とりあえず、授業中に居眠りしないようにしなければ。
午後の最初の授業が始まってからというもの、真っ先にえりいが考えたのはそれだった。
いかんせん、お昼ご飯を食べてお腹いっぱいになった後の授業は本当に眠い。眠いったら眠い。ここで寝落ちしてしまったら最後、扉鬼の世界にまた引きずり込まれてしまうのはわかりきっている。なんとかして、昼間の間は起きている努力をしなければ。いくら今はまだ何かに追いかけられたり殺されそうになっているわけでないとわかっていても、今後どうなるかなんてわからないのだから。
織葉の言う通りならば、いずれえりいも命の危険に晒される可能性が高い。
油断や慢心は禁物だ。――とにかく、危険を少しでも減らすためには、睡眠時間は最低限で留めなければ。
彩音によれば。怪物の姿は手足が長く、筋肉質で大柄な体型だったという。猿のような見た目だが口裂け女かと思うほど口が大きく、噛みつかれたらかなり痛そうだったとのこと。体が大きいということは一歩が大きいということ。きっと足も速いだろうし、体格が大きくてマッチョならパワーだってすごいだろう。
運動神経にも自信はない。
そんな怪物に追いかけられて、逃げ切れる自信はほとんどなかった。彩音でさえ追いつかれそうになっているというのに。
――それが、扉鬼の鏡……化身、なのかな。とにかく他の人がみんな憎くて憎くて憎くて、それで取り込んだ人をかたっぱしから殺してるってこと、かな。
一体誰なのだろう。これほどの規模の怪異を引き起こせるほど、霊的な素質があったということか。あるいはそれほどの恨みを抱えたまま死んだ人間がいたということなのか。
扉鬼、という鬼ごっこを使った遊びがあったらしい。それを使っていじめが行われていて、それが扉鬼が生み出されるきっかけになったらしい。自分が知っているのはそこまでだ。しかも、どれもこれも人伝に聞いたものばかりで確定情報ではないと来ている。
現状、完全に情報不足。
やはりネットでも図書館でも何でも使って調べに行かない限りどうしようもないということなのだろう。問題は、神社や寺に頼ってこっそり除霊してもらう、ということがまだ暫くはできそうにないということだが。
――それとも、紺野さんの命を本当に優先するなら……本人がどう言っても、お祓いをお願いしてしまうべき、なのかな。
嫌われたくない、という気持ちが邪魔をする。本当は、そんなことばっかり言っている場合ではないというのに。
「……つまり、人が他人にマウントを取る、というのは劣等感の裏返しだと筆者は述べているわけですねえ」
現代文担当は、年配の男性教師である。眠くなるようなゆったりした声で、教科書にのっている話の解説を行っている。
「誰かより己の方が上だ、と認識し相手に認めさせることによって脆い自我を保とうというわけです。もちろん現実で褒められたことではないけれども、実際にそのようなことをしてしまう人間の弱さというのは理解できる、とまあ。そう言う話をしているわけですね。じゃあ、次のページから、紺野さんに読んでもらいましょうか。……紺野さん?」
「え」
先生が訝しむような声を上げた。え、と思った次の瞬間だった。
ガタアアアアン!
大きな音が響き渡った。ぎょっとして振り向いたところで、えりいは気づく。
それは彩音が、椅子から派手に転げ落ちた音だった。ばらばらばらばら、とシャープペンシルや筆箱、ノートが床に落下していく。
「こ、紺野さん!?」
「彩音はん!」
えりいは慌てて駆け寄った。彼女の席は近いが、えりいの斜め後ろである。振り返らなかったので、彼女がどんな様子だったのかまったく気づいていなかった。
「あ、ああ、あっ」
彩音は浅く息をしながら、真っ青な顔で浅い呼吸を繰り返している。
教卓から近づいてきた先生が、驚いた声を出した。
「紺野さん、大丈夫ですか?顔色が真っ青です。やっぱり具合が悪いのでは……」
「きゅ、救急車とかやめてください!大した事じゃないので!」
彩音は慌てたように声を荒げた。それでえりいは気づく。救急車に乗って、万が一麻酔のような薬でも打たれたら――彩音は簡単に眠りに落ちてしまうだろう。
そして、その時鬼から逃げ切れるかどうかなんてわかったものではない。夢の世界では、誰も助けてくれないのだ。文字通り、医者でさえも。
「紺野さん……」
えりいは声をひそめて彼女に尋ねる。
「怪物に、襲われたの?」
「…………っ」
彩音は何も言わない。ただ、真っ青な顔でしゃがみこみ、カタカタと震えるばかりである。その有様はほとんど肯定に近かった。
明け方からずっと眠れていなかったという彩音。授業中も眠らないように、眠らないようにと気を付けていたのだろう。ところが、つい油断してうたた寝をしてしまった、というところだろうか。今回は幸い先生が気付いて声をかけたからすぐに目覚めることができたということなのかもしれない
「ね、眠っちゃ、だめ。わたしは、もう、眠ったら……」
血走った眼でそう繰り返す彩音。彼女が扉鬼の世界で何を見て何が起きたのかは定かでない。しかし、危機的状況なのは確かだ。
えりいははい、と手を挙げると先生に言った。
「先生!その、紺野さん具合悪そうなので……保健室に連れていってあげてもいいですか?」
養護教諭の先生が、ちゃんと仕事をしてくれているのかは知らない。いない時が多いと噂されているのは確かだけれど。
***
「……ごめん、なさい」
案の定というべきか、先生は保健室にいなかった。そもそも保健室に世話になったこともないので、先生がどんな顔をしているのかも知らないえりいである。いないことが多い、というのは他の友人や織葉から聴いた話だった。
ベッドに座らせた途端、彩音は弱弱しい声で謝罪してきた。
「眠らないようにしてたつもりなんだけど、実は朝から眩暈が酷くて」
「それでどうして今日学校来たの、紺野さん……?無理しちゃ駄目なのに」
「一人で家にいたら眠ってしまいそうだったのよ。……馬鹿ね。わたし、貴女に強がったこと言ったのに、本当はもう眠る事が怖くてたまらないんだから。鍵と扉を見つけるためには、嫌でも眠らないといけないのに……」
強気なことを言ってはいたが、彩音も相当追い詰められていた、ということらしい。怪物もそうだが、食われている人を直に見てしまったというのも大きいのだろう。
今まで、彼女も現実感がなかったはずだ。本当に人が死ぬのか、怪物が存在するのか。話を聞いていただけと、自分の目で実際に見るとでは大違いというものである。えりいだって――赤澤亮子が死んだというニュースを見ただけでは、まだ半信半疑だったのは間違いないのだから。
「あんま、強がらんでええって」
蓮子が彩音の肩をぽんぽん叩いて言った。
「とりあえず、ベッドで休むだけ休んどき。座って静かにしてるだけでも落ち着くかもしれんし。スマホあるんやろ?こういう時は、楽しい動画でも見てるのが一番やって。お祭りの動画とかゲーム実況とか見てたら嫌でも目覚めるし、な?」
「そうね。……横になったら眠ってしまいそうだけど、座ってれば大丈夫かも」
「今日ちょっと暑いし、水分補給はしっかりせなあかんで。お腹空いてなくても、水はちゃんと飲まないと体に毒や。……気絶したら、多分眠ったのと同じことになってまうやろし」
「……そうよね」
一生懸命蓮子は励ますが、彩音の声には力がない。本当は、このまま目を離すのは不安で仕方なかった。できれば彼女が眠ってしまわないよう、傍で見張っているべきではないのか。うたた寝しそうになったなら、声をかけて起こすくらいのことは自分達にもできるはずである。
しかし。
「わたしは、大丈夫。授業に戻って」
「でも……」
「いいから。……わたしにも、プライドはあるの」
彩音にそう強く言われてしまってはどうしようもない。蓮子と顔を見合わせると、えりいは渋々保健室のドアへ向かった。
「……無理、しないでね」
そんな月並みな言葉しか出てこない。彩音がこくりと頷いたのを確認して、二人で廊下に出たのだった。
うちの学校の保健室は、一階の東端にある。他にはトイレくらいしかないし、今は授業中なので人気はまったくない。保健室を出たところで、ぽつりとえりいは呟いた。
「本当に……大丈夫かな」
「あれが大丈夫に見えるか」
苛立っているのだろう、蓮子の声は冷たい。
「せやけど、彩音はんがああ言ったら、うちらにできることはなんもないやろ。……彩音はんはかっこいい人やけど、プライドも高いってうちは知っとる。そのプライドに傷がつくことは、怪我をする以上にきっついことなのかもしれん。弱ってる姿を、これ以上うちらに見せたないんやろ」
「でも……」
「するべきことがあるとしたら、今夜眠った時に一刻も早く鍵と扉を見つけることや。見つけて、彩音はんと合流する。そして脱出させたげるんや。それしかないやろ」
「それは、わかるけど……」
そんな簡単なことじゃない。鍵やドアが簡単に見つかるなら、彩音もこんな苦労はしていない。何より。
――一人しか、脱出できないかもしれないのに。ねえ、その可能性、銀座さんはまったく考えてないの?紺野さんも?
あるいは、その可能性に気付いていても見て見ぬふりをしているだけ、なのだろうか。
なんだか胸の奥がざわざわする。煮え切らないものを感じながら、教室に戻ろうとした時だった。
バタアアアアアアアアアアアン!
「!?」
保健室から、大きな音。まるで誰かが、床に転げ落ちたかのような。しかも次の瞬間。
『アアア、イイイ、いいいい痛い、痛い、痛い痛い痛いいいっ』
それは、紛れもなく彩音の声で。
「彩音はん!?」
「こ、紺野さんっ!!」
慌てて二人は引き返すこととなった。保健室に飛び込んで、そしてすぐ気づいたのである。
二つのベッドの間、床の上であおむけに倒れている彩音を。そして。
「あ、あああ、ううううううっ!」
彼女が両腕と両足をばたつかせて、苦しそうにもがいている様に。