織葉の顔は、今まで見たことがないほど青ざめている。
「引き寄せた、って」
戸惑ったのはこっちだ。一体何の話をしているのか。
「何のこと?何の話?」
「惚けるな。心当たりがあるはず。変な奴と関わったりしただろう」
「変な奴って……」
流石にむっとしてしまった。彩音のことだとそう感じたからだ。ひょっとしたら、自分達がおまじないの相談をしているところとかが目撃されていたのかもしれない。
「その言い方はどうなの?紺野さんたちは私を心配して声をかけてくれたのに!」
「紺野さん?お前のクラスメートの紺野彩音か?」
「知ってるんじゃん。まあ、紺野さん美人だし、成績優秀だし、優しいから有名人だよね。織葉と違って変な隠し事とかしそうにないし!」
違う。
こんな風に喧嘩を売りたかったわけじゃない。なのに、腹が立った勢いで妙なことまで言ってしまった。
案の定、隠し事?と織葉は困惑した表情をする。本当に自覚がないらしい。それが、ますますムカムカしてしまった。
「紺野さんは、私が元気ないからいろいろ教えてくれただけ。織葉には関係ないし、悪く言われる筋合いもないから!」
そうだ。ちょっと怖そうなおまじないだったけれど、あれは彼女が自分を気遣って教えてくれたもの。
鬱々とした気持ちに、具体的な打開策をくれた。前に進む力をくれた。そう考えたら何も悪いことなどないではないか。
余計な隠し事をして、その自覚もなしに保護者みたいな顔をする織葉とは違うのだ。
「私の友達を悪く言ったら、織葉だって許さないよ」
本当は、仲直りがしたかったはず。本当のことが知りたかったはず。それなのに、思い通りにならない口が余計なことばかり言ってしまう。
「悪く言うつもりなんてない」
織葉は困ったように言う。それでも、えりいの手を放す気配はない。
「ただ、えりいが何か妙なものに関わってるような気がして、不安なだけで。その紺野さんって人と何かしたのか?」
「別に?やってたとしても、織葉には関係ないから」
「おい、えりい」
「関係ないから!」
彼の手を強引に振り払って、えりいはすたすたと歩き始めた。後ろから名前を呼ぶ声がしたが、無視である。
おかしい。どうしてこう、うまくいかないのだろう。
怒鳴ったのは自分の方なのに、なんで自分の方が泣きそうになっているのだろう。心は難しくて、厄介で、思い通りにならないことばかりだ。
***
その夜。
寝る前に歯を磨いていると、パジャマ姿の母が洗面所にひょっこり顔を出してきた。
「えりいあんた、今日学校で何かあった?」
「むぐ?」
明らかに気を使った声。慌てて歯磨き粉を吐き出して振り向く。
「な、な、何でそう思うの」
別に隠すようなことでもない。それなのに動揺してしまうのは、母が織葉の母と親友だからだろうか。
母の髪型は、織葉と同じ首の後ろでの一つ結びだ。なんとなく、その髪型だけで織葉の顔を思い出してしまう。自分も重症である。
「帰ってきてから様子が変。何年あんたの母親やってると思ってんのよ。大体、木曜日に体調崩してから変っちゃ変だし」
「う、うううううううう……」
どうやら気を使って、食事の席では話さないでいてくれたらしい。申し訳ない気持ちと恥ずかしさで俯くえりい。落ち込んだ顔をしていた自覚はあったが、様子が変、と言われるほどだったのだろうか。
しかも、この様子だと。
「織葉くんと喧嘩でもした?」
やっぱり、織葉絡みなのがバレている。えりいは曖昧に笑って、まあそんなとこ、と言った。
「……正確には、私が一方的に怒ってるだけ、なんだけど」
「ふうん。嫉妬でもした?」
「なんでそうなんの」
「だって織葉くんイケメンだし、優しいし、頭もいいし、運動神経抜群だしほぼ完璧じゃない?まあ、男の子として見るとちょーっと筋肉と身長が足らない気がするけども」
「それはお母さんの趣味でしょ……」
母は昔からマッチョ好きで有名だ。筋肉体育TV、とかいうマッチョ男子たちが競う運動系バラエティをこよくなく愛し、好きなタレントや芸人には軒並みマッチョ男子を挙げるほど。ちなみに、父もかなりのマッチョ系で高身長。母も母でそれなりに鍛えていて、ジムのインストラクターをしていたら出会ったという流れであったらしい。残念ながら、彼等の筋力や体力は娘のえりいには引き継がれなかったのだが。
一方織葉はといえば、身長165cmなので高校生男子として見ればちょっと心もとないのは事実である。肩幅も広くないし、首もほっそりしている。運動神経はいいが、筋力系の項目は伸び悩んでいることを知っていた。小学生の時、綱引きで戦力にならなくてかなりヘコんでいたことを知っている。
「織葉はいいんだって。男らしい力持ち、とかそういうのより大事なことがあるんだから。中身の“かっこよさ”の方が大事な時代だと思うよ、今は。男だろうと女だろうと関係なくね」
自分で言っていて、自分でダメージを受けてしまった。そうだ、自分は織葉のそういうところを一番に評価していたはずだ。目の前で誰かが困っている、自分にできることがある。そういう時、助けない、という選択肢がない。自分の力で誰かが助かるなら、それを行使するのが当然の義務だと考えていて、それを苦にもしていない。
ましてやえりいが助けを求めると、必ず彼は来てくれたのだ。えりいにとって織葉は幼稚園の頃からのヒーローだった。――小学校を卒業するまでは、えりいよりも背が小さくて華奢だったというのに、だ。
「好きなんじゃん、織葉くんのこと」
母は苦笑いして言う。
「まあ、彼氏にしたいなら、いつまでも幼馴染ポジに甘えてない方がいいわよ。ああいうのは、いつの間にか知らないうちにかっさらわれてるもんなんですからね。喧嘩したならさっさと仲直りして、好きなら好きって言っちゃいなさいな」
「か、簡単に言わないでよ、大体、私は……」
織葉のことが好きだ。
でも、好きだと言う資格が、自分なんかにあるのだろうか。それに。
――もう、かっさらわれてるかもしれないのに。
ああ、本当に同じことでぐちぐちと悩みすぎていて嫌になってくる。いつになったら、ここから前に進めるのか。むしろ今日は、後退してしまったような気しかしない。
「……おやすみなさい、お母さん」
それ以上話を続けたくなくて、強引に打ち切った。母は肩を竦めると、一つだけ言っておくわ、と付け足した。
「言いたいことは、なるべく早く言った方がいいわよ。明日言えばいい、明後日言えばいいって先延ばしにして……その結果、たった一言が永遠に言えなくなって後悔している人なんて、この世の中に腐るほどいるものなんですからね」
ずきり、と胸の奥が痛んだ。そのまま寝室の方に去っていく母を見送って、えりいはため息をつく。
歯ブラシを洗って、口をゆすいだ。言われなくてもわかっているつもりだ。えりいたちの世界は今平穏で、平和ボケと言われるほど恐ろしいことなど何も起きてはいない。でも、今戦争をしている国の人々だって、災害で困っている地域の人達だって、その瞬間までは信じていたはずなのである――今日と同じ明日が、当たり前のように来ることを。
大切なものはなくしてから気づく。そして、気づいた時にはもう遅い。
みんなわかりきっているのに、どうして後悔しない生き方というものができないのだろう。
――ほんと、駄目、なんだから。
鏡の中には、むすっとした顔の、美人でもなんでもない丸顔にボブカットの少女が映っている。
「あんたがもっと可愛かったらよかったのにね、えりい」
自分の顔は、母そっくりだ。それを恨むつもりはない、ないのだけれど。
***
明日はまだ火曜日。早く寝ないと、と思って布団に入ったのは確かだ。
きっと疲れていたのは事実なのだろう。意識が遠くなってきたと感じた次の瞬間には、えりいの目の前は真っ暗になっていたのである。
扉鬼の夢を見るのか、見ないのか。
あのおまじないは本物なのか、自分の錯覚なのか。
考える必要さえなかった。――はっと顔を上げた時にはもう、えりいは灰色の空間に立っていたのだから。
「こ、これ、ほんと……?」
きょろきょろと周囲を見回す。
前にも後ろにも、長い廊下が続いている。ドアらしきものが見当たらないが、歩いていけばやがてなんらかの扉に辿り着くということなのだろうか。
なんとなく自分の服装を見れば、寝る時来ていたパジャマではなく、学校の制服にスニーカーを履いている。荷物は何もないが、ポケットにティッシュとハンカチ、スマホだけは入っていた。――いつも常備しているもの、という認識があるからだろうか。
上も下も床も壁も、灰色のコンクリートの打ちっぱなしであると見える。壁に触れるとひんやりと冷たい。空気も、季節のわりには涼しいような気がする。どこかから風が吹き込んできているのだろうか。
「ほんと、リアル……現実みたい」
一応、スマホを取り出してみた。電源は入っているが、お約束の通り圏外。ライトとメモ帳くらいには使えるだろうか。グーグルマップも起動しないが(動いたところでここがどこかなんてわからないだろうが)、歩いてきた道を記録したり写真を撮るくらいのことはできそうだ。なんとなく前に向かってシャッターを切ってみる。
「……よく考えたら、ドアも見つかる前に写真撮っても意味ないよね」
ぶつぶつと呟きつつ、スマホをポケットにしまった。充電も気にする必要がなさそうだし、ひとまず歩いてみるとしよう。
そういえば、同じ空間で別の人に出会うこともあると聞いている。彩音と、それから同じようにおまじないの話を聞いた蓮子。彼女たちも、この空間のどこかにいるということなのだろうか。
変な人に出会ったら嫌だな、と思いつつ、とりあえず前に向かって歩いてみることにした。
少し不気味だが、しょせんは夢。そう思ったら気楽なものである。