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第43話

 幸い、怪物がこちらに気付いたわけではないようだった。一瞬振り向いたそいつは、しかしすぐ意識を目の前の獲物に集中させる。ツナギを着た中高年の男性の腰に、ぎりぎりと鋭い爪を食いこませて引きずり落とそうとしているのだ。


「いぎぎぎ、ぎ、痛い、痛ぁい……!やめてくれ、おれ、おれは何も悪いことなんかっ……!」


 ここで引きずり落とされたら一巻の終わり、それが彼にもわかっているからだろう。必死で鉄扉にしがみ付き、バケモノを振り切って上へ登ろうとしている。無骨な作業靴を履いた足がばたばたと暴れ、怪物の顔面を、腕を何度も蹴っているのがわかる。悲鳴に混じって聞こえる殴打の音は、彼が必死で生きようとしている証に他ならない。


――あ、あ、あ……あれが、怪物……!紺野さんは、あいつに……!


 目の前で人が殺されようとしている。助けなければ、という気持ちと自分にはどうしようもないという気持ちが鬩ぎ合った。見殺しになどしたくない。しかし実際、ただの女子高校生で、装備が古びたデッキブラシ一つしかない自分に一体何ができるというのか。




『怪物は獲物をしとめると、内臓から食べる傾向にあります。獲物が食事をしているのに出くわしたら、音を立てないように離れてください。そこで気づかれたら、今度は自分が標的にされます。既に獲物を仕留めているので、食事を中断しても襲ってきますから。……残酷なことを言うようですが、既に捕まった人を助けようとしてはいけません。それから、ロックオンされている人は基本必死で逃げていますから、その人物が逃げてきた方へ行ってはいけません』




 大郷の言葉が脳裏に蘇る。

 誰かが捕まっていても、助けてはいけない。助けることはできない。自分の命を守るのを最優先にするしかない。


――ああ、そうか。だからなのかもしれない。


 最初に赤澤亮子と遭遇した時のことを思い出した。彼女は明らかに慌てふためいて怪物から逃げようとしていたが、すぐそこに迫っているであろう怪物についてえりいに何一つ忠告しなかった。化け物が近づいてくるから貴女も逃げて、と一言言っても良かったはずなのに。

 それをしなかったのは、生き延びることで必死で誰かのことを考える余裕がなかったから。

 そして恐らくもう一つは――何も知らないえりいが怪物とぶつかれば、そちらに標的を変えてくれる可能性があると思ったから。つまり、囮として使えるかもしれないと、心のどこかで思ったからではないだろうか。

 あの人もけして、悪人ではなかったのかもしれない。きっと、多分、恐らくではあるけれど――ごく普通の、一人の女でしかなかったのではないだろうか。

 でもこの空間では、奇妙な夢から逃げられない焦燥が、出口を探して願いを叶えて欲しい欲望が、罠や怪物に追い詰められる絶望が――その人の心をごりごりと音を立てて削っていくのだ。さながらヤスリを使って緩やかに、痛みを長引かせようとでもするかのように。

 人が人を一切顧みず、他人の命や心を踏み台にしても何とも思わなくなってしまった時、きっと人はニンゲンとは別の何かに変わってしまうことになる。

 ここはそういう場所なのだ。此処に居続けることで本当に削られるのは体ではなく、心の深い部分、人としてなくてはならないところが踏みにじられてしまうのである。

 自分も、そうなりかけているのかもしれない。

 大郷の言葉を言い訳にして、あの男性を助けようともせず、ロッカーで震えるばかりの自分もまた。


――ごめんなさい。


 昔見た、あるアニメで言っていた。

 一万回謝ったら許してあげる、助けてあげる、と。

 それを聞いたヒロインは、ひたすら大事な友達を守るためにごめんなさい、と言う言葉を繰り返すようになる。しかし実際のところ、それは一体誰への謝罪なのか。申し訳ないという気持ちがないのなら、改善できないのなら、ごめんなさいと言っても何も意味などないというのに。

 一万回なんて、パニックになった頭で数えられるはずもない。

 誰に許して貰っても自分が許せないなら価値がなく、そもそも本来謝罪は許して貰うために行うものではない。なのに、時に人はひたすらごめんなさいを繰り返す。


――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!


 意味もないのに、何かに縋るように。結局は、己が救われたいがために。


「ぐう、うううううううううっ!」


 ぶちゅううう、とトマトでも潰れるような音がした。大きな血管でも傷つけたのか、男性の腰や腹部の当たりから噴水のように血が噴き出す。それだけではない。腹膜や筋肉を破ったのか、腹の中身がにょろん、と飛び出してきているのまで見えてしまった。

 昔釣り番組で見た、ミミズの群れを思い出してしまう。こみあげてくる吐き気と悲鳴を、口元を抑えることで必死にこらえる。

 やがて、必然とも言うべき瞬間が。





「お、おおおおおおう、おれ、おれは、いきのこ、いき、生きる、だずげ……ああああああああああああああああああああああああああああ!!」




 断末魔と共に、骨が砕けるような、引きちぎられるような嫌な音がした。生きようとする男性の火事場の馬鹿力と、獲物を引きずり降ろそうとする怪物の怪力。その相反する力に、彼自身の肉体が耐えられなくなったのである。

 腰のあたりから、彼の体は真っ二つに引きちぎられていた。脊椎が引っこ抜かれたのか、あるいは断絶したのか。まるで怪物が転んだようにも見えた。腰半分の肉を抱きしめ、前のめりに一瞬倒れる化け物。門扉には――上半身だけになってしまった男性の体がぶら下がっているのが見えた。


「あ、あああ……!」


 掠れた悲鳴が喉の奥から漏れる。

 化け物はしばし、彼のお尻のあたりを掴むと、不思議そうに振ったり臭いを嗅いだりしていた。まるで力加減が分からず玩具を壊してしまって途方にくれるゴリラのよう。しばしぽかんとした様子だった怪物は、最終的に門扉にしがみついたままの上半身と自分がゲットした下半身を見比べ、下半身の肉だけ持ち帰ることにしたらしい。

 そいつを口でくわえると、四つ足で走り去っていった。がさがさがさがさ、という草をかきわける音が遠ざかっていく。それを見送った途端、堪えていた涙がぶわ、と両目から溢れた。


「あ、ああああああああ……!ごめんなさい……助けられなくて、ごめんなさい……!」


 しばし、その場で嗚咽を漏らす。怪物は、えりいに気付かなかった。足音ももう聞こえない。きっと遠くまで行ってくれたのだろう。

 えりいが、彼を見捨てたせいで。

 己の命惜しさに、ここに隠れていることを選んだせいで。


――私は、最低だ。だって選んだんだから。赤の他人なら見捨ててもいいって、そう思ったんだから……!


 もしあそこにいるのが織葉だったら、自分は助けようと思えただろうか。

 少なくとも、少なくともえりいが襲われていたらきっと織葉は助けてくれた。彼は一秒たりとも迷うことはしないだろう。でも自分は。自分なら、どうなのか。助けることなんてできるのか。


――言わなきゃ。織葉に、絶対此処に来ちゃ駄目って、もう一度言わなきゃ。私は、私は酷い人間だから。弱い人間だからって……。


 涙をぬぐい、えりいはロッカーから出た。デッキブラシは少々荷物になったが、それでも持っていかない選択肢がない。現実世界からどうすれば物を持ち込めるのかがはっきりしていない以上、こんなものでも無いよりははるかにマシなのだから。

 鼻水をすすりながら鉄扉に近づいていく。周辺の壁も観察してみたが、やはり他に出られそうな場所は見つからなかった。やはり、この鉄扉を乗り越えるしか方法はないのだろうか。問題は、あの怪物が何故こちらに来たのかということである。

 偶然近くにいただけならばいい。

 もし、鉄扉に近づくと問答無用でこちらに走ってくる仕様であったなら――。


――でも、この庭みたいな場所を抜け出す方法が、他に見つからない。……大郷さんとも、合流したいし。


 それになんとなく、一か所に長くとどまるのは極めて危険であるような気がするのだ。あくまで漠然とした不安である。大体、どこかに籠城していれば簡単に延命が可能ならば、もっと犠牲も少なく済んだのではないだろうか。

 同時に、そんなヌルゲーを許すような相手とはとても思えない。


――うん、やっぱり、いつまでも此処にいない方が、いい。怪物からも逃げなきゃいけないし……。


 危険なエリアと安全なエリアもあるかもしれないし、時間経過で危険になるエリアというのだってあるかもしれない。異空間系の怪異ならそういうのも珍しくないと聞いている。

 そろりそろりと門に近づいたえりいは、どんどん強くなっていく血の臭いに蒸せそうになった。鉄扉にはべったりと大量の血がこびりついている。体を引きちぎった時に落ちたのか、足元には何かもわからない肉片が散らばっているのが見えた。内臓だろうか、と思って慌てて視線を逸らす。見ない方がいい。グロテスクなものを直視して、いつまでもまともでいられる自信はない。

 男性の遺体の上半分はまだ、鉄扉にしがみついた形のまま残されている。死後硬直だろうか、門に捕まったままの体は多少体が吹いても落ちる様子がなかった。


「ごめんなさい……」


 もう一度小さく謝罪の言葉を呟くと、遺体がはりついている右側を避け、左側の部分に足をかけた。ブラシをわきに挟んで登り始めても、怪物は近づいてくる気配はない。血が憑いている場所を避けるようにして、ゆっくりと大きな門を登っていく。


――早く、早く登らないと。少なくとも、怪物の手が届かない高さまでは……!


 鉄柵の隙間に足をかけるものの、やや夜露で濡れているのか足が滑った。さらには、足をひっかけられるくらいの大きなスキマがなかなか見つからなかったり、尖っていて痛くて足をひっかけられなかったりするのが難しい。

 最近はボコボコの壁を登っていく競技(ロッククライミングだっただろうか?)も流行していると聞く。そういうところに通い詰めている人は、こういう鉄扉を登るのも得意なのだろうか。登攀スキルとはよく言ったもの。自分ももうちょっと運動神経鍛えた方がいいかもしれない、とやや現実逃避気味に思う。

 考えたくないのだ。この鉄扉を乗り越えた先に何もないかもしれない、なんて。新しいエリアに進むことができなかったらどうしよう、なんて。

 そして乗り越えられず、怪物に襲われたらどうしよう、なんてことは。


――う、あと、少しなのに。足ひっかけるところ……見つからない。


 暗いのもあり、手探りならぬ足探りで足を引っかける場所を探さなければいけないのが困難だ。

 鉄柵を握りしめながら足をふらつかせていた、その時だった。


「おい」


 最初は、気のせいだと思ったのだ。でも。


「おい」


 低い、男性の声。まさか、とえりいは恐る恐る鉄扉の右手側を見たのである。

 掠れた悲鳴が迸った。だってそうだろう。


「……おい」


 さっき怪物に殺された男性が、こちらを見ていた。明らかに口が、目が動いている。

 もう上半身しかない、生きているはずもない体だというのに。


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