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第15話

 こんなことなら、ちゃんと目覚まし時計をかけて寝れば良かった。女子中学生、十五歳の灰島樹利亜はいじまじゅりあは自分の不手際を呪った。どうせ学校をサボるつもりだし、母親は昼まで帰ってこないし、好きなだけ寝ていればいいやと思ってしまったのである。


――ああああああああああああもう、ふざけんな、マジふざけんなし!


 あのクソボケ、と呪詛の言葉を吐きながら走る。後ろから追いかけてきているものを振り返る余裕もない。さっさとどこかの部屋に逃げ込んでしまわなければ。とりあえず、自然に目が覚めるまではあの怪物に捕まるわけにはいかないのである。夢の中とはいえ、捕まったらどんな目に遭わされるかわかったものではないのだから。

 何でも願いが叶うおまじない。そう聞いていた。

 高校受験だの就職活動だの、自分もロクな仕事してもいないくせに煩いババアを黙らせたい。子供だからってあれもだめこれもだめと支配したがる大人たちから独立したい。そう思って、オカルトに精通しているという男子から聴いたのがこのおまじないだった。


『お、お願いします、灰島さん。いいことを教えます、教えますから、もう殴らないでください。お願いします、お願いします、も、もう、お金これ以上なくて……!』


 割れた眼鏡に腫れあがった顔で、みっともなく泣いていた少年の顔を思い浮かべる。最近は親からお小遣いをせびることもできなくなったのか、千円くらいしか手持ちがないことが少なくなかったあいつ。千円ぽっきりでは煙草も満足に買えやしないし、ゲーセンで遊ぶこともできない。ナメてんのか、と少年を仲間と一緒にタコ殴りにしたのがつい三日前のこと。

 その彼が、命乞いの代わりにと伝えてきたのがこの扉鬼のおまじない、だった。なんでも、夢の世界で“本物の扉と鍵”を見つけることができたなら、どんな願いでも叶うと言われているらしい。そりゃ面白そうだ、とその日は引いてやった。おまじないが嘘っぱちだったら、次はお前の目玉をナイフで抉るぞ、と脅すことも忘れずに。

 確かに、彼が言ったおまじないは本物だった。毎晩、扉がいっぱいの不思議な夢を見るようになったのだから。初日は特に問題なかった。赤っぽい通路にあるドアを、ひたすら開けて回れば良かったのだから。

 しかし。


――あんな怪物がいるなら最初に言えよクソが!それとも何か?あたしらを陥れようと、わざととんでもないおまじないを教えたんじゃないだろなあ!?


 今夜は、夢を見始めてすぐ怪物との鬼ごっこである。どうやら昨晩見た夢の続きをそのまま見てしまうシステムらしい。

 全身に灰色の毛が生えた、黒い顔の猿のような姿の怪物。

 あれに捕まったら、ただ夢の中からはじき出されるだけでは済まない――樹利亜は確信に近くそう思ったのだ。だから、逃げた。怪物が咆哮しながら追いかけてくるのを、全力疾走で。


「はあ、はあ、はあ、はあ……!」


――だ、駄目だわ。直線じゃそのうち追いつかれる!どこでもいい、とにかくドア、どこかのドアに入らないと……!


 ドタドタドタドタドタ!

 怪物が四つ足で走ってくるのがわかる。その声が、足音がどんどん近づいてきていることも。


――来るな来るな来るな来るな来るなあああ!あ、あたしが何したってのよ、何か悪いことでもしたっていうの、ねえ!?あああああああもう、死にたくない、死にたくない、死にたくないつってんのよおおおお!!


 心の中で絶叫しながら廊下を右に折れた。そこは袋小路だったが幸いにして、真ん中に白いドアが設置されていた。この先は、また別の廊下か部屋に繋がっているはずだ。樹利亜はドアノブに飛びつくと、思わず叫んでいた。


「開けて、開けて、開けて!お願い、開けてよ、開けてよおおおお!」


 そんな樹利亜の声を聞き届けたのだろうか。がちゃり、とドアノブが回り、樹利亜は転がるようにして中に飛び込んでいた。勢い余って、部屋の中に一回転で飛び込んでしまう。


「きゃああああっ!」


 そのままごろごろと転がり、反対側の壁に激突してしまった。思い切り打ち付けたお尻と背中が痛い。ぐるぐる回る頭で、ドアがばたん、と音を立てて閉まるのを聴いた。よくわからないが、なんとか逃げ切れたらしい。――前に一度追いかけられた時の経験で、怪物はどこかの部屋に逃げ込むと基本追いかけてこないと知っていた。


「ああもう、ほんと、なんなのよお……!」


 転んだ原因は、床がやけに滑るからだった。頭をすりすりとさすりながら、壁に手をついて立ち上がる樹利亜。そこでようやく、その部屋の異様な雰囲気に気付いたのである。

 そこは、白い床以外のすべてがガラス張りの四角い部屋だった。天井と、ドアがある以外の三方の壁全てが透き通っている。海の中にでも沈んでいるのだろうか。見上げた先には、遥か遠くにある水面のようなものが見えた。ゆらゆらと太陽の光が射しこみ、揺らめいている。


「何、この部屋……」


 硝子の壁が、ひんやりと冷たい。広さは八畳間ほどしかないようだ。ぺたぺたと壁を触ってみるものの、どこかに切れ込みがあるわけでも、秘密の通路があるわけでもなさそうである。白い床と、ドアがある面の壁も探ってみたがそれは同じ。しかも、たった今自分が入ってきたはずのドアが、開かない。まるで壁にぴったりとくっついて、同化してしまったかのように。


――閉じ込められた?うっそでしょ……!?


 来た道を戻ることもできず、新しい道もない。そんなバカな、と背中に冷たい汗が流れた。化け物から逃げられても、一か所に閉じ込められてしまったのでは何の意味もないではないか。自分は願いを叶えてもらって、この夢の空間から脱出しなければいけないというのに。

 落ち着け、と自分自身に言い聞かせる。

 必ず、どこかに脱出口はあるはずだ。それこそこの硝子の壁に見えるものだってホログラムかもしれない。どこかに切れ込みがあるとか、スイッチがあるとかで操作できる可能性は十分ある。前に見た変な仕掛けの部屋は、わかりづらい場所にあったボタンを押すと壁が開く仕組みになっていた。今回だって、きっと同じはずだ。


――……一か所に留まること自体、嫌な予感しかしないもの。なんとかして出口を見つけて、ホンモノの扉探しを再開させなくっちゃ……!


 深呼吸して、ぺたぺたと壁を触り、調査を再開する樹利亜。その時ふと、小さな音が鼓膜を震わせることに気付いたのである。

 それはぴしぴし、という小さな、まるで何かが硝子を軽くたたくような音だった。しかし次第に音は大きさを増していく。さながら、小さな虫が硝子に群がり、数を増やしているかのような。


「ま、まさか……」


 はっとして上をみあげた樹利亜は気づいた。気づいて、しまった。


 ピシピシピシピシ。


 天上に、蜘蛛の巣状に広がっていく――小さな罅割れ。まるで水の圧力に負けるかのように、徐々にその割れ目が広がっていく。


 ピシピシピシピシ。


 ピシピシピシピシピシピシピシピシ。


「や、やだ」


 ピシピシピシピシピシピシシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシピシ。




「やめてええええええ!!」




 ぴゅる、と小さな水が噴き出したと思った瞬間。ビシイイイ!と派手な音と共にさらに細かい亀裂が走り、次に瞬間粉々に砕け散ったのだった。

 細かい硝子の破片を浴びた、と思った刹那。大量の透明な水が、天井から室内に流れ込んできたのである。


「やだ、やだあああああああああ!」


 最初、焦ったのは“溺れてしまう”ということだった。こんな狭い部屋の中に水が流れ込んだらどうなってしまうかなんて、想像するだけで恐ろしい。そもそも、樹利亜は泳ぎが苦手だ。これが普通の水であっても、泳いで岸に辿り着ける自信なんてまったくなかった。

 しかし、すぐに体が異変を訴え始める。鼻孔が刺激臭を嗅ぎ取り、目がひりひりとし始める。そして僅かに水滴が飛び散った頬や首筋が、熱をもって爛れ始めたのだ。


「な、ナニコレ、水じゃないの!?」


 学校の勉強をまともにしたことがないので、これが何の薬品かなんて想像はつかなかった。でもきっと、ナントカ酸などと呼ばれるような劇薬なのだろうと予想する。なんせ水が足元に溜まり、樹利亜が履いているローファーを浸した瞬間、しゅううう、と白い煙を上げ始めたのだから。

 靴が、溶けていく。

 あっという間に穴だらけになった靴から液体が入り込み、樹利亜の足をも溶かし始めるのだ。


「痛い痛い痛い痛い痛い!なにこれ、やだ、やだ、ナニコレ、ねえなにこれええええええええ!?」


 ジュウウウウウウウ。

 白い煙とともに足が真っ赤に焼け爛れ、そのままどす黒く炭化していく。以前先生が見せた実験映像に、こんなのがあったような気がする。いつも理科の授業なんて半分寝てるから薬品の名前とかは覚えていないが、ナントカ酸を垂らされたトイレットペーパーが煙を上げながら炭になっていっていた、ような。

 まさか、あれと同じ液体だろうか。

 そんなものに全身浸るようなことになったら、痛いどころでは済まないなんて明白である。


「ぎゅううううううううううっ!!」


 水に、足がどんどん浸かっていく。浸かった場所から激痛が走る。ほっそりとした膝を通り越し、豊かな肉のついた太ももまで。それから、女の子の大事な場所まで、水はどろどろと流れ込み続け、樹利亜の体を炭へと変えていく。

 これでは溺れて死ぬよりも早く――早く。


――痛いいい!むり、むり、耐えられない、耐えられないいい!お願い誰か、誰かあだじをだずけで、おねが、おねがいいい!!


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