覚悟を決めて眠ったつもりでも、やはりその瞬間は緊張する。
織葉は、“現在えりいがどういう状況なのか”について、詳しく尋ねてくることはしなかった。それは彼なりの信頼なのかもしれないし、他に理由があるのかもしれない。実際、えりいも本当ににっちもさっちもいかない状況だった場合、織葉にありのままを話せたかどうかは怪しいところだ。
幸い、現在のえりいは、バケモノに追いかけられているわけではなかった。初日に歩いたような、灰色のコンクリートの廊下が続いているエリアで立ち止まっていただけである。――前にも後ろにも、同じ廊下があるばかり。同時に、左右には二つのドアがある場所だった。
――この二つのドアのどっちに入るべきか。あるいはこのまままっすぐ前に進むべきか、で迷ったんだっけ。
恐る恐る、えりいはポケットに手をつっこんだ。ちいさな、冷たい感触が手に触れて安堵する。
良かった。
大郷からもらった鈴は、ちゃんとこの夢の中に持ち込めたようだ。
――これは、収穫かもしれない。
現在、えりいはいつもの制服姿である。何故制服になってしまうのか、そのメカニズムはわからない。ただ現在の制服の状態が、夢の中の状態に影響するのであれば、今後手の打ちようもあるだろう。
つまり、眠る前にポケットに何かを入れておけば、夢の中に持ち込める可能性もあるということ。
無論、今回は茜屋大郷という“本物の霊能力者”が持っている鈴だったので例外、という可能性もあるが。
「ベルト、通しておいて正解だったな」
キーホルダーは、スカートのベルト部分にひっかけて、鈴をおポケットの中に入れ込むようにしてある。これなら、多少怪物に追いかけられても落とすようなことはないだろう。
「よし。……行くぞ、えりい!」
自分自身を鼓舞するように、小さく呟いた。幸い、周囲に怪物の気配はない。深呼吸して左右のドアを見た。
左手には、木製のドア。昔歴史の教科書で見た、古民家のドアがこれに近いデザインのような気がする。右手側にあるのはそれとはまるで違う、上部分が丸く切り取られるような形になった黒いドアだ。木製のドアと比べると随分小さい。一般的な体格のえりいが、少し前かがみにならないと潜ることができなさそうだ。
『罠がある場所になんとなく嫌な予感がしたり、探したい人がなんとなくそっちにいるような気がしたり……その程度のものですが』
昨日までは、ドアを見つけても“入っていいのか”の判断がつかなかった。実は怪物に追われなかったこともあり、安易にドアをくぐらないようにしていたのである。
しかしこの鈴があれば、多少罠を見抜くこともできるようになるかもしれない。ポケットの中で鈴をぎゅっと握りしめ、えりいはまず木製のドアに触れてみた。
一秒。
二秒。
三秒――。
「んー……」
特に、何も感じない。何かビジョンが頭に浮かぶようなこともなければ、悪寒で背筋が泡立つようなこともない。
「んーんーんー?」
駄目か、とえりいはがっくりと肩を落としてため息をついた。勘が良くなるというが、恐らくそれは自分が元々持っている霊感に大きく依存するのだろう。つまり、元々霊感がゼロに近かったり、直感が鈍い人間は大した効果が得られないのではないか。
究極的なことを言えば、ゼロにいくら数字をかけたってゼロなのは間違いないのだから。
――私、才能ないのかなあ。
別に、不思議な力に頼りたいわけではない。でも、もし霊感とか直感のようなものが働くようになれば、それだけで大切な人を守れるようになるかもしれないと思ったのだ。それこそ、現実の世界だって、織葉に守られてばかりという状況を脱却できるかもしれないというのに。
残念ながら、己にはそれだけの力量はないらしい。ここにいるのが織葉だったら、もう少し別の結果が得られたのかもしれないが。
「ざーんねん……」
小さくぼやきながら、今度は小さい円くて黒っぽいドアの方に触れてみた。どうせ同じだろうと、そう思った瞬間だ。
「!?」
『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』
瞬間。
ビジョンが頭に叩き込まれた。たくさんある銀色の歯車。服がひっかかったえりいが、右腕を巻き込まれていく。暴れているうちに、靴もひっかかってしまった。助けて、どうしよう、パニックになりながら歯車を外そうと左手を伸ばした瞬間、左手の指が巻き込まれてぐちゃぐちゃに吹きとんでいく。
生きたまま、四肢を絡めとられ、骨と肉がミンチになり、泣き叫びながら助けを求めるえりい。あまりの苦痛に泣き叫び、頭をぶんぶんと振った瞬間髪の毛が歯車に引っ掛かった。
バリバリバリバリ、音を立てて髪の毛が巻き込まれ、頭皮が頭から引きはがされていく――。
「いやあああっ!?」
ぎょっとしてドアから指を離した。瞬間、恐ろしいビジョンが消し飛ぶ。
――い、い、いまの、な、に?
何があったのだろう。何が起きたのだろう。何も、何一つわからない。
心臓がばくばくと五月蝿く鳴っている。実際に痛みを感じたわけではなく、あくまで刹那的なイメージが頭に浮かんだだけだ。それでも全身ががくがくと震えたし、うっかり漏らしそうになった。それほどまでにリアリティがあって、強烈な映像だったのだ。
――だ、だめ、だ。
察した。これは、このドアをくぐった先で待っている現実、なのだと。
――この、ドアは、だめだ……!
この黒いドアを潜ったら最後、自分はさっきのように罠にかかってしまう。手足を歯車状のものに巻き込まれ、両手両足を生きたまま砕かれて地獄の苦しみを味わいながら死んでいくことになるのだろう。
そんな死に方、絶対嫌だ。
――こ、これが、直感ってやつ、なの?
問いかけたところで、答えなんて返ってくるはずもない。しかし、このドアを入ってはいけないことだけは察した。ひょっとしたら、さっきの木製のドアに触った時に何も見えなかったのは、すぐに大きな脅威が迫っているわけではなかったからなのだろうか。
選択肢は二つに絞られた。前へ進むか、木製のドアの方へ入るか、だ。
――こ、こっちに、行ってみよう。
ごくり、と唾を飲みこみ、えりいは木製のドアに手をかけた。
これもなんとなく、ではあるのだが。自分達が探している本物のドア、も本物の鍵、もこのエリアには存在しないような気がするのだ。
それならまだ、最初の頃に入った青い通路の方が“近かった”ような気がする。本当にただの勘でしかないけれど。
――もう一度、あの黒須澪って人に会えないかな。
ドアを開けつつ、えりいは思う。
――そうすれば、何かまた教えても貰えるかもしれないんだけど。
***
同じ頃。
茜屋大郷は、真っ白な広間のような場所にいた。
そこは正面に三つドアがあり、左右に二つドアがある。背面にはクローゼットや食器棚のようなものが三つ並び、中央にはテーブルと椅子が並んでいた。まるで、小さなカフェのよう。テーブルにはそれぞれ椅子が四つずつ、それが三対存在している。どれもこれもまるで色を抜かれたように真っ白だった。
――昨日、わたくしは右のドアからやってきた、のでしたね。
昨夜の行動を反芻しながら、考える大郷。
――この部屋に入ってきたのは、此処が何者かの気配が強く集まる場所だったから。その気配は、今ここにはいない。……しかし、正面から近づいてくるのを感じる。
今日、えりいと織葉に言わなかったことがある。それはまだ確信を持てるようなことではなくて、不安にさせるかもしれないから言えなかったこと、であるのだが。
実は昨夜、大郷は奇妙な死体を見たばかりなのだった。それは首がおかしな方向に曲がった、若い男性の死体だった。
この空間で死ぬと、魂は永遠にこの場所に囚われてしまうらしいということがわかっている。例えば怪物に喰われて現実の肉体が死んだ場合、その人物は解放されることなく、現実の肉体が死んでしまったがゆえに目覚めることもできずにこの空間に留まる羽目になるのだ。
それも、死体か、それに近い状態のまま。
ようは永遠に、死んだ時の苦痛が続くのである。中には、手足がバラバラなのに死にきれず、苦痛に呻いている者も見たことがある。あれは文字通り地獄だろう。
だからその男性も、首が折れて“死んだ”状態のまま、魂がそこに囚われているようだった。首が折れているので対話するようなことはできなかったが――。
――罠にやられて死んだなら、死体は基本的に部屋の中にある。経験上、廊下に罠があることは殆どないのだから。
ならば、彼は部屋の中で死んで這い出してきたか、怪物に殺されたということだろうか。否、部屋の中で死んで這い出してきたという様子ではなかった。脊椎が破壊されて、両手両足を動かせる機能が残っているようには見えなかったし、実際彼は体を動かせるような気力もないように見えたから。
では、怪物に殺されたのか?否、それならば死体がこんなに綺麗なはずがない。怪物は獲物の抵抗を封じるために、両手両足の全て、もしくはいずれかをもぎとってから腸を食うことが多い。だがこの男性は、両手両足は綺麗に残っていたし、腹も裂かれていなかった。まるで、一撃で首だけへし折られたかのよう。
この空間で、怪物がそんな親切な殺し方をしてくれるはずがない。なんせ、人に苦痛を与えて与えて与えて、痛みの中でもがき苦しむように仕向けて殺すようにと主には命じられていると考えられるのだから。
つまり彼を殺したのは、罠でもなければ怪物でもない可能性が高い。と、いうことは。
――嫌な予感がする。ひょっとしたら、これは……。
足音が聞こえてきた。自分は多少危険を冒してでも、扉鬼の真実を突きとめ、この世界を救う義務がある。少々躊躇った後、大郷はクローゼットの中に体を滑り込ませた。長身の自分でも、この大きなクローゼットの中なら入ることもできるだろう。
小さくスキマをあけて、部屋の中を観察する。やがて、正面三つのドアのうち、真ん中の白いドアが開いた。そこからぬっと姿を現したのは、2メートルはありそうな、筋肉質の大男だ。
――やっぱりか、畜生!
思わず、口汚い言葉が出てしまいそうになった。
男と、その後ろから姿を現した若い女性。その二人は、紛れもなく人間だった。でも。
服に、あちこち血が飛び散っている。
その状態で、うっとりとした顔で微笑んでいるのだ。
――招待者が、招待者を殺してるのか……!
ああ、当たって欲しくない予感ほど、的中してしまうものなのだ。