「それで織田さん、部長と連絡を取る方法って?」
「
「いや、だからそれを見られてしまう可能性が……」
「藤堂さん、甘いですよ」
と、織田さんは人差し指を俺の目の前で振って見せた。その仕草には全く嫌味を感じず、多分それは、指の向こうに見えるイタズラっぽく火照った笑顔のせいなのだろう。そんな彼女の表情を見ていると、ここに来たのは正解だったと感じずにはいられない。昨日今日と緊張した日が続いたから、少しでもリラックス出来たのなら良かったと思う。
「見られても大丈夫な内容を送れば良いのですよ」
言っている事は解るけど、それでどうやって連絡を取り合えるのだろう? お互い、どちらのスマホを使っても盗聴されている危険があるのだし、例えば『そば処やがみに電話をしてもらう』としても、店の番号をどうやって知らせるつもりなんだ? その連絡をした時点で、ここもすぐにバレてしまう可能性があるのに。
「それはどういう……」
「これです」
と言って織田さんが見せてきたのは、動画サイトの検索ページだった。そこに表示されていたのは俺が生まれるよりも前の古い映画で、高校の頃に映画好きの友人が『すげぇの見つけた!』と興奮して薦めてきた作品だった。
「ロッキー……ですか?」
「ええ。伝説の名作です」
初めて観た時は、なんて暗くジメジメした映画なのかと思った。登場人物の性格や内容が、という意味ではなく、映像そのものが暗い。夜のシーンなんて何処に人がいるのか目を凝らさないと解らないほどだった。
その時は『俺は何を観せられているんだ?』って位に思っていたけど、いつの間にか話にのめり込み、この作品の魅力に魅せられてしまっていた。
実は画面の暗さは“ある種の舞台装置”と知ったのは、大分後になってからだった。それは登場人物の心情を浮き彫りにする為で、挫折や重く圧し掛かる現状を最大限心理的に表現する効果があった。
そしてそのストレスは終盤の展開への大きな落差となる。自信を無くしていたロッキーにスイッチが入ってからの高揚感、突き抜けるような爽快感が格別だった。
……でも、何なのだろう。これが織田さんと三郷さんの間で通じる暗号なのだろうか?
「これを美郷に送れば、そうですね、30分後位には連絡が取れると思いますわ」
「は、はあ……」
織田さん、まさか飲み過ぎて思考が止まっているのか? 言っている事が滅茶苦茶じゃないか。
「八神さん、スマホ貸してもらえますか?」
「あ、ああ……」
「あら、お嫌でしたら夏季さんにお借りしますわ。ですが相手は拳銃を持っている角橋の黒服です。もし万が一にも手違いがあって夏季さんの番号が彼らの手に渡ったら、慶ちゃんはどうするつもりですか?」
……いや、泥酔なんてとんでもない。この“荒縄でギリギリと首を絞めるモノの言い方”はまったくの
「……いえ、もちろん自分ので」
夏季先輩の顔色を伺いながら織田さんにそっとスマホを渡す八神。表情が作れずに能面みたいな顔つきになっていた。
ここだけ見ると恐妻家のようにも見えるけど、実際そんな事はなく夫婦仲は円満そのもの。子供の幼稚園の送り迎えを、デートと称して毎日二人でやっているくらいだ。だから多分これは、夏季先輩がいない時に織田さんにかまけた後ろめたさなのだろう。
「
八神が口にした婦人会とは、ここの商店街の奥様方で構成される裏組合みたいなものらしい。隙あらば飲んだくれてしまう旦那達を、キビキビと働かせるための集まりだそうだ。
「もちろん行ったよ。だけどさ、八百屋の奥さんから『八神さんとこに綺麗な
ちなみに正式名称は
「そしたらみんな何かを察してさ。押しかけることになったのよ」
「そうか、あの歓声ってもしかして……」
「あ、聞こえてた?」
さっき店内から聞こえてきたのは、盛り上がりではなくてスケベ親父達の悲鳴だったのか。織田さんにデレデレしている所に奥様方が集団で乗り込んできたら、阿鼻叫喚地獄になってしまうのは仕方がないのだろう。……なるほど、ある意味上陸作戦だ。
「写真屋の竜さんも金物屋のゴリ爺も、首根っこ掴まれて帰って行ったよ」
同じ商店街の中で持ちつ持たれつでやっているのだろうけど、それでもよく店が
ちなみに、夏希先輩が八神と結婚した当初も、『そば処やがみに綺麗な娘が~』と話題になったらしい。そんな事だから当然、夏希先輩はナッツ婦人会から睨まれていた。ある日、配膳中に尻を触って来たゴリ爺に夏希先輩は回し蹴りを入れ、ついでに何故かそこにあったヤカンで一発殴ってしまったそうだ。
流石に『これはやり過ぎた』と思った夏希先輩は金物屋に謝りに行く事に。当然警察沙汰になると思っていたが、ゴリ爺の奥さんは夏希先輩の顔を見るや否や『よくやってくれた!』と喝采を送ったばかりか、男勝りな性格が気に入って婦人会に勧誘したらしい。
ナッツ婦人会の設立者でもある彼女は、曲がったことが嫌いな、一本すじの通った
……ちなみに、今もゴリ爺のこめかみには、ヤカンの口の後がU字になってくっきり残っているそうだ。
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1944年ノルマンディー上陸作戦。12月のバルジの戦いで、指揮官代理のマコーリフはドイツ軍の降伏勧告に対し「Nuts! -バカ野郎!-」と答えた。
某海外ドラマでは、この話を持ち出して主人公に「Nuts!」と言わせる場面があったが、視聴率がイマイチのその作品は打ち切りになってしまう。しかし熱烈なファンが抗議としてTV局にトラック山積みのピーナッツを送り付け、無事継続することになったという話もある。
ちなみに某国航空機のナッツリターン事件とは全く無関係。