――!?
今のはなに、とえりいは振り返った。後ろには青い通路が広がるのみ。少し前から、壁や床の色が何故か青色に変わっていたのだ。
「な、なに?」
女の人の悲鳴、が聞こえたような。思わず足を止めて固まってしまう。誰の悲鳴かなんて遠すぎて判別はつかなかったが、ひょっとしたら少し前にすれ違った女性だろうか。まるで何かに追われているような焦りぶりだったが。
「なんなの……」
助けを求めるような出来事があったのだろうか。思わずぶるりと体を震わせる。この青い通路に入ってから、妙に体が肌寒い。左手には窓が並んでおり、右手側にはぽつぽつとドアが並んでいる。なんとなく通路をずっと歩いてしまっているが、そろそろどこかのドアを開けるべきなのだろうか。
――なんだか。
窓の方を見る。
――この青い通路に入ってから、妙に圧迫感がある、ような。
左側に並ぶ窓の向こうは、夜。
どこかのお屋敷の庭のような場所が見えている。ぼうぼうに生えた草の隙間から、水が出ていない噴水のようなものが見えた。藍色の空には妙に大きな満月が浮かんでいる。外に出たら、全然違う場所に行けたりするのだろうか。そう思って窓枠を引っ張ってみるものの、生憎窓は開かないようになっているようで、押しても引いても一切動く気配がなかった。
まるで空間にぴったりと貼り付けられてしまっているかのよう。そんな印象を受けて、背筋が冷たくなる。
――あんまり、この場所に長居しない方がいい、のかも。
意を決して、右側に体を向ける。ぽつぽつとドアがあるにはあるが、どれもこれも焦げ茶色ののっぺりとしたドアで、代わり映えがしない。どのドアの向こうに何があるのかなんて、判別つけようもなかった。部屋があるのか、また通路が続いているのか。あんまり寒いところに行きたくないな、と思う。それから。
――あんな、悲鳴を上げるような……怖いものに出くわすのも、嫌だな。
仮に絶叫したのがさっきの女性だとして。彼女がものすごく怖がりで、小さな虫程度でも叫び声を上げるような性格だった、ということも考えられなくはない。というか、そうであってほしい。この空間に、そんな危険なものがいるなんて考えたくもないことだ。
――そろそろ、目が覚める頃?時間、全然わかんない……。
ドアノブに手をかけ、がちゃりと回した。変な場所だったらそのまま閉めて別のドアにしよう。そんなことを思いながら、そっと中を覗き込んでみたえりいは。
「え?」
ぽかん、と口を開けた。
そこが明るい太陽の光が差し込む、洋館の客間のような部屋であったから。
真ん中にキラキラしたガラス製の大きなテーブルがあり、向かい合うように一対の茶色の皮張りのソファーが置かれている。後ろには大きな窓があり、廊下とはうってかわって明るい朝の日差しが射し込んできている。
窓の横には、ティーカップや皿を収納した食器棚のようなものが。
あまりにも空気が違う。でも、一番違和感が強いのは。
「おや」
そのソファーに座って、優雅に紅茶を飲んでいる人物がいることだ。
「久しぶりですね、この空間で人に会うのは」
彼は、鈴が鳴るような高い声でくすくすと笑った。そう、多分彼、であると思う。長いウェーブした艶やかなセミロングの黒髪、金色の瞳、白皙の美貌。黒いスーツを着たその体躯は小柄で華奢で――精々小学生くらいの年齢の、子供にしか見えなかったから。
「え、えっと……?」
さっきすれ違った女性とは、あまりにも空気が違う。焦っている様子も、慌てている様子もない。中性的な美貌でくすくすと微笑みながら、少年は手を差し出してきた。
「お嬢さん、いつまでもそんなところに立っていないで、せっかくですから座ったらどうです?ご安心なさい、少なくとも今、私は貴女に危害を加えるつもりもありません。紅茶でも飲みませんか。大丈夫、このティーセットや茶葉は私が“外から”持ち込んだものですから、安全は保証しますよ」
「は、はあ……」
直感した。
この子供は、普通の人間ではない、と。
――ひょっとしたら……この扉鬼の世界について、何か知ってるのかも。
さっきの女性についても気になっていたし、本物の出口とやらを闇雲に探すのも大変そうだと思っていたところだ。歓迎されているようだし、話くらいは聞いてもいいだろう。おずおずと、えりいはソファーに近づいた。
「お、お邪魔します」
「どうぞ」
「あ、貴方は……扉鬼のおまじないをした人間、じゃないの?」
怒らせたらまずい、ような気がする。なのでなるべく控えめに、遠まわしな言い方を選ぶことにした。
「ええ、違いますよ。私は人から伝承されなくてもこの世界を、鬼の存在を知ることができますから。その果てに、自分でこの世界に来たのです。興味を持ったもので」
「興味?」
「はい。面白いじゃないですか。人の願いが鬼を作り、鬼が世界を作り、多くの人を巻き込んで呪いを成就させるなど」
鬼。
呪い。
背中に冷たい汗が流れる。さっきから、不穏な単語しか出てこない。
「そ、それは、どういう」
尋ねようとしたところで、ストップ、と彼が右手を差し出してきた。
「残念。……どうやら今日は時間切れのようです。貴女が目を覚ます時間が迫ってるようで」
「え、わ、わかるの!?」
「はい。というわけですので続きは、明日の夜にでも。ああ、扉鬼の世界にいる間は、なるべく授業中にうたた寝をしたり、昼寝をしたりといったことは御控えになった方がよろしいかと。この世界は、繰り返す見る人間ほど……鬼に見つかりやすくなるもののようですからね」
それはどういう意味なんだ、と尋ねることはできなかった。世界が段々と白く光り、霞み始めたからである。美しい黒髪の少年も、豪奢な応接室も、ティーポットやカップも、全て白く飛んで消えていこうとしている。
「ちょ、待って!」
そんな中途半端に放り出されても困る。えりいは慌てて手を伸ばす。
「ま、まだ消えないで!そんな気になるようなことばっかり言われても、私……!」
伸ばした手は、宙を掻いた。次の瞬間。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!
「!!」
はっとして目を見開いた。けたたましい目覚まし時計の音。眼前に見えるのは、真っすぐ何かを掴もうと伸ばされている己の手と、見慣れた自室の白い天井だ。
「あ、あ、れ……?」
元の世界に戻ってきたのだ。それを察しても、すぐには動けなかった。そのせいか、しばらく目覚まし時計を鳴らしっぱなしにしてしまい、部屋のドアががちゃりと開かれることになる。
顔を出したのはえりいの母だ。
「ちょっとえりい、煩いわよ。さっさと目覚まし時計止めて起きてらっしゃい。遅刻するでしょ」
「あ、は、はい……」
あれは、何もかも夢だったのか。扉鬼の世界に行ったと思ったのは、自分の妄想か。もしそうでないなら、あの少年は一体。
――……呪い。
ごくり、と唾を飲みこむ。あの少年の言葉が、耳から離れない。
自分は一体、何に関わってしまったというのだろうか。
***
今日は一人で学校に行くから。
そんなLINEを織葉にするのをすっかり忘れていた。そのせいで、彼がいつも通り家に迎えにきてしまっていた。――昨日、あれだけ気まずい態度を取ったのに。彼の方は嫌な気持ちにならなかったのだろうか。
「……今日は別に、お迎えとか良かったのに」
自宅を出て、エレベーターホールでエレベーターを待つ。その間につい、織葉につんけんした言葉を放ってしまった。
「昨日、いろいろあったでしょ。それなのに」
「気にしてない。……それに、多分俺も、知らないうちに何かをやらかしたのだろうし」
「何をやらかしたのか、もわかんないのに……モヤったりしないの」
「そりゃ、えりいに教えてほしいけど。教えてくれないなら自分で探すしかないし。それに」
「それに?」
「……えりいに嫌われるのは、嫌だから」
最後の声は本当に消え入りそうなもので、えりいの方がむしろ罪悪感を抱いてしまうことになる。
本気で落ち込んでいるのが伝わってくる。全然怒っている様子はない。それが不思議で仕方なかった。昨日、理不尽な態度を取ってしまった自覚はあるのだ。それに。
――なんで、そんなに私のこと、気遣ってくれるの。
ぎゅっと鞄の紐を握りしめる。
――なんで……そういうこと思うならなんで、他のカノジョなんて作ったの。
あの人がカノジョじゃないなら、カノジョじゃないと言ってほしい。
そう言いたいのに、問い詰めたいのに、それもできない。言うべきか、言うべきではないか、迷っているうちにエレベーターが来てしまう。
「えりい」
中に、他に人は乗っていなかった。エレベーターに乗り込みながら、織葉が言う。
「何か、えりいは俺に不信感を抱いているのかもしれない。俺に対して怒ってるのかもしれない。でも……俺は、少なくとも……何があってもえりいの味方のつもりだから。えりいが本当に困っていたら助けにいく。どんな時でも、どこでも。それを忘れないでほしい」
だから、と彼は続ける。
「本当に困ったら、ちゃんと相談して、助けを求めてほしい。すぐに助けに行くから」
なんで、そんな優しい声で言うのだろう。えりいは彼の方を見ることができず、きゅっと唇を噛みしめる。
自分は全然大丈夫だよ、と。強がるくらいの強さと余裕が己にあれば、少しは何か変わったのだろうか。