きっと、織葉は嘘なんてついていない。
もちろん彼の推察が外れている可能性もないわけではないだろうが――本物の扉を見つけるのが、脱出の唯一の方法だというのは恐らく間違っていないのだろう。
「……本物の扉と鍵とやらをあの空間で見つけて、脱出して……そのあと、あの空間と取り残された人達、扉鬼はどうなるの?」
えりいの言葉に、織葉は静かに“わからない”と首を振った。
「しかし、扉鬼本体がそれで浄化されることはないだろう。そもそも、あの空間に扉鬼が望むものがあるわけじゃない。それを見つけない限り扉鬼も浄化されることはないと思われる。出口らしきものを見つけて扉鬼を外に出し、自分もその隙に脱出しても……扉鬼本体は、あの空間から出られるわけじゃない。必ず、元の場所に戻ってくるだろう」
「……扉鬼にとっては、その出口さえ偽物。そう気づいてしまったらもう、二度と出口が開いてもそこから鬼は出ようとはしない。だから、他の人は同じ方法で脱出できない……?」
「恐らくだが、その認識で正しい。そして、鬼はさらに激情をため込んで、より一層空間の中で力を膨れ上がらせる。……その時捕まっていた人達が逃げるのは、容易ではないだろうな」
「それって」
えりいは思わず声を荒げた。
「一人脱出したら、まだ生きている他の人達を見殺しにするってことじゃん……!私、そんなことできないよ!」
自分は善人じゃない。見ず知らずの人全てを助けたいなんて、そんなこと思えるほど心清らかなつもりもない。でも。
「あそこには紺野さんや銀座さんも閉じ込められてるんだよ!?それに……扉鬼の話は、どんどん人伝に広まっていってるかもしれないんだよね?だったら、知らずにあの夢の中へ入ってきてしまう人がこれからもいるんじゃないかな。その人達をみんな見捨てることになる。扉鬼本体を見つけてどうにかしなきゃ、何も解決しない。違う!?」
「えりい……」
「今は……今は扉鬼の話を聞いて絵を見なければ、夢の中に取り込まれないって話だけど。今後条件が変わる可能性はないの?話を聞くだけで条件をクリアしちゃうようになるとか、みんなを巻き込むためにわざと絵を見せて回るような人とか……それよりワンクリ詐欺みたいに、ネットに絵をアップしてそれをクリックさせようとする人とかが出るかもしれない。そうなったら、どれだけの被害規模になるか……!」
己がただの女子高校生で、特別な能力なんて何もないことはわかっている。幸運にも、織葉のような多少なりのン知識がある人間が味方にいたという、それだけの存在だ。
それでも、この鬼が危険だということは知っている。それをみんなに教えることはできる。
他の人達よりも情報を得ている。だったら、そんな自分達にしかできないことがあるのではないか。
そもそもあの黒須澪だって言っていたではないか。このままでは世界が滅ぶところまで行ってしまうかもしれない、だから困っているし歯止めをかけたいと考えている、と。
世界が滅んでしまったら、みんな死んでしまう、消えてしまう。
誰かの想いも、願いも、悩みも苦しみも喜びも痛みもみんなすりつぶされて失われてしまうのだ。
そんなこと、許していいはずがない。
――小さな頃、ずっとなりたかったものがある。
『えりいをいじめるな。ぶっとばすぞ』
――私は弱くて……とても弱くて、情けなくて、いつも泣いてばかりで。自分は絶対そんなものにはなれないって、魔法少女にも戦隊ヒーローにもなれはしないってあきらめてたけど、本当はわかってたんだ。
『えりい、だいじょうぶか。あいつら、おれがおっぱらってやったからな』
――本当のヒーローは、いつも身近にいた。マントで空なんか飛べなくても、魔法のステッキなんか持ってなくても、変形するロボットに乗れなくても……傍にいてくれる人なんだって。
『なくなよ、えりい。おれがいつも、そばにいるから』
――そうだ、私は。
「私は、君みたいになりたい」
気づけばえりいは、はっきり言っていた。
「弱虫で、情けなくて、そんな私をいつも守ってくれた……織葉みたいになりたいの」
「俺?」
「うん。……小さい頃、私は今よりさらに泣き虫で、ちょっとからかわれたくらいですぐ泣いて先生を困らせちゃうような子で。幼稚園の時、いじめっこたちさえ呆れるくらい情けない奴だったんだけど……そんな時、織葉だけは絶対私を見捨てなかった。助けてくれた。それが嬉しくて……君みたいになりたいって、ずっとそう思ってたんだ」
「えりい……」
同時に。織葉みたいな強さを手に入れたら、もう守られなくて済むと思ったのだ。彼に頼って縋り付いているうちは一生、対等な関係にはなりえない。隣で並んで歩いていくことなどできないと思ったから。
「織葉にカノジョがいるかもしれないって思って、離れたのは……ショックだったのもあるけど。いい機会かもしれないって思って。私はずっと織葉に頼りっきりだったから……駄目な人間から脱却するためには、ちゃんと独り立ちしなきゃって、そう思ったっていうか、その……」
段々と、脈絡がなくなってくる。決意というのはもっとかっこよく、堂々と言うべきことだというのに。
「そ、その、だから!……本物のヒーローならここで、自分だけ脱出して他の人を見捨てるなんてこと、しないと思うんだよ。織葉だってそうじゃないの?もし自分も夢の中に取り込まれてて、私か織葉の片方しか脱出できないんだとしても……私を見捨てて脱出するなんてしないでしょ?」
「当たり前だ」
即答。そういうところ、本当に昔から変わっていないんだよな、とえりいは嬉しくなってしまう。
彼から独立しなきゃと思ってるのに、それはそれとして、彼の特別な立ち位置にいれることを喜んでしまう自分がいるのだ。
「ここで、みんなを助けたら私はヒーローになれる。そしたらもっともっと自分のことを好きになれると思うの。……ようは結局、紺野さんたちのためとかじゃなくて、自分のためみたいなものだけど。でも、世界が、大事な人がたくさん巻き込まれるかもしれないものを放置して自分だけ逃げるなんて嫌だから……その」
真っすぐに織葉を見て、えりいは告げた。
「その、だから、織葉。協力してくれないかな。私には霊感とかそう言うの全然ないから。扉鬼を止める方法、一緒に探してほしいの」
そんな自分の言葉を、織葉はどう思ったのだろうか。ほんの少し、沈黙が流れた。鳥のさえずりが聞こえる。遠くで子供の声が響く。誰かの足音、箒の音、車の音、犬の声。世界は今までと何ら変わらず、当たり前のように動いているように見えるのに、実際は見えないところでじわじじわと蝕まれ、壊されようとしているかもしれないのだ。
己と己の世界を愛するなら、己だけ守っていては駄目なのだ。
強くなりたい。この壁を越えて、試練を越えて、自分は未来へ行きたい。本当の意味で、己を好きになれるようになるくらいに。
「……わかった」
えりいの言葉に、織葉は頷いた。
「俺にできることなら、する」
「あ、ありがとう、織葉!」
「そのためには、紺野彩音、銀座蓮子の協力が必要不可欠だ。そしてその二人にどのような情報を与えるか精査する必要がある……というのもわかっているな?少なくとも、扉鬼の世界から出られるのは一人である可能性が高い、なんてのは絶対二人に教えちゃいけない。それから、願い事が叶う、というのが嘘かもしれないというのもできれば言わない方がいいだろう」
「うん、それは……わかってる」
彩音は言っていた。自分は絶対鍵を扉を見つけて願いを叶えてみせると。それを確信していると。
少なくとも彼女には、人外の存在にでも頼らなければならないほど強く困難な願いがある。それが何なのかは見当もつかないが、お金も能力も恵まれた彼女が努力して叶えられないと考えているのならよほど難しい願いなのだろう。人を殺したいとか、逆に生き返らせたい、なんて願いかもしれない。
それが叶わない上、夢の中に永遠に閉じ込められるかもしれないとなれば、どれだけショックを受けるか。もちろん、知らせないで黙っているのもそれはそれで残酷なことなので、判断に悩むところではあるが。
「紺野彩音については、俺も噂を聞いたことがある。彼女は有名人だからな」
そんなえりいの心を察してか、織葉が告げた。
「確か、何年か前に兄をなくしていたはずだ。交通事故だったと聞いている」
「え!?」
「なんだ、えりいの方が知らなかったのか。妹に勝るとも劣らない、優秀な兄だったらしい。将来は父と同じ銀行に入ると言っていたようだ。それが亡くなって、家族が一度崩壊しかけたとか。……妹の彩音としては思ったのかもしれないな。兄ではなく自分が死ねば良かったのに、と」
「そ、そんな……」
まさか、彼女が叶えたい願いというのは。
「お兄さんを、生き返らせるってこと?」
それが本当なら。彼女の願いは、どう転んでも自力で叶えられるものではない。
死んだ人を蘇らせる技術などこの世界に存在しないし、あったところで禁じ手であるのは間違いないのだから。
「あくまで予想だけどな。同じクラスの奴が言ってたんだ。仮に本当にそれが願いならば、彼女は“願いが叶わない”と聴けば傷つくどころじゃないだろう。下手をしたら、えりいに対して逆恨みするようになるかもしれない。この状況で、彼女達と敵対するのはデメリットしかない。わかるな?」
「……うん」
そういえば蓮子の方はどうなのだろう、とえりいは思った。えりいは、蓮子にも叶えたい願いがあるはず、みたいなことを言っていた記憶があるが。
「紺野彩音に情報を教えた人物と同一人物かもしれない……黒須澪と言う少年に出会ったこと。怪物やトラップにひっかかったら夢からはじき出されるだけでは済まないこと、などはしっかり周知するべきだ。それからえりいも。今夜からは、怪物の存在を全力で避けると同時に、うかつに扉を開けないように気を付けてくれ。明らかに様子がおかしい部屋には入らないのがベストだ」
その上で、と彼は続けた。
「俺も現実の世界で、いろいろ調べてみる。まずは扉鬼という怪異を作った人物と、そのもとになった事件を知る必要があるだろう。そいつが何を願ったか、成仏させる方法があるのか。神社や寺にも、相談できるならやってみるべきだしな」
「ありがとう織葉」
そろそろ時間だ。学校に行くべく、えりいも立ち上がる。
一人ではない。それがどれほど有難く、貴いことであるか。自分が恵まれていることを、けして忘れないようにしなければと思う。
頼らないで、寄りかからないで、一人で立つ。それは、仲間を拒絶することではないのだ。
――戦うんだ、織葉と一緒に。
二人でなら、きっとできる。