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第一話 司書の女

 靴音を響かせ、若い女が歩いていた。茶色がかった長い黒髪を束ねて後ろに垂らし、黒い瞳を闇に凝らして進む。その肌は病的に白く、太陽を知らない。腰には蔦と葉をあしらった輝石灯が吊られ、青白い輝きを放って歩みに合わせて揺れていた。


 丈の長い外套と背嚢。背嚢の中は乾燥させた保存食と水。寝袋や旅に必要な道具類。それと厚い本が四冊。女の羽織る外套には胸には閉じられた本と羽ペンとそれを囲む蔦をあしらった紋章が編み込まれていた。それは司書の証であり、閉じられた本は下層司書という身分を表す。女は司書だった。


 ここの司書は太陽が沈む光景を知らない。月が昇ることを知らない。遥か上層で輝く、壁や欄干に掛けられた輝石灯の光に星を見て眠る。終わらぬ夜を歩き、夜を生きて死ぬ。

 ここは朝の来ない地下世界、名前をアルーカ大図書館。アル―カ大山脈の地下に築かれた最古の図書館である。大陸のどの国にも属さず、ただ世界の知識と歴史、知恵。多様な言葉を貪欲なまでに収集し、集積し、編纂し、それを守る場所。知と智の集まる場所だ。積み上げられ整理され書架に並ぶ本は図書館の歴史そのものでもあった。

 女が立ち止まって輝石灯を掲げた。書架が暗闇から浮かび上がるが何もない。輝石灯の動きに合わせてただ影が揺れている。


 大図書館は上層区と下層区に大別されるが外界の人々がアル―カ大図書館を指すとき、それは往々にして上層区のこと指す。なぜならば人々が求める知識は蔵書に溢れる上層区にあり、本の無い下層区のことではないからだ。そう、下層には上層から比べれば、ほとんど本が無いのだ。空の書架。埃の積もった長机。誰も座ることのない椅子ばかりが並び、光が灯ることも無い。上層区から下層区を眺めるとき人々はこういう。『すべての黒がここに集まっているようだ』と。黒一色が全てを塗りつぶしてしまった。そこに白色を一滴を垂らしたような光が見えた時。それが下層司書なのだ。光の灯らぬアル―カ大図書館下層区。下層司書達の暮らす場所だった。

 女は自分の住処へ帰る途中であった。ただ黙々と、靴音を響かせて歩く。下層司書が図書館下層区の暗闇を歩く時、多くの者は歌う。古くから司書の間に伝わる歌だ。


 歩こう。歩こう。ただ歩こう。光を目指して進もう。

 前へ進むなら、あの闇は後ろにいよう。

 前へ進むなら、闇は肩を叩かないだろう。


 歩こう。歩こう。一心に。光を求めて進もう。

 止まってはならない。光のないところ、魔法が満ちているから。

 靴を鳴らそう。心を一所に、魂を一所に。

 お前が、まだ光の中にいたいなら光を求め歩こう。

 闇は友。恐れることなかれ。闇を背負い、光のある方へ。

 闇なければ光あらず。光なければ闇もあらず。


 女は歌を静かに口ずさむのは幼いころから教え込まれた古い歌だ。歌は心の雑音を振り払い、不安や恐れを遠くへ追いやってくれる。光のないところ。光の届かぬとこ。闇はすぐそばにあり、吞まれてしまえば心は肉体を離れ、やがて死に至る。下層司書の死因の殆ど原因不明の病であった。暗闇に長時間いるとその病にかかると言われている。彼らはそれを『夜に呑まれる』と表現した。だから彼らは灯りを絶やさず。絶やしてはならないと幼いころから教えられて育てられる。歌もその対処の一つだった。


 下層司書の仕事は本を集めることだ。空の書架ばかりの下層区に取り残された本たちを見つけ出して上層区へと送る。集めた本の数や、その価値によって対価を得て暮らしている。

 下層区には本がない。だがどういうわけか時折、本が現れる。それも何もなかった書架にだ。先日、通った際には空だったはずの書架にぽつんと現れる。本の溢れる上層区から抜け出して来たかのように、迷子のように。時にひとりでに動き回る本もあった。何故かはわからない。ある下層司書が言うにはアル―カ大図書館には太古からの魔法が満ちていて、それは長い年月を経て埃が積もるように下へ下へと溜り。いつしか本を呼び出すようになったのだと。魔法に満ちた場所に図書館を建てたのか、はたまた図書館が魔法を作り出しているのかわからない。ここではそれが日常であった。彼女が背嚢にしまい込んだ本も、そうした本の一冊だった。


 二万二千百八十九番、鷹と熊の列。それから一万四千百二十二番、犬と薔薇の列。二千四十六番、葉と沼の列。それぞれから黒い表紙の本と赤い表紙の本を彼女は回収し、長い旅を一先ず終わりとし。その帰路の途中にて彷徨える本を見つけ出し、これを捕まえた。計四冊の本を。それら丁寧に黒い布に包み、背嚢にしまい込んだ。この四冊ならばきっと上層司書は喜んで相応の報酬を払うだろう。しばらくの間の暮らしには困らない食料と水が手に入る。もしかすれば古くなった日用品のいくつかを新調することも可能かもしれない。同僚たちはどうであろうか。上手く仕事をしているだろうか。彼女は家の暖かな光に満ちた自分の部屋を思い浮かべた。でも可能なら、もっと探索を続けていた。彼女は下層区を探索するこの仕事が好きだった。


 風が吹き、埃が舞った。女は顔をしかめて首元のスカーフを口元まで引き上げた。新鮮な空気と古い空気、それに埃と本の香りが混ざった風が奥から流れ、彼女の外套とスカーフをはためかせた。そして音が聞こえた。ボーという長く低い笛の音のような音が。きっと空気の入れ替えのために通気口が開いたのだろう。上層司書達が蔵書の状態を最適に保つために定期的に行っているものだ。実のところ、この換気は魔法によって自動で行われているとの話もあるが下層司書の知るところではない。アル―カ大山脈の麓のどこかに通じる換気口と、山頂のどこかに設けられた換気口がそれぞれ開けられて空気が流れだす。知っているのはせいぜいこれくらいのものだ。地下世界の大図書館にも、その時は天井より太陽の光が刺すが下層司書には関係のない事だった。どうせ、ここにまで光は届かないし、光があることも分からない。見えるのは輝石灯の光だけなのだ。


 前方に光る何かを女は見つけた。淡く、ぼうっとした青い光りが床の上をひょこひょこと動いている。それについて周る青白い光も。彼女は警戒した。もしや、片方は蔵書を狙う不届きな侵入者の光ではないかと。地上では図書館へのよからぬ噂が流布されているらしく、貴重な本を狙い。換金しようとする輩が、どことも知れぬ進入路よりやってくるのだ。本に敬意を。払わぬなら相応の罪を。


 下層司書が下層区より本を探し出し、それを上層区へ送って日々の糧とするのとはわけが違う。本がどのようなものか。奴ら理解しない。理解しようともしない。紙に書かれた古き文字が何を語るのか。色褪せた絵が何を残そうとしたのか。理解できぬのなら触れさせてなるものか。


 彼女は輝石灯とは反対の位置。腰の右に巻いて吊るしておいた縄に手をかけた。侵入者と戦い、捉えるための下層司書へ使用が許されたの武器の内の一つだ。よくしなり、丈夫で、魔法の施された特別な細い鉄の糸を混ぜて作られたものだ。

 輝石灯の摘まみを捻って光を最小に絞る。深い暗闇に慣れた司書は梟や猫のように夜に耳をそばだて、夜を見通す。それでも灯りを消すことは稀だ。精神を吞んでしまう夜はすぐそばにある。それを自ら呼び寄せてしまうような行いなのだ。限度は一時間。それ以上の時間を灯り一つない状態で過ごすというなら、まずまともな精神状態ではないだろう。それほどまでに下層区の暗闇は危険だった。


 女は木の床の上を足音を殺して歩く。次第におぼろげであった光の輪郭がはっきりと捉えられるようになった。どのような歩行速度であろうとも下層区で司書を欺き、ましてや逃げることなどかなわない。女は輝石灯の灯りをさらに絞り、完全に暗闇に自分を溶け込ませた。縄を握りなおし、背嚢は素早くそばの机の下に隠した。

 青白く光る兎の姿を女の目は捉えた。それこそが彷徨う本であるが、そのすぐ後ろを歩く見知らぬ少年の姿はなんであろうか。


「子ども……?」

 下層区で探索にでる子どもは珍しい。対応を誤れば侵入者に殺されるか、帰り道を見失い死んでしまうような危険な場所で一人で歩く子など、そうそういるはずがないのだ。女は少年を注意深く確認した。腰に吊り下げられた輝石灯の青白い光と蔦と葉をあしらった模様は間違いなく下層司書の持つものだ。時折、侵入者の持ち込むような粗悪品の偽物の光ではない。では何故、他に何も持っていない。背嚢もなく、外套もすら羽織っていない。あまりにも無防備だ。


 女は思案し一つの結論に辿り着いて声をかけた。

「こんばんは。良い夜ね」

 少年は体を突然聞こえた若い女の声に酷く体をびくりとさせて、腰を抜かした。兎に夢中になって接近に気が付かなかったことに加えて、ついに深い、深い闇が自分の方に知らずに肩に手をかけ、声をかけてきたのではないかと。女は腰の輝石灯の摘まみを捻って自らの姿を少年の前にさらした。

「あなた、どこの子? 見ない顔ね」

整った顔だが、ひどく病的で奥が空けてしまいそうな白さの肌。茶色がかった髪は背後の漆黒の闇に混ざって溶けているようで長さが判然としない。腰につるされた輝石灯の光を受けて立つ姿は人ならざる者に見えた。

「……幽霊」

少年は声を震わせ、絞り出すように言った。

「幽霊?」

女は首を傾げ、それが自分のことを指して言ったのだと理解した。腰を抜かしへたり込んでいる少年にゆっくりと、両の掌を見せながら近づいた。

「何もしない。ほら」

 怯えて震える少年の前に屈みこみ、その冷えた頬にそっと手を触れる。女の手は白さは骨のようでもあったが暖かく、少年の固く冷たくなった心をとても穏やかな気持ちにさせた。暗闇で輝石灯を見つけ出したときのような懐かしさを、手のぬくもりから感じ取った。

「暖かい幽霊なんていない」

女は首を傾げ、小さく微笑んだ。少年は頬に触れる手に自身の手を恐る恐る重ねた。

「自分の名前がわかる?」

女は努めて穏やかな口調で言った。少年は首を横に振った。

「そう」

 やはり、夜に呑まれかけているのかも。

 この少年は、どのようにして一人で、こんな場所でこのような状態にまでなったのか経緯は分かりようがない。アル―カ大図書館に満ちる魔法の影の力がこの少年の精神を少しずつ蝕んでいることは確実といえよう。

 女は小さく口を開き、すぐそばにいる少年にも聞こえないほどの声でポツリと言った。うらやましい、と。

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