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第24話

 えりいとしても、彩音の気持ちを尊重したいというのはある。

 ただ大きな問題が二つ。

 一つ目は、怪物やトラップがどのような規模か、危険度かまだはっきりしていないということ。実際に人が死ぬことがあるのは理解できたが、それがどのくらいの確率なのか、追われたら逃げ切れるのかもはっきりしていないのが実情である。もしも遭遇したらほぼ即死、レベルの敵ならば悠長なことは言っていられない。扉を探すことを完全に放棄してでも、除霊の方法を探すことに全力を尽くすべきだろう。

 もう一つは――扉から出て脱出できるのが一人だけである可能性が高い、という情報をえりいだけが得ているということ。彩音と蓮子を見捨てたいなんてまったく思っていないが、えりいだって死ぬのは怖いのだ。彩音が扉から出るのに協力するということはつまり、えりいと蓮子はそこから出ることを諦めなければいけないということでもある。確実に除霊の方法があるとも決まっていない以上、最悪永遠の地獄に囚われることをも覚悟しなければいけないわけで。

 まだ、そこまでの勇気はえりいにはなかった。ゆえに躊躇してしまうのである。

 情けない話だ。きっと織葉なら、彩音が扉から出てから除霊してもいいとはっきり言うこともできただろうに。


「怪物って」


 本当にいたのか、という驚愕。

 そして、絶望。


「どど、ど、どんな姿をしてた、の」

「そうね、うまく説明できないけど」


 彩音は少し考え込む素振りをして、口を開いた。


「全身に灰色の毛が生えた、巨大な猿……というのが一番近いかしら」

「猿?」

「手足が長くて、筋肉質で……なかなか大柄だったわ。体長が2メートルから3メートルくらいはあったと思う。顔が黒くて、顔だけは人間に近いと感じた、かしら。口が大きくて、口裂け女みたいで……でも人間より遥かに尖った、ギザギザの歯と犬歯が覗いているのが見えた。あれで噛みつかれたら、人間なんかひとたまりもないでしょうね」

「そ、そんな……」


 切羽詰まった状況だっただろうに、よくそこまで観察できたものだ。感心すると同時に、お腹の底がぎゅっと冷たくなるのを感じる。

 怪物は、本当にいた。しかも。


「どういう状況で遭遇したのか、聴いてもええ?」


 恐る恐るといったかんじで蓮子が尋ねる。すると彩音は、少しグロテスクだけど、と続けた。


「食事中にあまり話すことではないのだけど。……私が逃げられたのは、そいつがランチの最中だったからってのが大きいのでしょうね。廊下の突き当りで、人を食べているところに見えたわ。女性だったと思うけど、顔はわからない。ただ、すぐ近くにその人のものと思われる、根本からちぎれた両腕と両足が見えたの」

「りょ、両腕と両足を引きちぎったっていうんか!?」

「ええ。その上で、女の人のお腹のあたりに顔を埋めて内臓を食べている様子だったわ。お腹の中身に手を突っ込んで、中身を手づかみで引きずり出して、まだ繋がった状態のまま噛みついていた。そのたびに、両手両足をなくしてダルマになった彼女が、びくびくと痙攣しながら悲鳴を上げているのが聞こえたの。……ええ、恐ろしいことに、その人……そんな状態でまだ生きてたのよ」

「う、嘘やろ……」


 真っ青な顔で、嘘やん、そんな、ありえへん、と繰り返す蓮子。

 その女性というのは、あの赤澤亮子かもしれない。そう考えたらますます背筋が凍り付いた。死んでもなお、囚われたままだとしたら。生きたまま両手両足を引きちぎられて現実の体は死んでしまったのに、まだこの世界では食い散らかされた状態で生きながらえているとしたら。

 それはどれほどの恐怖で、どれほどの絶望で、どれほどの地獄であることか。


「慌てて逃げたけど、暫くしたら後ろからどすんどすんと追いかけてくる足音が聞こえた。あれに捕まったら、きっとわたしも終わり。……逃げている最中で目が覚めたわ。次に眠ったら、きっと鬼ごっこ再開なんでしょうね」

「そ、そんなの危険すぎるよ!」


 思わずえりいは声を荒げていた。


「紺野さんが、本気で家族のために扉鬼の力を使いたいってのはわかったよ。でも、紺野さん自身が死んじゃったら本も子もない。ご家族をもっと悲しませてしまうだけだよ!今日中に、次に眠る前に対策を考えよう。神社とか、お寺とか、そういうところに相談しれば方法を考えてくれるかもしれないし……!」


 そうだ、自分達で調査することも大切だが、まず餅は餅屋に頼むべきではないか。

 神社とか寺とか、他に霊能力者なんてものがいるならそっちを頼ってもいい。お盆の時期ともなると拝み屋は忙しすぎて予約が取れなくなるという噂を聞いたことがあるが、今の時期ならまだ相談に乗ってくれるところもあるはずだ。


「わかってる。貴女が、正しいのよね」


 えりいの言葉に、彩音は力なく笑った。


「わたしだって怖いわ。あいつに追いつかれたら、死ぬだけでは済まないのがわかりきってるんだもの。次に眠った時、本当に逃げ切れるかもわからない。一度襲われただけで震えが止まらなくなって、明け方目覚めてからは一睡もできなかったわ。自分の弱さ、脆さが嫌になりそうよ。……でも、それでもね、わたしは自分の願いを諦めたくないの」

「紺野さん、だけど、だけどさあ……!」

「貴女のやりたいこと、やるべきと思っていることには賛成よ。でも、できれば神社とか、そういうものに相談するのは少し待ってくれないかしら。まだ、まだ除霊されてしまっては困るの。わたしは、もう他に……兄さんを取り戻す方法を知らないんだから」


 だから、お願い。

 そう頭を下げられてしまったら、えりいも何も言えない。


「……わかった!」


 そしてそこで、彩音の背中を押してしまうのが蓮子なのだ。


「じゃあ、とにかく一刻も早く扉と鍵を見つけなあかんな!もち、うちは彩音はんの味方や。自分がもし扉と鍵を見つけたら、まず彩音はんから脱出させたる。友達や、嘘はつかへん!それできっと願いも叶うはずや!」

「ありがとう、蓮子さん」

「うんうん。金沢はんもそれでええな?」

「え……」


 いや、ちょっと待って、とえりいは言いたかった。そもそも、扉と鍵をずっと探し続けているのに見つからないと彩音は言っていたではないか。

 かなり危険が迫っているこの状況で、今日明日の短い時間だけで本当に探し物を見つけることなんてできるのだろうか。そもそも、仮に見つけたところでその時点で彩音が怪物を振り切っていなければ意味がない。大体、迷宮の中にいる自分達がどうやって合流するのかもわからないというのに。


――そんな悠長にしてたら、その間に誰が死ぬかもわからないのに……!


 えりいと彩音と蓮子だけじゃない。

 こうしている間にも、扉鬼の話を拡散させている人間がいるのだ。Twitterなどで広めていた人のところには“このおまじないはまずい、試しちゃいけない”旨の書き込みをしたものの、ほとんど効果が出ていないのはわかっている(むしろ、止めているえりいの方が叩かれるほどだった)。その人間が誰か、そもそも一人なのかもわからない以上、噂の方を止める術なきに等しい。

 ならば大本の怪異を叩く以外に術はない。一刻も早く専門家を頼らなければいけないというのに――!


「ええよな?」


 しかし、蓮子は有無を言わさず、同意を求めてくる。彩音の言うことに反対しない、させない。本当に、信者のようだ。彼女だって、彩音の命は心配であるはずだというのに。


「……う、うん」


 自分は、弱い。結局、押し切られて頷く羽目になってしまった。

 とりあえず、後で織葉に報告はしようと決める。叱られる未来しか見えないけれど。


「もちろん、こうしている間にも拡散している人がいるのは気になるところだけれどね」


 彩音も多少罪悪感はあるのか、お茶を飲みながらため息をついていた。


「どうして拡散するのかしら。自分と同じ怖い目に遭って欲しいとかそういう?」

「まあ、世の中にはそういう人間もおるのは事実やけどな。自分だけ辛い目に遭うのが嫌やから人を巻き込んだれーみたいな。ほんまにはた迷惑な奴らやわ」

「……なんとかして、止めることはできないのかなあ」


 えりいはぽつりと呟いた。


「それに、たくさんの人が扉鬼の世界に来るってことは……それだけ、あの世界で人に遭遇する確率が上がるってこと、だよね。そんな場所で、怪物がうろついてて危険だってわかったら、争いになったりしないかな」


 そうだ、とえりいは気が付いた。

 本物の扉と鍵が、どのような形状で、どうすれば手に入るのか一切わからない状況である。そして、一人しか脱出できない、という事実を知っているのがえりいだけとも限らない。

 なんならあの黒須澪が、自分以外にも接触している可能性はある。一人しか出られない。というのを知らなくても、願いを叶えたい人間が我先にと扉に、鍵に群がるのは十分想像できることだ。


「あのおまじないをする人の多くは、何か願いを叶えたい人のはず。中にはその、切羽詰まってる人もいる……と、思うんだよね。そういう人が鍵を持っている人を見かけるようなことがあったら、他の人を傷つけてでも鍵を奪おうとするんじゃないかなあ」

「……ありうるわね」

「願いを叶えることと脱出がイコールで結びついてるから余計にそうやろな。怖い思いをした人ほど、早く逃げたくてたまらんはずや。扉鬼の世界にいる参加者同士で殺し合いになる可能性もなくはない、か」


 暫く、沈黙が落ちた。

 除霊の方法を探すにせよ、出口を探すにせよ、自分達はどう転んでも今夜一晩は乗り切らなければならない立場である。脅威が扉鬼の世界に潜む怪物や罠だけではないかもしれない、というのはかなりネガティブな情報であり、想定だ。

 無論、考えておかなければならないことである。そうでなくてもあの世界で遭遇する他人は、“敵でも味方でもない”か“敵”かのどっちかである可能性が高いのだから。


「扉鬼の世界に、武器の一つでも持ち込めればいいんだけど」


 彩音は水筒を手に取った。


「こんな水筒一つでも、振りかぶって殴れば凶器になるのに」

「は、発想が物騒やんなあ……!」

「そういえばどうして制服になるんだろうね。あれって、私達が普段着ている服を無意識にイメージしているとか、そういうカンジなのかな」

「さあ……」


 だったら、と蓮子が恐ろしいことを言った。


「普段からカッターナイフをポッケに入れて持ち歩いてる人は、カッターがポッケに入ったままでもおかしくないっちゅうことか……」


 無い、とは言い切れないのが恐ろしい。

 暫く、他の参加者にも用心しよう。出来る限り身内には、扉鬼の情報に触れないように周知しよう。――とりあえず、その結論だけは一致したのだった。


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