「遅くなってごめんなさいね」
相変わらず丁寧な所作でおじぎをした彩音。彼女は困ったように笑って椅子に座った。
「先生の話が思ったより長くって。……次は学年トップになった時以外お呼びにならないでって言ったわ」
「えええええ、学年三位は十分凄いと思うんやけど!?」
「う、うん。銀座さんの言う通りだよ。私じゃとてもとても無理だし」
「ありがとう。でも、悔しいのよ。だって私、女子でトップだと言われたのよ?つまり、上の二人は両方とも男子だったわけ。なんか、男の子に負けたのが悔しくって」
ぷう、と彩音は子供のように頬を膨らませる。
「しかも一位は、前にも負けた子なの。一年一組の、翠川織葉くん。ほんと、何でも出来て羨ましいし悔しいったら!」
「え、一位、織葉なの!?」
思わず声が出てしまった。その言葉で、どうやら聡い彩音は察したらしい。しれっと彼の事を下の名前で呼んだのも大きかったのだろうが。
「あら、翠川くんと友達なの?金沢さん。彼、かっこいいわよね。憎たらしいくらい」
にやり、と笑うお嬢様。
「なあるほど。……彼が、貴女の射止めたい人ってわけ?」
「ええええいや、そそそそ、そのおおおお!」
思わずひっくり返った声が出てしまう。目を白黒させるえりいを、彼女は面白そうににやにや眺めた。そんな悪戯小僧みたいな笑い方するんだこの人、とキョドりながらも思ってしまう。
話が見えていないのは蓮子だろう。なになに?なんやの?とえりいと彩音を交互に見つめている。
「今日のとっておきのおまじないは、金沢さんのために持ってきたのよ。といっても、私も知ってからそんなに時間が過ぎてないんだけど」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らす彩音。
「金沢さんがすごく落ち込んでて、体調まで崩してるのが心配で。このおまじないで、少しでも元気になってもらったら、って。どうやら、失恋してしまったらしいんだけど。……詳しい話、訊いても?」
「ああああああああああああ……」
正直、ここで伏せてももはや意味がない。
失恋したというのは彩音に言ってしまっていたし、織葉の名前が出た時の反応で相手が誰かなど明白になってしまったことだろう。
頭を抱えてしばし呻いた後、実は、とえりいは簡単に経緯を話すことにする。
織葉とは、同じ賃貸マンションに住んでいる幼馴染であること。彼とは親ぐるみで幼稚園からの付き合いで、高校に至るまで一緒に通学するくらいの仲だったこと。向こうは自分のことなんて妹のようにしか思っていないだろうが、えりいとしては幼い頃からずっと彼のことが好きだったこと。
それが、いつものように一緒に帰ろうとしたら、正門で織葉が見知らぬ少女と抱き合っているのを目撃してしまったこと。――何も知らず、いつか彼と恋人になれると思っていた自分が馬鹿らしく思えてきたこと。それから。
「……織葉に、ずっと依存してたんだなって、やっと自覚して」
よくよく考えてみれば、恋人同士でもない男女が毎日一緒に通学するなんておかしなことだ。向こうだって、変な噂を立てられていてもおかしくない。どうして気づかなかったのだろう、迷惑をかけているかもしれないことに。
勿論、本当に恋人同士になれるのなら、いくら周りからからかわれても問題はなかった。だが実際、自分達はそんな存在になどなれなかったのだ。
結局のところ、えりいの知らないところで、織葉にはもっと大切な人ができていたのだから。
「織葉のことが好きだから。本当の本当に、好きだから。だから手を引いて、織葉の幸せを応援しなきゃいけないんだって。……恋を成就させられたらとは思うけど、でも、それは織葉の意思を捻じ曲げたいわけじゃないというか、その……」
段々と情けなく声が小さくなっていく。
そうだ、自分は――織葉にカノジョがいてショックを受けた自分自身に一番ショックだったのだ。己がここまで思いあがっていた事実に、そして彼の恋を純粋に応援できない厭らしさに。
それから。
彼に助けられてばっかりで、ろくに助けたことさえない現実に。
「……うーん」
そこまで話を聞いて、彩音は首を傾げた。
「話を聞くと……失恋と決めつけるにはちょっと早計な気がするけど」
「そうやんなあ。だって、翠川クン本人からなんも話聞いてないやろ」
それは、そうなのだけど。
訊く勇気がなかったのは、事実ではあるのだけれど。
「ほんまにそれ、恋人やったんか?久しぶりに再会した友達が、勢い余って抱き着いちゃっただけってことはないんか?」
「そ、それは……」
「ほんまは男の子やった可能性は?相手が、幼いころ生き別れになった妹ちゃんやったなんてオチはー?」
「そ、それはない、と、思うけど……」
そう言われてくると、段々自信がなくなってくる。
織葉と一緒にいた少女は織葉と同じくらいの背だった。多分、同い年くらいだろう、なんて思ったが情報なんてそれくらいだ。だって距離もあったし、自分は彼女の顔さえはっきり見ていないのだから。――ものすごく美人だったら立ち直れない、と思って逃げてしまったというのもあるけれど。
「……もし、やましい相手じゃないなら。私に予め教えてくれてもいいと思うんだけど」
つい、意地の悪いことを言ってしまう。
突然会いに来た相手なら事前に言っておくなんて無理だし、大体彼女が出現してからはずっと彼を避けてしまっているのはこちらだというのに。大体、嫉妬している時点で惨めったらしいといったらないではないか。
「……まあ、気持ちはわからないでもないわ」
彩音はよいしょ、と黒バッグを抱えて言う。
「相手の正体がわからないでいるうちは、いろいろ都合の良い方に想像できる。真実を知って、中途半端に関係が壊れることもないんでしょう。……でもね。貴女は本当にそれでいいの、金沢さん。だって、体調を崩すほどショックを受けてしまったんでしょう?本当はまだ好きなんでしょう?」
「それは、そう、だけど……」
「貴女に本当に求められているのは、勇気だと思うわ。自分が幸せになるために、覚悟を決める勇気よ。翠川くんがどうのっていうんじゃなくてね」
彼女の真っすぐな目が、あまりにも眩しい。覚悟を決める勇気。本当のことを知る勇気。確かに、今の自分にはあまりにも足らないものだろう。
バカげた話だ。
このまま距離を取って、ずるずる関係が悪化したら。きっとその方がずっとずっと後悔するに決まっているというのに。
わかっている。
自分でも、本当はわかっているのだ――でも。
「……私は、どうすれば」
本当は彼と、恋人同士になりたい。けれど、彼の心を捻じ曲げたいわけじゃないし、彼を不幸にしたいわけでもない。
そして仮に恋人同士になれなくても、友達でいることまで諦めたくは、ない。我儘だとわかっている。でも、行動を起こす勇気なんて自分には――。
「おまじない、しましょ」
彩音は言いながら、バッグの中から板状のものを取り出した。よく見れば、オレンジ色の表紙に“スケッチブック”と書いてあるではないか。
「スケッチブック?」
思わず尋ねると、そうよ、と彼女は微笑んだ。
「おまじないには、このスケッチブックを使うの。でも難しい儀式とかじゃないのよ。ただ、特定の人以外にこのおまじないを知られたくないから、わたしが助けたい金沢さんと、信用が置ける蓮子さん以外を呼ばなかったというだけ。……ねえ金沢さん。恋を成就させるのが正しいかどうかわからないなら、こういうお願い事をしておまじないをするのはどう?つまり、“私と翠川くんを幸せにしてください”って。……それなら、恋を実らせること自体は貴女の努力ですることになる。そして、彼の今ある幸せを侵害することもないわ」
確かに、そのお願いの仕方はありなのかもしれない。
ぎこちなく頷くえりいを横目で見つつ、それで?と蓮子が尋ねる。
「スケッチブック使うんか、そのおまじないって」
「ええ。でもその前に、少しだけわたしの話を聞いてね。このおまじないは、“経緯”と“中身”を語ることで発現するものらしいから」
筆箱から鉛筆を取り出しつつ、彩音は言った。
「このおまじないをわたしが聞いたのは、学校の帰りだった。その時、わたしはちょっとした悩みを抱えていてね。誰にも相談できなくて、一人河川敷の道をとぼとぼ歩いていたの。そしたら、声をかけてきた子がいたのよ」
「子?子供?」
「そう。小学生くらいの男の子だった。ウェーブした黒髪に、金色の瞳。女の子みたいな顔で……そう、言葉に尽くせないくらい、美しい男の子だった。それまでわたし、オカルトは好きだけど……心からそれを信じていたわけではなかったのよ。でも、あの時は何故か確信したの。この子は人間じゃない、別の世界からきたナニカだってね」
言うなれば、クトゥルフ神話に出てくるニャルラトホテプのような、と。彼女は超有名な邪神を例えに出した。それだけで背筋がぞわりと泡立ってしまう。
ニャルラトホテプは、TRPGやコズミックホラー好きからすればあまりにも有名な存在だ。色々な姿に変身し、探索者たちを惑わすトリックスターにして愉快犯。彩音がそう形容したくなるほどの存在が、本当に現実にいるのだとしたら。
「彼は、わたしにあるおまじないを教えてくれた。……扉鬼、のおまじないを」
「とびら、おに?」
「ええ。それは夢の世界に住んでいる鬼のオハナシ。その夢の世界に眠る宝物を見つけると、扉鬼と呼ばれる存在がどんな願いでも叶えてくれるの。恋を成就させたい、復讐を遂げたい、宝くじに当たりたい、小説家になりたい、病気を治したい、気に食わない人種を皆殺しにしたい……とにかく、どんな規模のものでもね」
叶えたい願いがあったの、と彩音はどこか歌うように言う。
「だから、わたしは彼から、おまじないを受け取ることにしたわ。……そうしたら、本当に彼が言った通り……わたしはその夜から、夢を見るようになった。扉鬼の世界の夢を。その世界で、宝探しをする夢を」
彼女は言いながら、スケッチブックに何かを描いていく。さらさらさらさら、鉛筆が紙の上を走る音が聞こえた。
「扉鬼の世界に、他の人を招待する方法は簡単。自分が扉鬼を知った経緯を人に話すこと、そして」
彩音の手が止まる。
彼女はすとん、とスケッチブックを立てて見せた。
「自分が見た、扉鬼の世界の様子を……絵に描いて、人に見せること」
そこには、灰色の壁に、いくつも並んだ扉が描かれていたのだ。