「あら、おはよう藤堂さん。大丈夫ですか?」
朝一番で俺に声をかけてきたのは人事部の織田真理女史だ。
俺はと言えば、約一週間ぶりの出社。精神的に色々とあったせいか、会社の廊下がなんだか懐かしく感じる。タイムカードを手に取り、ぽっかりと開いた空欄をため息交じりに見つめていたら、後ろから女史が声をかけてきたのだった。『大丈夫?』とは入院の事なのか、はたまた報道の事か。……まあ、両方なのだろうな。
「ええ、おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」
「寄生虫食べたんですって?」
……おい、言い方。
「はは……アニサキスですね。イカ刺しの中に潜んでいました」
「あれって相当痛いらしいわね」
「痛いなんてもんじゃないです。もうこの先死ぬまで魚介類食いたくないってなりますよ」
織田女史はタイムカードに刻印すると、壁のカードホルダーに戻しながらどこか不安げに手元を見つめている。
「どうしたのです?」
「え?」
「何かいつもと感じが違うというか……何か悩んでます?」
視線を落とす織田女史。戸惑いと
「あの、お話があるのですが……今日どこかで時間とれますか?」
……と、言われても。あまり好ましくない噂もあるし、同僚に見られると厄介だ。そもそも何で俺は『悩んでます?』とか自分で地雷を踏みに行ったのだろうか。そう思いながら、断る口実を探す為に脳味噌がフル回転している時だ。織田女史の口から断れないひと言が飛び出してきた。
「多分、テロリスト報道にも関係があると思うのですが」
あの報道以来、本社の入り口にはマスコミが詰めかけていて迷惑な事この上ない。道路にはみ出て脚立に乗ったり、点字ブロックの上にカメラの三脚が並んでいたりと、通行の邪魔にもなっている。これだけ大きなニュースなのだから当然と言えば当然なんだけど……正直仕事の邪魔にしかならなくて、その原因が俺って事になっているから社員の視線が痛くてしょうがない。
オマケに人違いだと報道されても、いまだにネット上には俺の写真と名前が拡散し続け、テロリストとして暴れまわっている。……その冤罪に関係があると言われたら断る訳にはいかないだろう。
「あまり人に聞かれるとまずいので。お願いします」
織田女史に視線を戻すと、周りの目を気にしてか警戒の色を強めている。俺の方もモヤモヤしたものがずっと頭の中にあったから、ここは“渡りに船”と考えるべきか。
「わかりました。時間と場所を決めておきましょう」
♢
――同日PM7:00過ぎ。
待ち合わせに指定したのは、駅前にある古めかしいラーメン屋。ここなら他の社員に見られても余計な勘繰りはされないだろう。
先に入ってテーブル席に座り、とりあえずのビールと唐揚げ、豚の角煮を注文。しばらくは魚介類は避けたい気分だ。今はイカ焼きですら寿命が縮む気がしてならない。
天井近くの壁に設置してあるテレビを眺めながら、小皿のからしをつまんで箸にのせ、角煮に塗りつけた。トロッとした甘じょっぱさにはからしが良く合う。スーッと鼻に抜ける辛さに軽くむせながらビールを一口。
「ふう……」
久しぶりのビールとの再会に感激している所で入口の戸がガラッと開く。白のキャミソールにダークブラウンのブラウスをルーズに羽織っただけという、シンプルでラフな格好をした織田女史がそこにいた。彼女は店内を見渡すと、パンプスをコツコツと鳴らしながら俺のテーブルに近づいて来た。
意外、と言ったら怒られそうだが、普段職場で接するカッチリとした織田女史のイメージとはかなりかけ離れた感じがする。
「待たせちゃいました?」
「いえ、自分もまだ飲み始めたばかりですよ」
「って、肉ばかりじゃないですか。油と塩分も多すぎですよ」
「病院じゃ食えなかったから……」
「当たり前です! 栄養の偏りは身体を壊しますよ。運動部だったからって過信しないでください」
う~ん、織田女史は仕切り屋なのか? それにしても、なんか俺以上に場慣れしている感じが半端ない。
「あ、おじさん、烏龍茶とキャベツ炒めね。あと、野菜スティック2人分もお願い」
常連感とでも言うのか、大将も『あいよ!』なんていつもよりも元気な声出てるし。と言うかその野菜スティックって、俺の分も入っていそうなのですが。
「ところで話ってのは……」
「そうね……先に結論からお話します」
俺は無意識に固唾を飲み、織田女史の言葉を待った。彼女は少し陰に入った表情になり、伏目がちに口を開く。
「当社社員の拉致、そして一連の報道。全て仕組まれています」