人間は、盲目だ。
何故ならば、本当のところ望んでいるのは本当のその人ではなく、“自分にとって理想的なその人”となってしまうから。
「扉鬼の本質、銀座さんも気づき始めてるんじゃないの。夢の中に取り込んだ人間は罠に嵌められて殺されたり、怪物に追われて殺されたりする。夢の中で死んだ人間は、現実でも死ぬ。それだけじゃなく、死んだ時の苦痛を感じながら夢の中でずっと死体みたいな状態で彷徨うこともある」
もしかしたら、完全に死体になれる人もいるのかもしれない。
でも少なくともえりいは、魂が完全に砕けなかったせいで、ゾンビみたいになってしまった人を知っている。実際に、この目で見ている。
「そんな地獄を強要するような怪異が、願いをなんでも叶えてくれるなんてサービスしてくれると思う?私は、そうは思わない。出口はあるのかもしれないけど、願いを叶えて貰えるなんて希望持たない方がいい……!」
「星羅はんは、願いは無制限に叶うって言ったで」
「その人の言葉をなんで盲目的に信じるの?……ううん、信じたことにしたいんだよね。だって、その人が言ってることが本当だと思えば……それが、銀座さんにとって都合の良い真実だから!冷静になってよ、世の中そんな思い通りのことばっかり起きないんだよ!?」
現実は、現実だ。架空の物語では許される多くのことが、当然のように許されないのだから。
うっかりトラックに轢かれたら異世界転生することもない。
自分だけを溺愛してくれるイケメンが都合よくクラスに転校してくることもない。
いじめられた時に、自分でちっとも抗わないヒロインにクラス全員が味方してくれることもない。
努力も何もしないで口を開けて待っているだけの人間に、奇跡という名の天使は舞い降りない。
そして、願うだけで、祈るだけで――簡単に変わってくれるほど、世界は優しくなんかない。
どれほど辛くても、逃げたくなっても、素敵な物語と比較して空しくなっても。結局自分達は、この現実を生きていくしかないのだ。
己の努力によって、道を切り開きながら。
「紺野さんは」
泣きたい気持ちでいっぱいになる。でも今、自分は涙を流すべきではない。そんな暇などないと、えりいは知っていた。
「紺野さんは、優しい人、だったよ。家族のために、お兄さんの為に、命がけで扉鬼に挑もうとしてた。化け物に追われてピンチだったのに、次に眠れば死ぬかもしれないとわかってたのに、除霊は後にしてくれって言ってた。自分より、家族のために頑張れる、そんな人だった。私のことだって、ものすごく仲良しでもなかったのに、誰より真っ先に飛んできて優しい言葉をかけてくれた」
「せや……そうや。そんな人やから、生き返るべきやろ。そう願うことの何がいけないん!?」
「願ってもいいの、祈ってもいいの!でも……それを、別の誰かを犠牲にすることで成そうとしちゃいけない。そんな優しい人が、そんなやり方で生き返れて喜ぶと思うの!?」
「喜ぶわ!彩音はんは死にたなかったはずや、あんな苦しい最期絶対嫌やったはずや!本人だって救われたいに決まっとる!」
「自分だけが救われて幸せになれるなら、紺野さんはもっと別の願いを叶えてもらおうとしたはず、そうは思わないの!?」
そうだ。
彩音だけが幸せになりたいなら、兄を生き返らせる必要はない。
尊敬する兄だったと言っていたが、きっとどこかで苦しい気持ちはあったはずだ。優秀すぎる兄がいなければ比べられて苦しむことなんかないと、思った瞬間だってあったはずなのだ。
本当に望んだのはきっと、家族が、自分をちゃんと愛してくれることで。なら、みんなが兄と自分を比較しないようになりますようにとか、自分だけを愛してくれますようにとか、そういう願いでも良かったはずなのに。
「目を覚ましてよ。本当は、どこかで気づいてるんじゃないの?」
人は、誰もが自分にとって都合の良い真実だけを求める。
都合の悪い真実を直視するのは、あまりにも恐ろしいから。あまりにも、あまりにも、あまりにも――心を切り刻むから。
けれど、それでもだ。立ち向かわなければいけない時がいつか、誰もに訪れるのではなかろうか。
それがまさに、今ということではないのか。
「私だって、紺野さんに生き返ってほしい。祈ることで叶うならそうする。けど……扉鬼が願いを叶えてくれる保証はなくて、殺した人達が生き返る保証もどこにもない。夢の中で殺した人は、そのまま死んで、きっとそれっきり。たくさん人が死んで、紺野さんも戻ってこないなんてことになる。紺野さんも喜ばない、銀座さんももっともっと傷つくだけ。だからもう、これ以上酷いことはしないで……!」
えりいがそこまで言った時だ。
どん!と大きな音がした。蓮子が派手に、足を踏み鳴らした音だった。
「……なんやの、あんた」
どん、どん、どん!怒りを発散するように、上履きの足を床に叩きつける蓮子。
「さっきから聞いてれば……星羅はんのことも、彩音はんのことも、うちのことも好き勝手否定するようなことばっかり。つまりあれか?あんたは、うちが無意味な人殺ししとるだけや、正義の味方でもなんでもない悪の大魔王になっとるんやって、そう言いたいわけか?」
「そ、そこまで言ってるわけじゃ」
「ええ加減にせえよ!大体、あんたに彩音はんの何がわかるん!?ちょっと彩音はんに優しくしてもらって、仲間に入れてもらっただけで調子に乗ってんじゃねえよ!!」
「きゃあっ!」
次の瞬間。思い切り胸倉を掴まれていた。
「ちょ、あんた!やめろよ馬鹿!」
舞が慌てて蓮子の腕を掴む。しかし、蓮子の右腕はぎゅうぎゅうと制服のシャツを握りしめ続けている。
「もうこの際だからはっきり言ったるわ。うち、あんたにムカついてん。大っ嫌いやねん!」
血走った眼で、ぎろりとえりいを睨みつけてくる少女。
「彩音はんは優しいから、困ってる人や悩んでる人が見捨てられないのはわかっとった。うちは彩音はんの優しさを否定したなかったから、あんたを誘った時も何も言わんかったよ。でも、ほんまは“なんで?”って思ってたんや。なんで秘密の儀式に、ポッと出の、なんの取り柄もない女誘うんやって。うちが、うちがいるのに他にも友達が欲しいのかって、しかもそれがあんたみたいにウジウジしてて可愛くもなくて親切でもなんでもない女なのは納得いかんって!」
「ぎ、ぎ、銀座、さ……ん」
「なんでや……なんでやなんでやなんでやなんでやなんでやあああああ!あああ、うちのがうちのがずっとあの人のことわかっとる。あの人はうちに助けて欲しい思ってる、そしてうちらには助けられる力があるんや!あんたみたいになあ、人に助けて貰うことばっかり期待して、あんなクソみたいな願いも自分で叶える努力もしない人間とは全然違う、女神様みたいな人やったんや!そんな奴に、彩音はんの、彩音はんの何がわかるん!?ほんまに苦しんでたうちに、手を差し伸べてくれた星羅はんの何がわかるん!?なあ答えてみいや、答えてみい、なあ、なあ、なあ、なあああああ!!」
早口で、唾を飛ばしながら蓮子は怒鳴る、怒鳴る、怒鳴る。
彼女が小柄なので、つり上げられるようなことにはならなかった。それでも少し首が閉まって正直苦しい。
「ちょっと、いい加減にしろよ、暴力振るうな!」
「……い、いいです、部長」
それでも、えりいは止めようとする舞を制止した。これは、自分の問題だ。自分が向き合わなければいけないことなのだと知っていたから。
――彼女は。……銀座さんは、きっと……とても弱い人だったんだ。かつての私、みたいに。
彼女はきっと、いつも縋れる人を求めてしまうタイプだったのだ。
かつては彩音で、今は星羅で。
その気持ちは痛いほどわかる。えりいも、ずっとそうだったから。
「……そうだよ、ね。紺野さんは、私なんかとは全然違う。優しくて、美人で、賢くて。きっと……私が知らないことも、銀座さんはたくさん知ってるんだと思う。でもね」
理解したのだ。たった今、銀座蓮子の本質を。
「銀座さんのことなら、今、少しわかった気がする。銀座さんは、私と似てるとこ、あるよ」
「何がや!?」
「似てるよ。私、ずっと幼馴染の男の子におんぶにだっこだったから。憧れてた。大好きだった。だって私が何もしなくても、その子はいつも私のことを守ってくれたから。寄りかかって、縋って……そんなの、対等の関係でもなんでもなかったのにね」
誰かに頼って、行動の指針を全て投げっぱなしにするのは本当に楽なことなのだ。
自分で決断しなくていいから、失敗した時のダメージもない。誰かが悪いということにしてしまえる。いつも安全圏で、楽な方に流されていればいいだけ。
「けどさ、それじゃ駄目だって気づいたんだ。銀座さんが言うとおり。本来私の願いなんか、扉鬼に頼らなくても叶えられた。叶えるべきだった。その努力を行った代償が、今の状況なんだって思う」
きっと、罰を受けた。
今はそう思っている。
「誰かに頼ってるんじゃ駄目なんだよ。責任は自分以外の誰にも取れない。本当に大事な決断は、自分の心で決めるしかないんだよ。紺野さんが望んだはずだとか、星羅さんが言ったからとかじゃなくて、自分のためだって言わなきゃ銀座さんは変われないよ!変わらなきゃ駄目なんだよ、今しかないんだよ!!」
「ふざけんな、綺麗事ばっか言うなや!」
ついに、蓮子が拳を振り上げた。
「間違ってるわけない!間違ってたなら、うちは、もうっ……!」
ああ、これは殴られるか。そう思った瞬間、さすがに黙っていられなくなったのか舞が間に入った。
そういえば、舞は中学までは運動部だったと聞いたことがある。そして、体格差は明らかだ。振り上げた拳を、シャツを掴んだ腕を掴まれ、強引にえりいから引き剥がされる蓮子。その拍子に彼女はバランスを崩し、その場に尻餅をついてしまった。
どたん!と大きな音が響く。流石におかしいと思ったのか、美術室に続くドアが叩かれた。あちらで活動していた部員たちだろう。
「ちょっと部長?金沢さん?大きな音がしたけど大丈夫ですか?」
このまま騒げば、人が来てしまう。蓮子も少しばかり頭が冷えたのだろう。蓮子は頭を振りながら、ゆっくりと立ち上がった。――言葉に尽くせない、酷い顔をしている。
「うちは、縋ってなんか、ない」
掠れた声で、彼女は呟く。
「間違ってへん、うちは、うちは……」
「銀座さん……」
ふらつきながら出口へ消えていく蓮子。自分は、選択を誤っただろうか――何も言えずに彼女の背を見送るえりいの肩を、舞はぽん、と叩いた。
「間違ってねえよ、あんたは。……強くなったじゃん」
「……ありがとうございます、部長」
本当はどうするべきだったのか、それは結局のところわからなかった。
確かなことは一つだ。
この日を境に、銀座蓮子が学校に来なくなったということである。