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第4話

 彩音が絵も上手な人だということは知っていた。彼女も自分も美術専攻で、よく美術の時間に彩音が褒められていることに気付いていたからである。それこそ、美術部のえりいが嫉妬するくらいにはデッサンに力があるのだった。

 灰色の壁に、四つ扉が並んでいる。正確には、真ん中二つが扉で、両端はドアといった雰囲気だが。

 一番左のドアは、古い一軒家にありそうな、板チョコを模したような四角い形状のドアだ。

 左から二番目は、全体的につるつるとした質感の、上が丸いアーチ状になっている扉。

 右から二番目はゲームの地下ダンジョンとか、牢屋にでもありそうな重厚な鉄扉。

 そして、一番右は、ひたすら真っ黒に塗り飛ぶされたドア。よく見ると、ノブのところにのみ宝石のような飾りがついているのがわかる。


――え。


 次の瞬間、えりいの視界が切り替わった。


――え、え?これ、ここ、どこ?


 さっきまで、自分は学校の空き教室にいたはず。なのに、一瞬にして灰色のコンクリートの打ちっぱなし壁に囲まれた、四角い広間にいるのだ。そして、目の前には四つの扉。

 チョコレート色の左端のドア。

 硝子のように透明でキラキラした左から二番目の扉。

 ごつごつとした冷たい右から二番目の鉄扉。

 そして、まるで隅で塗りつぶされたような黒いドア――。


「あ、ああ……?」


 ビジョンに取り込まれたのは一瞬だった。ほんの一瞬だけ、謎の世界に飛ばされ、気づけばえりいは再び教室へと戻ってきたのである。

 一秒か、二秒か、三秒か、あるいはそれよりももと短い時間か。

 確かなことは一つ。

 絵を見て説明を聞いた途端、今まで感じたこともないような奇妙な感覚に襲われ、彩音が描いた絵の世界に取り込まれていたとことだけだ。


「な、ななな、なんや、これ?」


 そして同じ感覚を味わったのは、えりいだけではなかったらしい。

 青ざめた顔で固まっている蓮子。変なの見えた、ドアあった、と繰り返す彼女の様子から察する。


「……銀座さんも、四つの扉の空間、見た?」

「な、なんや金沢はんもか!?」

「う、うん。見た」


 お互い顔を見合わせ、頷き合う。良かった!とからから笑っているのは彩音だ。


「うまくいったみたい。失敗したら、どうしようかと思ったわ。わたしはちゃんと、二人に扉鬼のおまじないを伝えることができたのね」


 楽天的な様子の彩音が、なんだか不気味だ。ごくり、とえりいは唾を飲みこむ。

 一瞬とはいえ、自分は確かに謎の空間に飛ばされた。彼女が絵に描いたのと同じ、そのまんまの世界を見たのだ。

 これは、ただのおまじないなどではない。

 明らかに本物――それも、もっと強い力を持った、危険な何かではないのか。


「……見えた。でも、これ、本当に大丈夫なの?」


 思わず尋ねるえりい。


「私……悪いけど、今のを見るまで、おまじないなんて信じてなくて。気は心っていうし、気分が変わるならそれでもいいかなとか、そういうことしか思ってなかったんだけど」

「う、うちもや。その、彩音はんのこと疑ってたわけやないんやけど、まさか、ほんまに……」

「しょうがないわよ。誰だって、自分の目で見たものしか信じない、信じられない。それが当たり前ですもの」


 彩音は特に気分を害した様子もなく、ぱたりとスケッチブックを閉じた。


「これで、儀式は終わり。今夜、貴女たちもわたしと同じ夢を見るはずよ。灰色のコンクリートの廊下に、いくつもの扉、ドアがあって。時に広間があって……そのいくつもある扉の中にね、一つだけ本物の扉があるそうなの」


 まるで恋する少女のように、うっとりとした表情で言う彩音。


「その扉と……扉を開ける鍵を見つける。そうすることで夢は終わり、あらゆる願いが叶えられるようになる。でも、どれが本物の扉か、鍵がどんなものかは誰にもわからないの。ただ地道に、夢の世界を探検して探し続けるしかないのよ」

「な、なんかちょっと大変そう。……今夜、その扉を見つけられなかったらどうなるの?」

「その場合は、また翌日夢の続きを見ることになる。わたしもね、このおまじないを見てからずっと扉鬼の世界を冒険し続けてるんだけど、なかなか鍵と扉を見つけることができないのよね」


 それって、と少しだけ怖くなった。

 つまり、出口を見つけない限り、毎晩ずっと同じ夢を見なければならないということではなかろうか。

 あくまで夢の世界の出来事ということであれば、現実に疲れが残るようなこともないし、怪我をするようなこともないのかもしれないが――。


「それ、ちょっと怖くないん?出口見つけないと、夢が終わらんのやろ?」


 蓮子も同じことを思ったらしい。眉をひそめて言う彼女に、大丈夫大丈夫、と彩音は手をひらひら振ってみせた。


「広い空間といっても限界があるもの。扉の数も無限にあるわけじゃない。時間をかければ必ず見つけられるはずよ。あくまで夢の中の話だからリスクもないしね。ただ、時々同じように扉鬼の世界に入って鍵を探している人と遭遇して、喧嘩になることはあるから気を付けて。なかなか見つからなくて苛立ってる感じの人、何人か見かけたことがあるから」


 またさらっと言ってくれる。

 夢であっても、見知らぬ誰かに襲われるかもしれないなんてそんなのは御免だというのに。

 しかし、不安に思っているのはえりいと蓮子だけのようだった。彩音はまったく気にする様子もなく、バッグのファスナーをしめると背中にしょって、すくっと立ち上がってしまう。


「わたしは絶対鍵と扉を見つけて、願いを叶えてみせるわ。二人も頑張ってね。……努力して鍵と扉を見つければ、扉鬼様は確実に願いを叶えてくれる。わたしはそう確信してる。……二人とも、叶えたい願い、あるでしょう?」




 ***




 彩音と蓮子はこれからテニス部に顔を出すと言って、そのままコートの方へ行ってしまった。

 今日は美術部の活動はない。えりいはというと、そのまま家に帰ることになるわけだが。


――本当に、良かったのかな。


 一抹の不安を覚える。

 今夜から、眠ると必ず扉鬼の夢を見る――それは本当だろうか。鍵と扉を探すなんて、ちょっと面白そうとは思うけれど。しかし、見つかるまで延々と探し続けなければいけない、他に夢を終わらせる方法がないというところにひっかりを覚えずにはいられない。

 なかなか鍵が見つからなくて、イライラしている人がいた。彩音はあっさりそう宣ったが。

 もしも彼等、彼女らが何年も鍵が見つからなくて彷徨っているとしたら。

 そして、イライラした人に出会う、以外にも何か仕掛けがあるのだとしたら。


――現実に影響が出ないって、それも本当にそう、なのかな。


 我ながら、みっともないくらいびびっている、とは思う。

 でも、あの時自分は確かに、あの絵の世界に取り込まれるビジョンを見たのだ。あの一瞬だけで、えりいはおまじないが本物であると信じるには十分だったのである。


――……あーもう、ほんと、私駄目だなあ。なんでこんなにびびらされてんの。本物なんじゃないかって気にはなってるけど、でも……だからってまだ眠ってもいないし、毎晩恐ろしい夢を見ると決まったわけでもないのに。


 相変わらず流されやすくて嫌になる。

 靴箱でスニーカーに履き替え、鞄を背負い直して外に出た。幸い、雨は少し小雨になっているようだ。ロッカーに置き傘をしておいて本当に良かったと思う。小さな折り畳み傘だが、駅まで歩くだけなら十分事足りるはずだ。


「よいしょ」


 校舎を出るところで、傘を開いた。

 子供の頃から使っている、小さな水色の傘がぱっと広がる。この色が昔から好きだった。雨の日でも、頭の上に青空が広がっているようで。


「!」


 水たまりを避けるようにして校庭を横切ったえりいは、そこでふと正門の前に見慣れた藍色の傘が見えることに気付く。

 藍色に、白い水玉模様。――いつも雨の日になると、織葉が使っている折り畳み傘。


「織葉……」


 気づけば、自分から声をかけてしまっていた。傘がひくりと震え、彼がこちらを振り向く。

 まるでしっぽのように結んだ長い紺色の髪が揺れた。少女のように睫毛が長い、大きな瞳がぱっちりとこちらを見つめる。

 翠川織葉。

 彼に対して、少しずつ、引け目を感じるようになったのはいつからだろう。幼い時には気づいていなかったことに、大きくなるにつれ気づいてしまったというのもあるはずだ。

 彼は、あまりにもえりいとは釣り合っていなかった。

 可憐な乙女のような美貌に、すらっとした長い足。学年トップクラスの成績に、運動神経だっていい。

 そして物静かで普段は口数も多くないけれど、悪い奴がいたら絶対許さない正義感も持ち合わせている。幼稚園の頃から、何度彼に守ってもらったか知れない。

 まるで完璧が服を着て歩いているかのよう。成長するにすれわかってくる彼の凄さに、えりいは恋愛感情と同じくらい――信仰心に近いものを抱いていたような気がする。

 絶対に穢してはいけない、神様か天使のようとでも言えばいいか。

 ああ、そんな風に思いながら、どこかで彼の恋人として隣を歩ける日を夢見ていたのだから、まったく愚かとしか言いようがないではないか。


「先に、帰っていいって言ったのに」


 えりいの言葉に、だって、と織葉は口を尖らせる。


「心配、だったから。えりい、様子がおかしいし」

「……別に、おかしくなんか」

「俺が何かしたなら言ってほしい。心当たりがなくて困っている。えりいとこのまま、ギスギスしたままなのは、嫌だ」

「……」


 心当たりが、ない。

 それは――木曜日の出来事を、覚えていないということだろうか。それとも、少女と一緒にいるところをえりいには絶対見られていないという自信があったのか。

 あるいは見られていても、関係に罅が入るほどの出来事ではないと認識しているのか。

 織葉は恋愛関係にはかなり鈍いと知っている。正直、そのどれもありそうなのが、困る。


「……大したこと、じゃ」


 嫉妬した、なんて。そんなこと言ったら嫌われてしまうかもしれないし、傷つけるかもしれない。そう思ったら、本当のことを言う勇気が出なかった。

 そうだ、実はあれが恋人ではないとか、生き別れの姉や妹だったとか、男の子だったとか、そう言う可能性もゼロではないと彩音たちも言っていたではないか。なら、本当のことを訊いてしまうべきだ。既に、織葉にこんな困った顔をさせてしまっているのは事実なのだから。


――言わなきゃ。本当のこと、言わなきゃ。


 迷っているうちに、織葉がずんずんこちらに歩いてきた。彼はきっと、雨の中待っていてくれたのだろう。まずはそのお礼を言うべきだし、ごめんなさいも言うべきだ。わかっているのに、言葉が出ない。

 そして。


「おい!」


 突然、鋭い声をかけられた。え、と思っているうちに、右手首を掴まれる。

 初めて見るくらい、険しい顔で織葉がこちらを睨んでいた。


「おい、えりい、お前……」


 彼は真っ青な顔で、はっきり言ったのだ。


「一体何を、引き寄せたんだ!?」


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