肌が焦げる。
酸が皮膚に染みわたり、組織を壊し、内臓を腐らせ、骨を溶かしていく。その激痛たるや、さっさと殺してくれと願ってしまうほど。
「ひぎゅううううううっ!」
食いしばった歯の隙間からしゅうしゅうと息が漏れ、制御できない唾液が唇から漏れる。痛すぎて、痛いと叫ぶことさえままならなくなっていく。
さっさとこの苦しみを終わらせてくれ。この痛みから解放してくれ。そう思うのに、自分で舌を噛む余裕さえない。勇気以前に、頭の隅にちらりと過ぎってもそんな行動さえできないほどに追い詰められている。
――助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてええええええええええええ!!
がくがくと炭と骨になった足が酸の海を掻き、逃げまどう腕が空中をがりがりとひっかき、割れたガラスの破片でさらに血が飛び散り、漏らして白目をむいて目の前が真っ暗になってもまだ痛みからは解放されなくて。
――お願い、もう、殺して、殺してえええええっ!!
次の瞬間。
樹利亜は、がばり、とベッドから飛び起きていた。
「いやああああっ……あ、ああ、あ?」
あれ、と目を何度も瞬かせた。目の前には、気まぐれに母が買った観葉植物がある。白いカーテンがはためき、遠くで雀の鳴き声が響く。
ベッドの真正面に置かれた姿見に映っているのは、パジャマ姿の樹利亜だ。おかしなところは何もない。下半身が炭になっていることもなければ、あれほど脳を焼いていた激痛もない。
何よりここは、見慣れた自分の部屋だ。
「あ、あああ、あ……」
母は家にいないのか。それとも夜勤上がりで爆睡しているのか。確かなことは一つ。――樹利亜は死の一歩手前で、現実の世界へ戻ってきたということだった。
「あ、あああああああ、ああああああっ……」
喉から掠れた音が漏れる。両腕で己の体を抱きしめて、樹利亜はぽろぽろと涙を零した。
「なんでよ……なんで、なんで!なんで、あたし、こんな目に、遭わないといけないわけえ……!?何よ、そんな、そんな悪いこととかなんもしてないじゃん、ねえ……!」
ギリギリ生き延びた上、体を襲う激痛からも解放されている。それなのに樹利亜は1ミリも安心する気にはなれなかった。何故なら知っているからだ。――自分はけして、逃げられたわけではない。次に眠った時、またあの世界の夢の続きを見ることになるのだと。
そう、また自分は夢の中で、現実としか思えない激痛に焼かれるのだ。布団の中で身動きをすると、じわり、と股間が湿っていることに気付いた。思えば、あの世界でも失禁していたような気がする。現実の体にも多少影響が出た、ということなのだろう。しかし、それを恥ずかしいと思うことさえなかった。恥ずかしがっている場合ではないことは、自分が誰よりわかっていたからだ。
もう一度あの酸の海に落とされるなんて、耐えられない。
あんなに苦しいのに、本来ならばとっくにショック死してもおかしくないような体験をしたのに、自分はまだ意識があったのだ。苦しみの中、ひたすら泣き叫び、助けを求めていた。この苦しみから解放されるならひと思いに殺された方がましだと思ったほどだ。
――どうすりゃいいの。
あの部屋に、出口はなかった。自分は確実に、開けてはいけないドアを開けてトラップにハマってしまった、ということなのだろう。ひょっとしたら別に出口があった可能性もあるが、結局見つけられないまま酸の海に溺れることになったわけである。
あそこから挽回できる可能性など、万に一つもない。
仮にすぐに脱出できても、下半身が焼け焦げて炭になってしまっている以上這いずることさえままならないだろう。というより、もう苦しみながら死んでいく以外に術はないに違いない。
つまり自力で出口を探すことなんてできない。できるはずがない。
――どうすりゃいいの、ねえ、どうすればいいってのよおおおおっ!
なんとかして、扉鬼の世界から逃れる抜け道はないのか。なんでもいい。他の奴にこの苦しみを押し付ける方法でもなんでもいい。己が助かりさえするなら、他の誰かが死んだってかまうものか。
死にたくないのだ。もう、拷問されるのも嫌なのだ。だから、だから、だから。
「……そうよ」
ぐしゃぐしゃになった顔で、樹利亜は鏡の中の己を睨んだ。睨んだ顔が、くしゃあ、と歪んだ笑みに変わる。
「なんかのホラー映画とかで、あったじゃん。……こういう怪異ってさ、人に広めることを目的としてんでしょ。きっとそうなんでしょ。だったら……だったらさあ」
がくがく震える手で、枕元のスマホを手に取った。
「広めてあげるから、手伝ってあげるから、あたしだけでも助けてよ、ねえ……!うふふふふふ、ふひひひひ。ひひひひひひひひひひっ」
***
早く起きたおかげで、登校時間まではかなり余裕があった。えりいは織葉とともに、学校近くの公園のベンチに座る。この時間なら人気も少ないし、なんとなくあまり人に聞かれない方がいい気がしたからだ。
特に、一部の話題は、学校で万が一彩音や蓮子に聞かれると面倒なことになる。彼女達を傷つけたくないなら尚更、訊かれる危険は排除するべきだろう。
この公園は、中央に大きな銀杏の木があって、秋になると美しい黄金に変わることでも有名だった。銀杏の木をぐるりと取り囲む形で五つ深緑色のベンチが配置されている。そのうちの一つに、えりいと織葉は腰かけた。
「……なんか、ここに来たのも久しぶりってかんじ」
ベンチに乗っていた枯れ葉や砂を払いながら言うえりい。
「最後に来たのって、高校受験の前だっけ。……うちの高校の見学、一緒に行ったんだよね。文化祭の時だっけ」
「ああ」
「賑やかで楽しそうで……あと、屋台とかイベントも自由なかんじでさ。行ったら楽しそうな学校だなーって話したよね。まあ、織葉は偏差値ヨユーだったけど、私は正直あの時はかなり危なくって……本当にここ合格できるのかなって不安だったけど。それで……」
「えりい」
話さなければいけないことはわかっているのに、なんとなく雑談に入ってしまう。えりいのそんな気持ちは見透かされていたのだろう、織葉が口を開いた。
「すまなかった」
目の前には、ブランコと砂場。砂場の上を、誰かが置き忘れていった小さな赤いバケツがころころと転がっていく。
「多分、俺が何かやらかしたから、えりいは怒ってるんだと思う。まず、それを謝罪させてほしい。悪かった」
「何か、もわからないのに謝るの?」
「わからないから謝る。俺は、昔から人の心に疎くていけない。自分でも直さなければいけないとわかっているのに、どうにもならない。えりいにもみんなにも嫌われたくないのにすぐ思ったことを言ってしまうし、空気を読むのが下手すぎる。今回もきっと、致命的なやらかしをしたんだろう。きっとえりいは、俺がその正体に気付かないことに一番怒ってるんだと思う。自分で気づかなければいけないとずっと思っていた。一生懸命記憶を探った。それなのに思いつかない自分が腹立たしくてたまらない」
だから先に謝らせてほしい、と織葉。
「本当にすまなかった。そして……結局わからなくて、申し訳ない。もう降参だ。頼む、何をしてしまったか、教えてくれないだろうか。……このままえりいに避けられているのは、耐えられない。情けないのはわかっているし、先にえりいの話を聞かなければいけないのもわかっているんだけど……」
でも、と彼は続ける。
「えりいから、相談したいことがあるって聞いて、不謹慎にも嬉しかった。まだ、えりいと話す権利が与えられてるような気がして。……すまない。それと、チャンスをくれてありがとう」
相変わらず、とえりいは思った。
相変わらず、どっかでズレている。――普通、心当たりもないのに冷たい態度を取られたら怒るところではないか、そこは。それなのに、怒る以前にしょんぼりしてしまう。これは、相手がえりいだからだろうか。そうだったら嬉しい、なんて思ってしまう自分も相当末期だ。
相談したいことがある、話したいこともある、それも事実だ。
でもせっかく時間があるなら、ちゃんとわだかまりを解消しておきたい。そう思って彼を呼んだのもまた確かなことである。
「……先週の、木曜日」
緊張で喉が渇く。今日はくもりだし、いつもと比べたらちっとも暑い日ではないはずなのに。
「いつも通り、一緒に帰る予定だったじゃん?靴箱のところで織葉がいないから、どこ行っちゃったんだと思って探しに行ったんだよね。そしたら正門の前で……女の子に抱きつかれてたじゃん?あれ、なに?彼女?私との待ち合わせほっぽって会うくらい大事な人なんだよね?」
一気に尋ねた。果たして織葉はどんな顔をしているだろう、そう思って彼の方を見れば。
「あ……あー……」
織葉は左手で顔を覆って、やらかした、と言わんばかりの声を出している。んん?とえりいは首を傾げた。うっかり彼女との秘密の逢引を見られて気まずい男、という態度ではないような。どちらかというと、まさかのそれか、それを見られてたか、とでもいうような。
「……秘密にしていた、わけじゃない。でも、変な気を使わせると思って、言えなかったんだ」
やがて織葉は、呻くような声で告げたのだった。
「うちの親が、俺が小さな頃に離婚しているのは知っているな?それで、俺は母親に引き取られて……母さんが、シングルマザーでずっと俺を一人で育ててくれた、と」
「うん。織葉が幼稚園に入るか入らないかって頃だったんだよね?私たちと出会う前に離婚したらしいってのは聞いてたけど」
「実は、父親の方に引き取られた姉がいる」
非常に、それはもう非常に気まずそうな顔で、織葉は告げたのだった。
「俺の双子の姉の