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第六章 さようなら

 聖職者たちの朝は早い。日の出よりも早くに起きていた彼らは、礼拝堂を始めとした教皇庁内の至るところに出入りを始めていた。

 忙しなく動き回る彼らが、自身を目にした時に軽く会釈をしてくるのを尻目に、イグナーツはブーツの音を重そうに鳴らしていた。教皇庁の最奥部にある一室――教皇の執務室とされている部屋に、イグナーツは向かっているのである。礼拝堂を通じてそこに向かうまでの壁天井には、中世頃からの強大なフレスコ画が隙間なく描かれていた。神話、あるいは聖書の出来事を描いた装飾絵画の内装が、来訪者をその物語の中へ取り込もうとしているかの如く、大胆かつ荘厳に出迎えてくれた。


「お久しぶりです、副総長」


 執務室へと続く両開きの扉の前に、二人の騎士が立っていた。

 二人の騎士は、イグナーツを見るなり、各々の胸に手を当てて軽い会釈を見せてくる。


「お久しぶりですね、リカルド卿、ハンス卿。貴方たちⅧ、Ⅸ番コンビも、教皇専属の護衛になって随分と経ちますね。そろそろ飽きてきた頃じゃないですか?」


 円卓の議席Ⅷ番――リカルド・カリオンは、頬から口周りまで薄く伸ばした髭を擦りながら、苦笑して肩を竦めた。歳は四十前後で、堀の深い小麦色の顔をした偉丈夫だ。ウェーブのかかった黒髪はしっかりとまとめられており、前髪部分を少しだけ垂らして色っぽく見せている。


「飽きたなんてもんじゃないですよ。この教皇庁から出たのなんて、もう半年も前の話だ。女の子一人ナンパできやしない」

「そう言って貴方、二週間ほど前に若いシスターにちょっかい出したそうじゃないですか。ちゃんと私の耳には入っていますからね。気を付けてください」

「なんと。でも、大丈夫ですよ。手は出してません、まだね」

「そのまま出さないでください。私が怒られてしまう」


 イグナーツとリカルドがそんな調子で軽口を言い合っている傍ら、もう一人の騎士――円卓の議席Ⅸ番――ハンス・ノーディンは、その間、瞬きひとつせずに精巧な等身大の彫像の如く立っていた。リカルドと同じくらいの年齢と身長だが、色白な肌をしている。頭髪と髭が一切ないところも対照的であった。常に眉間に皺を寄せているが、これが彼の平常時の顔らしい。


「ハンス卿も大変ですね。教皇猊下だけでなく、リカルド卿のお守もしないといけないのは」

「お気になさらず。慣れています」


 見た目の厳つさに違わぬ重厚な声だ。


「それは頼もしい」


 ハンスの真面目で短い回答に、イグナーツが軽く笑う。

 リカルドはそれを見て鼻白んだ。


「俺をいじめるのはその辺にして――猊下がお待ちかねですよ、副総長」


 途端に、イグナーツは気が重たそうな顔になる。


「猊下、怒ってました?」

「ええ、そりゃもう。なにやらかしたんですか?」

「心当たりがあり過ぎて、見当もつきません」

「準備万端ですね」


 リカルドはそんな皮肉を言いながら、扉に手をかけた。彼の動作に合わせて、ハンスも反対の扉に手をかける。それから二人は、言葉を交わすまでもなく、息ぴったりに扉を開いた。


「何かあったら、骨は拾ってください」


 イグナーツが最後にそう言い残し、扉の奥へと入っていく。

 すると、リカルドが、


「貴方は死んでも何も残さないでしょう」


 呆れるように笑って、扉を閉めた。

 部下たちとのひと時の談笑を終え、イグナーツは扉の奥へと歩みを進めだす。執務室へは二重扉となっており、さらに狭く短い廊下が続いていた。間もなく、先ほど通った扉よりも一回り小さい扉の前に辿り着き、


「聖王騎士団副総長、イグナーツ・フォン・マンシュタイン、ただいま到着いたしました」


 三回、ノックした。

 奥から返事がないことを了承と捉え、イグナーツはそのまま執務室へと入る。

 執務室は、最後に通った扉の大きさからは想像もつかないほどの広さがあった。五歳児くらいの子供であれば、数十人はここにいれて運動場にできるほどの空間だ。内装は慎ましく質素だが、逆にその無機質ともいえる雰囲気が、一定の物々しさを漂わせている。


 そして、その空間の中央壁際に設置された机に、教皇は座っていた。ミトラとストールは身に付けておらず、祭服姿でもなかった。人前に出る時とは打って変わり、控えめなカソックを着ている。一見すると司祭にすら思えないみすぼらしい身なりだが、ただ黙って座っているだけでも、その姿には紛れもない権力者としての風格が備わっていた。

 後ろに流すようにまとめられた黒髪に、猫の目のような金色の瞳を携えた顔で、教皇――アーノエル六世は、じっとイグナーツを睨みつけている。


 イグナーツは特にそれに臆した様子も見せず、慣れた足取りで部屋の奥へと進んだ。


「失礼いたします、猊下。何かございましたでしょうか?」


 教皇は、イグナーツが歩いている間に口を開き始める。


「ステラ・エイミスと黒騎士の件について訊きたいことがある」


 イグナーツは机を挟んだ位置で教皇を正面に据えた。


「であれば、わざわざこのようにして対面で話すこともなかったのでは? いつも通り、電話でのやり取りでよかったと思いますが」

「エレオノーラ・コーゼルという教会魔術師が、あの二人と一緒にいるようだな」


 一方的に質疑応答を進められ、イグナーツはその顔から余裕を消した。


「以前、卿からの報告の際には、ステラ・エイミスと同行しているのは黒騎士だけとあったはずだ。どの時点で情報に差異が出た?」

「お言葉ですが、猊下。猊下はその情報をどこから――」

「先にお前が答えろ」


 強い口調で差してきた。イグナーツは一度大きく息を吸い込み、それから徐に口を動かす。


「私が把握している限りでは、黒騎士たちがルベルトワを出立した時点になります。ですので、彼らがアルクノイアに辿り――」

「何故、私に報告しなかった?」

「その必要性を感じなかったためです」

「何故?」

「たかだか教会魔術師一人が増えたところで、猊下が懸念とされるような事態は起きないと思料いたしました」

「卿が思う私が懸念していることとは?」

「無論、ステラ・エイミスが戴冠式を開催し、猊下をログレス王国の王都に招き入れることです。そうすることで黒騎士が猊下を暗殺する舞台を整える、それを懸念されているのでは?」


 イグナーツの回答を受けて、教皇は椅子の背もたれに体重を預けた。


「間違ってはない。だが、それは少しぼかした言い方だ」

「と、仰るのは?」

「私が懸念していることは一つだ。シンプルに、黒騎士が私の前に生きて現れること。それさえどうにでもなれば、どこぞの王女が私を戴冠式に呼びつけようが、女王になろうが知ったことではない。あの娘がログレス王国の女王になって困るのは私ではなく、ガリアの老人どもだ」

「……ですから、その過程で戴冠式を開催されると猊下はお困りになるのでは? ステラ・エイミスと黒騎士が手を組んでいる状態を放置すれば、暗殺される舞台が造られるのをみすみす見逃すことになる。私は、それを猊下の懸念と捉えております」

「イグナーツ、お前が無駄に話を複雑にする時は、何か隠し事をしている時だ」


 イグナーツの眉間に微かな皺が寄った。

 教皇はさらに続ける。


「まあいい、時間は限られている。話を戻そう。エレオノーラ・コーゼルについてだが――あの魔術師、十九歳にしてかなり腕が立つらしいな。だが、それ以上に気になることがあった」

「いかがされましたか?」

「七歳以前の経歴が一切ない。教会魔術師である以上、対象者の経歴はすべからく明確にされていることが前提のはずだが、これはいったい、どういうことだ?」


 イグナーツは肩を竦めた。


「恐れ入りますが、私もすべての教会魔術師の経歴について事細かに把握しているわけでは――」

「ルベルトワの領主、フレデリックが教会魔術師の募集をかけていた時、エレオノーラ・コーゼルからも申し入れがあったらしいな。その直後に黒騎士とステラ・エイミスがエルフの人体実験を暴き、そして、三人はそのまま旅の一行となった――これは、すべて偶然か?」


 教皇が徐々に語気を強めるが、イグナーツは両手を軽く挙げてとぼける仕草を見せた。


「偶然では? エルフの人体実験の事実が明るみになることを懸念しているのであればご安心を。ご命令通り、研究者として派遣していた教会魔術師たちは皆回収済み、領主と証拠は抹消済みです」

「お前が言う証拠とは何だ? それには何が書かれていた? 何を以て証拠と呼ぶ? そういえば、その報告もまだ受けていなかったな」


 その言葉を聞いたイグナーツの顔が、一気に無表情になる。

 逆に教皇は、目つきが鋭いまま、獲物を捉えたような微笑を口元に浮かばせた。


「まさか、私に虚偽の報告をしているということはないだろうな?」







 シオンたち一行がグラスランドに入ってから、すでに五日が経過しようとしていた。これまでの騒動に対する休息を取るに充分な時間だったが、一向に身動きが取れないこの状況に、やや苛立ちを覚え始める頃でもあった。


 現在、一行はグラスランドの片隅にある小さな個人経営のホテルに滞在している。ここはかつて、ログレス王国の王族たちがお忍びで旅行をするために利用していた場所だ。王族専用の部屋があり、一般人には決して開放していないため、そこならガリア兵や騎士団が来てもやり過ごすことができると、ステラの提案だった。ホテルのオーナーは、前女王の友人でもある恰幅のいい初老の貴婦人で、ステラの姿を見るなり、号泣しながら歓迎してくれた。ステラのことは幼少期の頃から知っているようで、一時期、王女死亡説が国内に流れていたこともあるらしく、その反動もあってえらく手厚いもてなしを受けることになった。


 そのあまりの居心地の良さに、いっそこのまま暫く休めたらいいのにと、滞在初日にエレオノーラが口走ったのだが――何の因果か、そうならざるを得ない状況になってしまっていたのだ。


「まーた新聞読んでんの?」


 部屋のプライベートプールから出てきたエレオノーラが、身体を拭きながらシオンに話しかけてきた。布面積の少ない、中々に際どい黒の水着を着用している。彼女はそのままソファに座った。


「寝る時と食事の時以外、そればっかりじゃん」


 テーブルの上のジュースを飲みながら、呆れるように言ってきた。

 一方でシオンは、黙々と新聞を広げ、ペンで気になる記事をひたすらマーキングしていた。彼の座る椅子の横には、すでに数えきれない数の過去の新聞が積まれている。


「そういうお前こそ、寝る時と食事の時以外は、泳いでいるか、俺の背中調べているか、何か魔術の研究しているだけだろ」

「アンタと比べたら割と健康的で有意義な生活をしていると思うけど」


 エレオノーラは苦笑して、積まれた新聞を一つ手に取った。


「今更なんだけど、何をそんなに熱心に調べてんの? 丁寧にマーキングまでして」


 広げて、シオンを小馬鹿にしたように見遣った。


「二年近く投獄されていたせいで、今の大陸の時世がよくわかっていない。騎士団分裂戦争が終わってから今まで、何がどうなっていたのかを追っている。ホテルの外に出られない以上、これくらいしかやることがない」

「アンタもプールで泳げばいいのに。水着ならホテルが貸してくれるよ? 体動かした方がいいと思うけど」

「ここに来るまで散々動かしてきただろ。むしろ、今はゆっくり休んでいたいくらいだ」


 シオンが言うと、エレオノーラは肩を竦めて新聞をテーブルの上に放り投げた。それから足を組み直し、


「それにしても、いつまでここに居ればいいんだろうね。ここに来たときは居心地が良すぎてずっと休んでいたいとは言ったけど、さすがに飽きてきたな」


 やや退屈そうにぼやいた。

 シオンたちがホテルから出られない理由――それには、二つの要因があった。


 一つは、騎士たちがこの街に徘徊しているかもしれないということ。この街について間もなく、シオンがそれに気付いた。騎士団が保有する空中戦艦スローネが、この街の近隣に向かって高度を下げていくのを目撃したのである。空中戦艦は、円卓の議席Ⅳ番――ヴァルター・ハインケルと一部の騎士のみが、その複雑な操舵機構を魔術によって制御できる代物だ。

 まず間違いなく、自分たちがグラスランドにいることが知られているだろう。その上、おそらくはアルバートたちも空中戦艦の中にいると思われる。不用意に外に出れば、今度こそ追い詰められる可能性があった。


 二つ目は、王都へと続く交通機関が、すべて止められてしまったことだ。比重としては、こちらの方が深刻だった。何故なら、ログレス王国の王都は、大陸本土から若干西に離れた場所にある孤島の上に存在しているのである。そこに辿り着くためには、船の定期便を利用した海路と、大陸本土から伸びる数本の海峡大橋、及び鉄道を利用するしか他に手段がないのだが、それらすべてが、突然、ガリア軍によって制限をかけられた。どうやら厳重な検問が仕掛けられているようで、恐らくは、ステラを捉えるためだろうと、シオンは予想した。


 そんな状態で王都へ向かうのは無謀と判断し、長期滞在ができるここで暫く動向を伺うことにしたのだが――


「待っているしかない上に、いつまで経っても何の当てもできないのは、いささか堪えきれないものがあるな。お前の言う通り、ひたすら新聞を読み続けるのも少し酷になってきた」


 堪らず、シオンがぼやいた。新聞を閉じて背もたれに体重を預け、疲れたように目を瞑る。

 すると、ふと、いつの間にか背後に回り込んできたエレオノーラが、両肩を揉んできた。


「そんじゃあ、そろそろ本日の印章解析タイムにしますかね? お昼前に、ちょっとだけ、ね?」

「……わかった」


 このホテルに宿泊するようになってからは、もはや定常業務のようになっているシオンの背中の印章解析――旅の状況とは打って変わり、その進捗はいたって目覚ましいようで、ここ数日のエレオノーラはご機嫌な様子だった。

 シオンは椅子から立ち上がり、上裸になってベッドの上にうつ伏せになる。それから間もなく、エレオノーラが諸々の書籍やペンを手に跨ろうとするが、


「ちょっと待て、濡れた体のまま乗るつもりか? さっきプールから上がったばかりだろ」


 シオンが少し驚きながら顔を顰めた。

 エレオノーラは鼻を軽く鳴らす。


「ご心配なく。魔術で一気に乾かしちゃうから」


 そう言って、慣れた手つきで自身の腕にペンで印章を書きこむ。直後、エレオノーラの体表に纏っていた水気が、一気に水蒸気へと変わった。

 それを見たシオンが、少しだけ感心した顔になる。


「こうして改めて見ると、やっぱり凄いな――」


 まじまじと見つめられ、エレオノーラは咄嗟に胸と下半身を手で隠した。


「え、ちょ、ちょっと、いきなり何言ってんの! 改まって言われると、アタシだって恥ずか――」

「お前の魔術」


 顔を赤らめて若干にやけていたエレオノーラだったが、シオンの最後の一言を聞いて、すん、と表情を無に返した。

 彼女はそのまま、無言でシオンの背に乗る。どすん、と、無駄に勢いがつけられていた。

 シオンが、短く呻く。


「な、なんだ? 乗るならもう少しゆっくり腰を下ろしてくれ」


 しかし、エレオノーラは仏頂面のまま返事をしなかった。

 そんな彼女の態度にさらに文句を言おうとしたが、それも不毛だと、シオンは仕方なく押し黙ることにした。


 不意に、部屋の扉が開いて、勢いのいい足音が入ってきたのは、そんな時である。


「シオンさん、エレオノーラさん、今日のお昼ご飯はご当地名産のグラスランドビーフのステーキですよ! いやあ、ここに居たらどんどん太っちゃいま――」


 オーナーと会話していたステラが、部屋に戻ってきた。

 ステラは、二人を見るなり――正確には、シオンに水着姿で跨るエレオノーラを見て、ニヤニヤと顔に厭らしい笑みを浮かばせる。


「すねえ……。ふふ」

「なに?」


 エレオノーラが不機嫌に訊いたが、ステラはどこか悟ったような穏やかな顔を返した。


「いえいえ。エレオノーラさんも大胆なことをするなあと思いまして」


 その言葉を聞いたエレオノーラが、ハッとしたように顔を赤くさせた。それからすぐに、ステラを睨む。


「何の話?」

「何の話でしょうねー。でも、やっぱり、女の武器は使うに越したことはないですよね」

「ステラ!」


 そして、エレオノーラが急に立ち上がり、ステラに飛びかかっていった。二人はそのまま勢い余って、プールの中へと落ちていく。


 わけもわからずベッドの上に取り残されたシオンは、騒がしい光景には目を馳せず、小さく溜め息を吐いて静かに目を瞑った。


 仮に、こんな世界じゃない、別の、誰もが安全で暮らせる場所で出会っていたら、こんな平和な日常が、それこそいつまでも三人で続いていたのだろうか――眠りに落ちる直前に、何故かそんなことが頭に過ぎった。







 シオンは若干の息苦しさで目を覚ました。うつ伏せの体勢のまま寝てしまったようで、首の痛みと、喉のつまりで起きる。

 ゆっくりとベッドから体を引き剥がすと、部屋の中はまだ陽の光で明るかった。

 どれだけ寝ていたのだろうか――そんな疑問を抱いた直後に、


「アンタのお昼ご飯、アタシとステラで食べちゃったからね。勿体ないから」


 エレオノーラの声が、遠回しに回答してくれた。

 シオンは軽く頭を振って、さらに意識をはっきりさせる。ベッドの上に座り直し、部屋の中を軽く見渡すと――デスクに座るエレオノーラがこちらを見ていた。ステラはというと、隣のベッドで涎を垂らしながら寝ている。


「今、何時だ?」

「十四時。三時間くらいかな、アンタが寝てたの」


 エレオノーラを見ると、彼女はもう水着姿ではなく、いつものフリル付きのブラウスに、コルセットスカートの姿だった。

 彼女が付くデスクの上には、魔導書とノートが乱雑に広げられている。どうやら、日課となっている魔術の研究をしている最中のようだ。


「ここに来てからよく昼寝するなとは思っているけど、アンタさ、本当に身体大丈夫なの?」


 不意に、そんなことを訊いてきた。

 シオンはインナーを着つつ、顔を顰める。


「問題ない。よく寝るのは、今まで寝不足気味だったせいだ。旅が始まってからこのホテルに泊まるまで、まともに熟睡したことがなかったからな。いつ敵の襲撃を受けてもいいように、意識は常に半分覚醒させていた」

「それは知ってんだけどさ――」


 エレオノーラは溜め息を吐いて続ける。


「ギルマンと副総長と戦った時に“帰天”を使って、身体、かなりボロボロになってんじゃないの?」

「――大丈夫だ。ギルマンの時はともかく、イグナーツと戦った時は“天使化”していた時間も短かった。特別、身体に異常もない」

「ならいいんだけどさ……」


 どこか納得はしていない顔で、エレオノーラは肩を竦めた。それから彼女は大人しくデスクに向き直り、魔術の研究を再開し始める。


 その様子を、シオンは少しだけ怪訝な顔つきで見遣っていた。

 何故、イグナーツと戦った時に“帰天”を使ったことを知っている?――あの場に、エレオノーラはいなかったはずだ。確かに、騎士団のナンバーツーと戦うのだから、切り札である“帰天”を使うことは容易に想像できるが、彼女のさっきの言い方は、まるでその場に居合わせたか、“誰か”から聞いたかのような口ぶりだった。

 情報が錯綜している件に重ねて、どうにも、この女を信用しきれない。


「ちょ、ちょっと、さっきから何まじまじと見つめてんの?」


 シオンが凝視していることに気付いたエレオノーラが、恥ずかしそうに声を上げた。

 違和感の正体、及び証拠が掴めていない以上、ここで不用意に疑いをかければ、この先どんな影響が出るかわからない。シオンはとりあえずやり過ごすことにした。


「ところで、何の魔術の研究をしているんだ? たまに夜遅くまでやっているが」

「アンタの背中。このホテルに缶詰めになったおかげで、解析が凄い進んだからね。色々まとめてんの」

「まとめてるって……大丈夫なのか、記録に残して? 教会にバレたら、命を狙われるぞ」


 “騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”――大陸史が始まって以来、教会が頑なに独占してきた大いなる力の象徴。機械文明が発達し、多くの人間が容易く“力”を行使できるこの時代になってもなお教会がその権威を失わないのは、偏にそれらのお陰といっていい。

 そんなものが書物としてまとめられ、第三者の手に教会の機密情報が渡ってしまうことがあれば、その影響は計り知れない。


 しかし、エレオノーラはそんなことなど露ほども懸念していない様子で肩を竦めた。


「別に公表なんてしないし、アタシしか見返さないよ。それに、どうせ暗号化してアタシにしか読めないようにするし」


 対策になっているのか、回答になっているのか、何とも言えない主張に、シオンは芳しくない顔をする。


「そういう問題か? もし教会にバレたとして、俺も守ってやれる自信はないぞ」


 エレオノーラが吹き出した。


「ぶっ倒れてアタシに運ばれてた癖に、なに言ってんの?」


 普段の彼女からは想像もつかないほどにゲラゲラと品のない笑いをする。

 そんな姿を見て、シオンは軽く嘆息した。


「後悔しないならいい」


 その直後に、エレオノーラは笑うのを止めた。そして――


「――いいよ、別に守ってくれなくて」


 ベランダから入り込んだ風の音に、その小さな声はかき消された。







「ロットン茶法事件は?」

「……聖王暦一七七七年十二月十二日!」

「聖王暦一七七三年十二月十六日」


 シオンが出した歴史の年号問題に自信たっぷりに答えたステラだったが、誤答だった。ステラはベッドの上で枕に顔をうずめ、うわあああん、と、わざとらしく声を上げる。


「何で私こんな馬鹿なんですか! 自国で起きた重大事件の年号すらまともに答えられないなんて!」

「真面目に歴史を勉強しなかったからでしょ」


 エレオノーラが的確に原因を言い当てた。


「だって、歴史なんて大人になっても絶対役に立たないと思ってたんですもん! そんな百五十年以上前の出来事知ってたところで何か意味あるんですか!」

「王族の言葉とは思えないな」

「同感。ホント、大丈夫なの、この国?」


 シオンとエレオノーラが辛辣な言葉を残すと、ステラは、ぐぬぬ、と、もどかしそうに歯を食いしばった。


 夕食を終え、時刻は十九時を回ろうとしていた。

 ベッドでうつ伏せになるシオンの上にはエレオノーラが跨っており、“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”の解析を進めている。その隣のベッドにステラがいるのだが、突然、彼女から勉強を教えてほしいとの申し入れが二人にあったのだ。これから女王になることを考えれば、教養は高くなくてはならないと、ステラなりに立派な意識を持ったらしい。

 そこで、エレオノーラに乗られている間は特にすることもないと、シオンが一問一答形式でログレス王国の歴史問題を出していたのだが、これまでのステラの正答率は二割を切っていた。


 自国の重大事件すら把握できていないこの王女に、果たして国の統治を任せることができるのだろうか――そんな不安が、シオンとエレオノーラの胸中に芽生えていた。


「東エルド交易会社が解体したのは?」

「え、何ですかその会社?」

「もう駄目かもしれないね、この国」


 ステラがまた大袈裟に枕を抱え込んで声を上げた。この王女、どうやら勉学はからっきし駄目なようで、学校の成績もあまり良くなかったとのことだ。運動と芸術については他と一線を画す能力があったようだが、理系教科にしろ、文系教科にしろ、試験はいつも再々試験までやらされていたらしい。


「女王になった暁には、まずは政治よりも勉強に力を入れた方がいいな。このままだと、お前の失言が原因で大陸中を巻き込んだ大戦争が起こりそうだ」

「……今この状況でそんなこと言わないでください、本当にそうなりそうなんですから」


 もごもごとステラが枕に顔をうずめたまま、恨み言のように呟いた。

 そんな彼女を見て、シオンは一度黙ることにする。小さく息を吐いて、嘆かわしく静かに目を瞑り――


「――ッ!?」


 微かな赤い光と共に突如として走った背中の痛みに、思わず体を跳ねさせた。背中に乗っていたエレオノーラが、小さな悲鳴を上げて後ろに倒れ、ベッドから落ちた。


「何だ、何をした!?」


 シオンが驚いて起き上がると、エレオノーラはスカートを押さえながら立ち上がった。


「いったぁ……。ちょっとくらい我慢してよ!」

「だから何をした!?」


 シオンの怒声に、エレオノーラは顔を顰めながら口を尖らせる。


「“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”の実行反応をちょっと見ただけ。頑丈な身体してんだから、ちょっとくらい痛いの我慢してよ」

「やるにしても一言何か声をかけろよ……かなり痛いんだぞ、あの赤い光が出ると……」


 珍しく痛がるシオンだったが、エレオノーラは、はいはい、と大して悪びれた様子もなく軽く流した。その後で、


「とりあえず、調べたいことは調べ終わったから、今日はもういいよ。さ、お風呂入ってワイン飲もー」


 と、身体を大きく伸ばしてさっさとバスルームへ向かってしまった。

 そんな彼女の背中を、シオンは苛立ち収まらぬ視線で睨みつけるが、バスルームの扉が閉められ、大きな溜め息を吐いた。それからインナーを着て、ベッドの上に腰を掛ける。


 部屋の扉がノックされたのは、そんな時だった。

 ステラが、名前を呼ばれた犬のようにして枕から顔を上げる。


「誰ですかね、こんな時間に?」


 そのまま立ち上がり、扉へと早足で向かって行く。念のため、シオンも後をついていった。

 扉を開けると、そこにいたのはホテルのオーナーだった。恰幅のいい初老の女性で、名をマーサという。


「あ、マーサさん。どうしたんですか?」

「ごめんなさいね、ステラ様。こんな遅くに」


 そう言って、マーサは一度左右を見渡し、廊下に誰もいないことを確認する。ただならぬ雰囲気に、ステラとシオンは揃って表情を引き締めた。


「あのね、さっき配達に来てくれた酒屋さんから聞いた話なんだけど、明日から王都行の鉄道が何本か復活するみたいなの」

「本当ですか!?」


 咄嗟に喜ぶステラだが、対するマーサの顔は未だに険しいままだった。


「でもね、良くない知らせもあって。今日からこの街に、ガリア兵が多く入って来ているみたい。もしかすると、ステラ様たちのことがバレちゃったのかもしれない。もしそうだったら、私のせいだわ……ごめんなさい」


 とんでもない失態を晒してしまったと、マーサは落ち込んだ。

 一方で、ステラはすぐに首を左右に振ってそれを否定した。


「気にしないでください。ここにずっと居座っても、遅かれ早かれ気付かれていたでしょうし。それよりも、情報提供、ありがとうございます」

「ステラ様……」


 マーサがステラを抱き寄せる。


「今度は、ちゃんと観光で来てちょうだいね」

「はい!」


 短い抱擁を終えて、マーサが退室した。すぐにステラとシオンは部屋の奥へと戻る。

 そして、


「まずは明日、俺が一人で街の様子を見に行く。お前とエレオノーラはいつでもホテルを出られる準備をして待機してくれ。問題なく鉄道を使えそうだったら、またここに戻って知らせる」

「わかりました」


 短い作戦会議を開き、明日出発の準備を始めることにした。


 長い休息を経て、三人の絆は充分すぎるほどに深められていた。状況は厳しい。だが、この三人であれば、今まで通り困難を乗り越えられるはず――都合のよい悲劇は、いつも忘れた時にやってくるということを、この時のシオンは気付けていなかった。







 街の人々の往来が少ない朝五時――今日の空模様は曇天で、日の光はほとんど差し込まず、外は薄暗かった。


 身支度を終えたシオンが、ホテルの部屋のベランダを全開にする。今日は九月の最終日で、冷えた外気が本格的な秋の到来を告げていた。


「鉄道の運行状況と、ガリア兵たちがどれだけ送り込まれたのかを見てくる。二人はいつでもここを出られるように準備を整えてくれ」


 そう言いながら、ベランダの柵に足をかけた。

 エレオノーラが顔を顰める。


「ベランダから出発とか」

「念のためにな。今は人通りも少ないから、出入り口から出ると大通りから見た時に目立つ」


 それに何か意見を返す間もなく、シオンはベランダから飛び降りてしまった。普通の人間がやったとすれば間違いなくただの自殺行為だが、超人的な身体能力を持つシオンは見事に地面に無音で着地した。そのまま街の大通りから死角になるような物陰を伝うように走り、駅の方面へと向かって行く。


 その様子をステラとエレオノーラがベランダから見送り、


「まるでアサシンだね、騎士というより」

「まあ、この旅でやろうとしていることも要人暗殺ですしね……」


 彼の一連の動作について各々感想を残した。

 それから二人はいったん部屋へと戻り、ソファに腰を掛けた。荷物はすでにまとめられてある。あとは、シオンが偵察から戻って来たら、ここを出るだけだ。


「この極楽生活ともおさらばか。一週間近く缶詰で飽きてきたなって思ってたけど、いざお別れになるとちょっと名残惜しいね」


 エレオノーラが体を伸ばしながら言って、足を組んだ。観光こそできなかったものの、ここでの生活はいたって快適であった。街の名産品を使った豪華な料理が毎食用意され、プライベートプールでは適度な運動ができ、それ以外の時間は魔術の研究に当てることができ、まさに贅沢なひと時を堪能することができた。

 エレオノーラはそれらの思い出に郷愁を巡らせるようにして、長いため息を吐く。

 そんな彼女を、ステラはどこか申し訳なさそうにして見ていた。


「なに? どうしたの?」


 その視線に気づいたエレオノーラが声をかけると、ステラは顔を軽く掻いた。


「今更なんですけど、今この局面でエレオノーラさんを付き合わせる必要はないんじゃないかなって思って」

「どういう意味?」

「だって、エレオノーラさんの目的は“騎士の聖痕”の解析なんですよね? 私とシオンさんと違って、王都に行くこと自体が目的じゃないのに、なんだか無理やり連れ回しているような気がしちゃって」


 ステラの言う通り、今この状況下でエレオノーラが王都に行くメリットは、その危険性と照らし合わせるとほとんどなかった。ホテルにいる間に“騎士の聖痕”の解析はかなり進み、研究成果としては一つの実りがある状態である。さらなる探求として、引き続き解析を進めることもできるが、果たしてそれに対し、ステラたちに同行し続けることが割に合うかと言われると、正直微妙な話でもあった。

 エレオノーラは鼻を鳴らしながら肩を竦める。


「ホント、今更だね。まあ、いいんじゃない? “騎士の聖痕”も全部解析したわけじゃないし、シオンについていって調べたいことはまだある状態だからね」


 それを聞いたステラが、何かを企んでいるような、若干厭らしい笑みを浮かばせる。


「とか何とか言って、シオンさん本人が目的だったり、しますかね?」


 口元を押さえて、ふひ、と、変な笑い声を出した。


「――ねえ、ステラ」


 不意にそう呼び掛けたエレオノーラの顔は、目を軽く細めて無表情だった。先ほどまでは冗談に付き合ってくれそうなくらいには穏やかな雰囲気だったのだが――途端に、少しだけ空気が張り詰めた。

 ステラが慌てて両手を目の前で振る。


「あ、ご、ごめんなさい。ちょっと調子に乗ったというか、いつも意地悪されるから少し揶揄ってみたかったというか――」

「アンタはさ、シオンと、女王になること――どちらかを選ばないといけない状況になったら、どうする?」


 エレオノーラの琥珀色の双眸が、魔女の飼い猫が見つめるかの如く、ステラを捉えていた。







 グラスランドの駅舎は、中世に建てられた大型図書館を改装して造られたものだった。中世以前の街並みを色濃く残すこの街の景観を損なわないようにと配慮された、建築家たちの努力の賜物である。

 そんな古風な駅舎を目前にして、路地裏の陰でシオンは顔を顰めた。人通りの少ない早朝だが、駅舎の正面大階段の周りだけ人でごった返している状態だ――それも、ガリア兵だけで。

 恐らくは、王都行の汽車の運行が再開したことに伴い、警戒を強めてのことだろう。その目的は十中八九、ステラだと思われる。ガリア軍も、ステラがこのグラスランドから王都へ向かうことを予想しているようだ。


 ガリア兵の数は、見えるだけで五十人は駅舎前に配備されている。駅舎の中にも何人かいると考えるべきだろう。あれだけの数、シオン一人ならいざ知らず、ステラを守りながらとなると、さすがに強行突破するのは無謀だ。

 だからといって、アルクノイアでやった時のように貨物列車に飛び乗ることも得策ではない。一度使った手段のためにガリア軍も警戒しているだろうし――何より、ステラとエレオノーラの反発が強そうだ。


 それに、派手に立ち回れば、騎士に気付かれる恐れがある。空中戦艦スローネがこの近隣に停泊していることは、グラスランド到着初日に確認済みだ。この街に騎士がいることはまず間違いない。ガリア軍と騒ぎを起こせば、騎士たちを呼び寄せることになる。


 そしてその騎士とは、黒騎士討伐の任に当たっているアルバートたちのことだろう。アルバートと正面から戦うことだけは、何としても避けたかった。


 鉄道を使って王都へ入るのは諦めるしかないのか――そんな考えが過ぎる。最悪、王都が大陸本土から離れた孤島であることを利用し、どこかで小型船を調達して密航する方がいいのではとも思い始めた。当然、王都に近づけば近づくほどに警備が厳戒になるのだろうが、少なくとも、今この状況を打破する術は何もなかった。


 シオンは短く嘆息して、ひとまずホテルへ戻ることにした。ステラとエレオノーラに今後のことを相談し、いったんはこの街から出ることを提案するつもりでいる。徒歩での旅路にまた不平不満を言われるかもしれないが、致し方ないと説得させるしか他にない。


 二人が文句を言ってげんなりする姿が浮かぶ。それに、ほんの少し、可笑しさを感じた。


 不意に、殺気を感じたのはそんな時だった。


「――!」


 シオンは咄嗟に身を屈めた。直後、頭上の高さにある周囲一帯の物が悉く切断されていった。あと一歩、気付くのが遅かったら、シオンの頭はミンチ機に巻き込まれたかのように細切れにされていただろう。その証拠に、路地裏に積まれていたゴミ袋や金属籠、看板の類が、一瞬の間にずたずたに刻まれていた。


「ユリウスか!?」


 シオンが声を張ると、それに応じるかのようにして、路地裏壁のダクトの上から人影が現れた。金髪オールバックの銀縁眼鏡をかけた男――ユリウスの姿を見るなり、シオンは心底嫌った表情で舌打ちをする。


 ユリウスがダクトから飛び降りて地面に着地した。

 シオンは、ユリウスが立つ逆方向に踵を返そうとしたが――今度は、突然現れた氷の壁によって、逃げ道を塞がれる。

 そして、シオンの前に降って立ち塞がってきたのは、銀髪の女騎士、プリシラだった。


「いい加減、かくれんぼにも飽きてきた頃だ。ここいらでケリつけようぜ、黒騎士」


 ユリウスが鋼糸を周囲に巡らし、プリシラが長槍を構える。

 前後を挟まれたシオンは、静かに刀を鞘から引き抜いた。







 プリシラの槍の切っ先が、シオンの胸目掛けて突き出される。音速に匹敵する騎士の一突き――シオンはそれを、刀でいなしながら難なく躱した。刀と槍の刃がかち合い、耳をつんざく音と目も眩むような火花が沸き起こる。

 シオンは刀を握る手に力を込め、無理やりプリシラの槍を上方に弾いた。がら空きになったプリシラの胴体に対し、袈裟懸けに刃を走らせようとする。


 しかし、シオンの一刀はプリシラを斬ることはなかった――いや、正確には、刀を振り下ろすことができなかった。

 突如として現れた氷柱が、シオンの腕を刀ごと固めてしまっていたのだ。

 シオンがそれに驚く間もなく、プリシラが槍を横に薙ぎ払う。切っ先がシオンの胴体を捉えるが、彼は体を僅かに後退させて刃を外した――が、その軌跡を追うようにして、プリシラが蹴りを繰り出す。

 シオンはそれを正面からまともに食らい、身体を大きく後ろに吹き飛ばした。そして、胸に違和感を覚えて視線を落とした。そこに映っていたのは、パキパキと音を立てながら体を侵食する氷だった。


 そのことに何らかの危機感を持つ間もなく――無数の見えざる斬撃がシオンを襲う。ユリウスの鋼糸が、路地裏を埋め尽くさんばかりに疾風の如く駆け抜けたのだ。


 シオンは胸に纏わりつく氷に構う間もなく、路地裏の奥へと進む。大通りのような開けた場所に出たいところだが、そうするとガリア兵の目に留まってしまう。可能な限り路地裏を進み続け、街の外れにまで移動することにした。


(俺がガリア兵に見つかると、ステラがこの街にいることを奴らに確信させてしまう――)


 これからの行動を整理しようと頭を働かせた矢先、不意に足元から強烈な悪寒を感じて飛び退いた。直後、地面から現れた氷柱が、シオンの体を取り込まんとばかりにいくつも伸びてくる。

 シオンは体を捻り、路地裏の壁を蹴りながらそれを躱していくが――逃げた先に、プリシラとユリウスが待ち構えていた。

 プリシラから繰り出された槍の一突きを、シオンは刀で受け止める。だが、瞬く間に刀身が氷まみれになり、槍と結合されてしまった。


「――!?」


 シオンが驚愕している矢先に、今度はユリウスの鋼糸が迫ってきた。微かな朝日に当てられた銀の曲線が、乾いた空気を引き裂きながら無音で近づいてくる。

 シオンは刀を手放し、プリシラから大きく距離を取った。目標を失った鋼糸は、シオンの後ろにあった金属製の廃材を野菜の如く切断する。


 一転、シオンは、勢いよく地を蹴り、プリシラへ一気に肉薄した。プリシラがそれに反応しきれない間に、氷で刀が引っ付いた状態の彼女の槍を蹴り飛ばす。蹴られた槍は路地裏壁に叩きつけられ、刀は氷が割れて地面に転がった。


 シオンが刀と槍を拾い上げると、


「遅いんだよ!」


 ユリウスが声を張りながら、鋼糸を飛ばしてきた。瞬間、シオンは手にしたプリシラの槍をユリウスへと投擲する。騎士の膂力で投げられた長槍は亜音速でユリウスへと迫り――その途中で、鋼糸を絡めとった。


「クソがっ!」


 攻撃を強制的に中断されたユリウスが悪態をつくが、その表情はすぐさま驚愕に変わった。いつの間にか彼の眼前にシオンが姿を現しており、今まさに駆け抜け様に蹴りを繰り出そうとしているところだった。


 シオンの右足から放たれた横薙ぎの蹴りは、ユリウスの左肩に直撃する。そのまま吹き飛んだユリウスの体は、路地裏壁に激しく叩きつけられた。


 そんな一瞬の攻防の間に、プリシラが自身の槍を拾い上げ、再度、シオンへ接近する。プリシラがシオンに向かって槍の先を突き出すが、彼は少しだけ体を横にずらして難なく躱した。

 シオンが槍を片手で掴むと、その手を離さまいと瞬く間に氷が侵食してくるが――


「そうやって相手を拘束する時は、力負けしないことが前提だと教えたはずだ」


 そう言って、シオンは力任せに槍を振り回し、槍を持つプリシラを地面に叩きつけた。石畳が激しく割れ、プリシラが小さく呻く。

 シオンは手元の氷を割って槍を地面に突き刺すと、二人に向き直った。


「諦めろ、お前たちじゃどうやっても俺を倒すことはできない。わかっているはずだ」


 ユリウスとプリシラが弱々しく立ち上がり、肩で息をして、乱れた呼吸を整えようとする。ユリウスは割れた眼鏡を投げ捨て、腕をシオンへと伸ばし、懲りずに鋼糸を張り巡らせようとした。


 そんな時だった。

 ふと、大通りの方からこちらに向かって慌ただしく駆け寄ってくる足音が聞こえた。その物々しさから、ガリア兵であることは間違いない。


 シオンはすぐに踵を返し、路地裏の奥を抜けた先――街の郊外へ向かって駆け出した。


「待ちやがれ!」


 その背中にユリウスが怒号を飛ばし、ふらつきながらも後を追跡し始める。それに一歩遅れて、プリシラも駆け出していった。


 地元の野良猫が走るよりも早く、三人は路地裏を縫うようにして走り抜けた。途中、すれ違った街の人々は、それが人間であったと思う間もなく、ただただその風圧と衝撃に圧倒されて呆然としていた。


 屋根へ上り、またそこから別の屋根へと飛び移り続け――ものの数分で、シオンたちは街の郊外に位置する開けた高台へと移動した。

 高台には小さな廃教会が残されているだけで、他には何もなかった。ここに来る途中、進入禁止の看板を目にしたことから、高台そのものが立ち入り禁止区域に指定されているようだ。人の気配もなく、戦うにはうってつけの場所だろう。街の中心部からかなりの距離があるため、よほどのことがない限り、ガリア兵がわざわざここに来て何が起きているのか確認することもないはずだ。


 雨が降ってきたのは、その高台にて、黒騎士と二人の騎士が、改めて対峙した時だった。気温も下がり、口からは白い吐息が出るようになった。


「まだやるつもりか?」


 シオンが訊くと、ユリウスが強く歯噛みした。


「当たり前だ。てめぇだけはこの手でぶっ殺さなきゃ気が済まねえ」


 オールバックの金髪が雨で崩れるのも気にせずに、ユリウスは低く唸った。

 それを聞いたシオンが、小さく息を漏らす。


「……弟子の仇討ちか」

「わかってんなら、くだらねえことわざわざ訊くんじゃねえよ!」


 激昂したユリウスが腕を振るう。瞬間、シオンに向かって斬撃が走り、地面を削っていった。

 鋼糸を避け続けるシオンを、ユリウスが歯を食いしばって捕捉しようとする。だが、鋼糸の斬撃は追いつくどころか、さらにシオンと距離を作っていく。

 ついには、ユリウスの側面へ回り込んだシオンが、突進するかの如く急接近し、再度蹴りを見舞う形になった。


 蹴り飛ばされたユリウスが地面を転がり――彼が止まる間もなく、今度はプリシラがシオンに強襲する。高い声で雄叫びを上げながら果敢に挑むも、その有様は戦闘というより、まるで師弟の稽古のようだった。

 プリシラは一心不乱に、息が上がりそうなほどに力を込めて槍を振るうが――対するシオンは、その場から一歩も動かずに、右手だけで刀を振って、彼女の槍を完封する。

 最後は、シオンの刀が、プリシラの槍を弾き飛ばして決着がついた。


 息切れしながら立ち尽くすプリシラに向かって、シオンは暫く刀の切っ先を向けていたが、すぐに納めて、踵を返した。


「……そんなに俺が憎いのなら、後で好きなだけ切り刻ませてやる。だから、今だけは見逃してくれ。頼む」


 そう言い残して立ち去ろうとするシオンだったが、その背後で、ユリウスが拳を地面に打ち付けて、怒りに震えながら起き上がった。


「ふざけんなよ……そんな言い分がまかり通ってたまるかよ!」


 ふらふらと覚束ない足取りで、徐にシオンへ近づいていく。シオンに向かって鋼糸を飛ばすも、すぐに刀で弾き飛ばされた。


「どれだけの騎士がてめぇに憧れていたと思う? どれだけの人間がてめぇに救われたと思う? そんなものをすべてご破算にして――どれだけの人間が、てめぇに殺されたと思う!?」


 跳ね返った鋼糸がユリウスの身体の表面を微かに切り裂くが、彼はそんなことなど意にも介さずに――シオンの胸倉を両手で掴み上げた。


 そして――


「“てめぇがてめぇの女を守れずに始まった身勝手な戦争”で、いったい何人の仲間が死んだと思ってやがるんだ!」


 喉を引き裂かんばかりの勢いで、そう怒鳴り散らした。

 憤怒に酷く顔を歪めたユリウスを、シオンはただ黙って、無表情で見返している。その静寂は数秒だったが、間を繋ぐように打ち付ける雨の音が煩わしかった。


 それに耐えかねたように、ユリウスがシオンの身体を激しく揺する。


「おい、何か言えよ、コラ! すかした顔してんじゃねえ! おい、聞いてん――」

「シオン様!」


 それまで置物のように大人しかったプリシラが、突然、声を張り上げた。

 プリシラは、一度、息を呑み込むようにして呼吸を整える。それから弱々しく口を開き、白い吐息が溢れだしたところで――


「――“リディア様”がハーフエルフだと密告したのは、私です」


 その静かな一言が、雨の落ちる音を掻き消した。


「“貴方の恋人”を死なせたのも、“騎士団分裂戦争”を引き起こしたのも、すべては私の密告が引き金です。だからどうか、どうか――」


 大きく見開かれたシオンの赤い双眸に、力なく笑うプリシラの姿が映り込む。


「私を、貴方の手で殺してください。そのために、私は黒騎士討伐の任を請け負いました」







 かつて教会には、世にも珍しいエルフの修道女がいた。


 エルフは人間より三倍近い寿命を持ち、極端に老化が遅いことから、人間社会には馴染めないことが世の常とされている。エルフの大多数は、そのことを領分として人間とは一線を画した独自の生活区域を持ち、そこで過ごすことがほとんどだった。聖王暦一八〇〇年以前は、奴隷でもなければ、人間が住まう街の中でエルフを見かけることは非常に稀有なことだった。まして、人間とは異なる宗教観や倫理観を持ち合わせるエルフが、教会の聖職者として働いているなどとは誰も想像すらしない。


 大陸で唯一のエルフの聖王教修道女――“リディア”は、エルフと人間との間に存在する様々な障壁を、いつか取り払えると信じていた。人間とエルフが、互いに共存し合える世界をいつも夢見ていた。


 そのために彼女は、自らが人間を知る必要があると考えた。聖王教会に聖職者として勤め、神に救いを求める人間を理解しようとした。

 リディアのそんな高い志に、教会もまた彼女を寛大に受け入れた。エルフの修道女――その響きだけで、人間とエルフにとって、友好的な象徴として扱うことができると考えたのだ。


 修道女としての“リディア”の宣教、奉仕活動の成果は目覚ましいものだった。

 教会が唱える聖王教の教えは、彼女の口を通して、多様な価値観、生活観を認めるものとして、エルフを始めとした多くの亜人たちに伝えられた。エルフと人間の垣根を取り払うという最大の目的こそ緩やかな前進であったものの、彼女が修道女になってから八十年の間に、亜人たちの人間に対する意識は、それまでと比べて著しく軟化した。


 “リディア”が修道女になった当初、亜人の奴隷化を合法としていた大陸諸国は半数以上存在していた。だが、先進国であるログレス王国が率先して大陸全土の奴隷撤廃を掲げ、かつ彼女の奉仕活動が後押ししたこともあり、聖王暦が一九一〇年を超える頃には、大陸の八割以上の国で亜人の奴隷制度が撤廃された。


 エルフの修道女の名は大陸各地に知れ渡るようになり、彼女に対して誰もが称賛と賛美の言葉を送った。


 そうした功績を経て、“リディア”の地位が教会内で確立され始めた時――彼女は、とある雨の降る日に、野良犬のように蹲る一人の男児を修道院前で拾った。


 “リディア”が、実はエルフではなく、禁忌の血を持つハーフエルフだと教会に知れ渡ったのは、それから十数年後のことである――







 かつての弟子から発せられた言葉に、シオンは動揺で瞳を震わせた。体を打つ雨の冷たさを感じることもなく、ひたすらに頭の中でその意味を咀嚼した。


 ――最愛の人の死と、最悪の争いの発端は、自分にある。


 間違いなく、プリシラはそう言ったのだ。


「おい、どういうことだ!? 初耳だぞ!」


 固まるシオンを余所に、ユリウスが驚愕と怒りに目を剥いた。

 プリシラは、憑き物が落ちたように、あるいは逆に正気を失ったように――口元に薄ら笑いを浮かべている。


「……ようやく、伝えられた」


 彼女はそれから軽く空を仰いだ。顔に滴る雨が、徐に彼女の前髪を分けていく。露わになった紫色の瞳には、空の雲がそのまま映し出されていた。

 ユリウスが、プリシラの肩を掴んで揺らす。


「何一人で勝手に満ち足りた顔してんだよ! てめぇ、何で“リディア先生”がハーフエルフだって知ったんだ! いつ知りやがった!」


 しかし、プリシラはそれを軽く払いのけ、幽鬼の如くシオンの前に立った。


「シオン様、今申し上げた通りです」


 彼女は、呆然と立ち尽くすシオンから刀を握る手を取った。そのまま刃を首の頸動脈に添えて、静かに手を離す。


「貴方の目の前にいるのは、貴方の最愛の人を奪い、貴方の人生を狂わせた元凶です。どうか、気兼ねなくこの刃を引いてください」

「おい、ちょっと待てって!」


 ユリウスが瞬時に鋼糸を刀に纏わせ、プリシラの喉元から引き離す。刀はシオンの手から離れ、音を立てて地面に落ちた。

 途端、プリシラが空の曇りを残したままの双眸で、ユリウスを睨んだ。


「邪魔をするな」

「邪魔もくそもねえだろ! 何の説明もなしに勝手に話を進めんじゃねえよ! おい、シオン!」


 ユリウスは今度、シオンの肩を掴んで揺さぶる。


「てめぇはどうなんだ!? 何をどこまで知っている!?」


 しかし、シオンは無言のままだ。

 刹那、ユリウスがシオンの顔面を拳で殴りつける。派手に地面に転がったシオン。ユリウスはその胸倉を掴み、さらに腕を振り被った。


「口が利けねえなら、開きたくなるまでぶん殴――」


 ユリウスがそこまで言いかけて、今度は彼の身体が地面に勢いよく転がった。シオンが投げ飛ばしたのだ。

 シオンは意識を取り戻したように弱々しい光を双眸に宿し、徐に立ち上がる。


「……プリシラが密告者だとは知らなかった」


 ぼそり、と低い声で呟いた。それから、力のない瞳でプリシラを見遣る。


「もしそれが本当なら、お前の言う通り、二年前の出来事のきっかけを作ったのは、お前だ」


 シオンの言葉を受けて、プリシラが一歩前に出た。


「そうです、貴方の最大の敵は私です! ですから――」

「でも、それ自体は重要な話じゃない」


 かつての師弟関係を彷彿とさせるような声色だった。諭すように言ったシオンに、プリシラは口を半開きにして呆ける。


「……どういう、意味ですか?」

「密告そのものは――いや、“リディア”がハーフエルフだという事実は、どんな形であれ、いずれ教会に知られていた。今回の件は、たまたまお前が密告したという形になっただけだ――さすがに少しショックだったけどな」

「ですが――」

「“偶然”、知ったんだろ? “何か”から、あるいは“誰か”から。敢えてお前が自発的に調べたわけじゃないはずだ」


 プリシラは一瞬言葉を詰まらせた。シオンの言う通りであることは、その反応が証明していた。

 だが、彼女は唇を噛み締めたあとで、再度シオンに詰め寄る。


「……それでも――」


 紫色の双眸から溢れた涙が、雨と共に頬を伝っていった。


「それでも、その事実を利用して、“リディア様”を死に追いやったのは、紛れもなく私です……!」


 幼児のようにしゃくりあげて、もう一度告白した。


「貴方のことが好きで……師として仰ぐ感情よりも、女として貴方を想う気持ちが強くなりすぎて――貴方の心を独占していたあの方を、どうしても許せなかった……」


 プリシラは、過呼吸を耐えるように自分の胸を両手で押さえ込み、シオンに向かって首を垂れる。


「お願いします、貴方の手で殺してください……! 今は、自分自身がこの世で一番憎くてたまらない……!」

「――憎むべき相手なら他にいる」


 プリシラの懇願を、シオンは即座に拒否した。毅然とした口調に、思わずといった様子でプリシラが面を上げる。その先にあったシオンの表情は、怒っているとも、悲しんでいるとも言えない、淡々としたものだった。


「二年前の一連の出来事は、お前のそんな感情も利用されて起きたんだ」


 シオンとプリシラがそんなやり取りをしている傍らで――地面から起き上がったユリウスが二人のもとに歩いてきた。煙草を取り出し、マッチで火を点けようとしているが、豪雨のせいでうまくできないで若干苛立っている。


「なんだよ、利用されたって? 急に陰謀論か? 誰にだ、教皇にか?」


 それにシオンは頷いた。

 ユリウスは煙草を諦めて地面に吐き捨てる。それから改めて口を開いた。


「なあ。“リディア先生”の死が、騎士団分裂戦争を引き起こしたきっかけってのはわかっている。彼女の功績や立場を度外視した教会の決定に騎士や修道士たちが反発し、不服申し立てを行ったことが始まりだ。そこに、ブチギレたてめぇがなりふり構わず教皇に喧嘩売ったせいで、教会内で教皇派と分離派なんて対立構造ができたことも知っている。だが――」


 ユリウスはそこで一度切って、雨を拭い取った。顔を顰めて、軽く悪態をつく。


「それが騎士同士で殺し合いをするまでに発展した理由が、いまひとつ納得できねえ。俺の知っている限り、戦争直前まで教皇派と分離派の対立はあくまで政治的な言い争いに留まっていたはずだ。それがどうして何の前触れもなく、“次の日から殺し合いだ”、なんてことになった? あの戦争で教皇派も分離派も宣戦布告なんてしなかった。どっちが先に手を出そうとしたかもはっきりわかっていねえ」


 黙るシオンに、ユリウスはさらに疑問をぶつける。


「今の今まで戦争勃発の原因は、正面切って教皇に喧嘩売ったてめぇにあると思い込んでいたが、対立構造ができてから開戦するまでの間がすっぽり抜けていると思えてきた。色んな事がうやむやだ。てめぇは何をどこまで知っている? アルクノイアでアルバートは何を聞き出そうとしたんだ?」


 長いユリウスの考察を聞き終えて、シオンは軽く空を仰いだ。目を瞑り、大きく息を吸い込む。

 そして――


「あの戦争は――」

「そこまでだ」


 真実を話そうとした矢先に、鋭い男の声が遮ってきた。

 シオン、ユリウス、プリシラの三人が、咄嗟に身構える。


「シオン、この二人に余計なことは話すな」


 この高台に、新たに三人の騎士が立っていた。三人の騎士はいずれもフードを目深に被り、手には武器を構えている。そこからは、豪雨の煩わしさすら鎮めかねないほどの殺気が放たれていた。


 正面左のやや小柄な騎士は双剣を、中央の騎士は長剣を、正面右の大柄な騎士は身の丈ほどもある大剣を手にしていた。


「Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ番――よりによってこの三人を揃えてきたか」


 シオンが忌々しげに吐き捨てると、中央の騎士――円卓の議席Ⅶ番アルバート・クラウスがフードを外し、鋭い視線を向けてきた。







 アルバートの両隣にいた騎士二人もフードを取る。円卓の議席Ⅴ番レティシア・ヴィリエと、Ⅵ番セドリック・ウォーカーが素顔を覗かせた。両者ともに、双剣と大剣を手に、臨戦態勢を取っていた。


 場の空気が途端に張り詰め、一触即発とも言えるような雰囲気になる。

 そこへ、ユリウスが、三人の円卓の騎士と、黒騎士の間に割って入った。


「ちょっと待ってくれ、アルバート。今、こいつから二年前の戦争について色々聞いていたところだ。アンタも、アルクノイアで聞きそびれていたんだろ? だったら――」


 刹那、ユリウスが何の前触れもなく後ろに吹き飛んだ。彼の身体は廃教会の壁に打ち付けられ、そのまま背面部分がめり込んだ。腹には槍の如く細い足が一本突き立てられており――それは、レティシアのものだった。一瞬の間に繰り出された彼女の蹴りに、ユリウスは何一つ反応することができなかったのだ。


「これ以上雑魚の我儘に時間を浪費させる気はない。それに、我々議席持ちは、“知りたいことはすべて知っている”」


 レティシアが足を離すと、ユリウスは痛みで低く呻いた。


「ど、どういう意味――」


 その台詞の続きは、彼自身の短い悲鳴で遮られた。レティシアが双剣を彼の両肘あたりに突き刺し、廃教会の外壁に固定したのだ。双剣の刀身は、印章が彫られた護拳付きの柄の部分から音もなく外れ、ユリウスは磔の状態となった。

 プリシラが慄きながら前に出る。


「れ、レティシア卿、待ってほしい! 私たちはまだ黒騎士と話を――」

「セドリック」


 レティシアが呼ぶと、セドリックは嘆息しながら大剣を地面に軽く突き刺した。すると、プリシラの背後に巨大な岩壁が地中から出現する。彼女がそれに驚いている間に――レティシアが、両手の柄を地面に擦らせながら疾走し始めた。地面を削るような二つの細長い跡を残しながら、双剣の柄に新たな刃が作られていく。魔術によって、地面に含まれる金属類から刀身が生成されたのだ。


「――!?」


 プリシラが正面に向き直った時、その眼前には蹴りを放つレティシアの姿があった。ユリウスの時と同様に、プリシラの身体は岩壁に叩きつけられ、そのまま双剣の刃で固定されてしまう。


 二人の騎士は、ものの数秒で身動きを封じられてしまった。


「曲がりなりにもユリウスとプリシラは味方だぞ。黙らせる手段にしては手荒すぎると思うが」


 セドリックの苦言に、レティシアは鼻を鳴らした。


「議席持ち同士の争いに巻き込まれて死なれるほど、間抜けな話もない。騎士団が余計な恥をかかなくて済むようにしたまでだ」

「厳しさと優しさは紙一重と言うが――まあ、確かに、お前の言うことにも一理ある」


 肩を竦めて、セドリックは納得した。


 そんな騒ぎの傍らで、シオンはひっそりと地面の刀を拾い上げていた。彼はそれから、アルバートを見遣る。


「アルバート、アンタが知りたがっていたことは、もういいのか?」

「ああ。騎士団分裂戦争が起きた詳細な経緯は、イグナーツ卿から議席持ち全員に説明があった。“キミには同情するよ”。だが、もとをたどれば、キミにしろ、“リディア様”にしろ、身から出た錆だ」


 アルバートの言葉を聞いて、シオンは眉間に力を込めた。


「私たちは教会組織に身を置く者であり、その行動はすべて神のために捧げられなければならない。その原則を破り、個人的な感情に身を任せて破滅の道を辿ったのは、他ならぬキミたちの責任だ。同情こそできるが、その行動原理には一切理解を示すことはない」


 決して大きくはない声量だったが、豪雨の中でもはっきりと聞こえるほどに、アルバートは毅然と言い放った。

 シオンは、明確な怒りを孕んだ双眸で、そんな彼を睨みつける。


「……大した組織だ。その怠惰かつ傲慢な思想のせいで、“いったい何人の亜人が死んだ”と思っている?」

「その問い、逆に訊かせてもらう。“キミが突っ走った結果”、何がどうなった? 騎士団史上、最も不名誉だと言われた戦争――騎士団分裂戦争が起きたんだぞ。おかげで教会内での騎士団の立場は急落し、教皇の力が歯止めなく強まった。今の教会の勢力図を教皇一色にしてしまった原因は、キミの無責任な行動にある」

「名誉だ立場だの――」


 激しい歯軋りの音が、シオンの口から発せられる。


「だったら何のためにアンタらは戦ってんだよ! 神の教えや教皇の命令に脳死で従うことが騎士の正義だって言いたいのか!」


 大気を震わせるほどの怒号がシオンから発せられた。


「何の力もないせいで、死ぬまでただ祈ることだけしかできない奴らだって大勢いる。そいつらを目の前にしても、アンタはそんな高説を唱えられるのか」

「それとこれとは別の話だ。いうなれば、今はキミが黒騎士となってしまった原因――その“原罪”について説いている」

「何が原罪だ、馬鹿馬鹿しい。自分を正当化するために都合よく解釈しているだけだろ」


 吐き捨てて、シオンは刀を構えた。


「これ以上アンタと話していると気分が悪くなる。さっさと始めるぞ」


 その言葉を聞いた議席持ち三人が、各々武器を構えた。

 そして、アルバートが徐に口を開く。


「初めに断っておく。私たちはもう黒騎士を捕縛しようとは思っていない。ここで確実に、その魂を神の下へ還す」


 シオンが、怒りの形相で顔を歪ませた。


「――やってみろ!」







 勢いよく地を蹴ったシオンは、そのままアルバートに刀を横薙ぎに払った。その一閃が長剣によって防がれると、両者の間に激しい衝撃波が生まれる。二人を中心に雨は球状に弾き飛ばされ、おおよそ剣戟とは思えない轟音が高台全域に鳴り響いた。


 鍔迫り合いをする間もなく、シオンは力任せにアルバートの長剣を弾こうとしたが――背後から強烈な殺気が迫るのを感じ、すぐにその場から離れた。

 直後、耳元で風切り音が数回鳴る。併せて、シオンは右頬に痛みを感じた。レティシアが双剣を手に肉薄し、シオンの頭を掻っ切ろうとしたのだ。シオンはぎりぎりのところで二つの刃を躱したが、間髪入れずレティシアから追撃が繰り出される。


 レティシアは風車のように自らの身体を高速で回転させ、地を滑る勢いで迫ってきた。双剣がシオンの胴体を捉えるが、彼は一本を刀でいなし、もう一本は体を反らして避ける。

 シオンは反撃のために体勢を整えようとするが、突如として、地面から無数の岩盤が突き出してきた。足元が浮ついたと認識した時には、すでにシオンの身体は宙を舞っていた。


 セドリックの魔術だ。彼は、印章を彫った大剣を地面に突き刺すことで、地面を変形させる攻撃手段を持つ。


 地面から突き出た岩盤の槍に腹を強打され、堪らずシオンの口から短い呻き声と少量の血が溢れ出る。身動きが取れなくなった空中で、アルバートとレティシアが、剣を振り被って飛びかかってきた。

 長剣と双剣が、シオンの身体を挟み込むように迫る。

 シオンは、アルバートの長剣を刀で受け止めると、レティシアの右手首を蹴りつけた。そうして三本の剣のうち二本はどうにか防げたが、まだレティシアの左手に握られたサーベルの一振りが残っている。シオンは身体を捻って避けようとするも、サーベルの切っ先が彼の脇腹を斬り裂いた。赤い飛沫が、雨の水滴に混じって飛び散る。


 痛みに顔を顰めながら、シオンはどうにか着地した。だが、その瞬間、真横から巨大な影が凄まじい速度で肉薄してきた。

 セドリックが大剣を頭上から振り下ろそうとしているのだ。大剣の質量がその巨体から生み出されるパワーに乗れば、それは到底、刀で受け止めきれるものではない。


 シオンは横っ飛びになってセドリックから距離を取った。直後に、先ほどまでシオンが立っていた場所が、手榴弾が投げ込まれたかの如く爆ぜる。セドリックの大剣は地面を深く穿ち、彼を中心に半径三メートルほどに渡って強力な衝撃波を発生させた。


 それに怯む間もなく――今度は、アルバートとレティシアから無数の斬撃が繰り出される。


 呼吸どころか、瞬きひとつする余裕もない。


 三人の騎士からの猛攻を、シオンは紙一重のところで防ぐが――致命傷にこそならないものの、胴体、手足に少しずつダメージを負っていった。高台の水溜まりは、いつの間にかシオンの生き血で赤く染まっていた。


 そしてついに――


「――ッ!」


 アルバートの長剣が、シオンの左腹部を貫いた。その場から動くことが叶わなくなったシオンに、レティシアとセドリックの剣が強襲してくる。


「――なめるなぁ!」


 刹那、シオンは短い雄叫びを上げ、“帰天”を使った。それまでに負った傷が瞬時に回復し、赤黒い稲妻が三人の騎士を焼き切らん勢いで迸る。

 赤黒い稲妻を纏い、双角のような光輪を携えたシオンの姿に、アルバートたちは悪魔を目の当たりにしたかのように一瞬だけ目を剥いた。


 アルバートはすぐにシオンから長剣を引き抜き、後ろに飛んで距離を取る。レティシアとセドリックは強襲の慣性を止めることができず、そのままシオンへの攻撃をやむなく継続したが――レティシアとセドリックの身体は大きく後ろに吹き飛ばされた。シオンが、“天使化”状態の時のみに使用できる斥力の操作によって、二人を退けたのである。


「レティシア卿、セドリック卿、ここからです! 二人は援護をお願いします!」


 続けて、アルバートが“帰天”を行使した。

 シオンとは対照的に、本来あるべき“天使化”の姿――青白い発光と共に、茨の光輪を頭上に携えた神々しい様相に変貌する。


 先のアルバートの号令を受けて、レティシアは受け身を取りつつ舌打ちをした。


「まったく以て忌々しい、何が“天使化”だ! 相変わらず、腹立たしいほどに反則染みた力だな!」


 レティシアとセドリックは“帰天”を使えないため、“天使化”することができない。そのことに対する劣等感の現れなのか、レティシアは、“天使化した二人の騎士”――赤い天使と、青い天使を前に、そう吐き捨てた。

 それを宥めるかのようにして、セドリックが声を張り上げる。


「レティシア、言っても始まらん! “天使化”状態のシオン相手では、俺たちは近づくことすら精一杯だ! 体力切れを狙ってさっさと“天使化”を解除させるぞ!」

「言われなくてもわかっている!」


 直後に、シオンとアルバートが激突する。その衝撃は、最初に交えた時の剣戟とは比べ物にならない威力だった。高台に溜まりに溜まった水溜まりが、その衝撃を受けて瞬時に消し飛んだのだ。互いの一閃から繰り出された斬撃は斥力の操作によって威力を増幅され、周囲の木々や廃教会にまでその余波が及んだ。シオンとアルバートが剣を交わすたびに、至る所に亀裂が入り、大気が斬り裂かれる。何度もぶつかり合う赤と青の光の軌跡は、不規則な幾何学的な模様を生み出していた。


 その光の衝突に――シオンが微かに足を止めたところに、レティシアが割って入る。しかし、彼女が振った双剣は虚しく空を薙いだ。直後、レティシアの身体が勢いよく横に吹き飛ぶ。シオンの放った蹴りが、女騎士を廃教会の外壁に叩きつけた。

 シオンはそのまま刀を引いてレティシアへと迫る。だが、そうはさせまいと、すぐにアルバートが後ろから追いついた。


「させるか!」


 その一声と共に、アルバートが長剣の先をシオンへ突き出す。シオンはそれを左手で掴んで防ぐと、そのまま刃を強く握りしめた。

 アルバートが動きを止められた刹那、シオンが刀を振り下ろす。しかし、両者の間に滑り込んだセドリックの大剣が、黒騎士の一刀を防いだ。


「ぬうっ!」


 “天使化”によって強化されたシオンの膂力は、片腕一本でセドリックの巨体を吹き飛ばしかねないほどだった。セドリックは大剣の柄を両手で掴み、低く腰を構えて両足を地面に立てる。


 セドリックが吠えた。


 力任せに大剣を持ちあげ、シオンの刀を弾こうとする。シオンは堪らず、アルバートの長剣を手放して両手で刀を握った。


 直後、シオンの刀が、大剣を横に両断する。力の均衡を失ったセドリックが、たたらを踏むように体勢を崩した。そこへ、シオンが追撃の一刀を見舞おうとするが――


「私を相手によそ見する余裕があるのか!」


 アルバートの長剣が、シオンの背中を逆袈裟に斬りつけた。

 シオンは、セドリックを蹴り飛ばし、すぐにアルバートへ向き直った。背中の傷が治る間もなく、今度はシオンがアルバートの体正面を袈裟懸けに斬る。

 そんな斬り合いの応酬が、僅か二秒ほどの間に何度も繰り広げられた。二人から迸った鮮血は飛び散った矢先に雨で流され、血だまりを地面に残していく。


 その有様は、あたかも神話の一節で取り上げられる天使と悪魔の争いのようだった。


 刹那、サーベルの刃がシオンの首を横から貫いた。

 廃教会の方を見ると、頭から血を流したレティシアが、右手を伸ばしてサーベルを片方投擲した直後だった。


 シオンは短い怒りの声を上げ、すぐにサーベルの刃を首から引き抜く。そして、お返しとばかりに、渾身の力でレティシアに向かって投げつけた。

 驚異的な速度で迫るサーベルの刃は、真っすぐにレティシアの心臓へ向かっていた。だが、


「余計なことをするな、セドリック!」


 身を挺して間に入ったセドリックの右腕に深々と突き刺さり、挙句、貫通して脇腹まで到達した。

 そんな光景をシオンが確認した矢先に――


「――!」


 アルバートが、両手で振り被った長剣を、シオンに向かって斬りつけた。

 そのひと振りは、もはや斬撃と呼ぶことすら憚れるほどの威力を持っていた。

 直撃を受けたシオンは体正面を斬られつつ激しく吹き飛び、高台の地面を勢いよく転がる。静止した時には、夥しい血痕が彼の周囲に点在していた。


 アルバートは呼吸を整える間もなく、シオンへと歩みを進める。

 うつ伏せに倒れるシオンは、両手を地に付けて、徐に立ち上がろうとしていた。

 だが――


「もう、限界だろう」


 すでにこの時、シオンの“天使化”は解除されていた。そのせいで、アルバートから受けた最後の一撃の傷が塞がらず、大量の血を垂れ流している状態だった。


 それを見たアルバートが、同じく“天使化”を解く。


「“天使化”が解けてしまった以上、その深手ではもう長くはもたない。せめてもの情けに、苦しまないよう止めを刺す。無駄な抵抗はするな」


 しかし、そんなアルバートの言葉に反し、シオンは獣が唸るような声を上げて立ち上がろうとしていた。そればかりか、徐々に赤黒い稲妻を復活させ、再度“天使化”しようとさえしている。


 その執念に、アルバートが微かな慄きを孕んだ双眸で顔を顰めた。


「その状態で、まだ戦うつもりか……!」


 シオンは立ち上がった。血を全身に滴らせながら、大口を開けて肩で呼吸をするその有様は、まさに騎士の幽鬼そのものであった。

 刀を手に、覚束ない足取りで前進を始め、無理やり“帰天”を発動――


「そこまでにしてもらえる?」


 突如として聞こえた女の声に、シオンは動きを止めた。

 そして、声がした方を向き、驚愕に言葉を失う。


「悪いんだけど、アンタにはここで死んでもらわないと困るの」


 エレオノーラが、怯えと混乱で顔面蒼白となっているステラに、ライフルを突きつけて立っていた。




第一部 死との約束




「もっと驚いた顔すると思ったんだけど、そうでもないね。まあ、それが“アンタの凄く驚いた顔”なのかもしれないけれど」


 少しだけ口の端を吊り上げるようにして、エレオノーラは冷笑した。琥珀色の双眸はネコ科の動物のように鋭く細められており、シオンとステラにとっては、そんな彼女の表情は今までに一度も見たことのないものだった。


「それとも、やっぱりアタシのことは信じてなかった?」


 シオンは、肯定も否定もせず、今一度表情を引き締めて深く息を吐いた。刀を握り直し、アルバートに注意を払いつつ、改めてエレオノーラを睨みつける。


「シオンさん……私、もう、何が何だか……!」


 今にも泣き出しそうな顔で、ステラが声を震わせた。その華奢な身体が小刻みに震えているのは、雨に打たれる寒さのせいだけではないだろう。事態を把握できない混乱と、信頼していたエレオノーラに銃を突きつけられている恐怖によって、もはや正常な精神を保てていない様子だった。


「俺がここで死なないと困るっていうのは、どういう意味だ?」


 低く唸るようなシオンの問いかけに、エレオノーラは鼻を軽く鳴らす。


「言葉通りだよ。アンタがここで死んでくれないと、アタシも騎士団も、これから先のことうまく進められないの」


 ライフルの握る手に力が込められ、カチャ、と小さな音が鳴る。ステラが怯え、目をきつく閉じた。シオンが咄嗟に飛び出そうとするが、それまで静観していたアルバートに動きが見えたため、すぐに踏みとどまった。


「“紅焔の魔女”、それ以上は話さないでくれ。その話は騎士団の中でも、まだ円卓の議席持ちにしか知らされていない」


 アルバートの言葉を聞いて、エレオノーラは表情から笑みを消した。


「だったら、さっさと殺しちゃってよ。それだけ弱らせたなら、あとは一思いに終わらせられるでしょ」


 淡々とシオンの殺害を依頼するエレオノーラに、ステラは目を見開いた。恐る恐る後ろを振り返るが、


「エレオノーラさん……冗談、ですよね……?」

「冗談でアンタに銃向けないよ、ログレス王国のお姫様」


 その眼前には、ライフルの銃口が文字通り目と鼻の先の距離にまで迫っていた。

 言葉を失って硬直するステラをそのままに、エレオノーラは再度シオンへ視線を向ける。


「シオン、アタシの言いたいことはわかるよね? 大人しく死んで。じゃないと、ステラが消し炭になるよ」


 そう宣告されたシオンは、身体の正面の傷口から溢れ出る血を止められず、足元に血だまりを作っている状態だった。呼吸の乱れが収まらず、彼の口からは不規則に白い吐息が吐き出されている。意識も失いかけており、瞳はどこか胡乱げで、視点も定まっていなかった。

 それでも――刀を握る手に力を込め、一歩、踏み出す。呼応するように、アルバートとエレオノーラが咄嗟に身構えた。


 刹那、突如として、二人の騎士が動き出した。


「ユリウス、プリシラ!?」


 それまでレティシアによって磔状態にされていたユリウスとプリシラが、同時に駆け出していた。

 ユリウスはアルバートへ、プリシラはエレオノーラへとそれぞれ肉薄していく。

 しかし――


「――!」


 二人の騎士を、さらにまた別の騎士二人が力づくで止めた。


 レティシアが、ユリウスの背に乗って彼を地面に押し倒し、その首筋に双剣の刃を挟み込むようにして当てる。セドリックは、片手でプリシラの首根っこを掴み上げ、彼女を磔にしていた岩壁に再度打ち付けた。


 ユリウスが顔を顰めながら、自身の背に乗るレティシアに牙を剥く。


「クソったれが! 離せ、ババア!」

「ユリウス、それ以上勝手な真似をするのなら、このまま刃を引いて首を刎ねる」


 一方でプリシラは、自身の首を絞めるセドリックの太腕を両手で掴みながら、必死に足をばたつかせていた。


「セドリック卿……何故、貴方たちはこんなことを……!」

「お前たちに説明する必要はない。大人しくしていろ、プリシラ」


 議席持ちⅤ番とⅥ番による一瞬の鎮圧劇に、高台は再び静寂を取り戻した。


 シオンは一度、自身の胸から足元へ、舐めるように目を馳せた。出血が、留まる様子を一向に見せない。


「……俺が死んだら、ステラはどうなる?」


 不意に、シオンはアルバートにそう訊いた。対して、アルバートは頭を横に振る。


「詳しいことは言えない。だが、王女の身の安全は保証しよう」


 静かに始まった二人のやり取りに、ステラが目を大きく見開いた。


「シオンさん……?」


 突然、自身の身を案じ始めたことに対して、ステラは呆けたように呼び掛けた。

 しかし、シオンはそんなことに気付いてすらいない様子で、


「騎士団は、あいつを女王にさせるつもりか?」

「悪いが、それも言えない」


 さらに、アルバートとの会話を進める。


「俺が死ねば、あいつは安全な暮らしができるのか?」


 止まる気配を見せない二人の騎士の会話に耐え兼ね、ライフルを突きつけられていることなども忘れたように、ステラは弱々しく足を踏み出した。


「何、言ってるんですか……やめてください……!」


 先のシオンの質問に、アルバートは徐に頷いた。


「――ああ。ステラ様は、私たち騎士団が命を賭けてお守りしよう」


 それを聞いて、シオンは目を軽く伏せた。数秒の間を空けた後で、鞘を剣帯から取り出し、そこに刀を静かに納める。

 そして、それを投げ捨てた。


「待ってください……シオンさん……」


 シオンはそれから、アルバートに向き直った。

 もはや立っていることも不思議なほどに弱った様子で、ただその場に佇む。


「シオンさん!」


 それを何かの了承と取ったのか、アルバートは、シオンに向かって静かに歩みを進めだした。手にする長剣が握り直される。


「最期に、何か言い残すことはあるか?」


 腕を伸ばせば互いの体に届くほどの距離にまで迫ったシオンとアルバート――

 アルバートがそう訊くと、シオンは目を閉じて、力なく笑った。


「――くだらない人生だった」


 そして、アルバートの長剣が、シオンの胸を貫く。それから一呼吸置く間に、長剣が捻られ、一気に引き抜かれた。

 赤い血飛沫と共に、シオンが仰向けに倒れる。それからぴくりとも動かない彼の体を中心に、水溜まりが瞬く間に血で染まっていった。


「嘘ですよね……?」


 空を仰ぐシオンの赤い瞳に、光は灯っていなかった。小さく開かれたままの口からは、もう白い吐息は出ていない。


「嘘ですよね、シオンさん。私のこと、また揶揄ってるんですよね!」


 ステラが駆け出す。だが、すぐにセドリックによって肩で担ぎ上げられた。セドリックはすでにプリシラを解放しており――そのプリシラはというと、シオンが倒れた光景を目の当たりにして、呆然と地面にへたり込んでいた。


「シオンさん! シオンさん!」


 ステラが、セドリックの肩の上で何度もシオンの名を叫ぶ。


「ほら、またリズトーンの時みたいに、バババッと起きてください! このままだと私、連れ去られちゃいますよ! ほら、ねえ!」


 そんな呼びかけも虚しく、シオンは雨空を向いたまま何も反応を示さなかった。


「“天使化”して、いつもみたいにこんな人たちさっさと倒しちゃってくださいよ! ねえ! シオンさん!」


 長剣を納めたアルバートが、シオンの傍らに付いて片膝をつく。


「シオンさん!」


 シオンの脈と呼吸を確認した後で、そっと彼の両目を手で閉じる。

 そして――


「聖王暦一九三三年、九月三十日、六時三十八分」


 自身の懐中時計を見ながら、


「――黒騎士シオン・クルスの死亡を確認」


 シオンの死を宣告した。







 “スローネ・ドローン”は、空中戦艦スローネを母艦とする小型の空中戦艦だ。全長三十メートル、最大幅十八メートル、高さ六メートルの大きさで、これ単独では空中戦艦としての役割を果たすことはないが、戦場では小回りが利く高速輸送機として活用されることが多い。


 スローネ・ドローンは、街の外に停泊中の母艦に向かっている最中だった。スローネ本体では、その大きさゆえにグラスランドの街中に降りることができないため、代わりにこの艦が送迎をすることになったのだ。艦内には、今しがた黒騎士の討伐を終えた三人の議席持ちの騎士と、教会魔術師の女が一人――そして、ステラがいる。ユリウスとプリシラについては、後に来るという騎士団の部隊が来るまで、黒騎士の遺体の保護を任され、グラスランドに留まることになった。


「雨に濡れたままだと風邪ひくよ。これで体拭きな」


 ステラが、艦内の窓際で一人立っていると、教会魔術師の女――エレオノーラ・コーゼルが、タオルを一枚差し出してきた。

 ステラは、目も合わせずにその手を払う。


「……いつから、私たちのこと騙していたんですか?」


 おおよそ、十五歳の少女から発せられるとは思えない低い声だった。

 それを聞いたエレオノーラが肩を竦める。


「騙していたつもりはないけど。まあ、アタシが騎士団と通じていたことは黙っていたから騙してい――」

「さっさと答えてください」


 濡れた朱色の髪の隙間から、何かに取り憑かれたような青色の瞳が覗く。


「……ルベルトワを出て、アルクノイアに向かうあたりから」

「その時から、シオンさんのことを殺すつもりだったんですか?」


 ステラの質問に、エレオノーラは小さく鼻を鳴らした。


「いや。諸々、アタシが知らされたのは、グラスランドのホテルに着いてから。だから、旅をしている期間からすれば割と最近」


 淡々としたエレオノーラの回答に、ステラは顔を俯けて体を震わせた。


「……あんなに笑っていたのに――あんなに楽しかったのに、ずっと……ずっと、裏では私たちのこと、馬鹿にしていたんですか?」


 エレオノーラが眉間に皺を寄せて首を傾げる。


「馬鹿にしていたって意味がよくわかんな――」

「エレオノーラさん、シオンさんのこと好きになっていたんじゃないですか! それも嘘だったんですか!?」


 そう叫んで顔を上げたステラの頬には、左右それぞれに一筋の涙が流れていた。


「私が、何も気付いていないと思っていましたか?」


 怒りと悲しみを宿した双眸でエレオノーラを睨みつけるが、彼女は目を合わせず、窓の外を見始めた。


「アホくさ。何を根拠に――」

「女の勘です」


 かつて、目の前の女が言ったことを、今度はステラが口にした。


「私、応援してました。美男美女で、凄くお似合いだなって思ってました」


 声がかすれて、震えそうになるのを堪えながら、ステラは俯き気味に喉に力を込めた。


「もし私がちゃんと女王になって、二人が結ばれたりとかしたら、こっそりシオンさん匿ってログレスで生活してもらったり、お祝いしてあげたいとか考えてました……!」


 艦内の床に、ぽつぽつと音を立てて涙が落ちる。


「それくらい、それくらい、お世話になった二人には幸せになってほしいなって思って……! シオンさんもエレオノーラさんのこと好きになってくれたら、シオンさんだって旅が終わっても生きていてくれるんじゃないかって!」


 そして、大きく息を吸い込み――


「……私だって、シオンさんのこと――」

「アタシの親父、教皇なんだ」


 エレオノーラの一言を聞いて、ステラはその先の言葉を失った。


「所謂、隠し子ってやつ。教皇は知らないみたいだけど」


 そう言って横目で見下ろしてくる女魔術師の目は――金色だった。今となっては見慣れているはずの、琥珀のように綺麗な彼女の瞳――途端に、どこの誰かもわからない、得体の知れない“魔女”を目の当たりにしているようで、底知れない恐怖に、ステラは胸の臓物を抜き取られるような感覚に陥った。


「アタシの体には、シオンがこの世で一番恨んでいる男の血が流れているの。そういうわけだから」


 ステラから全身の力が抜け、彼女は支えを失ったように床に崩れ落ちた。


「ごめんね、アンタの恋路を邪魔しちゃったみたいで」


 エレオノーラはそれに一瞥すらせず、静かに踵を返した。


「――さようなら」







「黒騎士の討伐、及びステラ・エイミス王女の保護が完了したと、たった今、議席Ⅳ番ヴァルター様からご連絡がありました」


騎士団本部の円卓の会議室――議席Ⅲ番に座るリリアン・ウォルコットが、突然そう言った。それまで人形の如く微動だにしなかったにも関わらず、ラジオが何かの電波を受信したかのように、急に喋り始めたのだ。しかもその連絡は、何か電話や手紙といった便りを受けったわけではない。彼女はそれまで、ずっと椅子に座っていただけだ。

 会議室には他に、副総長のイグナーツしか座っていない。彼は、優秀な補佐のそんな奇行に特に動じた様子もなく、


「了解です。やはり、アルバート卿たちは黒騎士を殺しましたか」


 息を吐きながら、一人、納得した。

 リリアンが報告を続ける。


「これより、協力者である“紅焔の魔女”エレオノーラ・コーゼル様と共に騎士団本部へ帰投するとのことです。ユリウス様とプリシラ様については、黒騎士の遺体回収まで現地グラスランドにて待機しております」

「保険にしていたエレオノーラもよく働いてくれて何よりです。リズトーンでガリア軍と衝突したと聞いた時は少し焦りましたが、王女の守護と黒騎士の監視の任を見事果たしてくれましたね。魔術師の“師”として、私も鼻が高い」


 微笑して、イグナーツは少しだけ嬉しそうな顔になった。


「これで、“黒騎士の死”、“ログレス王国の王女”、“エルフの実験記録”が我々の手に入ったことになりますか。ようやく、教皇が望む報告をできそうです。上々の結果でしょう」


 イグナーツは椅子に座り直し、リリアンへ視線を馳せる。


「リリアン卿、急な話で申し訳ないのですが、これから私と一緒に黒騎士の遺体の回収を手伝ってもらえますか? その後は教皇庁に直行して、教皇にも死体を確認してもらいましょう。猜疑心の強いあの人のことです。シオンの死体を直接見るまで、騎士団への疑いを弱めないでしょうからね」

「恐れ入りますが、何故、私が必要なのでしょうか?」


 リリアンからの疑問に、イグナーツは大袈裟に肩を竦める。


「私、空中戦艦飛ばすの下手くそなんですよ。墜落させたらシャレにならないので、操舵、代わりにお願いします。ちなみに、“セラフィム”をヴァルター卿から借りることになっています。騎士団最強の空中戦艦を操れる機会なんて、そうそうないですよ?」

「幸甚です。その任、承りました。しかし、そうすると、騎士団本部に議席持ちの騎士が不在となってしまいます。よろしいのですか?」

「数時間前にⅩ番が任務を終えてこちらに向かっていると連絡がありました。彼が到着次第、入れ替わりで出発しましょう。死体はユリウス卿とプリシラ卿が見ているので、多少遅れても大丈夫なはずです。最悪、プリシラ卿が氷漬けにでもするでしょう」

「かしこまりました。それと、もうひとつご報告が」


 イグナーツが片方の眉を上げて続きを促す。


「総長ユーグ・ド・リドフォール様と聖女アナスタシア様はすでにアウソニア連邦に帰国されたようですが、騎士団本部へは暫く戻らないとことです。やはり、“警戒”はまだ解けないとのことでした」


 それを聞いたイグナーツは長いため息を吐いて、若干顔を顰めた。


「わかりました。まあ、そうでしょうね。聖女は我々騎士団にとって重要な後ろ盾です。折角、“この膠着状態を解除できる三つのカード”を手に入れたのに、ここで聖女を死なせてしまうようなことがあっては意味がない。致し方なし、です」


 やれやれと、イグナーツが嘆かわしそうに首を振る。

 すると、リリアンが不意に正面を向いて明後日の方に視線を飛ばし始めた。どうやら、また“何かを受信した”ようだ。


「騎士団本部に議席Ⅹ番――ネヴィル・ターナー様がたった今ご到着されました」


 虚空を見つめたまま、リリアンがそう報告した。

 イグナーツは口の端を軽く吊り上げ、徐に議席から立ち上がる。


「さて、それでは私たちも早速ログレス王国へ向かいましょうかね。“セラフィム”に乗るなんて何年ぶりでしょう」







 スローネ・ドローンが母艦であるスローネに到着して三十分が経った頃――そのブリッジに、四人の議席持ちの騎士たちが集まっていた。

 顔や腕、胴体に包帯を巻いて痛々しい姿のレティシアとセドリック、それに、無傷であるものの激しく戦闘衣装を損傷させたアルバートを見て、艦長である老騎士ヴァルターは鼻を鳴らした。


「屈指の武闘派とされているお前たち三人でも、シオン相手では楽勝とはいかなかったか」


 若者たちの自尊心を刺激するような小言だったが、ヴァルターの悪戯は空振りに終わったようだ。三人とも疲弊しきった様子で、付き合う余力もないといった顔をしている。


「ジジイの挑発に乗る気力も残っていないか。アルバート、“天使化”の反動はどうだ?」


 すぐさま真面目な話に切り替えると、今度はちゃんと食いつきがあった。

 アルバートが、深く陳謝するように目を伏せる。


「体中の痛みはありますが、動かすことができるので問題ありません。熱も大したことはないです。レティシア卿とセドリック卿のご協力があり、“天使化”の発動時間を必要最低限に留めることができたおかげです」


 優秀な後輩からの賛辞の言葉を受け、セドリックはどこか謙遜するように軽く笑ったが、レティシアは面白くなさそうに舌打ちをするだけだった。

 対照的な二人の反応を楽しんで、ヴァルターは再度アルバートを見遣る。


「シオンの遺体はこれからイグナーツたちが私の“セラフィム”を使って回収するはずだ。到着まで時間は少しかかるが、ユリウスとプリシラを残したから問題はないだろう。あの二人、旧知の死に応えていなかったか?」


 そう言って老騎士が少し厭らしい笑みを浮かばせると、アルバートは不快そうに顔を逸らした。


「残酷なことをしたとは思っています。ですが、状況が状況です。イグナーツ卿の説明を聞く限り、シオンの死は、今この局面でどうしても必要なことだと思料しています」

「シオンに呪われるのは怖いか? まるで、イグナーツに責任を擦り付けているかのようだぞ」


 立て続けに嫌味なことを言うヴァルターに、アルバートはいよいよ眉間に皺を寄せた。


「いえ、そんなことは決して――」

「まあいい。お前の言うことはごもっともだ。だが、これだけやってもまだ、“少し時間に余裕ができた”程度だと認識しておけ。忙しくなるのはこれからだ」


 ヴァルターが急に本筋へ話を戻した。直前まで食って掛かろうとしていたアルバートだが、興が削がれたように顔を顰めて大人しくなる。


「……はい、重々承知しております」


 若者を揶揄って遊んだあとで、ヴァルターは艦の進行方向に体を向き直した。


「この一件、凶と出るか吉と出るか――仮にうまくいけば、 “あいつ”にもまだまだ働いてもらわねばな」


 そう言って、空中戦艦スローネの進路を騎士団本部へと向ける。

 艦長の意思に応じるかの如く、銀翼の座天使は駆動音を低く鳴らした。







 エレオノーラは、空中戦艦スローネの休憩室の角で、壁に体の正面を向けるように一人立っていた。雨で濡れた状態を魔術で乾かすこともなく、体の左側を壁に預けながら、ひっそりとしている。どこか虚ろな瞳で、それでいて微かな笑みを浮かばせながら、独り言を延々と呟いていた。


「笑っちゃうよね。アタシが誰かを好きになるなんて」


 それは、誰かに語り掛けるような口調だった。


「一ヶ月くらいの短い旅だったけど、楽しかったなぁ」


 思い出すのは、彼と、彼女と、三人で過ごした日々。


「あいつと初めて会った時は、なんていい加減な奴だって思ってたのに」


 今のエレオノーラには、その時に、真っ先に思い浮かべる顔があった。


「好き勝手言ってアタシとステラを振り回すし、何考えてるかわからない顔してるし、道行く女を惚れさせるし、とんでもない男だった」


 初めに会った時と、今想う感情の差異に、自分でも驚きを隠せないでいた。


「でも、優しくて、強くて、かっこよかったなぁ」


 旅のことを思い出せば思い出すほどに、胸が何かに押しつぶされそうな感覚に陥る。


「アタシの初恋、あっけなかったなぁ」


 彼への想いを自覚した時には、すでに何もかもが遅かった。


「……これで、よかったんだよね?」


 彼との永遠の別れ――そして、そのきっかけの一端を自分が担ったという事実が、エレオノーラを酷く苛ませた。


「アタシ、正しいこと、してるんだよね……?」


 その答えを求めるようにして、エレオノーラは自身の体を両腕で抱え込んだ。壁に体を擦りつけるように、力なく床に座り込む。


「お母さん……」


 それ以上は、嗚咽で声が震えて、何も発せなかった。




第一部 了


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