そんなはずがない。
こんなこと現実であるはずがない。
そう思っていると人は、思考が追い付かなくなるものだ。冷や汗をかきながら、ただひたすら固まってしまう。
脳が、理解を拒絶している。それはまさに、自己防衛本能と呼ぶべきものだろう。
「おまえ、なあ、おまえ」
ごぼり、と無精ひげが生えた男性の顎が、泡まじりの血で汚れた。
「あのバケモノ、どっか、いったんだ。おれ、おれは、どうなった?は、はらが、こしが、いたいんだ。ものすごくいたくて、たまらねえんだ。おれ、おれは、おれは、どう、どうなって」
「な、なん、で」
生きているはずがない。
いや、現実においても下半身を失った人間がしばらく生きていたなんて事例はあるだろうが。だとしても、あり得るとは思えない。だって地面に、彼の重要そうな臓器がいくつも落ちてしまっている。腸が半分くらいなくなっても人間は少しの間は生きられるらしいが、肝臓がまるっとなくなったらすぐに死ぬのではなかったか。
なんで、彼はまだ喋っているのだ。呂律がやや回っていないとはいえ、明らかに伝わる言葉で、まだ。
「いたい、いた、いたい……あいつ、あいついなくな、いなくなったのに、まだいてええんだ」
血走った目から、血が混じった涙をだらだら垂らし、男は腕の力だけでゆっくりと登ってくる。
こちらに、近づいてくる。
「いなくな、いたい、なあ、おれはどうなってんだ。なんで、なんで、おれ、こんなにいてえのに……おまえは、いたくない?」
「や、やだ」
「いた、いたい、くるしいのに。なんでおれだけ」
「や、やめて、こないで」
「なんで、ふこうへい、だ、ああああ、いたい、いたい、なんでだよ、おれだけおかしい、いたい、くるしい、バケモノ、なんで、なんでおまえ、おまえは」
「やめてよ、やだ、やだ……」
「おかしいだろなんでおれだけこんなにいたいんだおまえはなんでぜんぶつながって」
その目に、殺意が。
「おまえもこうなるべきだろうがよおおおおおおおおおおおおおおおお!」
血まみれのてがこちらに伸ばされた瞬間、やっとえりいの脳内でアラートが鳴った。
殺される。
この人は、えりいを自分と同じ姿にしようとしている。殺そうとしている!
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
絶叫し、慌てて鉄扉を登ろうとした。脇に挟んでいたデッキブラシを落としそうになり、そこでやっとその存在を思い出す。
なりふり構ってなどいられなかった。男が身軽になった体で、腕の力だけでこちらに這い寄ってくる。
「ごめんなさっ……おねい、来ないで、許してっ!」
右手で握ったデッキブラシを、思い切り彼の顔面に叩きつけた。ふぐ、と呻くような声がする。デッキブラシのブラシ部分は、タワシのような堅いブラシになっている。あれで殴られたら痛そうだ、と思ったことを思い出した。使うならきっと、怪物に対してのみ使うのだろうとそう思っていたのに。
「いでえ、いだ、いでえよお……」
「いやああ、いや、いやああああああ!」
バシバシバシバシ!
ドスドスドスドス!
あっちこっちに跳ね、定まらない狙い。それでも何度かブラシが彼の顔にぶつかり、腕を跳ね上げ、接近を阻んだ。えりいは泣きたくなる。攻撃を加えるたび、男性の顔に細かな傷がつき、眼球にさえ刺さって血まみれになっていくのがわかるからだ。
「いてええ、いてえよお、なんで、こんな、ひどいことすんだ」
やがて、彼から泣き声が上がった。
「おれが、なにしたっていうんだ。なんでだよ、おもしれえおまじないだからって、さけのんで、ちょっとおもしろはんぶんでためして、それで、それだけだってのに、おれがわるいのかよ。めいわくかけた、わけでもねえだろ、なんで、おれ、くるしい、いたい、どうしてころされなきゃいけねえのか、なんでいたい、いやだ、あいつらはどこににいったんだ、なんでおれ、おれはひとりなんだ、あああああああああおれ、おれおれお、おれ、おれれれれれれええええええ!」
多分。
彼も何か悪意があって、扉鬼のおまじないを試したわけではなかった。発言から察するに、会社の同僚とかそのあたりと飲んでいて、酔っぱらった勢いでネットでも見たということだろう。そして、面白そうだからとふざけておまじないを試した、それだけだったのだろう。
酔っぱらっているからって犯罪を起こしていい理由にはならない。
でも少し、彼らは悪ふざけをしただけ。誰かに迷惑をかけるようなことではなかったはずだ。犯罪をしたわけでもないはずだ。
それなのに、この空間に囚われたせいで――誰かがそれを望んだせいで、みんなが恐怖し、苦しみ、命を落としていくのである。
――ねえ、扉鬼。あるいは……それを作った、誰か。
泣きながら、えりいは攻撃を繰り返した。鉄扉に捕まっている男の腕にブラシがヒットする。ずるり、と血で濡れ、あちこち指が折れた手が滑り落ちていく。
男の体が庭へ落下していく様を、ただ茫然と見ていることしかできなかった。唇を噛みしめ、謝罪を口にし、その姿を見送るえりい。
――生きなきゃ。私、私は人殺しになったのかもしれない。なら、尚更、生きなきゃ……織葉のためにも。
「あ、あああああああああああああああああああああああああああっ!」
夜空に獣のように吠え、鉄扉を乗り越えた。その途端力を失い、血まみれのデッキブラシが地面へと滑り落ちていく。同時に、えりい自身の体もまた。
――助けて、なんて言っちゃいけない。私は。
門の向こうは、ひたすら虚空。えりいは自身の意識が遠ざかっていくのを感じ取ったのである。
***
――あの子、どうするんでしょうね。
クローゼットの中、外の様子を見て茜屋大郷は思う。
胡桃沢星羅と橙山大貴。それから銀座蓮子。三人の足音などはとうに聞こえない。多分かなり離れたのだろう。部屋の中に取り残されているのは、誘いを受けたまま明確な返事ができなかった少年、白根翔真のみである。
彼はテーブルの前、俯いてずっと下を見ている。無理もない。人を殺してはいけない、なんて当たり前のこと。きっと真っ当な学校教育を受けてきた、育ちの良い少年なのだろう。それがこの場所でいきなり“仲間だけが生き残るために仲間以外を殺す、それに間接的に協力しろ、でないとお前も殺すぞ”と言われたわけである。
本人が直接殺人を要求されたわけではない。それで心理的ハードルはかなり下がっているとはいえ、犯罪を見逃すことと同罪だと思ってしまえば当然罪の意識に苛まれることだろう。
明日には結論を出せと言われている。
ならば彼は、明日の夜までに答えを出さなければいけない。
提案を受けて仲間になるか、もしくは断って彼等から逃げるのかを。
「……はあ」
そして、自分はどうするべきか。
考えた末、大郷はため息を一つついてクローゼットを内側から開けた。きいいい、と静かな空間に響く、木が軋む音。
「え、えええええ!?だ、誰!?」
当然、椅子に座って考え込んでいた翔真も気づく。ぎょっとしてこちらを見る。まさかこんなところに人が隠れてるなんて思ってもみなかったのだろう。
「すみません、ちょっとシィー!……です」
唇に人差し指を当てて、沈黙を希う大郷。
「さっきの人達が戻ってきてしまうかもしれませんから。……えっと、わたくしは茜屋大郷という者です。扉鬼のことを調べるため、自ら招待者となった神社の者でして。何やら不穏な気配がしたので、このクローゼットに隠れておりました。驚かせてしまって申し訳ありませんね」
「い、いや、その、あの……」
「白根翔真くん、って言ってましたね。大丈夫です、君をどうこうするつもりはないです。人を殺して回るというのは恐ろしい計画ですが、君はそれに従いたくはないのでしょう?」
「……まあ……」
神社の者、と言ったのが少し警戒心を解いたのか。彼はばつが悪そうに視線をそらした。
「だって、やばいことだし。一人しか脱出できないかもしれないなんて、考えもしてなかったし。情報過多っていうかもう、何がなにやらで、頭ごっちゃごちゃというか。ただ、人を殺しちゃいけないってのはわかるから……従わなかったら俺も殺されるみてえだけど。とはいえ、脱出した一人がみんなの願いを叶えれば全員救われるっていうのも、本当なら協力した方がいいのかとも思えてきて……」
段々、声はぼそぼそと小さくなっていく。なるほど、十歳くらいに見えるが、かなり聡明な少年であるらしい。
自分が置かれている状況を、やや混乱しながらもきちんと把握できている。だからこそ迷っているとも言えるだろうが。
「これは、一人の大人としての勘なんですがね」
本当はこんな小さな子に、厳しい判断などさせたくはない。
それでも彼は巻き込まれてしまった以上、自分で選ぶしかないのである。この場所では大人も子供関係なく、怪異と人の悪意が牙を剥いてくるのだから。
「あの方たちは、本気です。銀座蓮子さんの方もね。実は、わたくしは個人的に彼女のことを話で聞いてまして。この扉鬼の世界で、とても大切な友達が亡くなってしまったと。取り戻せるかもしれないという提案は実に魅力的でしょう。夢の世界での殺人、というのがより罪悪感を薄めているのも確かでしょうし」
「じゃあ、逆らったら俺も本当に殺されるのか……」
「そして、殺されたら現実の自分も死ぬ。そして、この空間に永遠に囚われて、死んだ時の痛み苦しみを長引かせることになる。現時点でわたくしが得ている情報が正しいなら……何が何でも死なない選択をしなければなりません。だから、彼等に従うというのも悪い事ではないと思いますよ」
ただ、と大郷は少年にはっきりと告げる。
「一番駄目なのは、結論を出さないまま明日の夜を迎えることでしょう。もし彼等の仲間になるのならば、貴方はこの部屋に閉じこもって明日を迎えればいい。しかし、もし逆らうなら……彼等がいない場所へ一刻も早く逃げるべきです。見つからないためにね」
彼の表情に驚きはなかった。どうやら、この世界で死んだら現実でも死ぬのではないか、という想定は既にあったらしい。ひょっとしたら他の招待者と交流して既に情報を得ていたのかもしれない。あるいは星羅たちとの話の流れで察していたのか。
「俺……俺は、ネットで、たまたまおまじないを見て。面白そうだからって試しただけなんだ。こわこわメロンちゃんねるってアカウント、フォローしてて、それで。ほんと迂闊だった」
でも、と彼はゆっくり首を横に振る。
「やばいとか怖いとか、そういうこと言ってる場合じゃないってのはわかってる。だって、ほっといたらこれ、他の友達とかも見ちゃうかもしれないじゃん?それに、人を苦しめるのが趣味みたいな鬼が、本当に願いなんか叶えてくれるのかなって思ってて……」
だから、と彼は続けた。
「あんた、神社の人なら、ちょっとはおばけとかの知識あるんだろ?教えてくれよ。この扉鬼とかいうの、ぶっ飛ばす方法。他の友達が見ちゃう前に、なんとかしたいんだ」