――私、何やってるんだろう。
真っ白なカンバスの前、えりいは鉛筆を握ることもなくただ座り続けていた。
油絵を描く前に、うっすらと鉛筆で下絵を描くことになる。アタリをつけるという言い方もできるだろう。絵具でべたべた塗っていくイメージが強いかもしれないが、油絵もまた下書きの上で描いていくものなのだ。中にはそういう工程を一切踏めずに描ける人もいるかもしれないが、少なくともえりいにとって下書きは必須だった。
なのに、今日は下書きもできない。
久しぶりに筆を握ろうと、リハビリもかねて簡単なモチーフを選んだ。テーブルに乗っているワインの瓶と林檎。初心者が最初に描くものと言っても過言ではない。
これなら描けるかもしれない、何がなんでも気持ちを切り替えなければいけない。わかっているのに、さっきから手がちっとも動いてくれなかった。
わかっているのに。――嫌なことだばかり考えて、無力感に打ちひしがれたところで、それでは何も変えられないということくらいは。
――本当に、何、やってるんだろう。
大郷、織葉、翔真。三人と話し合い、青い部屋を見つけようと相談したのは一週間前のことだった。
これだけ協力者がいればなんとかなるはず。招待者を殺して回ろうという、危ない計画を阻止することもできるかもしれない。あの時は確かに、光明が見えたと思ったのだ。きっとなんとかなる、自分は一人だけで戦っているわけではないのだと。
なのに。
『次のニュースです。……昨日、●●川で流されているところを発見された男の子ですが、身元が判明しました。一昨日から行方不明届けが出されていた、白根翔真くん十歳です。川を子供が流されていると近所の人から通報があり、警察官に救出された翔真くんですが、残念ながら病院で死亡が確認されました。死因は溺死と見られ、警察は事件と事故の両方で捜査していく方針のようです……』
数日前、翔真が遺体で発見された。
彼が行方不明になったのは、茜屋神社から家に帰る途中のことだったという。そのタイミングで死亡したというのならば、眠ってしまって夢の中で殺された可能性は低い。
誰かが、現実の世界で彼を殺害した、もしくは事故に遭った。自殺するようにはとても見えなかったから、警察の方針は正しいだろう。――当然、自分達は事故の可能性もほぼないとみてはいたが。
溺死の判断は難しい、と以前聞いたことがある。
首を絞めたとか頭を殴られた後があれば他殺を断定することもできようが、そうでなければ意図的に突き落とされたのか自分で滑り落ちたのかはっきりしないからだ。ましてや、川のどこから流されたのかもわからないいならお手上げである。犯人がそれもわかっていて彼を川に落として殺害したのなら、あまりにも用意周到で頭がいいと言うほかない。
織葉も大郷も、同じ意見だった。恐らく、翔真が裏切ろうとしていることが星羅たちにバレて消されたのだろう、と。そしてこれは、同じく結託している翔真の仲間たち(それがどこまで自分達だとバレているかはわからないが)への見せしめなのだろう、と。
――翔真くん……!
『一緒に、頑張ります。俺にもできること、きっとあるから』
真っすぐでキラキラした翔真の、意志の強い瞳を思い出す。
あの時はまさか、こんなことになるなんて思ってもみなかった。危険なミッションだというのはわかっていたけれど、危険があるのなら夢の中のことであると。まさか、現実でリスクを冒してまで翔真を殺しにくるなんてどうして想像できただろう。
自分が、自分達が彼を止めていればよかったのか。
いや、そもそも何故翔真が裏切るつもりだとバレたのか。あそこいたメンバーが情報を漏らしたとは思えない。とすると、胡桃沢星羅の占いの能力だとでもいうのか?彼女が占い師カルナなら、そういうことも可能なのかもしれない。でも、いや、しかし。
――助けられなかった。苦しかっただろうに。痛かっただろうに。死にたくなかっただろうに。
それだけじゃない。
翔真の名前だけじゃなく、えりいの名前も知られている可能性がある。そして、本当に次はえりいの番かもしれないのだ。
――銀座さん……。
クラスで、蓮子は変わらず過ごしているように見えた。彩音が死んだわりに明るすぎると、一部の人達からは不気味がられているようだが。
その彼女が、夢の中で何をしているか。
つい昨日、その真実をえりいは知ってしまった。青いエリアを探してうろついていた、白い大理石エリアにて。招待者の一人の女性が、えりいに教えてくれたのである。
『あなたも気を付けた方がいいわ。……最近、招待者を殺して回っている招待者がいるのよ。妙な死体を見かけることが増えたって、そう思わない?』
『え、え……殺して回ってるって』
『わたし見たのよ。多分、あなたと同じ制服の女の子が、剣みたいなのを使って人を殺しているところ!わたしはすぐに逃げたけど、それでもしばらく追いかけられたわ……!ネットでも少しずつ噂になってるの。あなたの友達か知らない子かは知らないけど、あなたも逃げた方がいいわ』
彼女は教えてくれた。ボブカットのえりいより、髪が短い女の子で、えりいより髪の色が明るい赤茶色で――それからえりいよりだいぶ小柄であったこと。
夢の中で蓮子と出会ったことはない。だが、同じ学校の出身者で、扉鬼の世界に迷い込んでいる人数はまだそう多いものではないはずだ。
しかも蓮子は身長155cmで、162cmあるえりいよりかなり小柄。ショートカットの赤茶髪ときている。現状、彼女である可能性はかなり高い。
その上で、えりいは彼女から直接聞いてしまっているのだ。
『どうしても相談したいことがあんねん。でも、現実では話しづらくて。……ある人がな、みんなでクリアするために協力しようって言ってて』
彼女は彩音を生き返らせるために、完全に星羅の計画に乗ってしまった。そして本当に彼女に言われるがまま、夢の世界で人を殺戮し始めている。
もしそうなら、自分は――一体、どうすればいいのだろう。
翔真を助けられず、蓮子を止めることもできず、一週間彷徨ってもまだ青いエリアを見つけることができていない。
少しでも気持ちを切り替えたくて美術部に出てカンバスの前に座ったけれど、鬱々としたものを呑み込めずに結局手が動かなくなってしまっている。本当に駄目な人間だ。このまま誰のことも救えず、守れず、自分の命さえも奪われるだけで終わるというのか。
「……金沢さん、大丈夫?」
「!」
唐突に肩を叩かれ、えりいは慌てて振り返った。そこにいたのは、美術部部長であり、大郷の娘である茜屋舞である。彼女はえりいの、下絵さえ一切描かれていないカンバスを見て苦笑いを浮かべた。
「マジで描けないっぽいね。見事に真っ白じゃん」
「……すみません」
「謝らなくていいって。父さんがさ、あんたが落ち込んでるだろうから励ましてあげてーってあたしに言ってきたんだよ。……いろいろあったんだろ?」
「……はい」
他の部員たちは、自分の世界に熱中している様子だ。そもそも美術部は部員が少ないし、幽霊部員も数名いるような部活である。今日出てきているのはえりいの他は舞と、二人の部員だけだった。
彼女たちならば、多少話をしても気が散ることはないだろう。やや小声で、えりいは話し始める。
「茜屋部長は……どこまで知ってるんです?私達とお父さんが巻き込まれてること」
「……いちお、一通りは聞いたよ」
舞には全部伏せているのかもしれない、と思っていたが。どうやら多少事情は理解してくれていたらしい。長いポニーテールを揺らして、彼女は天井を仰いだ。
「あんまり詳しいこと、父さんは話したくないみたいだったけどね。深刻で鬱々とした顔してるくせにだんまり決めこむくらいだから、ついにあたしもキレちまってさ。いい加減白状しろーって詰め寄ったら、ゲロった」
「あはは……さすが部長、つよぉい」
「父さんってば、昔からあたしに弱いから!まあ母さんにも弱いんだけどな、尻に敷かれっぱなしつーの?だから根気強く訊けば折れるだろうと踏んでいた。案の定だったわけだな!」
「はは……」
あの大郷が、舞に土下座している姿を思い浮かべてしまい、つい笑ってしまうえりい。それを見て、良かった、と舞は息を吐いた。
「まったく笑えない、ってほどじゃなさそうだ。……いいんだよ、笑ったりしても。辛いことあって、知ってる人も死んじゃってさ。笑ったら不謹慎なんじゃないかとか、楽しんだら駄目なんじゃないかとか、そういう気持ちがあるのかもしれない。つか、そういうのがあるせいで、絵を描こうとしてもできないんじゃねえの?なんつーか、変なブレーキかかっちまってる、っていうかさ」
そうかもしれない。えりいはもう一度、真っ白なカンバスに目を落とした。
描きたい気持ちがないわけではない。白いカンバスを見ると、いつだってわくわくするものだから。しかし、心湧きたつ気持ちが蘇るたび、蓮子や翔真のことを思い出してしまう自分がいるのである。
明るくなるのは無理だとしても、暗くなってばかりでは何も解決しない。
それでもどこか、鬱々とした感情が足を引っ張る。気持ちを切り替えるためとはいえ、絵など描いている場合なのか、と。
「……私、酷いんですよ」
えりいはぽつりと呟いた。
「翔真くんが死んだって聞いて、その日の夜は泣いたんです。でも一晩、夢の中に入ったらもう涙がひっこんじゃった。それで、死んだことを悲しむより、“自分が死ぬのが怖い”ってことばっかり思うようになっちゃった。あんなに、あんなに一生懸命でいい子だったのに」
「それが普通。死にたくないと思って何がいけないの」
「銀座さんのこともそう。人殺しなんか絶対駄目、止めなきゃって思うのに……今なら現実世界で説得してもいいはずなのにできない。銀座さんを止めることより、殺されないことを優先しちゃってる。友達なのに……こんなこと、紺野さんだってきっと望んでないのに……!」
「そうだね。じゃあ、その紺野さんが一番望んでることを考えようか」
舞の声は、どこまでも優しかった。彼女はえりいの背中を撫でながら告げる。
「あたしはその子じゃないけど……金沢さんのこと心配してくれるくらい、優しい子だったんだろ?だったら、きっと今だって心配してる。そして願ってる。自分みたいに、二人に死んでほしくないって。一番大事なのは、あんた達が死なないことだよ。殺し合うなんて、そんなの彼女のためにも絶対やっちゃいけないことだ。だから……あんたは正しいよ」
なんで、そんなことばかり言ってくれるのだろう。
じわり、と視界が滲んでいく。えりいは掠れた声で、はい、と頷くしかなかった。
暫く、この苦しみを乗り越えることはできないだろう。でも、自分なりにできることをしてきたと、そう信じてもいいのだろうか。彩音は、そんな自分を認めてくれるだろうか。
「あのおー」
その時だった。がらがらがら、と美術室のスライドドアが開く音とともに、少女の声が聞こえてきたのである。
「ちょーっと、金沢えりいはんに用があるんやけど、ええですかあ?」
えりいは振り向き、凍り付いた。
仮面のような笑顔を貼り付けた蓮子が、入口に立っていたのだから。