目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第30話・終電

 結局織田女史に押し切られた俺は、会社に辞表を提出する事になった。あれだけ高い社会ステータスを捨てる事に抵抗はあったけど、それでも社内に溢れ返っている好奇の眼差しから解放されたのは精神衛生上良かったのかもしれない。少し時間がかかるかもしれないけど、これで気持ちがリセット出来るのなら妥当だろう。


 ……とでも思わなければとてもやっていられないぞ。


「ありがとうございました。またおこし下さいませ〜」


 ♪ピロリンピロリン~


 コンビニの自動ドアが明るい音を鳴らし、お姉さんの元気な声が後ろから聞こえて来た。しかし、ポジティブムーブな雰囲気とは裏腹に、俺の心には分厚いモヤがかっている。袋の中には一番安い海苔弁と緑の野菜ドリンク。まったくもって情けない。別にコンビニ弁当が駄目だと言っているのではなく、今までの生活からは全く想像できない引き籠もり生活になってしまう事が、だ。何より三十歳目前にして無職とかヤバイなんてものじゃない。

 織田女史は『事が落ち着いたら、清里のペンションで雇って貰うのはどうです?』なんて冗談とも本気とも取れない事を……いや、あれは本気だったな。そもそも、いつこの問題が解決するのか全く見えてこない方が問題だと思うのだけれども。

 外に出たとたん真昼の太陽光が直接目に入ってきて、あまりのまぶしさに目を瞑ってしまった。寝不足の、というかほぼ寝ていない身体にこれは結構キツイ。だるさが支配する身体を引きずりながら5分程歩くと、築浅の小奇麗なマンションが見えてくる。


「ここも引っ越しを考えなきゃならないのか……」 


 オートロックを解除してエレベーターに乗り込み三階のボタンを押す。普段なら階段をさっさと上がるのだが、今日の体調ではとてもそんな気になれなかった。

 とりあえず、貯金が無くなるのが先か望月部長がペンションを引き継ぐのが先かで人生が決まってしまうと言っても過言じゃない。勿論再就職も考えたけど、いつから働けるか解らない上に、悪い意味で有名人となってしまった俺を雇う会社などまず無いだろう。


「はあ、マジで鬼だったな、織田女史は……」

「あら、地獄の沙汰も私次第という事ですのね?」


 …………。


「あの、いつからそこに?」


 顔を上げると、俺の部屋の前で仁王立ちしている織田女史がいた。背中を冷たいものがツーっと流れる。


「入っていればいいのに」


 近所の目と言うものがあるのですよ。合鍵渡してあるのだから、中に居てくれた方がどれだけ助かるか。


「彼女でもないのに、勝手に入るなんてしませんわ」

「はあ、そうですか」


 面倒な女性ヒトだな……。と思いながら、鍵を取り出そうとポケットに手を入れた時だ。カチャリと音を立てて部屋に入る織田女史。


「面倒がないように鍵は開けておきました」


 …………はぁ。





 昨晩、望月部長の家を追われるように飛び出した俺達は、そのまま電車に飛び乗り富士吉田支社をあとにした。その車内で今後の為にと、織田女史から退職を薦められてボールペンとレポート用紙を手渡されたのだった。


「辞表は私が預かって、会社に郵送されて来たという事にして提出しておきますね」


 退職願いなんてどう書けば良いかわからない俺に、一字一句助言してくる女史。人事部にいて普段から見慣れているのか、はたまた文面まで考えて用意していたのかはわからないけど、大月駅に着く頃には抜かりの無い完璧な辞表が仕上がっていた。結構、いや、かなり複雑な心境だ。

 ここから東京方面行の電車に乗り換えて……と、キョロキョロしながら立川方面行のプラットホームを確認している時だった。


「あの、藤堂さん……」

「なんでしょ?」


 なにやら神妙な面持ちの織田女史。『まさか追手でもいたのか?』と周囲に目を光らせたが、深夜という事もあってか俺達以外の人影は見えなかった。


「あのですね……。もう、終電終わっているみたいです」

「はいぃ?」


 じんわりとした暑さの中、織田女史の頬にツーッと一筋の汗が流れた。『彼女でも困惑する事があるんだな』と、失礼ながら人間らしい一面を見た気がした。それにしても終電がすでに出ているって、なんで……いや、確かに富士急行線とJRは別の会社だけど、それでも乗り継ぎが出来ない時間設定とかありえないだろ。


 ——23時30分、大月駅前。 


 真夜中、それも土地勘のない場所に放り出されてしまった。


「まいりましたね。乗り換えすらないとは……」


 仕方なく“深夜料金”と言う文字が煌々と踊るタクシーに乗ろうとしたとの時だ。織田女史はいきなりオレの腕を掴み、静かに、それでいて反論を許さないという迫力を持って口を開いた。


「明日から無職なのですよ? 余計な出費は抑えるべきです。今夜はどこかに停まって、始発で戻りましょう」

「ああ、そうだ、確かに出費は押さえないと。……それにしても、無職って面向かって言われると結構来るものですね」

「そんなに落ち込まないで下さい。部長も言っていたじゃないですか、気楽にやれって」


 あなたのせいでは? と言うツッコミを飲み込みながら、近場のホテルを検索してみると、歩いて行ける範囲に何カ所かビジネスホテルの連絡先が出て来た。


「え~と、一番安い所は……」

「私にも見せて下さい」


 と、オレの肩からスマホを覗き込んで来る織田女史。

 身長たっぱのある俺と女史とでは30センチ位身長差がある。彼女は俺の後ろから肩に手をかけると、よじ登る様に密着してきていた。至近距離からふわっといい香りが鼻孔をくすぐり、一瞬、不覚にもドキッとしてしまう。

 そもそもが類まれなる美貌だ、黙って立っていれば芸能人と間違う人もいるだろう。俺は動揺を隠そうと平常を装うが、なんだかぎこちなくなってしまい、声が少し上ずってしまった。


「こ、これなんてどうです……か?」

「でもそれ、一人分の料金ですよね」

「まあ、そういうもんだと思いますけど?」

「まったく、あなたの経済観念が心配ですわ」


 そういうと織田女史はスマホを見ながら歩きだした。何かを検索しているらしく、声をかけても気のない返事しか返ってこない。10分ちょっとは歩いただろうか、薄暗い道路の先にあるのは、決して趣味が良いとは言えない建物。入口の部分には嬌艶きょうえんなネオン看板が光っていた。


「ここなら二人で泊っても格安で済みますわ」

「あの、ここってどうみてもラブホ(注》……」

「はいはい、行きますよ」


 と、スタスタと入っていく織田女史。


 ……俺は貴女の貞操観念の方が心配です。






――――――――――――――――――――――――――――

(注)ラブホテル:最近ではファッションホテルという言い方をしますが、藤堂堅治がアラサーという事であえて『ラブホ』という略称を使わせています。

ちなみにファッションホテルという言い方は、単に風営法をかいくぐる為の誤魔化しだそうです。ホテルという形態の業種は一般ホテルとラブホテルの2種類しかないと言われています。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?