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第7話

 扉鬼の夢に入って、数日が過ぎる頃。

 亮子はこの時には既に誰にも出会うことなく、ただドアを開けて中を覗く時間に退屈し始めていた。

 扉鬼の世界ではドアの形状はまちまちだ。廊下も、コンクリートの打ちっぱなしの灰色の壁や床であることが多いが、今まで歩いた通路の中には雰囲気の異なる場所もあった。まるで洋館のような空間や、それこそ屋外に見えるような場所まで。

 確かなことは、別の空間に行くためには必ず“扉”の役目を果たす何かを通らなければいけないこと。基本的にはドアか扉のわかりやすい形をしているが、場合によってはマンホールのようなものの時もある。これは、自分が実際に経験してわかったことだ。


――思った以上にこの空間は広いし、探すのは難しい。これは誰か協力者でも得ないと無理かしらと、そう思った時だった。


 あるドアを、見つけた。

 それは古びた木製で、あちこち黒カビが生えて湿っているように思えたのだった。相変らず鍵らしきものはついていない。開けようと思えばすぐ開けられそうな、そのドア。

 奇妙だったのはその向こうから、音が聞こえてきているということ。何やら湿っぽいような、何かを掻きまわすような。ところどころ、うめき声のようなものも響いてくるような。


――嫌な予感が、した。でも、どうしてもその先を見なければいけないような、そんな気がしてしまった。気づくと私の手は勝手に、ドアに手をかけていて。


 ギイイイイ。

 鈍い音を立てて開いていくドア。その向こうにあったのは、コンクリートの、何もない部屋。袋小路の空間。

 今までの部屋と違っていたのは、その真ん中に奇妙なものがあったこと。


『ふぐう、うぐ、うぐうう、ううう、ぐううううううっ』


 真ん中に、大の字になって少女が倒れていた。中学生くらいだろうか。ひだのついた短い紺色のスカートから、肉づきのいい足が伸びている。その足が時々びくん、びくんと痙攣して、液体を飛び散らせているのだ。

 微かに香るアンモニアの臭いは、彼女が失禁しているせいだろう。しかしそれ以上に鼻孔を突き刺すものは、床に大きく広がっているものは――とても生きながらえることができるとは思えないほどの、大量の赤。


『……え、え?』


 彼女の腹部のあたりに、何かが背中を丸めて蹲っていた。全身に、灰色の毛が生えているのが見える。大柄な成人男性――いや、それより少し大きいくらい、だろうか。こちらに背中を向け、背筋を丸めてしゃがみこんでいるので正確なサイズがわからない。ただそいつが手を動かすたび、ねちゃ、ねちゃ、ぐちゃ、という音が響き渡るのである。


『うぐううう、やべで、痛い、痛いよおおお……!』


 びくんびくんびくん、と少女の足が飛び跳ね、尻が浮き、顔がのけぞる。だらだらと口元から血泡を噴き、眼球が飛び出さんほど眼を見開き、苦痛に舌を突き出していた。

 ああ、と亮子は気づいてしまう。

 あの灰色の毛むくじゃらの怪物は――彼女を、食べているのだ。

 生きたままあの女の子の内臓を、肉を、引き裂いて咀嚼しているのだと。


『あ、ああっ』


 怪物の動きが止まった。ズズズズ、と血をすするような音とともに、そいつがこちらを振り向く。


『ひいっ』


 そいつの顔は人間とも猿ともつかぬ顔をしていた。見開かれた真っ赤な眼、耳まで避けた口からは鮫のような鋭い牙がずらずらと並んでいるのが見える。口元を血肉の破片が汚し、赤い目玉は何かを見定めるようにぎょろんぎょろんと蠢いていた。

 そしてその手には、彼女の腸らしきものがわしづかみにされていて――。


『あ、あああ、あ』


 完全に、こっちを見た。瞬間。


『あ、あああ、あああああああああ!!』


 喉から引き絞るような悲鳴。獣のようなものが低い声で吠えると同時に、手に持っていた腸を引きちぎってこちらに突進してくる。


『いや、いやいやいやいやいやいや、来ないで、来ないで、来ないでえええええええええええ!!』


 逃げなければ!

 逃げなければ!

 逃げなければ逃げなければ逃げなければ――!!


 そうでなければ、殺される!


『いやああああああああああああああああああああああ!!』


 尻餅をつき、転びそうになりながらも駆け出した。よくわからないが、あれはこの世界にいる“出会ってはいけないナニカ”だ。ひょっとしたら、扉鬼、と呼ばれるものの正体なのかもしれない。いずれにせよ、あの女の子みたいに生きたまま内臓を食われて、地獄の苦しみを味わうなんて御免だった。

 泣き叫びながら廊下を走った。とにかく、ドアを潜って別の空間に行かなければ。あるいは、見つからない場所に身を隠さなければ。

 今まで通ってきた場所の中には、屋敷の寝室のような場所もあったし、物置小屋のようなところもあった。そういうところに行くことができれば、身を隠したり襲撃を防いだりということもできるかもしれない。だが。


――ど、どうしよう、どうしよう!うそ、ど、どっちから来たのか、わかんなくなっちゃった……!


 元来た道を戻るということは、今まで一度もしてこなかった。ひょっとしたら、一度ドアを潜ってしまうと別の空間に繋がってしまうとか、引き返すことができなくなるなんてこともあるのだろうか。

 いずれにせよ、確かなことは一つ。亮子はがむしゃらに走っているうちに、自分がどこから来たのか完全にわからなくなってしまったこと。その通路はドアは少ないのに、やたらめったら分かれ道は多かったのである。


――どこ、ここはどこ、どこなの!?


 右へ走り、左へ走り、階段のようなものを降り。それでもどすんどすんどすん、という足音とともに怪物が追いかけてくるのがわかるのである。


『オオオオオオオオオオオ……!』


 獲物を探す咆哮。自分は、あのナニカにとっては美味しい御飯なのか。あるいは駆逐されるべき敵なのか。背中にびりびりと感じる敵意からして、命乞いが通じる相手でないのは確かだろう。

 亮子はひたすら逃げ回った。逃げている途中で朝が来て目覚めたが、次の夜眠ればまたあの続きだったのだ。

 数日逃げ続け、やっと新しいドアに辿り着いたのがついさっきだったというわけである。何やら別の“参加者”らしき女の子がぽかんとした様子でこちらを見ていたが、構ってやる余裕もなければ教えてやるだけの優しさも残されていなかった。むしろ彼女があのままぐずぐずしていれば化け物に発見されて、足止めになってくれるかもしれないと思ったほどである。

 我ながら醜いのはわかっていたが、背に腹はかえられなかった。


――とにかく、逃げるしか……!


 五つ並んだドアの一つを潜った結果、この灰色の長い長い廊下に辿り着いたわけである。またドアがない。怪物はドアのところで少しぐずぐずしているのか足音が聞こえなくなっていたが、それでも安心なんてできるはずがなかった。

 あの五つのドアのうち、このドアを選んだのは失敗だったのかもしれない。誰もいないし、何もない。こんな一本道、追いつかれたら一環の終わりではないか。もっと言えば、この道がどこかに続いている保証もない。もし、この先が行き止まりだったらどうすればいい。隠れるところも逃げるところもなく、武器の一つも持っていないか弱い女でしかないというのに――!


――私、悪いことなんて何もしてないじゃない!なんで、こんな目に遭わないといけないわけ!?


 自分におまじないを教えてくれた友人とは連絡が取れなくなっていた。彼女もひょっとして、私に扉鬼のおまじないを教えてすぐアイツに遭遇して殺されたのだろうか。そもそも、この夢の世界で殺されたらどうなってしまうのか。

 さっき食われていた少女の様子。

 この空間では痛みも苦しみも感じないなんて、とてもそんな風には見えない。


「はあ、はあ、はあっ!」


 とにかくどこかの扉を探して入らなければ。

 そして今夜を、どうにか生き延びなければ。朝が来れば、とりあえずこの夢から醒めることができる。現実の世界に戻れば、お祓いでもなんでもしてもらって助けて貰うこともできるかもしれない。

 朝まであと何時間だろう。何分だろう。自分は一体、どこまで走れば――。


「ぎゃっ!」


 突然、何かに突き飛ばされた。勢いよく尻餅をつく亮子。


「な、なに……」


 最初は壁にぶつかったのかとも思ったが、違う。いつからそこにあったのだろう。目の前には灰色の、ふわふわした物体が目の前に存在している。まるで突然、床から生えてきたと言わんばかりに。


「あ、あああ、あ……」


 引きつった声が喉から漏れた。それが何なのかはわからない。でも、ナニであるのかは知っている。だって自分はさっきまで、そいつから逃げて走り続けていたのだから。


――どうして?あいつ、後ろから追いかけてきてるんじゃなかったの?なんで、当然のように私の目の前にいるの?


 怪物が、緩慢な動作でこちらを振り向く。血走った赤い目が、牙が並んだ口が、猿とも人ともつかぬ黒い顔が。

 怪物は二体以上いたのか?それとも先回りしてきたのか?

 確かなことは一つ。今、自分はここで――こいつに殺される。


「い、いや」


 怪物の太い腕が、あっけなく亮子の右腕と左腕を掴んだ。


「いやああ助けて、誰か、誰か助けてええ!!」


 絶望の中。

 亮子は己の両腕の骨がへし折られる音を聞いたのだった。


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