「もし」
彩音はどこか遠い目をして言う。
「もしあの人が……
「いい人だったんだ?」
「憎たらしいほどにね。……十歳も年上だった、っていうのもあるんでしょうね。小さな頃から可愛がってもらった記憶しかないの。背が高くてかっこよくて優しくて、いつもにこにこ笑っているような人だった。お父様からもお母様からも将来を期待されていて、プレッシャーで潰れそうになった時もあったでしょうに」
小さな頃の彩音は、自分でもみっともないと思うほど泣き虫であったという。
いいところのお嬢様、というのはそれだけでやっかみを買うものだ。なんせ彩音の家は大きくて、家にお手伝いさんも雇っているようなところである。幼稚園から車で執事が送り迎えをしてくれたし、幼稚園や小学校の先生も両親にはどこか遠慮している素振りだったという。
そんな彩音は、露骨にいじめられたというより、遠巻きにされることが多かったそうだ。一番応えたのは、幼稚園で友達と一緒にままごとや魔法少女ごっこができなかったこと。
『あやねちゃんとあそぶの、こわい』
同じクラスの少女は、それはそれは正直に言ったそうだ。
『だって、あやねちゃんにけがさせるなって、ママからもパパからも、せんせいからもいわれるんだもん。……なんかあったら、すごくこわいことになるからって。だから、いっしょにあそぶの、こわい』
孤立しがちな彩音の気持ちを、誰よりわかってくれたのが兄だった。
多分彼も、幼い頃はそのようにみんなから距離を置かれてしまったり、いじめに遭ったりしたことがあるのだろう。彼は彩音にこう言ったという。
『彩音。悔しいのはわかる。悲しいのはわかる。でも、誰かを恨んじゃいけないよ。みんなの気持ちは、間違ったことじゃないんだから。……打破したいなら、一番の方法は彩音が“魅力的な人間”になることだ。みんなが、彩音の家なんて関係ないと思えるくらい……ステキな人間になること。周りの方から、彩音と遊びたいって思えるくらい、立派な存在になることなんだよ』
『おにいちゃん……でも、どうやって?あやね、わかんない……』
『人に優しくするんだ。そして勉強も、運動も、どんなことでも一生懸命やるんだよ。成績でトップになれとか、かけっこで一番になれっていうんじゃない。人に親切で、何事にも一生懸命な人間はそれだけで愛される。みんなを魅了する。彩音はとても可愛いし、とっても賢い。運動神経も悪くない。他の人より多くのところで恵まれている。だからきっと、少し本気になればみんなイチコロさ。みんな、彩音のことが大好きになってしまうよ。そうすれば……もう、寂しい想いなんてしなくてすむ。そうだろう?』
それは、言うほど簡単なことではないのはわかっていた。でも兄はきっとそうやって、小さなことをコツコツ築き上げていった結果認められる人間になっていったんだろうということは理解できた。
ゆえに彩音は、彼をお手本に、人に親切で一生懸命頑張る人間であろうとしてきたという。
「今のご時世であっても、やっぱり跡継ぎの男の子……って言う認識がある人はいるのよね。最初に男の子が生まれてほっとした、みたいなことをよくお祖父さまなんかは口にされたわ。自分でも、兄の存在そのものが有難いのはわかっていたの。だって、私が生まれた時にみんなにがっかりさせないで済んだんですもの。しかも、その兄がどこまでも優秀で、みんなの期待に応えられるような人格者、スペックの持ち主。誰もが誇りに思うような、素晴らしい人だった」
だからね、と彩音は目を伏せる。
「だからこそ……そんな人を柱にして立っていた家族は、どこまでも脆いものなのよ。お兄様が事故で亡くなった時の、両親の、親戚の悲しみようといったらなかったわ……」
「でも、事故、だったんでしょ?」
「ええ、事故。ひき逃げだったなら犯人を恨むこともできたでしょうけど、運転手の女性はほんの少し脇見をしてしまっただけだった。信号のない路地でね。お兄様が歩いているのに気づくのが遅れて、ブレーキを踏むのが遅くなって……。彼女はパニックになりながらすぐに警察に連絡したし、お兄様の救護もしようとした。そして何度も何度も私達家族に頭を下げたわ。……そんなんじゃ逆に、憎んだり恨んだりできないでしょ。お兄様が、そういうことを望む人ではないとわかっているから尚更に」
なんだか、わかってしまったような気がする。えりいはじっと弁当箱に目を落とした。
復讐をするな。そんなことをしても愛した人は戻ってこない――なんて言葉を、よく名探偵や正義の味方は口にする。間違っているわけじゃない。けれど、時に復讐や憎悪は、人が生きていくための糧となるものなのだ。
復讐するために、死ねない。そうやって、なんとかギリギリで生きることにしがみ付けている人もいる。そういう人に、復讐するな、それは悪いことだなんてなんて説教するのは生きるための理由を取り上げるのと同じことではなかろうか。
裏を返せば。
復讐できるような相手がいない、憎悪の行き場がない人間は、時に何よりも救われないということでもある。殺人犯が既にこの世にいなかったり、あるいは明確に誰か一人が犯人と言い切れる状況でなかったり。そういう人間は時に暴走して、まったく無関係の人に恨みや憎しみをぶつけてしまうこともあるはずだ。
本来まったく悪ではなかった人達が、一つの不幸や悲劇で理性を失って闇に堕ちてしまう。恨むことさえできない、それもまた地獄の一つであるに違いない。
「お父様とお母様は、ちゃんと自制されていたのよ。わたしの前で、余計なことを言ったわけじゃないから」
でもね、と彩音は力なく笑う。
「それでも、時々目が言っているの。お母様もお父様も明らかにお酒と煙草が増えてしまった。そういうものに逃げながら、わたしのことを冷たい目で見る瞬間があるのよ。……どうして、死んだのがお前の方でなかったんだ、ってね。そう言ってるのがわかってしまうの」
「そんなこと……」
「もちろん、二人がわたしを愛してくれているのは知っているし、わたしはとても恵まれた人間だっていうのもわかっている。けれど人の感情っていうのは、理性だけではどうしようもない瞬間もあるの。言葉に尽くせぬ苦痛は時に、人の善意や愛情さえもガリガリと削り取ってしまう。行かないで、なくさないで、それは嫌だとどれほど手を伸ばしてしがみつこうとしても、ね」
言葉が出なかった。
同時に、自分はなんて残酷なことをしてしまったのだろう、とえりいは後悔する。願いが叶わないかもしれない、なんて本当に言わなければよかった。そもそも、それだって確定事項ではない。仮に一人しか出口を見つけられないのだとしても、一緒に願いが叶う可能性だってゼロではないではないか。実際、そういうおまじないとして広まってはいるのだから。
どうしてちゃんと織葉の忠告を聞かなかったのだろう。無闇と出口探しを優先されたくないから、なんて――そんなの結局、えりいの都合でしかなかったというのに。
「ごめんね、私……」
思わず謝罪を口にしようとしたえりいに、彩音は首を横に振った。
「悪いのはわたしだわ。本当に、大きな声出してごめんなさい。でもね、わかってほしいの。わたしは……わたしはなんとしても、兄さんが死んだという過去を修正したい。そうすれば、家族の平穏は戻ってくる。そして、わたしはまた、大好きな兄さんに頭を撫でて貰える。……馬鹿みたいよね、高校生にもなって本当に欲しいものがそれだなんて」
「そんなこと、ないよ」
「せや、そんなことあらへん」
えりいの言葉に、蓮子も乗っかった。
「あんな、ほんまにごめんな。うち、彩音の兄さんが亡くなってるらしいってのは聞いてたけど、詳しいことは知らんかったから……そこまで、兄さん取り戻そって、必死になってはるとは思わんくて。せやな、死んだ人間は、神様みたいな存在にでも願わんと取り戻せんへんもんな……。……うちみたいに、父さんの会社が危なそうだからお金もらえたら嬉しいなあ、なんて。そんな安っぽい願いとちゃうわ」
どうやら、蓮子の願いはそれだったらしい。急に、えりいは自分のみみっちい願いが恥ずかしくなった。
二人とも、誰かを助けるために扉鬼の力に頼ろうとしていたのだ。それに対して、自分は己の失恋をどうにかしたいだの、幸せになる手助けをしてほしいだの、己の努力でもどうにかできそうなことばかり。自分のためだけに、おかしな存在に力を借りようとして自爆したわけだ。
「……二人に比べると、私の願いって、マジでしょっぱいな。情けないよ」
おにぎりをもう一度口に含んだ。今日は梅干しだったようだ。母が作ってくれるおにぎりはいつも、梅干し、しゃけ、昆布のいずれかであることが多い。たまに明太子や焼きたらこが入っていることもある。
なんだか今日の梅干しは、いつもより酸っぱいような気がする。気持ちの問題だろうか。
「そんなことないわよ」
彩音は即座に、えりいの言葉を否定してくれた。
「人の悩みや苦しみに、重いも軽いもないの。自分が苦しいからって、人の苦しみをたやすく否定するような人間にだけはなるな。不幸自慢するような人間にはなるな。これも、兄さんの教え。……貴女も貴女なりに苦しんでいたのでしょう?顔を見ればわかるわ。そんなに卑下しないで」
「だけど……」
「わたしはね、この世界には願っても願っても祈っても祈っても……届かないものがたくさんあることを知っているの。それを叶えるために、時に人が犯罪に手を染めてしまうことがあるのも。だから、そうならないように……少しでも誰かの手助けをしたいっていつも思ってる。そうすることで自分が救われたいからっていう、エゴな理由でね。それで結局、二人をこんなことに巻き込んでしまったのだから、本当に愚かだったとは思うけど」
「そんなことない。そういう風に考えられるのは、凄く立派だと思うよ」
えりいは心から言う。
誰かの為になることをして、自分自身をも救う。それの何が悪いのだろう。
そうやって、誰かのことも自分のことも救える人間が、この世界にどれだけいることか。
「……なあ彩音はん」
蓮子の方のお弁当はサンドイッチだったようだ。サンドイッチをくるんでいたラップを外しながら蓮子が言う。
「うちは、彩音はんには才能もあるし、人格的にも満点やと思ってる。彩音はんが本気で願ったら、扉鬼の出口を探すーっていうのやって……そう、叶わない願いやないと思う。だから、出口を見つけてから扉鬼を除霊したいって言うんなら、反対する理由はないで、せやけど」
彼女は眉をひそめて続けた。
「彩音はんは、ほんまに大丈夫なんか?実は昨夜の夢の中で、めちゃくちゃ追い詰められてて、そのせいで具合悪くしたんとちゃうの?」
そう、それが一番気になるところだった。話したくないというのならば、無理に訊くことはできないが。
「……本当に、大丈夫よ」
彩音は暗い顔で告げた。
「でも、昨夜……初めて、怪物に追いかけられたわ。それが理由なのは、否定しない」
「え!?」
ついに来たか、とえりいは蓮子と顔を見合わせる。
扉鬼の世界に潜む怪物――それは一体、どのようなものなのだろう。