細い路地を抜け、大通りを走り、監視の目を警戒しながら駅の近くにあるファミレスに飛び込んだ。とりあえずでも人目があれば、敵もうかつに手を出してこないだろうと考えての事だった。
初夏とは言っても気温は高く、太陽は容赦なく照り付けてくる。そんな中を荷物を持って全力疾走するのは相当キツイものがある。ラグビーで鍛えた190センチのこの身体でも、だ。言問さんは普段から外回りで体力が付いているのだろう、息は上がっているけどまだ少しは動けそうに見える。
運ばれて来た水を一気に飲み干し、テーブルに備え付けてあるウォーターポットの水を半分くらい飲んだ頃、言問さんが口を開いた。
「まさか、でしたね」
「ええ……」
本当に『まさか』としか言葉がでない。……あの織田女史がスパイだったなんて。突拍子もない話だけど、零士・ベルンハルトがテロ組織の人間から聞き出した情報であればこその信憑性と言える。
「望月部長も……」
と話し始めながら、言問さんはスーツの内ポケットからタバコを取り出す。箱の下の方をトントンと叩いて飛び出た一本を咥えると、火を付けながら話を続けた。
「織田女史が怪しいって言っていましたから」
「部長まで……」
昨晩は全く顔に出さなかったけど、部長までもがそう判断していたのか。あれだけ人間を見る目を持つ人の判断なら……とは思うけど。ただ、それでも俺はまだ織田女史がスパイだとは信じきれていない。いや、信じる事が出来ない。
「人の本質を見抜く人ですからね。判断に間違いはないと思いますよ」
ふ~、と煙を吐き出しながら何故か得意げな表情の言問さん。なんだろう、この違和感の正体は? 原因も理由もわからないけど、電話を受けた時からおかしな感覚がずっと残っている。
「織田さん、大丈夫でしょうか」
「まだそんな事言っているのですか?」
「ですが、俺の知る織田さんとはかけ離れていて。あんな所に閉じ込めてきて、もしスパイじゃなかったらと思うと……」
望月部長の家で流した涙、そして零士・ベルンハルトと通信が繋がった時の涙。そのどちらもが、本当の涙に見えた。俺にはあれが演技だとはどうしても思えない。
「そもそも藤堂さんは、織田女史の何を知っているのですか?」
――だから、確かめなければ。
「何、と言われても……ん~、朝は弱いとか」
「はぁ?」
自分の目で見て、自分で判断しなければ。周りの状況を見て、味方の位置を把握して、瞬時に動く。そう、ラグビーの試合の様に!
「でも、寝起き顔は完璧とか」
「ちょっと藤堂さん、それって……」
「あ、意外と抜けている所もありますね。テレビ見ながらコロッと寝ちゃうところとか」
言問さんが何かを言いかけたその時、『ご注文よろしいですか?』と、ウエイトレスさんが注文の確認に来た。呼び出しベルを一向に押さず話し込んでいたからだろう。
「ちょっと、トイレ行って来ます……あ、自分は
動揺し、イライラしながらもテンション下がり気味の言問さん。何かあるとは思ったけど、ここまでわかりやすい反応されると俺でも察する事が出来る。
「ウェイトレスさん。ちょっと頼みがあるのですが」
俺はメニュー表を見ながら注文し、そして伝言を頼んだ。これで時間稼ぎが出来れば良いのだが……。
♢
「織田さん、大丈夫ですか!?」
俺はマンションに全力疾走し、横倒しになったキャビネットを持ち上げてどかした。急いでドアを開けると、そこには膝を両手で
ぐすん、と鼻を鳴らして涙を浮かべている。零士・ベルンハルトの事で泣いた涙なのか、それとも閉じ込められた事による涙なのか。乾いていないところを見ると多分後者だろう、俺の中でものすごく後ろめたい感情があふれ出て来ていた。
「立てますか?」
肩を掴んで抱き上げ、洗面台脇のスツールに座らせた。俺はちゃんと謝ろうと思い、織田さんの正面で片膝をつく。子供にそうする様に、目線を合わせようと思ったからだ。
しかし、タイミングが悪い事に、俺の目の前には丁度彼女の胸があって、俺は思わず目をそむけてしまった。
「藤堂さん……」
「は、はい」
次の瞬間、俺の
「二度としたら……ぐすっ……許しませんから」
全く毒の無い悪態。目と鼻を赤くした彼女が、俺にはたまらなく可愛く見える。
織田さんと丸一日以上、それも、飲んだり走ったりラブホテルに入ったりと、とにかく感情が近づく要因が沢山あった。だから『これも一種のストック
言問さんは、望月部長の事を『人の本質を見抜く人』と評価していた。そのこと自体に一切の異論はない。だが、だからこそ、だ。本質を見抜いたからこそ、部長夫婦は織田真理という個人と長く付き合っているのであって、その彼女に対して『怪しい』などと簡単に言う性格じゃない。そう感じていたのなら、俺の目の前でだろうと堂々と尋ねる人だ。
それにもう一つ、望月部長に言われてここまで来たのなら、俺が織田さんと一緒にいる事は伝わっていたはず。なのに、言問さんは織田さんを見て驚いていた。つまり、彼は部長に言われてここに来たのではない。
――俺は、最初から考え違いをしていたという事だ。
――――――――――――――――――――――――――――
(注1) アイコー
アイスコーヒーの事。スタッフ間の略称が何となく一般化してしまったらしい。昭和~平成初期に多く見られた。ちなみに関西では同じ意味でレイコー(冷コーヒー)と呼ぶ。
言問が何故そんな古い言葉を使っているのかは、その年代の人との付き合いが多いという背景がある為。
(注2) ストックホルム症候群
精神医学用語の一つ。 被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象。