どうしてこう、厄介なことばかり立て続けに起きるのだろう。翌朝目覚めたところでえりいは大郷から送られてきたメールを見、思わず天を仰いだのだった。
確かに――ああ確かに、蓮子ならば考えかねない。彩音を助けるためには、何でもしようとするだろう。実際に罪として問われないならば、夢の中であるならば、人を殺してでもライバルを減らそうと考えてもおかしくはない。
なんとか、止めることはできないだろうか。
自分達は既に、夢の中の死がただの殺人よりもさらに残酷なものであることを知ってしまっている。現実世界で死ぬだけではなく、夢の中で永遠に苦しむのはほぼ確定なのだ。
そう、昨夜のあの男性の姿が、自分の妄想や思い込みでないのなら。
『おまえもこうなるべきだろうがよおおおおおおおおおおおおおおおお!』
血走った眼。
苦痛と恐怖に歪んだ顔。
血泡で汚れた口元。
こちらに伸ばされた真っ赤に濡れた手。
そして、下半身が脱落し、肉の断片を零しながら迫ってくる男――。
思い出すだけで背筋が泡立つ。普通に考えて、到底動けるような怪我ではない。むしろ、即死していてもおかしくないはずなのに何故生きているのか。
生きているのでは、ない。
あれが、あの扉鬼の世界に永遠に囚われる、ということであったとしたら。
――多分そのうち、あの人もどこかで……死んだってニュースが流れるんだろうな。
森の中とか、海の中とか。そう言う場所に死体が落ちてしまったらすぐに見つからないだろうが、自宅で寝ている人間だったのならばすぐに発見されるはずだ。それこそアパートやマンションならば異臭で気づかれることも少なくないだろう。
事態は、どんどん深刻な方へ向かっている。あの“こわこわメロンちゃんねる”とやらに紹介されてしまったことで、ますます扉鬼の世界に入り込んでしまう人が増えるだろうことは想像に難くない。その上で、怪物や罠だけじゃなく招待者同士の殺し合いなんてことになったら、一体どれだけの人が死ぬかわかったものではない。
少なくとも、蓮子だけでも自分が止めなければ。えりいはそう思って、朝迎えに来た織葉に相談したのだが。
「駄目だ」
エレベーターホールでエレベーターを待っている最中。えりいの話を聞いてすぐ、織葉はぴしゃりと言い放ったのだった。
「大郷さんからのメールは俺のところにも送られてきている。だから状況は理解しているつもりでいる。それでも駄目なんだ。お前、銀座蓮子に直接話して“人殺しに加担するな”って説得しようとしてるだろ?」
「そりゃそうだよ!だって、友達が間違った道を進もうとしてるんだから、止めなきゃ……!」
「落ち着け、お前の気持ちはわかる。言ってることも正しい。でも、今それをするのは絶対駄目なんだ。何でだかわかるか」
「え、え?」
織葉が何故止めるのか、まったく理解できない。自分が今、あまり冷静ではないという自覚はあるが。
「よく考えてみろ。……お前は、その会合に現場にいなかった。そして流れから察するに、銀座蓮子が誘いを受けたのはあの場が初めてだ。……いなかったお前が何故それを知っている?となるのが普通だろうが」
「あ」
言われてみればそうだ。
あくまで、えりいは隠れて聞いていた大郷からそれらの話を聞いたにすぎない。
「実際、俺たちに情報をリークしたのは大郷さんだ。でも、彼が現場に隠れていること、恐らく会合のメンバーは誰も気づいていなかった。少なくとも白根翔真は驚いていた様子だったしな。では問題。……お前が銀座を説得した場合、お前が“何故かそれを知っている”ということがバレるわけだが……そうなると誰が情報を漏らしたんだ?となるだろう?で、状況的に疑われるのは誰だ?」
その言葉で、ようやくえりいは察した。
「……翔真くんだ」
「その通り」
彼は、あの場で唯一“出口を見つけるために他のライバルを殺戮してまわること”に難色を示した。そして、最終的に胡桃沢星羅に“脅迫”というカードを切らせている。最終的に翔真が彼等に協力するにせよしないにせよ、不自然な動きがあれば真っ先に疑われる立場にあるのは間違いないだろう。
翔真が裏切った場合、計画を知っていることを考えても星羅たちからは相当邪魔になるのは明白。つまり、真っ先に標的にされる可能性が高い。
彼はまだ小さな小学生の男の子にすぎない。三人がかりで狙われたらひとたまりもないだろう。
「今日、白根少年も踏まえて話し合うかもしれないんだろ。そこで方針は決めるにせよ……少なくとも今日の時点で、銀座蓮子を説得するのは悪手でしかない。白根翔真の身に危険が及ぶ。ほぼ確実にだ」
「そっか……。そう、だよね。ごめん、私、考えが足らなかった」
「いい。先に俺に話してくれただけ全然マシだ。それに、クラスメートが道を踏み外そうとしているのがわかっていて、なんとかしたいと思うのは普通のことだしな」
「うん……」
エレベーターが来た。乗り込みながら、えりいは織葉に語る。
「LINEでも、ざっと話したけど」
思い出したくない。それでも、言わなければいけない。
「私、怪物……見ちゃった。隠れてるところに来たから、バレないですんだけど。紺野さんに聞いてたよりずっと大きくて、狂暴そうで……ひ、人を、生きたまま真っ二つにしててさ。しかも、死んだその人が、ゾンビみたいに動いてて……私のことを殺そうとしてきたの」
殺す、ところまで本当に考えていたかはわからない。パニックになって襲撃してきただけなのかもしれない。
でも少なくともえりいは恐怖を感じたし、あのまま自分が逃げきれていなかったらどうなったかわからないのも事実だ。
「あれが、扉鬼の世界で死んだ人の……末路。はっきり見て、知った。……怖かった」
「そうか」
エレベーターの中。本当に短い、数十秒程度の二人きりの時間。織葉はそっと手を握ってくれた。
「よく頑張ったな。ありがとう、生きていてくれて」
なんともありきたりな言葉だ。生きていてくれて、ありがとう。大袈裟で、普通で、無駄に道徳的で、教科書でもありそうな言葉で。なのに。
どうして、織葉に言われるとそれだけで泣きたくなるのだろう。
自分の人生全部を、認めてもらえたような気になるのだろう。
――生きなきゃ。
その手を握り返す、えりい。自分達は恋人でもなんでもない。だから、人前で手を繋いで歩くことなんてできない。幼稚園児だったならともかく、もう自分達は高校生で、人目を気にしなければいけないのだから。でも。
――生きたい。
織葉と一緒なら、そう思えるのだ。
ああ、昔少女漫画か何かで、キャラクターが言っていたように思う。
『恋って、実ればそれが一番だけど。実は、片思いでも十分自分を幸せにしてくれるものなのよ?誰かのことを好きだと思うだけで、人生はキラキラと輝くんだから。だからいつか、あなたにもそんな恋をしてほしいのよ』
織葉の双子の姉・夏葉の姿を目撃した時は、彼女なんじゃないかと思って嫉妬してしまった。自分は結局片思いでしかなかったのだと、この恋は散るさだめだと思い込んで絶望もした。それはとても、とても苦しい時間ではあったけれど。
今思えば、そこまで誰かを好きになれたことそのものが幸せであったのかもしれない。
もしも世界が自分一人だけならば、己さえ良いだけの世界であるならば、そんな感情を抱くこともなかったのだから。
――私は、扉鬼を……やっつける。それが、織葉への報恩。そして、織葉を守ることに繋がるはず。
弱くて、優柔不断で、臆病な自分を脱ぎ捨てたい。
彼を守ると宣言できるほど、強い女の子になりたい。
この事件を乗り越えれば、きっと。
「それと」
エレベーターが止まり、扉が開く。一階のホールに人はいなかったが、流れるように織葉の手が離れていった。
少し残念に思うも、仕方ないことだ。なんだかんだ結局自分は織葉にちゃんと告白できていないのだから。
「えりい、さっきLINEで言っていたことだけど。学校のもの、があったら扉鬼の元となった少女を読み解くカギになるかもしれない……だったか」
「あ、う、うん」
名残惜しい気持ちで右手をぐーぱーしながら、えりいは告げた。
「私が出た庭、いかにも荒廃した洋館とかお城の庭ってかんじだったんだけどね。なんでだかその中に、小学校とか中学校とかで使いそうな掃除用具入れのロッカーがあったんだよ。最終的にその中の掃除用具を一つ拝借して、武器にしようかなーってしてたんだけど。あ、あとその中に隠れたから、怪物の襲撃をかわすことができたんだけど」
その中のデッキブラシを使って、自分は襲ってきた半身だけになってしまった男性を攻撃してしまったのだが。――思い出して、気持ちが沈んだ。彼だってきっと生きたかっただろうし、あんな有様になっても苦痛を感じている様子だった。それなのに自分は、ブラシで人を攻撃するような真似をしてしまったのだ。怪物から見捨てただけではなく、あんな、あんな血まみれにしてしまって。
ああ、考えるだけで、己の弱さが嫌になる。
でも今、大事なことはそれではない。気持ちを切り替えなければなるまい。
「ふつう、あんな錆びそうなロッカー、庭に置いたりすると思う?」
「まあ、なさそうではあるな。屋根のある場所でなかったなら」
「なかったなかった。……で、思ったんだよ。ああいうオブジェクトって、なにか特別な意味があるんじゃないかって。扉鬼の、心の断片みたいなんじゃないかって」
あの時自分が探した掃除用具入れの中には、妙なものは何も入っていなかった。
しかし、今後も学校にありそうなオブジェクトを見つけたなら、何かしら扉鬼を読み解くヒントが得られるかもしれない。
「子供のいじめは、基本的に学校で起きるものでしょ。学校は、いじめられた女の子にとっても辛い場所で、嫌な意味で忘れられない場所だったんじゃないかなって思うんだ。その学校っぽいものが見つかるなら……そこに何か秘密があるんじゃないかって気がするんだけど」
この考えには、結構自信を持っていた。理由は簡単だ。
『昨夜、胡桃沢星羅と名乗る女性らが調査したノート……を見させてもらいました。現実に持ち出すことや書き写すことはできませんでしたが、ある程度内容を覚えているのでその範囲で画像を転送させていただこうと思います。次に会った時に、詳細はまた説明しますけどね』
扉鬼の空間には、いくつかエリアが分けられている。
そして大郷が送ってくれた“簡単な地図と説明”の画像の中に、確かにあったのだ。
まるで小学校の木造校舎を再現したようなエリアがあの世界にはある――と。