ここは、悪魔が生きる世界、『魔界』。
悪魔にはコウモリのような黒い羽根があるが、普段は魔法で隠している。
そして魔界には『魔獣』という生物も生息している。
人間界との違いはそのくらいで、日常は変わらない。
そしてここは、魔界の学校『オラン学園』の校庭。その名の通り、魔王『オラン』が設立した学校である。
高校の制服である紺のブレザーを纏った少女が、桜吹雪が舞う校庭の真ん中で空を仰ぐ。白い肌に、栗色のボブヘア。神秘的な金色の瞳は、彼女が『人の姿をした魔獣』である証。
彼女の名は『イリア』。父は魔獣界の王、母は魔王の娘。イリアは魔獣でもあり悪魔でもある。そして魔獣界の王女であり、魔王の孫という、二つの世界のお姫様なのだ。
イリアは今日、魔界の学校の高等部を卒業した。
そんな彼女の後ろで、温かい眼差しで見守る二十歳くらいの若い青年がいた。黒髪に褐色肌、灰色のスーツを身に纏ったクールな彼は、純血の悪魔『レイト』だ。
「イリア、卒業おめでとう」
「あら、レイトせんせ。ありがと」
レイトは、この学校で『魔法』の授業を担当する教師として働いていた。イリアの卒業を見届けた後は、魔王の城で働くつもりだ。
「今日で僕はもう先生じゃなくなるよ」
「そうね。ウフフ、これからは堂々と愛してあげる」
「堂々って……今まで全然隠してなかったよね」
生徒と教師の関係は禁断の恋と言えるが、強気で大胆で押しの強いイリアは校内でも隠す事なくレイトに抱きついたりしていた。
レイトの困り顔を見るのを楽しんでいたイリアは、常にサディスティックな女王様でもある。そして校内の誰もが二人の仲を公認、黙認していたのも事実。
レイトは、イリアの高校卒業の日に果たすと決めていた事がある。
スーツの内ポケットに忍ばせた小さな宝石箱が、レイトの手によって取り出される。
「イリア。大事な話があるんだ」
「あら、何よ」
この決意をレイトが告げる時、それは新たな『約束』を意味する。
その手で、愛という名の魔力を込めた『婚約ペンダント』を捧げ、レイトは誓う。
「僕はイリアを愛してる。そして、これからも永遠に愛すると誓う」
見開かれたイリアの金色の瞳に映し出されたのは、レイトの瞳と同じ緑色の宝石が煌めくペンダント。
魔界のプロポーズでは、指輪やペンダントなどの装飾品の宝石に自らの魔力を込めて相手に贈る。
「結婚しよう」
二人を祝福するかのように舞う桜の花びらの中、高校卒業の日の校庭で。浮かび上がった二人の影が寄り添い、一つに重なり合う。
「当然よ」
堂々と自信に満ちた笑顔で返したイリアの胸元には、約束の証のペンダントが光り輝いていた。
夢のようなプロポーズから一夜が明けた。
とある小さな貸家の寝室のベッドの上でレイトは目を覚ました。
次の瞬間に目に入ったのは、小さな寝息を立てている婚約者の寝顔。
肩を露出したその姿は裸にも見えたが、目を凝らしてみるとピンクのキャミソールを身に着けている。
しかしレイトは動じる事なく小さな溜め息をついて囁く。
「イリア……」
その声に反応してイリアの瞼がうっすらと開かれる。
そして、すぐにレイトの顔に焦点を合わせると、目を吊り上げて強気に笑いかけた。
「おはよ、レイト」
「……なんで隣に寝てるの?」
「あら、婚約したんだから当然でしょ」
イリアは上半身を起こすと、レイトを見下すようにして薄笑いを浮かべる。小柄で童顔ながらも、そのスタイルの良さは薄手のキャミソールでは覆いきれない。
大胆な胸元を見せつけるようにしてイリアは寝起きのレイトに迫るが、すっかり目が覚めているレイトはテンションも冷めている。
「イリアのベッドは、ちゃんと隣にあるよね?」
「いいじゃない。アタシ、ダーリンと一緒に寝たい」
「ダメだよ。そういうのは結婚してからじゃないと」
「ハァ?」
イリアは思わずレイトの胸ぐらを掴んで引き寄せる。体を密着させて豊満な胸を押し付けるが、悪魔の彼は顔色ひとつ変えない。
「アンタ、フィアンセが隣で寝てるっていうのに、何の気も起こらないワケ!?」
「え? 何の気?」
「ハァ……もう、いいわ」
今度はイリアが溜め息をついて肩を落とした。
レイトはイケメンだが真面目で、クールを通り越して冷めすぎている。そういう性格なのは、イリアが幼い頃からの長い付き合いで分かってはいる。
魔獣も悪魔も長寿の種族で、実年齢と見た目は一致しない。イリアが生まれた数百年前には、すでにレイトは今と変わらず大人の青年の姿であったから、実は相当な年の差カップルである。
(高校卒業して婚約もしたのに、何なのよコレ!)
クールなレイトとは逆に、熱い夜を過ごしたいイリアにとっては欲求不満が高まるばかり。
それもそのはず、今の季節は春。魔獣にとっては繁殖期だ。魔獣の血を持つイリアにとっても、それは少なからず影響していた。
イリアはベッドの上に座り込んでレイトに背中を向けた。すると、すぐに背中から包まれるようにして温かい感触に包まれる。レイトが後ろから抱きしめてきたのだ。
「イリア、拗ねたの?」
「ふ、ふん……だったら何よ?」
「好きだよ、イリア。愛してる」
「う……」
女王様気質のイリアも、耳元で囁かれるレイトの愛の言葉には弱い。それを分かっているのか無意識なのか、レイトは巧みにイリアを翻弄するのだ。
イリアは頬を赤らめながら、ゆっくりとレイトの方を向く。
「なら、おはようのキスして」
上から目線の女王様が、今では上目遣いで『おねだり』をしている。まさに立場逆転、下克上とでも言うのだろうか。
「うん、いいよ」
即答したレイトは、イリアの小さな両肩を掴んで引き寄せると、優しく口付ける。
「ん……レイト、好きぃ……」
真面目で奥手なレイトだが、イリアが高校を卒業してからはキスだけはしてくれるようになった。逆を言えば、キスしかしてくれない。
それは、イリアにとっては多少の期待外れでもある。
婚約した二人は、イリアの高校卒業と同時に魔界の城下町に建つ貸家へと引越した。結婚前の同棲である。豪邸ではないが、庭と駐車場付きの小さな一軒家だ。
イリアは魔王の孫であり王族。現状は生活に困る事はないが、真面目なレイトは『魔界の王子の側近』として働いている。
朝食を終えると、勤務先である魔王の城へと向かうレイトをイリアは玄関先で見送る。
「いってらっしゃい、ダーリン」
「うん。行ってくるね」
「うふふ、スーツ姿、カッコいい」
うっとりと見惚れると、イリアは目を閉じて背伸びをする。唇を突き出してキスの催促だ。
すると、すぐに温かい感触が返ってきた。クールなレイトは今日も無言で優しいキスを返してくれる。
ゆっくりと顔を離すと、至近距離のままでレイトは優しく問いかける。
「じゃあ僕はもう行くけど、イリアは今日どうするの?」
イリアはまだ夢見心地でレイトを見つめ返している。
「アタシは魔獣界に行って婚約を報告する」
「そっか。よろしくね」
イリアの父は魔獣界の王、つまり魔獣王。イリア同様、両親も魔界に住んではいるが、魔獣界は第二の故郷のようなものだ。
レイトを見送った後、イリアは外出着に着替えると中庭に出る。
「よし、行くわ!」
一人で気合いを入れて言うと、イリアの体が発光する。光が全身を包み込み、形を変えて膨張していく。やがて光が収まると、そこには三メートルほどはある大きな黒い犬が佇んでいた。背にはコウモリのような黒い羽根を生やしている。
……これがイリアのもう一つの姿。希少種の魔獣『バードッグ』の姿である。
魔獣の姿になると言葉が話せないイリアは、無言のまま羽根を羽ばたかせて空へと舞い上がった。
悪魔でもあるイリアには人の姿の時でも羽根はあるが、普段は魔法で隠している上に長時間は飛べない。遠距離の場合は、魔獣の姿で飛ぶ方が効率が良い。
魔獣界とは異世界ではなく、魔界の森の中に存在する、魔獣たちが住む小規模な街の事である。
魔獣界の城下町へと辿り着いたイリアは人の姿に変身すると、徒歩で王宮の城の中へと入る。
「いらっしゃいませ、イリア王女様」
城内の客間でイリアを迎えた女性は、長い深緑の髪に金色の瞳を持つ、黒いドレス姿の上品な貴婦人。見た目の年齢は二十歳くらいだが、童顔で小柄なイリアと比べると大人の妖艶さがある。
彼女も本来は魔獣だが、普段は魔法で人の姿を留めている。それは魔獣界の住民たちも同様で、基本的には人の姿で暮らしている。
「エメ姉、報告があるの。アタシ、ついにレイトと婚約したのよ」
「まぁ……それは、おめでとうございます」
エメ姉と呼ばれた女性の名は『エメラ』。
魔獣王と王妃、つまりイリアの両親の側近である。だが両親とも魔界在住なので、主に側近のエメラが一人で魔獣界を治めている。
二人は小さなテーブルに向かい合って座る。紅茶とクッキーも用意されていて、接待というよりは女子会だ。
「聞いてよ、エメ姉! レイトったら、婚約したのにキスしかしてくれないの、信じられる?」
「まぁ……それは本当に深刻ですわね」
エメラが声の調子と眉を下げて、まさに深刻そうな顔をしたのでイリアは思わず聞き返す。
「え? そこまで深刻?」
「はい。魔界で育ったイリア様はご存知ないと思いますが、魔獣界で結婚を正式に認めるには条件がありますの」
「は? 何それ? 条件?」
イリアは魔獣と悪魔の血を持つ王族なので、魔獣界と魔界の両方に結婚を認めてもらう必要がある。
そしてエメラが淡々と告げた『条件』とは衝撃的な内容であった。
「条件とは『婚約中に懐妊すること』ですわ」
「……は?」
イリアはティーカップを口元に運んで紅茶を一口飲むが、その間も思考はグルグルと回り続けている。
「懐妊って……身籠もる? アタシが、レイトの子を?」
「はい、その通りですわ」
魔獣界とは、希少種の魔獣のみが住む世界。
そもそも人の姿に変身できる魔獣は希少種のみ。特別な事情がない限り、結婚するには懐妊を伴う事が絶対的な条件であった。全ては絶滅危惧種を存続させるためなのだ。
それが異種族との結婚であっても例外ではない。イリアのように混血であっても、魔獣の血は薄れずに受け継がれるからだ。
だが、それはイリアにとっては、かなりの無茶振りである。いやイリアとしては今すぐにでも身籠りたいのだが、相手はあの真面目でクールなレイトである。
「ちょっと待ってよ! その条件、ハードル高すぎない!?」
「そうでしょうか? これも魔獣界の掟なのです。王様と王妃様は難なくクリアされておりましたわ」
「パパとママ? あ、そう言えば……」
イリアの父は魔獣で、母は悪魔。そして婚約中に、双子の『イリア王女』と『アディ王子』を身籠った。そしてイリアの双子の兄である、アディ王子とは……
「そう言えば、エメ姉はアディ兄と婚約中でしょ、もしかして、もう……」
「いやですわ、恥ずかしい」
エメラは赤くなった頬を両手で覆って隠しながら微笑んだ。そんな彼女の胸元には、アディから贈られた青い宝石の婚約ペンダントが輝いている。
魔獣界での婚約中とは、妊活中と同然。キザで手の早いアディの事だから、二人が結婚を迎える日は近いだろう。
(これは負けてらんないわね……アタシも、やってやる!!)
勝手にエメラに対抗心を燃やすイリアであった。