「あ、あれ?なんか、全然違う……」
さっきまで自分がいたのは、灰色のコンクリートの打ちっぱなしの廊下だった。いくつものドアが並んでいたので、試しに適当な部屋のドアを開けて潜ってみたのである。
その途端、景色がまるで違うものに変わってしまった。まるで、古びた洋館の中であるかのよう。赤い絨毯が敷かれた通路、青く月明かりが射し込む窓。そして、年季が入っていそうな甲冑のアンティークに、どこかの高原を描いたと思しき絵画が飾られている。
「本当にバックルームみたいじゃん、これ。うわ、ドキドキする……」
ついついぼやきながら、そのエリアに足を踏み込むことに決めた。正直、さきほどのコンクリートの空間に長居したくなかったのである。ついさっき、何かから必死で逃げているおじさんの姿を見かけたばかり。何かに追われているのだとすれば、自分もあの場所にいると危険ということだろう。
少し湿ったカーペットを踏みつつ、ドアを閉める。バタン、という音がやけに大きく響いた。
――落ち着け、僕。僕の使命は、この扉鬼の世界の謎を解き明かし……みんなを助けることにあるんだから。
二十七歳。月刊オカルトレディース編集者を務める雪弥は今、かの扉鬼の世界と思しき空間にいる。
自分達が集めた情報が正しいのなら、このおまじないは限りなく本物である可能性が高い。実際に死んでいる人もいるかもしれない。それをわかっていてなお、雪弥を含めた数名の記者が“自分が夢に入る”と進んで手を挙げたのには理由があった。
一つは、今回の夢の中に自ら入って取材した者にはでっかいボーナスを与えると約束してくれたこと。場合によっては、次の編集長の座も考えると言われたこと。
もう一つは――正義感。雑誌の記者をやっている人間の中にもいるのだ。マスゴミ、なんて言われるような仕事はやりたくない。本当の意味で正義を追求して、誰かを助けるような記事を書きたいと。世間の役に立ちたいと、そう思っている正義感に燃える人間が。
他のメンバーが実際どうかはわからないが、少なくとも雪弥は後者の理由で自ら手を挙げた。やっと、自分の信念に背かない仕事ができるかもしれないと、そう思ったがゆえに。
『正義のメディア、なんてな。昔はそう呼ばれてたんだぜ。真実を追求し、白日の下に晒し、悪人を裁くかっこいい仕事つってな。無論、悪どい奴は昭和の頃からいなかったわけじゃないが、それでも世間的にはほんの一部だと思われてたわけだ』
引退を間近に控えた五十九歳の編集長。彼は、雪弥が入社した直後にそう言ったのだった。
『まあ、今はどうかっつーと……お察しだな。みんなにバレちまってる。メディアは自分達に都合の良い真実だけ追求して垂れ流すこともあるってな。マスゴミだマスゴミだって叩く連中もやってることは結構大概なもんなんだけどよ』
『言いたいことはわかります。……でも、やっぱりメディアは……弱い市民の味方であるべきだと、僕は思うんですけど』
『瑠璃垣クンは立派だと思うぜ。俺だって最初は一応、そーゆー理想に燃えてたんだからよ。だから、無理な取材はしない、人を傷つけるような事実の曲解はしない、冤罪が起きたらきちんとそれも報道するってな。……俺が最初にいたのはニュース関連の雑誌だったわけだが……ま、クビになるのは早かったよ。お前の生ぬるい正義なんか、世間様は求めてねえんだってな。そんなんで雑誌が売れるわけねえってよ』
『そんな……』
でも、おえら方だって間違ってないんだぜ、と編集長は苦笑いする。
『刺激的で、露骨で、都合が良い真実。なんでメディアがそういうのを書くのか?結局、それを求めてる大衆がいるってことだ。今は雑誌よりネット記事の時代だがな、ネットでもやけに誇張したタイトルや表現がされることはままあるだろ?理由は簡単だ、その方が閲覧稼げるからだ。主戦場が移っても、結局やってることは変わらねえ』
だから諦めろ。
彼はそう言って、煙草くさい息を吐いた。――自分の目の前で吸わないだけ、彼はまだ常識人だと知っている。
『くだんねえ正義や理想をこの業界で追いかけてたら、結局てめえが潰れちまうだけだぜ。世間はいつも、好きなようにぶったたけるサンドバッグを求めてる。だからラノベでもざまあ系なんてものが流行る。……人間の本質は悪だ。求められてんのは綺麗なお涙頂戴の話より、誰かを踏みつけにしてざまあみろと嘲笑うようなネタなんだよ』
本当に、その通りだった。自分達の編集部でも、真偽定かではない不倫だの略奪愛だの裏切り行為だの。そういうものばっかりを求めて記事にしてきたのだから。
メディアを浄化する、みんなの役に立てる雑誌を作る。そんな愚かな雪弥の理想は、あっという間に砕け散ったのである。
だから結局、少しでも“生きた人間”を傷つけなくて済む、オカルト雑誌の編集部へ異動させてもらったのだ。幽霊やら妖怪やら因習やら、そう言う話を書いている方が幾分気が楽であったから。
それでも結局、何かを玩具にしていることには変わりない。話の中には過去に死んだ人が本当にいて、それに苦しんでいるかもしれない遺族を蔑ろにしてしまっているかもしれない。
もう、誰かの役に立つ、なんて青臭い理想は捨てるべきなのか。そう思っていた矢先のことだったのである。扉鬼の特集を組もう、そのために必死で取材をしようという話になったのは。
扉鬼について本当にきっちりとした調査をしたいなら、ただ現実世界で噂を調べたり過去の記録を調査しているだけでは駄目だ。本当はみんなわかっていたことだろう――誰かが夢の中に入って調べる必要がある、ということは。
勿論、会社としてそんな命令を下したら大問題だ。だからあくまで、上からは“要請”という形で降りてきた。雪弥はそれを自ら受けたというわけである。
気づいていたからだ。この呪いが本物以外の何物でもないことは。
扉鬼の話が広まり始めた当初は、願いが叶う面白そうなおまじない、不思議な夢を冒険できるおまじない、という体だった。そういうものを信じたい者達は、一部の“危険だからやめた方がいい”という声を当然のように封殺したのである。
しかしその風潮も、少しずつ変わりつつある。本当に命の危機を感じた、友達がおかしな死に方をした、そんな証言が少しずつ増え始めたのだ。
●SUWRO @SpKhb9E2dfJQ49
ふさzけんあよ!!!!!!
願い叶うおまじないだっつったのにほんとうにわな、わなみたいなのにハマってマジ痛かったんですけど訴える訴える訴える!!!!!
こんなおあmじない考えたやつhんとシネ!!!!!!!!
951:奈落の底より出でるは名無しさん
アンチの言うことだから気にしなくていいとかそう思ってた自分を殴りたい
これ、ほんとやばいやつだ
って俺もこういうこと書くと叩かれそうだけど、本当に本当に止めたいから書いてる
お願い信じて欲しい
あとこういうのどこにいけば助けて貰える?神社とか?塩でも撒いておけば効果あるのかと思ったけど、部屋に盛り塩しても全然駄目で、どうすればいいのかわかんないんだ
●回答受付終了まであと3日
tek*******さん
「最近噂になっている扉鬼というおまじないを試してしまいました。どうしてもお金がほしかったからです。
あくまで夢の中を冒険するだけで、ちょっと大変だけど楽しいおまじないだって聞いてました。
なのに、なんか、おかしいんです。夢の中で階段から落ちたら本当に痛くて、しかも次の夜夢に入ったらまた痛いまんまで。
怪物に追いつかれたら現実でも死ぬんじゃないかと思ってすごく怖いです。
どなたか、夢から急いで抜けられる方法知りませんか。もう願いが叶うとかは諦めるので、方法知ってる人はほんと、可能な限り早くおねがいします。
本当に切羽詰まってます。おねがいします、本気で、おねがいします。たのみます」
雪弥からすれば、焦るのが遅いとしか言いようがないが。
既にこのおまじないの危険性は広まりつつあるし、それでもなお面白半分で試す奴らが多いという現状にある。
オカルト、という性質のせいで信じていない奴らがまだ大多数というだけだ。これが本格的に認知されるようになったら最後、日本中でパニックになるのは避けられないだろう。
●Jack777 @Jack777_5555
I can't wake up from a bad dream.
What exactly is "Tobiraoni"? I don't want to die!
(悪い夢が醒めない。扉鬼ってなんなんだよ?死にたくないよ!)
●RAIN @Y1qKpe8W2Ad
我被骗了! 我的愿望会实现是一个谎言!
(騙された!願いが叶うなんて嘘っぱちじゃねえか!)
否。
既に英語や中国語でも。扉鬼にまつわるとおぼしき書き込みが散見されている。主に日本語圏で広まっているおまじないでも、現在は翻訳ソフトが使える時代だ。普通に日本語がわかる外国人もいるだろう。
そういう者達にまで被害が及ぶのは、時間の問題だったというわけだ。
――本当に、このままいくと世界さえ滅んでしまうかもしれない。
この記事を書けば。
あわよくば、自分達の手で扉鬼を浄化する方法を見つけることができれば。
かつて憧れたようなヒーローになることができる。自分の信念に背かない仕事ができるはずだ。
ならば命を賭ける価値はある。本当は、とても怖いけれど。ものすごく怖い気持ちもあるけれど。
「……うーん、特になんもないか」
目の前の甲冑のアンティークをがちゃがちゃといじりながら、雪弥は息を吐いた。
甲冑が持っている剣のようなものは外れるようだが、こんなものが幽霊に通用するとは思えない。むしろ、呪物ということも考えられるし、下手に触らない方がよさそうだ。
やはり、扉を積極的に探していかなければいけないか。暗闇に続く廊下を睨みつけ、歩きだす。情報によると罠も多いようだから、慎重に調べなければなるまい。開けてもすぐに入るのは避けた方がいいだろう。
部屋ではなく廊下のような光景なら、そこまで恐れる必要もないのだろうか――。
「あの」
歩きだして暫く後だった。後ろから声をかけられたのは。
「ん?誰?」
女の子の声だと思った。だから振り返った。怪物の吠える声ならともかく、少女の声にそこまで警戒する必要はないと思ったのだ。
それが、間違いだった。
「え」
次の瞬間。
雪弥の体を、衝撃が突き抜けたのである。