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第五章 偽りの代償

 全長四百メートル、最大幅百メートル、高さ五十メートル――月光の下に闇夜の雲海を航走するのは、騎士団が保有する大型空中戦艦“スローネ”だ。座天使の名を冠したそれは、巨獣の鳴き声を彷彿させる低いエンジン音で寒空を震わせながら、海中を遊泳するクジラのような趣で飛行している。その白銀の船体は、それが戦を目的に造られたことを忘れさせるかの如く、星々の光をすべて映し出すほどに美麗な光沢を纏っていた。棺を彷彿とさせる形状こそ対峙する者にとって不吉を思わせる特異な要素であったが、総じて、座天使の名の通りに目を奪われるほどに荘厳で煌びやかであった。


 これほどの巨大な空中戦艦、操舵するための設備も相当なものであろうと、誰もが思うはず――だが、船内のブリッジは、羅針盤、通信機の類はおろか、操舵装置すらも存在しない、無機質なものであった。

 そこに存在するのは、床と天井いっぱいに描かれた巨大な印章――そして、その中央に佇む老騎士だけだ。白の戦闘衣装を身に纏い、白髪を後ろに流すようにまとめた規律正しいその姿には、齢六十に相応しい気品と落ち着きがある。

 老騎士は、両手を腰の後ろで組み合わせ、魔術によって自身の正面に映し出された仮想の周辺風景をじっと眺めていた。


「ご協力に感謝いたします、ヴァルター卿」


 老騎士――円卓の騎士、議席Ⅳ番ヴァルター・ハインケルの背に、若い男の声がかけられた。


「気にするな。暫くこの機体を動かす機会もなかった。ちょうどよかったと思っている」


 柔和かつ明瞭な声でヴァルターが答えると、控えめな一礼をしてブリッジへと入ってきたのは、円卓の騎士、議席Ⅶ番――アルバート・クラウスだった。

 ヴァルターと同じく白の戦闘衣装を纏うアルバートが、ブリッジ中央へと歩みを進める。


「そう言っていただけると、こちらとしても気が楽です」

「だが、任務失敗の尻ぬぐいにこんな老人を付き合わせることには、それなりの苦言があるがな」


 チクりと、ヴァルターが言った。アルバートは苦笑して軽く目を伏せる。


「返す言葉もございません」

「やはり、シオンは一筋縄ではいかなかったか?」

「色々と予想外のことが起こったものでして――次こそは、万全の状態で臨みますよ」

「その口ぶりからして、お供の二人は使えなかったと察する」


 ヴァルターの辛辣な言葉に、アルバートはさらに顔を渋くした。


「ユリウスとプリシラも優秀な騎士です。ですが今回に限っては相手が悪すぎました。シオンは円卓の議席ⅩⅢ番を与えられた騎士です。その戦闘能力は言わずともご存じでしょう」

「そんなことはわかっている。私が言いたいのは、敢えて旧知の仲を討伐に向かわせるなど、正気の沙汰とは思えんということだ。顔馴染みを連れていけば、戦闘を放棄して大人しく投降するとでも思ったのか? それとも、私が知らないだけで、君が悪趣味なだけか?」


 ヴァルターの質問を受けて、アルバートは弱々しく笑う。


「私が悪趣味かどうかはさておき、前者の通りです。あわよくば、シオンとの戦闘を回避できないかと苦心した人選でした」

「シオンを手にかけるのは気が引けるか? それとも、シオンに勝つ自信がないのか?」


 ヴァルターは自分で言って、すぐに馬鹿なことを訊いたと、鼻を鳴らした。


「後者はあり得んか。シオンと同じく“帰天”を使える君だからこそ、この仕事を任されたのだからな」


 しかし、アルバートは徐に首を横に振る。


「私が勝てると確実に言えるのは通常状態での話です。本気になった彼――お互いに“天使化”した状態で戦うことになった場合は、正直、わかりませんね」

「二年前の戦争の時も、君と、Ⅴ番と、Ⅵ番の三人がかりで、ようやく暴れるシオンを戦闘不能にすることができたのだからな。まあ、そう思うのも無理はない」


 ヴァルターは小さく笑って、不意に振り返った。


「ところで、騎士団本部では近々円卓会議が実施されるらしい。君にも通知はいったか?」

「ええ。参加できない旨を伝えたら、議題とその詳細、採決時の投票の回答を求められました。回答はすでに送付済みです。ですが、あの議題は――」

「結果的に、君の人選は最良の選択になるかもしれんな。面白くなってきたじゃないか」


 そう言って、ヴァルターは再び正面を向いた。

 年甲斐もなく楽しそうな笑みを浮かばせる老騎士を見て、アルバートは苦笑気味に肩を竦める。








 空中戦艦スローネの休憩室にて、ユリウスとプリシラは白の戦闘衣装を身に纏った状態で待機していた。

 プリシラは部屋の隅の椅子に腰かけ、一枚の写真を黙って見つめている。写真には、四年前のプリシラと、シオンの姿が映っていた。お互いに、まだ幼さの残る十代後半――師弟関係だったあの頃に、微かな郷愁を巡らせていた。


「そんな溜め息吐くくらいなら、この仕事断ればよかったじゃねえか」


 簡易ベッドの上に寝そべるユリウスが、煙草を吹かしながらそう言った。

 途端に、プリシラの目つきが横一線に揃えられた前髪の奥で鋭くなる。


「余計なお世話だ。貴様には関係ない」

「関係ないってことはないだろ。てめぇのせいで任務が失敗するなんてことも容易に考えられるからな。シオンさまー、私にはできませーん、ってな」


 揶揄い混じりにユリウスが言ってみたが、プリシラの反応は彼の予想に反してしおらしいものだった。


「貴様は平気なのか?」

「あ?」


 不意なプリシラの質問に、ユリウスが間抜けな声で訊き返した。


「貴様も、シオン様とは幼少期からの付き合いがあるのだろう? なのに、仕事と割り切って、殺すことができるのか?」

「ああ」


 即答したユリウスに、プリシラは言葉を詰まらせる。

 ユリウスは一度煙草を咥えて、大きく吹かした。


「もともと気に食わねえ奴だとは思っていたし、この任務はいい機会だとすら考えている。それに――」


 そこでユリウスは簡易ベッドから立ち上がり、煙草を再度咥え直した。


「あいつは俺の弟子を戦場で殺したんだ。その落とし前は、ちゃんと付けさせねえとな」


 そのまま灰皿へと移動して、短くなった煙草の火を消した。続けて新しい煙草を取り出し、オイルライターで火を点ける。


「戦争っつー特殊な環境で戦闘員が一人死んだところで復讐もくそもねえが――それでも俺は、あいつを許すつもりはねえよ。必ずこの手で殺してやる。アルバートは俺らに違うことを期待しているみたいだけどな」

「……そうか」


 空虚な顔で話すユリウスに、プリシラはその一言だけを返した。

 そして、写真のシオンを見つめ――懺悔するかの如く、僅かに顔を顰めて目を閉じた。







 ログレス王国とガリア公国の北部に隣接する大国――アウソニア連邦。そこに騎士団本部は存在した。巨大な白い石柱と見紛うほどに異様な造形をした高層建築物であり――その上層階に、円卓専用の会議室がある。

 会議室へと続く長い廊下を渡った先にある扉を開くと、これまた無機質な半球状の大部屋が姿を現した。中央には、巨大な円卓が備えられており、周囲にはⅠからⅩⅢの番号が刻まれた椅子が配置されている。そのうち、ⅩⅢの椅子にだけ白い布が被せられ、座ることが許されない状態となっていた。


「お待ちしておりました。レティシア様、セドリック様」


 円卓にはすでに二人の騎士が座していた。

 一人は、議席Ⅱ番にして騎士団副総長――イグナーツ・フォン・マンシュタイン。黒い長髪に冷たい瞳をした色白長身の男。

 もう一人は、議席Ⅲ番――リリアン・ウォルコット。絹のような長い銀髪を持ち、人形染みた端正かつ希薄な顔を持つ、十代後半の小柄な少女。

 リリアンは椅子から立ち上がり、今しがた入室した騎士たちに軽い会釈をした。


「招集をかけておきながら、随分と集まりが悪いな」


 そう不満を漏らしたのは、リリアンとは別の女騎士だ。

 議席Ⅴ番――レティシア・ヴィリエは、ショートカットにまとめられたブロンドヘアーを軽く靡かせ、青く鋭い瞳をイグナーツへと向ける。


「俺たち二人については現地参加が必須だった。文句を言っても仕方あるまい」


 若干の憤りを見せるレティシアをそう宥めたのは、彼女の隣にいる褐色肌の大柄な男の騎士だ。

 議席Ⅵ番――セドリック・ウォーカーは、静かに黒のサングラスを上げ直した。


 二人の騎士の到着を、イグナーツは椅子に深く腰掛けたまま歓迎した。


「お忙しいなか、御足労いただきありがとうございます、レティシア卿、セドリック卿。ご不満は会議後に聞きますので、まずは着席いただけますか?」


 言われるまでもなく、と、二人は早々に自分の議席に着席した。その直後に、リリアンも席に座る。

 空席が目立つ円卓を前にして、今度はイグナーツが組んでいた足を解いて徐に立ち上がった。


「さて、時間が惜しいのでさっさと会議を始めてしまいましょうか。早速、本日の議題について話したいところですが、その前に――」


 イグナーツはそこで、レティシアとセドリックの方へ視線を送った。


「Ⅴ番とⅥ番のお二人に、次の任務を伝えておきます」


 唐突な話に、レティシアが不機嫌そうにイグナーツを睨みつけた。


「私たちはまだ別件で動いている最中だ。他を当たれ」

「勝手ながら、お二人が遂行中の任務はすでに後任に引き継いであります。貴女も、小国同士の小競り合いの仲裁に飽き飽きしていた頃でしょう?」


 不本意ながらその通りだと、レティシアが鼻を鳴らして視線を外した。

 次にセドリックが口を開く。


「随分と急な話だが、俺たち円卓を二人も遣わせるとなると、新しい任務も相当な厄介事と思われるな」

「ご安心を。小国同士の小競り合いよりかは、幾らか楽しめると思うので」

「そこまで言うなら期待しよう。それで、次に我々は何をすればいい?」


 セドリックが楽しげに口の端を吊り上げると、イグナーツもまたそれに応えるようにして小さな笑みを口元に浮かばせた。


「逃走した黒騎士を追ってください。お二人にとっては、浅からぬ因縁がある相手でしょう。やりがいがあるのでは?」


 その言葉に、レティシアとセドリックは無表情になって固まった。

 イグナーツはさらに続ける。


「つい先ほど、ガリア公国からクレームが来たようでしてね。三日ほど前になりますか。黒騎士が、ガリア公国軍の将校と交戦し、殺してしまったようなのです。まあ、とどのつまり、これ以上被害が広がる前に騎士団の汚点をさっさと始末しろ、と仰りたいようです、“お偉い方”は」

「その“お偉い方”は、ガリア公国の方か? それとも、“私たち”の方か?」


 勘ぐるような、それでいて挑戦的な笑みを浮かばせながら、レティシアが鋭い視線をイグナーツへ向けた。イグナーツはそれを楽しむかのようにして、


「“両方”です」


 と、端的に答えた。

 セドリックもそれを聞いて、口元をさらに緩ませる。


「確かに、色んな意味で楽しめそうな仕事ではあるな。それに、シオンを相手にするのはやぶさかではない」

「二年前の戦争では私とお前、それにアルバートを加えた三人がかりでようやく生け捕りにしたな。今回もまさか、生け捕りにしろというわけではないな?」


 レティシアが訊くと、イグナーツは軽く肩を竦めた。


「お任せします。お二人は会議後、早々にログレス王国へと向かってください。そこで、現地にいる議席Ⅳ番ヴァルター卿、議席Ⅶ番アルバート卿と合流してもらいます。あとのことは、彼らから話を聞いてください」

「生死問わずと言ってほしいところだな。“帰天”を使えるシオンを生け捕りにするのはさすがに骨が折れる。それはさておき――」


 そこで不意にレティシアが話を区切った。


「ガリア公国にログレス王国、それに、“私たちの方のお偉い方”と、きな臭い単語が続々と話に出てきたが、いったいこの大陸で何が始まろうとしている?」


 彼女に問われ、イグナーツは再度、その青白い顔に微笑を浮かばせた。


「そうですね。その問いに応えるためにも、この流れで本題に入ってしまいましょうか。本日の議題は――」







 逃げるようにしてアルクノイアを出発してから二時間ほどが経過した。正確な時刻はわからなかったが、体感、朝の四時から五時くらいだろう。

 貨物列車は、ちょうど山脈地帯の中央を走行しているようで、線路の両脇は岩肌に挟まれていた。


「貨物列車のコンテナの中で焚火をすることになるなんて、人生何が起こるかわかったもんじゃないね」


 エレオノーラが、自身が点けた焚火で両手を温めながらぼやいた。


「多分、こんなところでこんなことする人、私たち以外にいないと思います」


 焚火を挟んでその対面に場所するで、ステラは虚空を見つめつつ、心を無にしたような声で言った。


「しょうがないよねー。どっかの誰かさんが、走行中の貨物列車に飛び乗るなんて無謀な作戦取ったんだもん」


 エレオノーラが、嫌味たっぷりにシオンを横目で見た。

 シオンはというと、エレオノーラたちが囲む焚火から距離を取り、コンテナ内部の端で一人大人しく座っていた。


「ていうかさ、いつまでこれに乗ってるつもりなの? まさか、王都までずっとこの状態とか言わないでよね?」


 エレオノーラの言葉を聞いたステラが、げんなりとした様子でがっくりと項垂れる。


「アルクノイアから王都までは、丸一日汽車を走らせても着かないくらいには遠いはずですが……」

「最悪……」


 二人揃って溜め息を吐いた。

 そんな掛け合いにも気付いていないのか、シオンは一向に会話の輪に入ろうとしなかった。


「ねえ、シオン。次どうするか、真面目に考えないとまずくない? さすがにずっとコンテナの中にいるなんて、いくら何でも無理があると思うんだけど


 しかし、シオンはその呼びかけにも一切応じなかった。

 エレオノーラは、若干不機嫌に顔を顰めながら、大きく息を吸い込む。


「ねえ、ったら! 聞こえてんでしょ! これからどうするか、相談しない!?」


 それでもシオンは顔を俯けにしたまま反応しなかった。


「あいつ、機嫌でも悪いの?」

「さあ……」


 シオンの妙な雰囲気に、ステラも怪訝に首を傾げた。

 仕方ないと、エレオノーラが溜め息を吐いてシオンの方へ歩み寄る。そして、彼の肩に手をかけた。


「いい加減にしなさいっての。貨物列車に乗るって作戦考えたのアンタなんだから、ちゃんと次のこと――」


 言いかけて、突然、シオンが体勢を崩し、そのまま床に倒れた。

 思いがけない出来事に、エレオノーラとステラが揃って驚きの声を上げる。


「ちょ、ど、どうしたの!?」

「シオンさん!?」


 エレオノーラが急いでシオンを横に寝かせると、シオンは虚ろな瞳で視線を返した。その顔は異様に赤く、べたついた汗に塗れている。呼吸も荒く、肩で息をしている状態だった。

 シオンは、自分が倒れたことにも気付けなかったようで、ああ、と短く言って起き上がろうとする。


「すまない……ぼーっとしていた……」

「ぼーとしていたって――そんな倒れ方じゃなかったじゃん! しっかりしてよ!」


 エレオノーラが急いで肩を貸し、ついでにシオンの額に手を当てた。そしてその熱さに、目を大きく見開く。


「何、この高熱!」

「し、シオンさん、ひとまず休みましょう!」


 ステラがそう促したが、シオンは赤い双眸を震わせながら首を横に振った。


「そのうち治る……だから……」


 言いながら、生気が抜けるように静かになった。突然の脱力に、彼を支えるエレオノーラが慌てて重心の位置を整える。


「って、言ってる傍から意識失うな!」


 エレオノーラが呆れながら担ぎ直し、その傍らではおろおろとした様子で、ステラがシオンの顔を覗き込んでいた。


「シオンさん、どうしちゃったんでしょう? 風邪でしょうか?」

「こいつに限って、そんなことないでしょ。リズトーン出た時から様子がおかしいと思ったけど、やっぱり体に相当な負荷がかかっていたんだ。“悪魔の烙印”の効力を無視して“帰天”を使ったうえ、そのあとすぐに騎士と戦ったんだもん」


 溜め息混じりにエレオノーラが言った。


「ずっと無理していたんだと思うよ。魔術による身体能力の一時強化は、程度の差はあれ、かなりの負担を術者に強いるの。“天使化”も多分、その例外じゃない」

「負担っていうのは、具体的にどのような?」

「パッと思いつくのは、炎症反応かな。今のシオンも、体中が炎症起こしているせいで発熱しているんだと思う。そのうち治るって言っていたし、安静にさせていれば回復するとは思うんだけど――」


 エレオノーラは周囲を見渡し、芳しくない表情になった。


「こんなコンテナの中で、果たして体力を回復できるのかって話だね」


 何度目かわからない溜め息を吐き、項垂れる。


 そんな時、


「あれ? もしかして、この列車、減速してます?」


 貨物列車が速度を落としていることにステラが気づいた。それから間もなく、急ブレーキがかけられ、一気に車両が停止する。


 エレオノーラが舌打ちをした。


「ちょっとまずいかも。もしかしたら、ガリア軍か鉄道警察に通報されたのかもしれない」

「ど、どうしましょう!?」


 慌てるステラをよそに、エレオノーラは、よいしょ、と一声上げて、気を失ったシオンを肩と背中で担いだ。それからステラを見て、


「ステラ、悪いけど、アタシの荷物、代わりに運んでくれない? まずはここから出て、姿を隠すよ」


 荷物運びを頼んだ。だが、ステラは不満そうに顔を顰めた。


「え、エレオノーラさんの荷物を私が運ぶんですか? あれ、とんでもなく重いじゃないですか。私の力じゃ到底……」

「四の五の言わずにやる。アンタとシオンじゃ身長差があり過ぎて、こいつを肩で担いで運ぶことなんてできないでしょ? だったらアンタが荷物運びになるしかないじゃない」

「はい、仰る通りで……」


 しゅん、とステラはなって、大人しくエレオノーラの荷物を持ち始めた。それから一歩足を踏み出すが、荷物の重さに堪らず、額に青筋を走らせてしまう。


「ふおおおぉぉぉ……!」

「ちょっと、変な掛け声出さないでよ。いくら何でも大袈裟すぎるでしょ」

「い、いや……やっぱり、エレオノーラさんの荷物、相当重いですって……! 普段からこんな重たいものを平気な顔して担いでいるエレオノーラさん、実は相当なマッチョなんじゃ……!」

「んなわけないでしょ! そこまで言うんだったら、アンタがシオンを担いで――」


 エレオノーラはそう言いながらシオンの方へ顔を向けた。シオンは目を閉じ、小さな息切れを起こしながら意識を失っている状態だ。美貌ともいえるほどに整った端正な顔は、弱々しく儚げで、妙な色気を放っていた。少し体を寄せれば顔同士が接しそうなほどの至近距離でそれを見てしまい、エレオノーラは思わず顔を赤くし、すぐに視線を外す。


「エレオノーラさん? どうかしました?」


 それを訝しげに見ていたステラが首を傾げ、エレオノーラはハッとして前に向き直った。


「な、なんでもない。それより、さっさとコンテナから降りるよ」


 二人はシオンと荷物を担ぎ、急いでコンテナの車両から飛び降りた。貨物列車は、人の手がほとんど行き届いていない森林地帯を走っていたようで、線路の両脇には壁のようにして藪と木々が生い茂っていた。

 姿を隠すなら、絶好の条件である。


 エレオノーラとステラは、そそくさと森の中に入り込み、身を隠したうえで貨物列車の方を見遣った。

 すると、エレオノーラの予想通り、対向路線から鉄道警察と思しき列車がやってきた。


「間一髪だったね。シオンがこんな状態じゃあ、戦って振り切るなんてことも難しそうだし」


 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、エレオノーラとステラは、さらに森の奥へと歩みを進めた。

 とにかく、シオンを休ませることができる場所に出なければ――そう二人が考えていた時、


「あ」


ふと、ステラが小さく声を上げた。彼女はとある上空を指差し、エレオノーラの肩を叩く。


「エレオノーラさん、あれ」


 指し示した先には、一筋の煙が上がっていた。焦げ臭い感じもしないことから、山火事などではなさそうだ。

 ということは――


「もしかして、人がいるんじゃないでしょうか?」


 そう判断ができた。

 ステラの言葉に、エレオノーラも同意する。


「……人がいたところで、こんな辺鄙な場所にちゃんとした家屋があるとはあまり思えないけど。まあ、他にあてもないし、行くしかないか」







 ステラが荷物を、エレオノーラがシオンを担いで一時間ほど歩いたあたりで、煙の発生元と思しき場所が視界に入った。

 しかし、ステラとエレオノーラの両名の表情はあまり喜ばしいといった様子ではなく、不安げであった。


「アタシの予想なんだけどさ、あそこに行っても休めない気がするんだよね」

「奇遇ですね。私も同じこと思いました」


 そう言って二人は、目の前の光景に落胆する。

 確かにそこには、期待していた住居らしき家屋が幾つか建ち並んでいた。だが、それらはあまり手入れされていないようで、いずれも二世紀ほど古い建築様式をしている。一見すると廃村のような集落だったが、周辺の草木が綺麗に刈り取られているところを見る限り、人はいるのだろう。しかし、そんなことよりもこの光景に違和感を持ったのは、集落をぐるりと取り囲む木製の拒馬だった。今は聖王暦一九三三年――銃器が発達したこの時代において、あまりにも時代遅れな防衛方法である。まるで、そこだけ時代が三百年以上取り残されているかのようだった。


「ねえ、ログレス王国ってさ、人間と亜人の他に先住民的な種族が領土内に住んでいたりするの? こういう外の世界とは隔離されたような場所にさ」


 エレオノーラの問いかけに、ステラは顔を顰めながら首を横に振った。


「わかりません。少なくとも私は、今まで聞いたことないです」

「じゃあ、あれ、何? どんな奴らが住んでんの? 何というか、あそこだけ中世から何も発展していないような感じなんだけど」

「いやぁ、私に言われても……」


 たとえあの集落に人がいたところで、果たして自分たちと同じ文明レベルでの会話が通じるのかどうか――雨風を凌げる場所は、今この状況に置いて聖域と崇めるほどに欲しているはずだが、そんな思いすらも忘れてしまうくらいに躊躇ってしまう。

 エレオノーラはため息を吐いて、ステラを見遣った。


「引き返そっか。なんか、アタシたちが期待していたような場所じゃないみたいだし」

「ですね。となると、やっぱり今日は野宿――」


 突然、周囲の草木が音を立てた。ステラが驚き、会話を中断してしまう。


「な、なんですか?」


 明らかに人のいる気配がする。それも、二人を囲むようにして。

 エレオノーラは表情を険しくし、ステラに目配せをした。いつでも彼女のライフルを出せるように、スーツケースの用意をする。


「こそこそ隠れてないで出て来たら? 若い女二人に何ビビってんの?」


 エレオノーラが挑発するように言うと、近くの木立から誰かが姿を現した。

 そして、ステラが目を大きく見開き、小さな声を上げる。


「あ、あれは……!」


 ステラたちの視線の先に立っていたのは、一人の軍人だった。しかしそれは、今までに遭遇したガリア軍の兵士ではない。ワインレッドを基調にしたその軍服は、紛れもなくログレス王国国軍の正規兵が身に付けるものだった。

 姿を現した軍人は中年の男で、小銃を構えながらゆっくりと二人に近づく。


「お前たち、何者だ?」


 軍人は落ち着いた声で訊いてきた。その表情は厳しく、返答次第では撃ち殺されないほどに鬼気迫るものだった。

 不意に、エレオノーラがステラの耳元に顔を近づける。


「ねえ、こいつ、この国の軍人だよね? アンタのことわからないの?」

「私、全然王女として人前に姿を出さなかったんですよね……。せいぜい、何かの式か食事会くらいでしか。なので、兵隊さんが私のことを知らないのも無理はないかと」

「なるほど」


 ステラがこの国の王女だと知れば、この兵士はきっと腰を抜かしながら必死になって平伏するだろう――そんなことを、二人は同時に考えていた。

 そうとはいざ知らず、兵士は苛立った顔つきをしていた。


「おい、何をこそこそと話している。こんな山奥に若い女が二人、どう考えても普通じゃない、何者だ? それに、動かないもう一人は何だ? 死体か?」


 兵士の言い分はもっともであると、ステラとエレオノーラは軽く肩を竦めた。

 そうしている間に、木立から続々と他の兵士が現れてきた。皆、漏れなくワインレッドの軍服に身を包み、険しい表情で銃口を向けている。一体何をそこまで警戒しているのか――そんな疑問を今すぐにでも口にしたかったが、ひとまずは、こちらの素性を明かすべきだろう。


「あの、私たちは――」

「何やら騒がしいですが、トラブルでしょうか?」


 ステラが喋ろうとした矢先、集落の方から女の声が聞こえた。

 驚いてそちらに振り向くと、そこには小奇麗なドレスを身に纏った赤毛の少女が立っていた。歳はステラとエレオノーラの間くらいで、そばかすがチャーミングな可愛らしい顔立ちだ。

 何者だろうかと、ステラとエレオノーラが呆けていた時、不意に兵士たちが慌てて陣形を取り始めた。兵士たちは、ドレスの少女を守るような位置取りになった。

 兵士たちのそんな不可解な行動を見て、ステラとエレオノーラの顔はますます怪訝になる。

 そして、


「ステラ王女、お下がりください! こいつらは今しがた我々の拠点に忍び寄ってきた不審者です!」


 兵士の一人がそう叫んだ。

 ステラ王女――確かにそう言ったはずなのだが、その兵士が背に守るのは、ステラではなく、ドレスの少女の方である。

 ステラとエレオノーラの顔が、ますます顰められる。

 さらには、


「おいおい、いくら不審者だからといって、寄って集って女性に銃を突きつけるのはいささか乱暴じゃないか?」

「黒騎士殿!」


 兵士が嬉々とした表情で声を上げた。集落の方から歩み寄ってきたのは、一人の若い男だ。黒髪で細身の長身、一言で表すなら、きざな優男だ。

 黒騎士という呼称が発せられたが――兵士たちがそう呼び掛けたのは、意識を失ってぐったりしているシオンではなく、優男の方だった。


 ステラとエレオノーラの顔が、いよいよ皺まみれになるほどに顰められる。


 事態を飲み込めずに二人が呆気に取られていると、ドレスの少女が優雅な所作で徐に近づいてきた。兵士たちが止めに入ろうとするが、ドレスの少女はそれをやんわりと拒否する。


「初めまして、私はステラ・エイミス。この国の王女です。もしよろしければ、お二人の名前をお伺いしてもよろしくて?」


 雷に打たれたかのように、ステラとエレオノーラは固まった。

 二人が何を言えばいいのか、目まぐるしく思案していると、ドレスの少女――自称ステラが、エレオノーラに肩を担がれてぐったりしているシオンに目を馳せる。


「あの、そちらの男性の方は?」


 無邪気に訊いてきた自称ステラに、エレオノーラが目を白くさせたまま口を動かす。


「え、ええと、あ、アタシたち、旅の途中でして、その、こいつは連れなんですけど、ちょっと病気になったみたいで、どこか一晩休めるところはないかな、と探していたところでございますゆえに」


 目の前で起きていることに衝撃を受け、うまく呂律が回らなかった。

 しかし、意味は通じたようで、自称ステラが、まあ、とわざとらしく驚く。


「それは大変。旅のお方、もしよろしければ、わたくしたちの拠点で――」


 そこまで言いかけて、自称ステラが突然目の色を変える。その双眸に映り込むのは、目を瞑ったまま動かないシオンの姿だ。

 自称ステラは、まるで何かに吸い寄せられるようにして、ふらふらとシオンの方に歩いていく。

 エレオノーラがそれに驚き、咄嗟に意識を呼び戻した。


「え、あ、ちょ、いきなりなに――」

「なにこのイケメン……!」


 自称ステラが、恍惚とした表情でそう呟いた。


 ステラとエレオノーラの表情が、劇物を口に入れたかのように顰められる。


 そんな二人のことなどお構いなしに、自称ステラが意気揚々と踵を返した。


「さあ、病人をいつまでもこんなところに放って置けませんわ! お二人とも、そちらの殿方を連れて、すぐにわたくしたちの“お城”に入って!」


 そう言い残し、兵士を引き連れて忙しく集落の方へと戻っていった。

 その去り際、自称黒騎士の優男が、ステラとエレオノーラにウィンクを飛ばす。

 呆然と立ち尽くす二人に、山頂から吹いた冷たい風が容赦なく降り注いだ。


「あの……行かなきゃ駄目ですか?」


 ステラが目を白くしたまま訊いて、


「行くしか、ないでしょ……」


 エレオノーラも目を白くしたまま答えた。







 自称ステラと自称黒騎士が先行して廃村――もとい、“新王都”の奥へと向かったあと、本物のステラとエレオノーラは、数人のログレス軍の兵士たちによって案内された。“新王都”という呼び名は、自称ステラが勝手につけたらしい。しかし、その実態は見た目通りの名ばかりで、まともな生活インフラすら整っていない状態だ。せいぜい、雨風を凌げる家屋があり、井戸水が湧いていること、あとは辛うじて電線が延びていることくらいが、せめてもの救いだった。


「あの……兵隊の皆さんはここで何をしていらっしゃるんでしょうか?」


 何とも言えない表情で、ステラが兵士の一人に訊いてみた。

 すると、出会った時に銃口を向けてきた中年の兵士が、説明を始めてくれた。ちなみに、エレオノーラのスーツケースを持っているのもこの兵士である。さすがに兵士であれば楽に運ぶだろうと思ったのだが、それなりに重たそうにしていた。

 中年の兵士は、荷物の重さに汗を滴らせながらステラを見た。


「無論、このログレス王国の王女であるステラ様をお守りしている。ステラ様は、いつの日かガリア公国の支配からログレスを解放するため、ここを拠点に力を蓄えることをお考えになっているんだ」


 この兵士の言うステラ王女とは、勿論、自称ステラの方である。

 本物のステラは苦虫を噛み潰したような顔でさらに質問を続けた。


「へ、兵隊さんたちはどうやってここに集められたんですか? そ、その、“ステラ様”に」

「ステラ様が招集をかけられたわけではない。ガリア軍の侵略を受け、王都の防衛に失敗した我々ログレス軍は、ステラ様を逃がすために国内各地に散らばることにしたんだが――」

「あ、それは知っています。いくつかの中規模な部隊を編制して、囮になってくれたんですよね?」

「ん? 何で君がそれを知っている?」

「え? あ、い、いや、私も王都出身で、その、ガリア軍が攻め込んできたときに避難したんです。その時に偶然、知ったといいますか、身の危険を感じてどさくさに紛れて一緒に逃げ出したといいますか、何といいますか……」


 当事者たちにしか知りえない情報を口に出してしまい、兵士が訝しげに眉を顰めた。焦ったステラが愛想笑いをして誤魔化すと、兵士は、まあいい、と言って話を再開した。


「君の言う通り、私たちはガリア軍の追跡からステラ様が無事に逃げられるように、国内各地に囮として散り、暫くの間、潜伏することにした。同時に、ステラ様はエルフたちに匿ってもらう算段で国の東側――ガリア公国との国境付近に向かっていたんだ」


 ステラは心の中で、はい、知っています、その通りです、と呟いた。


「しかし、それが裏目に出てしまった。敢えて敵国に向かうことで敵の意表を突く作戦だったのだが、どこからかその情報が漏洩したらしく、ガリア軍がステラ様を捕捉したとの情報が入ってな。慌てて私たちログレス軍も東へと向かったんだ。しかし、そこはさすがのステラ様だった」


 なにが? と、ステラは無言で首を傾げる。


「その時、ステラ様はガリア軍の裏をかいていたようでな、この山脈地帯に密かに身を潜めていたんだ。我々は、まだガリア軍の手が入っていないリズトーンを経由してエルフの独立自治区に行こうとしていたんだが、ちょうどその時、この廃集落の近くでステラ様と出会った。それから今まで、こうしてお守りしているというわけだ。あの時、入れ違いにならなくて本当によかったと思っている」

「へえ……そうなんですか……」


 兵士の説明を聞き終わって、ステラは密かに怒り心頭の状態になった。だから、いつまでたっても応援が来なかったのか、と。ガリア兵に追われながらエルフの里を目指していた時、あまりにも自国の兵士がやって来ないことを疑問に思っていたのだが、どうやら兵士たちは偽物の王女にまんまと騙されていたようである。

 もしあの時、シオンと出会わなければ、今頃自分はガリア兵に囚われていたか、殺されていただろう。そう思っただけで、さらに胸の奥で怒りの火が激しさを増していった。

 そんな心情が顔に出ていたのか、不意に兵士が、


「どうした? 腹でも痛くなったか?」


 そう声をかけてきた。

 腹は痛いのではなく、立っているんです――そう声高に叫びたかったが、どうにかして笑顔を繕った。少なくとも、この兵士たちに悪気はないのである。軍人がそう簡単に騙されるなと、一国の王族として喝を入れたいところであったが、ここは堪えるところと自分に言い聞かせた。まして、自分が本物の王女であることを証明する術がない今この状態では、それも叶わない。

 ステラは一度深呼吸をして、首を横に振った。


「いえ、何でもないです。王女様もですが、兵隊さんたちも大変だったみたいですね」


 すると、兵士は伏目がちに小さく鼻で笑った。


「なに、ステラ様のご心労に比べればなんてことはない。私たちはこれが仕事だしな。そういえば、君も王都から逃げてきたと言っていたな? 君の方こそ大変だっただろう?」

「ええ、もう、そりゃあ」


 やや食い気味に言って、兵士も少しだけ面食らった顔になった。だが、すぐにまた笑顔になる。


「まあ、ここには何もないが、せめて今日はゆっくり休んでいくといい。それと、さっきは悪かったな、急に威嚇して」


 そこで、兵士が唐突に立ち止まって、手を差し伸ばしてきた。

 驚きつつ、ステラも歩みを止める。


「私はジャスパー・ブラウン。ログレス王国国軍の中尉だ。いつまでも“君”っていうのもなんだ、よければ名前を教えてくれないか?」


 名前を訊かれ、ステラは一瞬手を取るのを躊躇ったが、すぐさま機転を利かせ、


「ま、マリーっていいます。短い間ですが、お世話になります、ブラウンさん」


 アルクノイアの時に名乗った偽名を、ここでもう一度使うことにした。

 ステラが手を握り返すと、ブラウンは気のよさそうな微笑を見せてきた。

 そこへ――


「ちょっと、何してんの! おいていくよ!」


 先を歩いていたエレオノーラが呼びかけてきた。

 ステラは短い返事をして、駆け足で彼女のもとへ行く。


「あの、エレオノーラさん」

「なに?」

「私、ここではマリーって名乗るので、よろしくお願いします」


 その言葉でエレオノーラは色々察したようだった。シオンを軽く担ぎ直しながら肩を竦める。


「そ。まあ、アンタが“本物”だってわざわざ言わない事には賛成。今下手にそんなこと言ったら、こっちが偽物扱いされそうだし」

「はい。それに、信じられたら信じられたで、厄介なことになりそうです。最悪、王都へ戻るのを止められるかも」


 ステラの見解に、エレオノーラは、へえ、と感心した顔になった。


「アンタも色々考えられるようになったじゃん。その調子で頼むよ、王女様」

「いや、だから黙っててくださいって!」


 そんなちょっとだけ騒がしい掛け合いをしていた矢先、不意に、周りの兵士たちが歩みを止めた。

 そこにあったのは、周りの家屋よりもずっと大きく、より頑丈そうな建物だ。恐らく、かつてこの集落の教会として機能していたのだろう。

 正面にある大きな両開きの扉が仰々しく開かれると、中にいた数名の兵士たちが出迎えてくれた。どうやら、話はつけてくれたようである。

 気兼ねなく中へと入ると、昔は礼拝堂であったのだろう大部屋に直結していた。蜘蛛の巣や埃に塗れており、激しく走り回ると咽返りそうなほどに汚れている。

 しかし、そんな状況でも、今は謁見の間、あるいは玉座の間としているのか――


「ようこそおいでくださいました。ここが、“わたくしのお城”になります」


 自称ステラが、奥の粗末な椅子に腰を掛けながら、そう迎え入れてくれた。その傍らには、自称黒騎士の優男もいる。優男はステラとエレオノーラを見るなり、何故か得意な顔になっていた。

 ステラとエレオノーラが反応に困っている矢先――そそくさと自称ステラが椅子から立ち上がり、エレオノーラが担ぐシオンのもとへと近づいてきた。

 不意に近づかれ、自分を騙ることに憤るステラは当然嫌悪に顔を歪めるのだが、彼女以上に何故かエレオノーラが憤怒の形相になっていた。ステラも初めて見るほどである。眉間に切れ込みでも入れたのかと思うほどに深い皺が寄せられ、薄い桃色の髪は怒髪天の如く殺気立っていた。眼光だけで人を射殺しそうな凄味がある。

 ステラがそれに驚きつつ恐怖していると、


「あの、こちらの殿方は何というお名前なのでしょう?」


 自称ステラが興味津々に訊いてきた。

 するとエレオノーラが、


「ジゴロ」

「ちょ!?」


 いきなり適当なことを言って、ステラが驚く。

 自称ステラはというと、


「まあ、変わったお名前ですね。でも、素敵です」

「いや、さすがにそれはないでしょう!? ていうか信じるんですか!?」


 意味を理解しているのか、それともはなからどうでもいいのか、よくわからないことを言い出して、さらにステラが驚愕した。


 そんな時だった。

 不意に、教会の奥の方から、誰かがこの大部屋に入ってきた。


 妙に恰幅のいい、壮年の男である。髪の毛は薄いが、鼻と顎には立派な髭を携えていた。礼服のような小奇麗な服に身を包み、威風堂々とした姿勢で歩みを進めている。


「何やら賑やかですが、どうされましたか、ステラ王女?」


 そして、ステラの目が大きく見開かれた。


「トーマス大臣、今日は記念すべき日ですよ。この“新王都”に、初めてお客様がいらっしゃいました」


 トーマス――その名前を耳にして、ステラはいよいよ動揺を隠せなくなった。


「ステ……――マリー? どうしたの、固まっちゃって?」


 エレオノーラに声をかけられ、一度、大きく唾を飲み込んだ。その後で、すぐに彼女の耳元に顔を近づける。


「あの人は、オリバー・トーマス。ログレス王国の大臣で――ガリア軍が王都に攻め入った時、私にエルフの里へ逃げるよう直接進言してきた人です」


 ステラの証言に、エレオノーラも言葉を失って驚く。

 直接進言してきた――つまり、この男は本物のステラ・エイミスを知っているのである。それが、何故、今こうして偽物と仲良くしているのか――そんな疑問が目まぐるしく頭の中で疾走するが――それよりもまず、咄嗟にステラは自身の背嚢から鳥打帽を取り出して被り、マフラーで口元を覆った。

 今ここに本物の王女がいるとこの男に知られることに、何故だか強烈な危機感を覚えたのだ。

 嫌な予感がする――ステラの心境は、その一言に尽きた。







「宿なんて嘘っぱちじゃん。豚小屋かよ」


 部屋入って早々、エレオノーラがげんなりしてぼやいた。

 ブラウンに案内された建物は、この“新王都”唯一の宿泊施設とのことらしいが、どう見ても人が住める状態ではなかった。積まれた石に木材を張り付けただけの壁と天井はその大部分が腐食しており、今にも倒壊しそうなほどに隙間が空いている。ところどころ蛆が湧いている部分もあり、ステラとエレオノーラは思わず顔を顰めた。これならいっそ、外で寝た方がマシなのでは、と思えるほどである。


「悪いが、これでもこの集落の中ではかなり綺麗な方だ。何より、ベッドがある」


 ブラウンが言って目を馳せた先にあったのは――何かの作業用テーブルだろうか。足の付いた少し大きめの鉄板が、部屋の隅で申し訳なさそうに二つ置いてあった。この建物と同様に激しい腐食が目立ち、もはや触れなくても全壊してしまいそうだ。

 ステラが、それを指差す。


「ベッドって、あれですか?」

「あれ以外に何がある?」


 ブラウンが即答し、ステラとエレオノーラは無表情で固まった。


「食事の用意ができたらまた声をかけに来る。それまで、ゆっくり休んで旅の疲れをとっておくといい」


 そう言い残して、ブラウンが部屋から出ていく。扉が閉められた途端、ベッドと言われた謎のオブジェ二つが足から倒壊した。

 部屋に残ったステラ、エレオノーラ、そして意識を失ったままのシオンの間に、僅かな沈黙が流れる。

 無理やり繕った笑顔で、ステラがぎこちなく首を回してエレオノーラを見た。


「と、とりあえず、シオンさんを横にしてあげましょうか」


 すると、エレオノーラは軽く項垂れたあとに長いため息を吐いた。


「ちょっとシオン支えてて」


 突然そう言って、シオンをステラに渡す。ステラはシオンを正面から抱きかかえる形で受け止めたが、細身のわりに体重が重く、そのまま押しつぶされそうになった。


「あ、あの、いきなりどうしたんですか?」

「部屋、ちょっと掃除する。こんなボロくて汚い部屋、家畜も住みたがらないって」


 不意にエレオノーラが懐からスティックタイプの口紅を取り出した。彼女はそのまま慣れた手つきで、床と壁に印章を口紅で描き込んでいく。

 エレオノーラが、よし、と一言発して、それから間もなく、部屋に異変が起こる。息を吹き返すかの如く、部屋の内装がみるみるうちに修復されていった。実は目に見えない小人がせっせと働いているのではと思ってしまうような光景に、ステラが感嘆の声を漏らす。

 それからものの数分で異変は収まり、部屋の内装は、見事、新築同然となった。腐食していた木材はどこにも見当たらず、壁と床には艶のあるウッドタイルが整然と貼られている状態だ。


「やっぱり凄いですね、魔術って」


 続いて、足の折れた二つのベッドも修復されていく。廃材同然となっていたが、錆もすべて取り除かれ、ようやくベッドと呼称できる形状を取り戻した。


「お掃除オシマイ。シオン、ベッドに寝かせるよ」


 それから、二人してシオンをベッドに仰向けに寝かせた。ベッドマットもシーツもない、ただの鉄板の上だが、それでもようやく横にさせることができ、二人して胸を撫で下ろした。


「シオンさん、大丈夫でしょうか?」


 まったく起きる気配のないシオンを見ながら、ステラがぽつりと呟いた。

 エレオノーラは首を左右に倒し、肩を回している。


「大丈夫なんじゃない? ぶっ倒れた時と比べて呼吸も落ち着いてきているし、さっきおでこ触ったら熱も下がっている感じだったし。明日の朝には元気になってるでしょ。それより、アンタは自分の心配したら?」

「私、ですか?」


 ステラが、キョトンとして訊き返した。エレオノーラは、今度は首を揉み始める。どうやら、長時間シオンを運んでいたせいで、首と肩が凝ってしまったようだ。


「アルクノイア出てから、一睡もしないでずっと今の今まで起きてたんだから、さすがに疲れてんでしょ。今のうちに、もう一つのベッドで休んでおきなさいな」

「それはエレオノーラさんもじゃあ――」


 しかし、エレオノーラは鼻を鳴らして軽くウィンクを見せた。


「シオンがこんなんじゃあ、安心して寝ることもできないでしょ? 今日はアタシが見張りするから。その代わり、今度立ち寄る街ではゆっくりさせてもらうからね」

「エレオノーラさん……」

「ところでさ――」


 エレオノーラは、シオンが寝るベッドに腰を掛けて、唐突にそう話題を切り替えた。


「さっきのアンタの話、どうにもきな臭いね」


 ステラもそれに倣って、もう一つの方のベッドに座る。


「トーマス大臣のことですか?」


 エレオノーラが頷く。


「大臣は王女が誰なのか、間違いなく知っているんでしょ? 偽物の王族を仕立て上げるなんて、結構ヤバいことなんじゃない?」

「もし平時なら、この国だと死刑になりかねませんね……」

「それだけのリスクを負っても、偽物を王女として扱いたい理由があるってことか。まあ、どうせ悪いことなんだろうけど。それと、その偽物たちにも気になることがあるんだよね」

「そうですね、何が目的なんでしょう?」


 エレオノーラは足を組み直して、少しだけ前のめりになった。


「どのみち、ろくでもないことなんだろうけど――それよりも、アタシが気になってんのは、王女の偽物に黒騎士の偽物がセットでいるってこと。アンタさ、リズトーンでギルマンが言ったこと、覚えてる?」


 我々が何も知らないでここに来たと思っているのか?――確か、そんなことを言っていたはずだ。ステラは首を縦に振る。


「少なくともガリア軍は、王女のいる場所と、王女と一緒に黒騎士がいることを情報として押さえているみたいだったね。それとギルマンは、アタシについては、魔物を焼き払った魔術を見てその場で何者かを判断したみたいだった。つまり、敵に知られているステラ王女の近況としては、“黒騎士と一緒に国内に潜伏している”、ってところかな。リズトーンの件で、そこに“紅焔の魔女”も一緒にいるってアップデートが入るかもだけど」

「つまり、ガリア軍は私についての最新の情報を持っていて、それと同じ状態を今の時点で再現している偽物の王女たちはガリア軍とつながりがあるということですか?」


 ステラの問いかけに、エレオノーラはどことなく勿体ぶるような笑顔を見せる。


「まあ、そうかもしれないけど――アタシはちょっと別なこと考えたかな」

「と、いいますと?」

「大臣がガリアと通じているんじゃないかって」


 エレオノーラの答えに、ステラが動揺した顔で立ち上がった。


「そ、そんな!」

「アタシは、大臣が偽物たちに王女と黒騎士を演じるように指示して、何か良からぬことを企んでいると思うんだよね。ねえ、ステラ、何かそれを裏付けるような心当たりない?」

「心当たりって――」


 あるはずがない、と口が動きそうになったが、ステラはハッとした。


「――エルフの里に向かった時、偽物のせいでログレス軍の兵士が誰一人として応援に来なかった……!」

「全容が見えてきたんじゃない? 大臣はきっと、アンタをエルフの里に向かわせることでアンタを孤立させ、そのままガリア軍に処理させようとしたんじゃないかな? 幾ら意表を突く作戦だからって、敵国との国境近くに王女を送り込むなんて大胆過ぎるし――そもそも、匿ってもらう先のエルフたちは数年前の戦争でガリア軍に弾圧、乱獲されて到底要人を守るような体力もない状態だったろうし」


 エレオノーラの総括を聞いて、ステラは力が抜けるようにベッドに腰を下ろした。それから、口元を両手で押さえ、きつく目を瞑る。その両肩は微かに震えており、湧き出る感情を必死に抑えようとしているのが傍から見てもわかった。


「大丈夫?」


 エレオノーラが訊くと、ステラは力強く頷いた。


「……はい。もう、些細な感情の変化で自分を見失わないと決めましたから」

「いいこと言うじゃん。いいこと言ったついでに――」


 エレオノーラが、ステラの隣に座り直す。


「あいつら、ちょっと懲らしめてやらない? うまくいけば、シオンに褒めてもらえるかもよ?」


 その提案に、ステラは小首を傾げた。


「懲らしめるって、どうするんですか?」


 そして、エレオノーラは悪戯っ子のような笑みを見せる。


「まずは、一人馬鹿っぽそうなのがいるから、そこから攻めてみよっか」







 日が完全に落ちた頃、自称ステラ主催の晩餐会へ案内するため、兵士のブラウンがステラたちの休む部屋に訪れた。ブラウンは部屋の内装が新築同然になっていたことにえらく驚いていたが、エレオノーラがすぐに自身の素性を明かした。

 “教会魔術師”の“紅焔の魔女”――その銘を聞いて、ブラウンはさらに目を丸くさせていた。その反応が久々に自尊心をくすぐったのか、エレオノーラはほんの少し得意な顔になって教会魔術師の証である銀のペンタクルを見せつけていた。


「いいんですか、エレオノーラさんが“紅焔の魔女”だってばらしちゃって? リズトーンの一件で、私と一緒に旅していることがガリア軍にもばれているんですよね? もし、大臣がガリア軍と通じていたら、その情報も渡っているんじゃ……」


 晩餐会の会場への移動中、ステラが不意に訊いた。

 エレオノーラは軽く肩を竦めて微笑む。


「シオンが第八旅団を壊滅させたおかげで、連中は今頃情報の整理なり後始末なりで大慌てな状況のはずだよ。そんな時に、わざわざこんな辺境の地にいるおっさん一人を相手にすると思う?」

「まあ、確かに」

「それより、アンタはその大臣に顔見られないようにしっかりね。帽子、しっかり深く被んなさい」


 そう言って、エレオノーラはステラが被る鳥打帽を目深に強く押し込む。ステラが短い抗議の声を上げると、エレオノーラは楽しそうに笑った。


 そうこうしているうちに、晩餐会の会場に着いた。

 廃教会――もとい、“自称ステラの城”の奥にある大部屋に、二人は招かれた。他の部屋の例に漏れず、古いことには変わりなかったが、食事場ということでさすがに掃除が行き届いており、清潔にされている。中央の長テーブルには白絹のクロスが敷かれていて、その上には灯の点いた燭台と、それなりに豪勢な食事が並べられている。天井に吊るされているシャンデリアから異音が聞こえていることだけが不穏だが、客人をもてなす雰囲気として及第点は得ているだろう。


「マリー様、エレオノーラ様。今日は、この“新王都”に初めてお客様がお越しになられた特別な日です。ささやかではありますが、お食事を用意いたしましたので、是非お召し上がりになってください」


 部屋に入って早々、長テーブルの上座に座る自称ステラが話しかけてきた。その両脇には、自称黒騎士と、トーマス大臣もいる。

 エレオノーラが慣れた所作で膝を軽く折ってカーテシーをすると、ステラも慌ててそれに倣った。


「こちらこそ、本日はお招きいただきありがとうございます。“ステラ様”」

「あ、ありがとうございます……」


 若干、不服そうにステラが言った後で、ブラウンともう一人の兵士が椅子を引いてくれた。ステラが椅子に座ろうとすると、不意に、トーマス大臣の顔が顰められる。


「そこの」


 その声は、ステラにかけられたものだ。ステラは、自身の顔見られないように、下を向いたまま肩をぴくりと震わせる。


「食事の場で帽子を被ったままなのは、さすがにマナーが悪いのではないかね? ましてここには、ステラ様も同席されているのだぞ」


 確かに、と、ステラが小さく唸る。

 そこへ、


「申し訳ございません。この子、王都から脱出した後の長旅のストレスが原因で頭皮が少し荒れてしまっているんです。このまま放っておくと禿げてしまうので定期的に薬を塗っているのですが、乾燥させると良くないので、馴染むまでこうして帽子を被らせているんです。折角のお食事の場面でご不快な思いをさせてしまうことにこちらとしても大変心苦しいのですが、どうかご寛大なお心遣いを頂けると幸いです」


 すかさず、エレオノーラがそれらしい話をでっち上げた。

 それを聞いたトーマス大臣たちが、たちまち憐憫の眼差しをステラに向けるようになる。


「そ、そうか。それは悪いことを訊いたな。髪の毛がなくなる苦しみは、わしもよくわかる」

「何て可哀そう……年頃の女の子だというのに」

「まだ君は若いんだ。これからだよ、マリー」


 正面の三人からそれぞれ好き勝手な言葉をかけられ、ステラは下唇を強く噛み締めながら体を震わせた。私が女王になったら覚えてろよ、こいつら――誰にも聞こえない声で、絞るようにそう言った。


 それから暫くは、エレオノーラが語るこれまでの旅話を肴に談笑が進められた。勿論、それもすべて作り話である。本当ならステラたちはガリア公国のルベルトワで出会ったのだが、当然そんなことは口が裂けても言えない。なので、ステラは名をマリーという王都から逃げてきた哀れな娘、エレオノーラはその道中たまたま出会った教会魔術師、シオンは名をジゴロというさらにたまたま出会ったただの金なしのイケメン放浪者――そういうことになった。シオンの設定だけ雑過ぎることにステラは終始冷や汗をかいていたが、意外にも話のウケはよかったようで、疑われることは一切なかった。


 食事はそのまま何事もなく終え――自称ステラとトーマス大臣、それと自称黒騎士が席を立とうとした。

 その時、ステラとエレオノーラが、すかさずアイコンタクトを取る。

 そして、エレオノーラが椅子から立ち上がり、


「黒騎士様」


 部屋を出ようとした自称黒騎士を呼び止めた。彼女の今までに聞いたことがない艶っぽい声に、ステラが密かにぎょっとする。

 それには構わず、エレオノーラは自称黒騎士へと近づいていった。一体どうやっているのか、その新雪のような白い頬を微かに紅潮させ、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせている。もともと容姿端麗なだけあって、その表情は男心を無条件にくすぐらせる妖美な色気があった。

 案の定、自称黒騎士は心を奪われたようで、振り向いたその顔はときめきを覚えたものになっている。


「なんだい、エレオノーラ?」

「先ほどは私だけが一方的に話してしまい、全然黒騎士様のことをお伺いする機会がありませんでした」


 エレオノーラは上目遣いになりながら自称黒騎士を見上げる。気持ち、胸を強調するような姿勢になると、自称黒騎士の視線は吸い込まれるようにそこへ向いた。


「あの、それで、なんですけど、もしよろしければ――」


 そこで一度、溜める。

 自称黒騎士が期待に胸を膨らます顔になる。


「この後、二人っきりで、どこか静かな場所でお話しませんか?」


 続けて、エレオノーラはわざとらしく何かに気付いたように顔を逸らした。


「あ、でも、黒騎士様って、王女様と、その、懇意にされていたり――もしそうだったらごめんなさい。でも、私、どうしても黒騎士様とお話ししたくて……駄目、ですか……?」


 自称黒騎士の鼻の穴が大きく開いた。


「いや、大丈夫だよ! 僕と王女の間には何もない! 是非、語り合おう! 僕の部屋はこの城の三階突き当りにある! そこでじっくりと話をしようじゃないか!」


 自称黒騎士の提案に、エレオノーラは両手の指先を合わせて満面の笑みを返した。


「ありがとうございます、黒騎士様。じゃあ、私、一度部屋で準備してから改めてお伺いさせていただきますね」


 あたかも“その気”があるようにして、エレオノーラは嬉しそうな雰囲気を出しながら踵を返した。自称黒騎士に背が向けられ、正面がステラ側になると、途端にガラの悪いしかめっ面になる。僅かな間の演技だったが、それなりの無理をしていたのだろう。

 そうして、ステラとエレオノーラは、食事会場を後にした。


「……迫真の演技、お疲れさまでした」


 食事会場の扉が閉まったあとで、ぼそりとステラが呟いた。







 自室について間もなく、エレオノーラは自ら嘔吐した。魔術で床に穴をあけ、そこに盛大に胃の中の夕食を流していったのである。

 それを見ていたステラが、


「そこまでですか!?」


 突然の奇行に、思わず驚いて声を上げた。

 すると、エレオノーラはタオルで口を拭いながら水で口の中を濯ぎ、再度吐き出す。それを数回繰り返し、落ち着いたところでベッドに腰を掛けた。


「別にあの偽騎士が気持ち悪かったから吐いたわけじゃないよ。吐きたいくらいに気持ち悪かったのは否定しないけど」

「いや、私、あの人が気持ち悪いなんて一言も言っていないんですけど……」

「こんな得体の知れない場所で出された食事、何入っているかわかったもんじゃないでしょ。だから、食事前にゴムの塊飲み込んで、胃壁を魔術でコーティングしたの。食べ物が消化吸収されないようにね。で、今、コーティングしたゴムごと吐き出したところ。あー、苦しかった」


 腹部を擦りながら、エレオノーラが深呼吸をする。そういえば、食事会場に行く前に何かを飲み込んで、自身の腹部に印章を記した紙を当てていたなと、ステラは思い出す。しかし、その後ですぐにハッとした。


「え、私、普通に食べちゃったんですけど!」

「ちょっと待ってて。大丈夫かどうか、今調べるから」


 そう言ってエレオノーラは、スーツケースから一冊のノートを取り出してパラパラとめくりだした。そこから一枚、ページを千切って、吐瀉物に被せる。ノートの切れ端には、印章が記されていた。すると、魔術の実行反応である微かな光が放出され――それきり、何も起こらなかった。


「よかったね。毒とか変な薬は盛られてなかったみたい。毒や薬が入ってたら、抽出されて被せた紙の上に残るんだけど、何もないね」

「もし盛られてたらどうするつもりだったんですか?」

「そりゃあすぐに吐き出させるしかないでしょ。大丈夫、解毒の魔術なら多少使えるから。そんなことより――」


 自身の命に関わることをそんなことと言われてステラが顔を顰めるが、エレオノーラは無視して続ける。


「アタシはこれから馬鹿の部屋に行って色々吐かせるから、アンタはこの部屋でシオンのお守をお願いね。ていうかこいつ、そろそろ起きてもいいんじゃないの?」


 エレオノーラがシオンの額を触って熱が引いていることを確認したあとで、ぺちぺちと彼の頬を軽く叩いた。


「あの、大丈夫だとは思いますけど、気を付けてくださいね。エレオノーラさんも、一応女性なので」

「一応ってなに? まあ、いいけど。ていうか、どちらかというと、アンタの方が気を付けなよ」


 その言葉の意味がわからず、ステラが小首を傾げた。


「え、何かあるんですか?」

「アタシの予想だと、寝静まった頃を見計らって、あの偽王女が忍び込んでくる気がするんだよね、この部屋に」

「何でですか?」


 無邪気な顔で訊いてくるステラの額に、エレオノーラは人差し指の先を押し付けた。


「アンタ、あの偽王女のシオンを見る目、見てないの? 完全に盛ってたじゃん。さっき食事の時に話した時も、やたらとシオンのことを気にしてたし。きっと、夜這い仕掛けにくるよ」

「いや、そんなまさか……」


 半信半疑に、ステラは苦虫を嚙み潰したような顔になる。しかし、エレオノーラはいたって真剣な顔だった。


「女の勘。あの女、何か性欲強そうな感じするし」

「何ですか、それ」


 ステラが呆れ気味に言って、疲れたように項垂れた。


「とにかく、アタシがいない間は、アンタしかシオンを守れないんだからね。頼んだよ」

「はあ……」


 喝を入れるように声を張るエレオノーラだが、ステラの返事はどことなく気の抜けたものだった。

 エレオノーラは嘆息気味に小さく息を吐く。


「緊張感がない。まあ、いいや。アタシもさっさと終わらせて戻ってくるから、それまでしっかりね」


 そう言い残し、部屋の扉へと向かって行った。

 エレオノーラが部屋から出ていって、ステラは未だ目覚めないシオンを見遣る。


「もー……早く起きてくださいよー……」


 眉根を寄せながら、独り言のようにそう呼び掛けた。







 エレオノーラが部屋から出ていって間もなく、不意に扉がノックされた。

 ステラが扉を開けると、そこにはブラウンが立っていた。


「やあ。巡回に来た」

「あ、どうも」


 気さくに手を挙げたブラウンに、ステラは軽く会釈を返す。


「特に変わりないか?」

「えっと……」


 ブラウンの問いかけに、ステラは少し口籠った。

 エレオノーラが自称黒騎士の部屋にいったことを、果たして伝えていいものなのだろうか――そんなことを考えていると、先にブラウンの方が何かに気付いたように声を上げた。


「教会魔術師のお嬢さんがいないな。どこにいった?」


 隠しても仕方ないと、ステラは小さく息を吐いた。


「その、エレオノーラさんは、黒騎士さんの部屋にいったようです」

「なるほど。まあ、英雄色を好むと、よく言うしな。黒騎士殿も、こんなところに常駐させられて、色々溜まっているんだろう」


 意外にもブラウンは寛容な態度で、苦笑しながら納得してくれた。てっきり、勝手に歩き回っていることを咎められると思ったため、ステラは虚を突かれたように一瞬呆けてしまう。

 だが、すぐに頭を切り替えた。


「あの、いきなり変なこと聞いてしまうんですが――」

「なんだ?」

「なんで、王女様と黒騎士さんは一緒にいるんですか? 黒騎士と言ったら、教会に逆らった大罪人なんですよね? その、危ないんじゃないですか?」


 言いながら、自分のことを棚に上げているなと、ステラは内心苦笑する。

 その質問に、ブラウンは、ああ、と小さく笑った。


「世間一般的にはそう言われているな。だが、あの黒騎士殿は少し違う」

「と、いうのは?」

「彼がここに来たのは三日ほど前のことだ。二年前に起きた騎士団分裂戦争の戦犯として処刑されそうになったところ、運よく逃げ出すことができたみたいでね。行く宛てもなく彷徨っていたところ、偶然この集落に流れ着いたらしいんだ。それで、ログレス王国の現状を話したところ、当面の生活をこちらで保証する代わりに、戦力として協力してくれるということになったんだ」


 最後の言葉に、ステラは眉根を寄せた。


「戦力として協力っていうのは、この集落の防衛にということですか?」

「いや、違う。本当は言っちゃ駄目なんだが――王都を追い出されてしまったマリーちゃんには、希望を与える意味合いも込めて、特別に教えてやろう。くれぐれも、他言無用にな」


 ブラウンが言って、ステラは若干緊張した面持ちで頷く。


「実はな、近々、王都を奪還するための軍事作戦を実行しようと、トーマス大臣を中心に計画されているんだ」


 思いがけない回答に、ステラは目を丸くさせた。


「その時の戦力に黒騎士殿が加わってくれると約束してくれたんだ。騎士といえば、超人的な身体能力で軍隊すらも圧倒する戦闘力を有していると聞く。しかも、それがあの二年前に大暴れした黒騎士だってんなら、こっちとしては願ったり叶ったりさ」

「ちょ、ちょっと待ってください! 王都を奪還って――兵隊さんたちが一斉に王都へ攻め込むんですか?」

「ああ。近日中にここを発って、各地に潜伏している同志たちと合流しながら王都を目指す予定だ。王都をガリアから取り戻すことができれば、マリーちゃんもまた王都で暮らすことができるぞ」


 誇らしげに胸を張るブラウンだが、ステラは青ざめた顔で前のめりになった。


「その時に黒騎士も連れていくって……そんなことしたら、ログレス王国が教会、騎士団と明確に対立してしまうんじゃ――」

「無論、承知の上さ。だがな、考えてもみろ。ガリアのこの侵略まがいの行動に、教皇たちはだんまりを決め込んでいる。本来であれば、大陸の平和と秩序を保つために、騎士団はログレス王国の味方をしなきゃならないんだ。だが、それがどうだ? まるで見て見ぬふりだ。そんな奴らに、何を気遣う必要がある。もう手段を選んでいる余裕もないんだ」

「それは……」


 反論できずに、ステラは続きを口淀んでしまった。

 そんな彼女の頭の上に、ブラウンが優しく手を置く。


「心配するな、我々が必ず君の平和を取り戻す。だからどうか、マリーちゃんも作戦の成功を祈っててくれ」


 それからブラウンは踵を返し、去り際に振り返ってきた。


「それじゃ、戸締りをしっかりして休んでくれ。ここには私たち兵士とステラ様たちしかいないが、猛獣や野生化した魔物がいるみたいでな。もしこの部屋が襲われるようなことがあったら、遠慮なく大声で叫んでくれ」


 兵士らしいきびきびした動きで、ブラウンは部屋を後にした。

 残ったステラは、複雑な面持ちで床に視線を落とした。


「……どうにか、しないと。このままだと、ログレス王国は完全に孤立してしまう」







 自称黒騎士がいる廃教会――もとい、“自称ステラの城”の三階へと向かっていたエレオノーラ。道中の廊下の燭台に灯されている火は、劣化した壁の隙間から吹く風に煽られて頼りなく揺れていた。あらゆる影が歪に変形する中で、ふと、エレオノーラは足を止めた。

 直角に曲がる三階へと続く階段の手前廊下で、何者かの話し声が聞こえたのだ。エレオノーラは壁を背にして、話し声のする方を覗き込む。


「あんな得体の知れない連中を招き入れて、いったいお前は何を考えているのだ!?」

「何そんなかっかしてんのよ。いつも通り王女様ごっこしただけよ」


 そこにいたのは、トーマス大臣と、自称ステラだ。何やらもめているようで、双方苛立った表情をしている。

 エレオノーラは、したり顔で聞き耳を立てた。


「よりによってあの中に教会魔術師がいたではないか! ガリア軍からの最新情報を受けて急遽偽物の黒騎士を用意したというのに、それが裏目に出たらどうするつもりだ!? もし、あの女魔術師がこのことを騎士団に報告すれば、騎士たちがここにやってくるんだぞ!」


 やはり、トーマス大臣がガリア軍と繋がっていた。

 予想が的中し、エレオノーラはほくそ笑む。


「そうなる前にさっさとここを出払えばいいでしょ? 貴方の計画じゃあ、明後日にはここを出て王都へ向かうんだから、たとえチクられたところで余裕で逃げ切れるでしょ。ていうか、色んなところにチクられた方がこっちとしては都合がいいんじゃないの? ログレス王国の王女が悪名高い黒騎士と一緒に行動しているって大陸中に知れ渡れば、国と王女を国際社会的に孤立させることができるって言ったじゃない」

「それは、そうだが……」


 自称ステラに言いくるめられ、トーマス大臣がぐぬぬと歯噛みした。

 さらに、自称ステラが続ける。


「ほらね。だったら、少しくらい私の好きにさせてよ。最近、全然男遊びができなくて欲求不満気味なのよ。だから、今日来たあのイケメンとちょっとくらい遊んでもいいでしょ? 黒騎士様も女魔術師とイイことするみたいだし。なんだったら、貴方は残ったあのロリっ娘の相手でもすれば?」


 自称ステラが揶揄うように笑いだす。

 しかし、トーマス大臣は途端に険しい顔つきになった。


「そうだ、あの娘も妙なのだ。どこかであったような、どこかで聞いた声のような……とにかく既視感があるのだ」

「え、なにそれ。貴方みたいなおっさんがそんな台詞で口説くの? 引くわー」

「そんな話をしているのではない!」


 トーマス大臣が一喝して、自称ステラは肩を竦めた。


「とにかく、だ。これ以上好き勝手なことはするな。もし計画が狂えば、輝かしい未来はないものと思え」


 その言葉に、自称ステラが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「輝かしい未来ねえ……。ログレス王国がガリア公国の支配下になった時、貴方が新しい統治者になるって話だっけ? そんな面倒なことの何が輝かしい未来なのか理解できないけど――ま、私はお金さえ貰えればなんでもいいや」

「抜かせ。お前たちのような低俗な詐欺師には、到底わからぬわ」

「そんな低俗な詐欺師に協力を仰いでいる貴方の器もたかが知れているけどね」


 自称ステラの嘲りに、トーマス大臣が無言で憤りを現わす。


 エレオノーラは、一連のやり取りを聞いて、ラッキー、と頭の中で呟いた。わざわざ自称黒騎士と接触するまでもなく、知りたい情報を聞くことができたのである。

 おおよその予想は当たっていた。

 整理すると、偽の王女を仕立て上げてログレス軍を留めているのはトーマス大臣。そして、トーマス大臣は、偽物二人を使って王女が黒騎士といることを世間に知らしめ、国際社会から孤立させようとしている。明後日にはここを発ち王都に向かうと言っていたが、おそらくはその旅路の中で王女の悪評を広げつつ、ログレス軍の力を削ぐつもりなのだろう。後は、国内のどこかに潜伏している本物の王女をじわじわと追い詰めれば、ログレス王国は完全に陥落する――シナリオとしてはこんなところかと、エレオノーラは小さな息を吐いた。


「さて、どうするか」


 このままあの偽物二人とトーマス大臣をとっちめたところで、悪者になるのはこちらの方だ。

 ここは大人しく、いったんステラのいる部屋に戻るべきか――そう考えていた時だった。


「ん、こんなところで何をしている?」


 不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには巡回中のブラウンがいた。

 エレオノーラが驚き――そして、自称ステラと、トーマス大臣もそれに気付く。


「誰だ!?」


 自称ステラたちが駆け寄り、エレオノーラはブラウンとの挟み撃ちにされてしまった。

 自称ステラとトーマス大臣は、エレオノーラの姿を見るなり、焦りと怒りの表情になる。


「き、貴様、まさか、今の話を!」


 エレオノーラは観念したように溜め息を吐き、肩を竦めた。


「うん、ばっちり聞かせてもらった。アンタら、バレたら重罪待ったなしだよ?」


 自称ステラとトーマス大臣が、言葉を詰まらせながら怯んだ。

 そんなやり取りを、ブラウンは事態を飲み込めないような顔で眺めている。

 直後に、トーマス大臣がエレオノーラを指差した。


「兵士よ、この魔術師は王女に仇をなす悪しき魔女だ! 早々に始末しろ!」

「へ、兵士さん、助けてくださいませ!」


 自称ステラがわざとらしい悲鳴を上げて、さらに盛り上げる。

 ブラウンは一瞬呆気に取られたが、すぐに小銃をエレオノーラへと向けた。


「な、何が何だかよくわからんが、ステラ様に危害を加えると聞いては放っておけん! 教会魔術師、大人しくしろ!」


 エレオノーラは、再度大きな溜め息を吐き、後頭部を軽く掻いた。


「しゃーない。こうなったら、実力行使で――」


 そう言いかけて、重大なことに気が付いた。

 ライフルを部屋に置きっぱなしにしているのである。それどころか、印章を描き記したノート、もしくは印章を描けるものすら、持っていない。

 冷や汗が、エレオノーラの額を伝った。


「ブラウン中尉、何をしている! さっさと撃ち殺せ!」


 トーマス大臣が声を張り上げるが、ブラウンは慎重に事を運ぼうとしているようだ。エレオノーラと一定の距離を保ったまま、逃げ道を塞ぐように移動する。

 その間に、エレオノーラはこの状況をどう突破するか思案を巡らせていたが――


「――!?」


 突如として、外から轟音が響いた。

 音が聞こえた方角は、ステラと、未だ意識を取り戻さないシオンがいる宿の方である。







 廃教会の壁が小刻みに震える。爆撃でも受けたかのような振動だ。

 ただならぬ出来事に、エレオノーラとブラウンはすぐに窓から外を確認した。

 夜の闇の中で、巨大な煙が上がっているのがわかる。その発生源は、ステラたちのいる宿だ。そしてその宿はというと、巨大な何かに押しつぶされたように倒壊してしまっている。


「ブラウン中尉!」


 エレオノーラとブラウンが驚いている矢先に、一人の兵士がこの廃教会の二階にやってきた。


「何事だ!?」


 兵士は息切れしたままブラウンの前で敬礼した。


「魔物が現れました! 複数の頭を持つ大蛇です! 現在、兵が応戦中ですが、小銃ではまともな攻撃にならず、討伐は難しい状況です! 即刻、この場からの撤退を進言いたします!」

「ヒュドラだね。なんでまたそんな大層な魔物が――」


 エレオノーラが魔物の種類を当てた直後、不意にブラウンが銃口を彼女に向けた。


「魔術師! 貴様の仕業か!?」


 しかし、エレオノーラは嘆息気味に息を吐いて首を横に振った。


「そんなわけないでしょ。いくら魔術師でも、こんな設備もない場所で魔物なんてそうほいほい造れるものじゃないし。ていうか、アタシは魔物製造に関しては門外漢だからね」


 彼女の説明を聞いて、ブラウンは歯噛みしながら銃を降ろした。


「くそ! まずはステラ様をお守りすることが最優先だ! ステラ様、トーマス大臣!」


 突然、ブラウンに声をかけられ、自称ステラとトーマス大臣は体をビクつかせた。


「お二人はこれから私についてきてください。安全な場所までご案内します」

「よ、よろしくお願いしますわ、兵士さん」「あ、ああ。是非とも頼んだ」


 二人が同時に頷いたあとで、ブラウンは報告に来た兵士に目を馳せた。


「お前は上の階にいる黒騎士殿に応援を要請してくれ。黒騎士殿であれば、魔物の処理など造作もないだろう」


 指示を受けた兵士は、はい、と勢いの良い返事をしてすぐに三階へと昇っていった。

 そんなやり取りを尻目に、エレオノーラは一人で一階に続く階段へと走り出していた。そこへ、ブラウンが手を伸ばす。


「こ、こら、魔術師! 勝手に動くな!」


 エレオノーラは一瞬だけ立ち止まり、振り返った。


「悪いけど、アンタらの指示を聞いてる余裕はないの。こっちは“偽物”じゃないんで」

「は? “偽物”?」


 ブラウンが眉間に皺を寄せて呆ける。その隣では、自称ステラとトーマス大臣が、ぎくっ、と身を強張らせていた。







 外に出ると、怒号と発砲音、それに“巨体”が地面を擦る音が忙しなく響いていた。


 月明りと燭台の灯に照らされて映るのは、巨大な漆黒の蛇――しかし、先の兵士の報告通り、その頭部は一つではなく九つある。全長でいえば五十メートルはあるだろうか。ヒュドラと呼ばれるこの大蛇もまた、ゴブリンやオークと同様、自然界に存在しない、魔術によって造られた人工生物――魔物である。


 兵士たちが小銃の弾丸を立て続けに撃ち込むが、その漆黒の鱗に傷一つ残せないでいる。一方のヒュドラはというと、そんなことなど全く意に介してないようで、どことなく気だるそうにゆっくりと前進しながら、何かを物色する様子で舌をちろちろと出していた。


 エレオノーラはすぐにステラたちのいる宿の方へと駆け出した。すると、そこには、荷物とシオンを引きずりながら、必死の形相で息を切らすステラの姿があった。


「よかった! アンタら無事だったんだ! 宿が壊されたからどうなっているか心配だったよ」


 エレオノーラが安堵の表情をすると、ステラはうつ伏せにバタンと倒れ込んだ。


「ぎ、ギリギリでした……いきなり地面からあの蛇が出てきたと思ったら……私たちの宿を蹂躙するように通り過ぎて……シオンさん起きないし、荷物も重いしで……」


 ぜーぜーと、顔を真っ赤にさせながらステラが声を絞り出す。そんな彼女を労わるように、エレオノーラは頭を撫でた。


「よしよし。アンタはホント偉いよ、王様の器、ちゃんと持ってるね。それに比べてこいつは――」


 そう言いながら睨みつけたのは、シオンだ。シオンは未だに覚醒しておらず、目を瞑ったまま地面に転がっている。


「マジで何で起きないの? こんな騒ぎになってんのに。オラッ、起きろ、起きろ!」


 エレオノーラはシオンの上に跨り、彼の両頬を往復ビンタした。しかし、シオンの両頬が赤くなるだけで、一向に目が開く気配がない。

 エレオノーラはため息を吐きながら諦めて立ち上がると、今度は自身の荷物を手に取った。縦長のスーツケースを開き、中からマスケットを模した長大なライフルを取り出す。


「ステラ、疲れてるところ悪いけど、シオン連れてどっか安全な場所に隠れて。アタシはあの蛇なんとかしてくるから、よろしくね」


 ライフルのボルトを引きながらエレオノーラはステラに目を馳せた。ステラは手足をぷるぷる震わせながら、徐に立ち上がる。


「あの大蛇も魔物なんですよね? 何でこんなところに?」

「さあ? あれだけの大きさだから、どっかから逃げ出したのが野生化したとは考えにくいけど――どうでもいいよ、今は。それよりも――」


 ライフルに弾丸を装填し、エレオノーラはそれで自身の肩を軽く叩いた。彼女が言いかけて見つめた先は、ヒュドラの方である。しかし、妙に芳しくない顔になって、小首を傾げた。


「あの蛇ちゃん、何してんだろ?」


 ヒュドラの奇行に、エレオノーラが眉根を寄せた。

 ヒュドラは、偽物たちと大臣のいる廃教会の方へ向かっていた。そのままのそのそと外壁を伝って登ろうとしているが、どうにもキレが悪い――というか、何かに迷っているようだった。うねうねと多頭を巡らして廃教会の中を窓から覗き込んでいるが、探し物でもあるのだろうか。

 そこへ――


「何をもたもたしている! さっさと“偽”王女たちを食い殺せ!」


 そんな怒号がどこからともなく聞こえてきた。

 エレオノーラが咄嗟にライフルを構えて、声の起こった方を振り返る。

 すると、そこには、青い軍服を着た三人の男たち――ガリア兵がいた。

 エレオノーラとステラが、揃って驚愕の表情になる。


「どうしてガリア兵が!?」

「わかんないけど、今の台詞から察するに、あの蛇に“偽”王女を食わせたいみたいだね」


 ステラを背中に庇いながら、エレオノーラが忌々しそうに唸った。そして、ガリア兵に向けて引き金を絞る。

 長大なライフルから放たれた火球はガリア兵たちの目の前で激しい爆発を起こし、彼らを一瞬で吹き飛ばした。直後に、ガリア兵たちが地面から伸びた無機質な蔦に体を拘束され、地面に仰向けに並べられる。

 言うまでもなく一連の事象はエレオノーラの魔術であり、彼女は早速、ガリア兵たちの所に駆け寄った。


「ちょっと、アンタらがあの蛇の飼い主? 何しようとしてんの?」

「な、何だ、お前は……?」


 身体をところどころ焦がした状態でガリア兵が呻く。

 エレオノーラは容赦なく、喋ったガリア兵の腹にヒールブーツの踵をめり込ませた。


「いいからさっさとアタシの質問に答えろ」

「ひゅ、ヒュドラに偽物の王女を始末させようと……」


 ガリア兵は短い悲鳴を上げつつ、素直に答えてくれた。

 しかし、エレオノーラはさらに踵をガリア兵の腹に強く押しこむ。ガリア兵は悶絶しながら絶叫した。


「なんで?」

「偽物の利用価値が、なくなった、から……」


 そこで沈黙してしまった。ガリア兵は白目をむいたまま涎を垂らし、気絶した。


「おい、コラ! 寝るな!」


 エレオノーラがガシガシと踵で何度も踏みつけるが、ガリア兵はされるがままで目を覚まさなかった。他の二人のガリア兵も同様で、というより、最初のエレオノーラの爆炎を受けた時点で意識を失っていた。


 仕方がない、と溜め息を吐くエレオノーラ。


 そんな時、突如、ぎゃあああ、というステラの悲鳴が響き渡る。

 エレオノーラが慌てて振り返ると、


「何でこっちに来るんですか!」

「助けて! 助けて!」

「死にたくない! 僕はまだ死にたくない!」

「ま、待ってくれ! わしを置いてかないでくれ!」


 ステラと、自称ステラと、自称黒騎士と、トーマス大臣が、ヒュドラに追いかけ回されているところだった。

 さらに、


「総員、何としてもあの大蛇を止めろ! ステラ様をお守りするんだ!」


 そのヒュドラの後ろからは、ブラウンを始めとした兵士たちが追いかけている。


「えぇ……」


 エレオノーラが、そんな光景を見て顔を顰めた。

 どうやら偽物たちは、廃教会を出て間もなくヒュドラに見つかってしまったようである。そして偽物たちが逃げた先にステラがいて、彼女は不運にも巻き込まれてしまったらしい。

 そんなステラが、エレオノーラを必死の形相で見遣る。


「エレオノーラさん、助けてください! お願いします! 早く!」


 言われなくてもと、エレオノーラはライフルを構えてヒュドラに照準を合わせた。だが、あの巨体を仕留めるほどの威力を持つ火球を出そうとすると、前を走るステラたちも間違いなく巻き込んでしまうことに気が付いた。ガリア兵たちにやったように地面から無機質な蔦を出して拘束しようにも、あの大きさでは簡単に振りほどかれてしまうだろう。障害物を地面から突き出したとしても同様だ。


「わかってる! わかってるからもうちょっと蛇から距離取って! そんなに近いと魔術に巻き込んじゃう!」

「無茶言わないでください! 今も全力疾走です!」


 ステラの言葉を受けて、エレオノーラは苛立った声を上げた。

 そうこうしている間に、ヒュドラとステラたちの距離がどんどん縮まっていく。どうやらヒュドラは、完全にステラも獲物として認識してしまっているようだ。


 そして、最悪の事態が起きた。

 自称ステラが躓いて転び、その際に本物のステラも巻き込んだのである。

 土煙を上げながら激しく地面に転がる二人のステラ――そこへ、ヒュドラの大口が迫る。


「ぎゃあああああ!」「いやあああああ!」


 二人の口から悲鳴が迸り――突如として、ヒュドラの動きが止まった。

 見ると、その長大な巨体が、一瞬だけ激しく波打った。ヒュドラの九つの頭はいずれも苦悶に喘ぎ、のた打ち回るように振り回されている。その少し前には、何か大きな衝撃が地面を伝ってきたのだが――


「――あ!」


 そんな声を上げたステラの視線は、ヒュドラの背中に向けられている。すると、そこには、


「シ゛オ゛ン゛さ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛!」


 意識を取り戻したシオンがいた。ヒュドラの背中に立つシオンの足は漆黒の鱗に深くめり込んでおり、どうやら先の衝撃は、彼が力任せに踏みつけた際に生じたもののようだ。


 間一髪のところでヒュドラの動きが止まったことと、シオンが目を覚ましたことに、エレオノーラがほっと胸を撫で下ろす。


「ようやく起きたか」


 その矢先、悶えるのを止めたヒュドラが、自身の背中にいるシオンに向かって、その長い首を伸ばしてきた。九つの大口が代わる代わるシオンを襲うが、彼はそれを軽業師の如く難なく躱し、あっという間にすり抜けてしまう。

 それからシオンは、驚くべき走力を見せつけ、二人のステラの傍らに立った。

 あまりにも人間離れした動きをするシオンに、周りの兵士たちが揃って目を丸くさせる。

 それを尻目に、


「何が起きているのかよくわからないが、とりあえずあの蛇から逃げればいいんだな?」


 シオンが端的にステラに訊いた。


「はい! 逃げてください! 超逃げてください! 離れたらエレオノーラさんが退治してくれます!」


 ステラの早口の回答を受け、シオンはステラと偽物の二人を両脇に抱えて一気にヒュドラから距離を取った。

 そして、


「エレオノーラ!」


 エレオノーラに呼びかける。

 待っていましたと言わんばかりに、彼女はすでにライフルの照準をヒュドラに定めていた。


「今まで寝ていた奴が偉そうに言うな!」


 そんな苛々を弾丸に込めて、引き金が絞られる。

 ライフルから放たれた大型の火球は、ヒュドラの首の枝分かれ部分に命中し、激しい爆発を起こした。ヒュドラは九つの首を漏れなく本体から吹き飛ばされ、焦げた肉片をあたりに散らばらせる。

 頭部と本体はそれから数秒地面でのた打ち回っていたが、間もなく静かになった。

 動きを完全に静止させたヒュドラを見て、シオンは二人のステラを降ろす。


「無事か?」


 シオンはそう言ったあと、小声で、もう一人は誰だか知らんが、と付け加えた。

 その傍らで、ステラはほっとした様子で小さく息を吐いた。


「はい、何とか。本当、シオンさんが運良く目を覚ましてくれてよかったです。一時はどうなることかと……」

「そうか、タイミングがよかったようで何よりだ。で、それはそれでよかったんだが――」


 シオンはそこで、偽物のステラに目を馳せた。


「誰だ、この人? というか、ここはどこだ?」


 訊かれて、ステラは顔を顰めながら頭の後ろを軽く掻く。


「まあ、ええと、何といいますか。色々と話したいことはあるんですが……」


 説明の仕方に悩むステラ――その一方で、偽物のステラはというと、ヒュドラを焼いた炎で照らされるシオンの美麗な容姿に見惚れているようで、うっとりとした表情のまま固まっていた。

 そこへ――


「ふんっ!」


 エレオノーラが、ライフルを振りましてシオンの顔面をストック部分で殴りつけた。


「――!? ――!?」


 シオンは、わけがわからないといった顔で、鼻先を手で押さえる。無言で理由を求める眼差しをエレオノーラに向けると、


「散々迷惑かけた仕返し、ジゴロくん」


 そう吐き捨ててきた。

 しかしそんな説明で納得できるはずもなく、シオンは釈然としない顔でエレオノーラをひたすら睨む。そんな二人を見て、ステラはやや顔を顰めながら小さく笑っていた。

 と、そんなやり取りをしている所に、ふらふらと頼りなく近づいてくる人影があった。

 それは誰かというと、


「す、すすす、ステラ様……!」


 まるで亡霊を見たかのように慄く、トーマス大臣だった。勿論、彼の見遣る先は、本物のステラである。

 トーマス大臣の言葉を聞いた兵士たちと偽物たちが、揃って目を丸くさせ、驚愕に声を上げた。


 そして、その当人であるステラは、諦めたような、観念したような、疲れたような、そんな溜め息をして、トーマス大臣を睨みつけた。


「どうも、お久しぶりです、トーマス大臣。これはいったい、どういうことなのか、説明してもらっていいですか?」


 表情こそ穏やかだったが、額には青筋を浮かべており、静かな声には確かな怒気が込められていた。







 日付を超えた深夜、ヒュドラの亡骸を焼く炎が、集落一帯を明るく照らす。その灯が映し出すのは、何とも異様な光景だった。

 自称ステラ、自称黒騎士、トーマス大臣の三人は、地面から頭だけを出した状態で生き埋めにされている。その周囲を取り囲むのは、今にも激昂しそうなログレス軍の兵士たちだ。兵士たちが構える小銃の先は、生き埋めになっている三人へと向けられている。


 ふと、トーマス大臣が、青ざめた顔で口を動かし始めた。


「お、落ち着いてくれ! これには深い事情があっ――」

「勝手に口を開くな!」


 その矢先に、ブラウンが思わず耳を塞ぎたくなるような声量で黙らせた。直後に、ブラウンは、ステラに向かって片膝をついて跪く。彼に倣い、他の兵士たちも続々と跪き始めた。


「ステラ様。ご本人と気付かなかったことも含め、数々のご無礼を働きましたこと、この場にいる兵士一同、深くお詫び申し上げます」


 百人は超える兵士たちが一斉に最敬礼している姿は圧巻の一言で、ステラもそれにやや気圧されていた。彼女は若干顔を引きつらせながら、ぎこちない笑顔を向ける。


「あ、いや、私も普段は全然王女として人前に出なかったので、兵隊さんたちが気付かないのも無理ないです。それに、私たちも正体を隠していましたしね。なので、そんなにかしこまらないでください」

「そうはいきません!」


 突然、ブラウンが声を張り上げ、ステラはびくりと体を震わせた。


「今回の不徳、すべての任を終えた暁には必ずやこの場にいる兵士全員が償わせていただきます! ですが、その前に――」


 ブラウンが、生き埋めになっている三人を睨みつける。


「ステラ様を騙り、あまつさえ計略に嵌めようとした不届き者どもに厳罰を与えねばなりません!」


 思わずステラも両耳を塞ぐほどの声量で、ブラウンが怒号を飛ばした。

 生き埋めの三人が、それぞれ情けない悲鳴を上げる。


「ま、待って! 私はそこのハゲに依頼されて王女様の真似をしていただけよ! 楽して稼げる仕事があるって言われて、その通りにやっただけなの!」


 そう弁明を始めたのは、自称ステラだった。しかし、そんなことを言われたところで誰も納得するはずがなく、ただ非難の視線をより強めるだけであった。


「ぼ、僕だってそうだ! それに、二人と違って騙していた期間も短いし、何より名を騙っていたのは黒騎士の方だ! 王族ではない分、情状酌量の余地ありだろ?」


 次に自称黒騎士が申し開きを始めた。だが当然、それについて同意する者は誰一人としていない。

 不意に、ステラが二人の目の前でしゃがむ。


「あの、とりあえずお二人のお名前を訊いてもいいですか?」

「アメリア・テイラーです!」

「レン・クロフォードです!」


 最後に二人は、ステラ様万歳、と声を揃えて叫んだ。自称ステラはアメリア・テイラー、自称黒騎士はレン・クロフォードというらしい。そこまでわかったところで、次にステラはこう切り出した。


「テイラーさん、クロフォードさん、ちなみになんですが、お二人のご職業は? 大臣から仕事として依頼されたんですよね?」

「しがない詐欺師です!」「しがない詐欺師です!」


 二人同時に、どこか誇らしげにそう告白した。

 その場に居合わせた全員が、何とも言えない表情になる。


「それじゃあどのみち駄目ですね、ギルティーです」

「そんな……!」「そんな……!」


 無慈悲なステラの宣告を受けて、自称ステラと自称黒騎士――もとい、テイラーとクロフォードは、魂が抜けたように真っ白になってしまった。

 直後に、ブラウンたち兵士が小銃の先を二人に向ける。


「ステラ様が有罪と仰った以上、即刻、処罰せねばなるまい。覚悟しろ、貴様ら」


 ひえええ、と冗談のような悲鳴が上がる。

 しかし、ステラが慌てて兵士たちを制した。


「ま、待ってください! 確かに平時だと王族を騙るのはこの国の法律的に死刑になりかねない重罪ですが、この後どうするかはもう少し考えさせてください」

「ステラ様……!」「ステラ様……!」


 命を救われたことに、二人は目をうるうるさせながらステラを仰ぐ。

 一方の兵士たちは、溜め息を吐きつつ、渋々銃を降ろした。

 ステラは続いて、トーマス大臣の方を見遣る。


「一番の問題は、貴方ですね、トーマス大臣」


 そう言われて、トーマス大臣は地面から飛び出かねない勢いで強く体を揺すり始めた。


「ステラ様! 違うのです! きっと貴女様は大きな誤解をされています! 私は、貴女の身を第一に考えてエルフの里へ行くことを進言いたしました! それに、ここで偽物を使って軍を常駐させていたのには深いわけが――」

「もういいです、言い訳は。貴方がガリアと内通していることは、もう揺るぎない事実なので」

「違うのです! ステラ様、どうか私の話を聞いてくだ――」


 大臣の言葉は、そこで遮られた。彼の目の前に、ダンッ、と勢いよく足が踏みつけられたのである。地面に、人間の膂力ではおおよそつけられないであろう足跡が残されている。それをやったのは、シオンだ。


「紹介します。この人、本物の黒騎士のシオンさんです。大臣がガリアについての情報を持っているかもしれないと言ったら、是非尋問させてくれって」


 シオンの顔はいつも通りの無表情だが、その無言の圧力には普通の人間にはない凄味があった。トーマス大臣は、まさに蛇に睨まれた蛙のようにして、身を震わせている。


「ちなみにちょっとした身を守るための助言ですが、シオンさんに訊かれたことには素直に答えることをお勧めします。じゃないと、指折られたり目玉抉られたりするかもしれないので。涼しい顔して引くほど容赦ないです、この人」


 ステラの言葉を聞いて、トーマス大臣はまだ何もされていないにも関わらず、白目を剥いて気絶しかけている状態だった。

 そんなことには構わず、シオンはトーマス大臣の前にしゃがみ、顔を近づける。


「今ステラが言った通りだ。余計な嘘は吐くな。俺が訊くことにはすべて正直に答えろ」


 抑揚のない静かな声には、悪魔からの死の宣告に等しく冷たい殺意が込められていた。







 シオンによる尋問は、思いのほか円滑に進んだ。時間にして三十分もかからずに、聞きたいことをトーマス大臣から聞き出すことができた状態だ。

 偏に、これもシオンの威圧的な聴取によるおかげだろう。終始慄くトーマス大臣の様子から、殺気を放つ黒騎士を前にしては、虚偽の答えを口にするという選択肢すら浮かばなかったに違いない。


「この国の実情も、俺たちの立場も、思った以上に芳しくないな」


 尋問を終えて、シオンが独り呟いた。


 トーマス大臣から聞き出したことは、大きく二つである。


 まず一つは、トーマス大臣の立場についてだ。当初は否定していたが、やはりトーマス大臣はガリア公国と繋がっていた。ガリア公国がログレス王国を完全に支配した暁には、国の新たな統治者として擁立してもらうことを見返りに、暗躍していたらしい。ステラを王都から逃がすように見せかけ、ガリア軍へその身柄を引き渡そうとしていたのだ。偽物のステラを雇ったのも、ログレス軍をかく乱させることが一番の目的だったようだ。

 だが、その計らいはステラがシオンと接触したことで、あえなくご破算となった。今回、ヒュドラを使ってガリア軍が偽物の王女を襲撃したのも、本物と信じ込まれているうちに偽物を処分することで、王女が亡くなったという誤報を国内に広め、一気に国の士気を下げる目的だったのだろう。


 二つ目は、トーマス大臣が利用するガリアとの連絡経路、及び頻度だ。トーマス大臣は、やはり、ステラが黒騎士と共に行動しているという情報を得ていた。それをどのように、いつ手に入れたのかを聞き出した。

 情報元は、やはりガリア軍で、入手した時期は二週間ほど前とのことだ。二週間前と言えば、シオンたちは、エルフたちを解放し、ガリア公国とログレス王国の国境を越え、アルクノイアに向かっている道中だった。ルベルトワでは、ステラもシオンも、住民に素性を誰にも明かさなかったのだが、さすがに騒ぎを大きくし過ぎたのか、ガリア軍にはすぐにバレてしまっていたようだ。確かに、リズトーンでギルマンがシオンとステラのことを知っていたことを鑑みれば、その時点でステラの同行者と、彼女のおおよその現在位置を把握されていたとして不思議ではない。


 だが、シオンにはどうしても腑に落ちないことがあった。

 それは――


「やっぱり、ルベルトワでエルフたち逃がした時点で、ステラの居場所やアンタが一緒にいるってことはガリア側に知られていたんだね」


 不意に、シオンの傍らに、エレオノーラがそう言いながら付いた。


 ガリア軍が持つステラの同伴者としての情報に、エレオノーラが含まれていなかったことである。リズトーンでギルマンたち第八旅団と交戦した時も、ギルマンはエレオノーラの存在についてはその場で初めて知ったような口ぶりだった。そして、トーマス大臣から得た情報としても、ステラの同伴者は黒騎士だけとされていたのである。

 さらに不審に思うのは、アルバートたち騎士団側としては、彼らはステラの存在を知らず、エレオノーラだけがシオンに同行していると認識していたことだ。ルベルトワでシオンがエレオノーラと行動を共にするようになってから今時点まで、ステラと行動を一緒にしなかったことはほとんどない。となれば、騎士団側――アルクノイアで接触したアルバートたちが、シオンと同行している人物の中にステラがいることを認識していないと不自然だ。騎士団ほどの組織力があれば、シオンと一緒にいる少女の正体を知ることなど造作もないことだろう。騎士団の情報網がそれだけ強力であることは、元騎士であったシオンが一番よく知っている。

 となれば、考えられることは一つだけだった。


 “何者か”がステラとエレオノーラに関する情報を操作し、意図的な結果をガリア公国と騎士団へそれぞれ流している。

 少し膨らませた言い方をすると、ステラとエレオノーラが一緒にいることを誤魔化そうとしている――


 そうとしか、考えられなかった。


 シオンは、横にいるエレオノーラに視線だけを向ける。


「ん? どうしたの?」


 エレオノーラは、いつも通りの調子で首を傾げた。

 騎士団とガリア軍との命を賭けた交戦があったにも関わらず、彼女は文句を言いながらも、常に協力してくれた。今回の偽物騒動についても、彼女がいなければ今頃ステラとシオンはどうにかなっていたかもしれない。

 教会の最重要機密である“騎士の聖痕”を解析することを条件にしているとはいえ、その見返りに対しての働きと考えると、いささかやり過ぎとも思える。


「ねえ、ちょっと、そんな怖い顔で睨まないでよ。感謝こそされ、嫌な顔される覚えは一つもないんだけど」


 不審そうに見遣るシオンに、エレオノーラがそう抗議してきた。

 そこへ、ステラも加わる。


「そうですよ、シオンさん。意識失ったシオンさんを運んでくれたの、エレオノーラさんなんですからね。文句ひとつ言わずに、ずっとシオンさんのこと肩に担いでいたんですから」

「あ、いや……ステラ、余計なことは言わないで……!」


 エレオノーラが若干顔を赤らめながらステラの口を塞ぐ。


 いつもの他愛もないやり取り――少なくとも今この瞬間に、何か不穏な空気を孕んでいるということはなさそうだ。

 シオンは一度目を伏せ、切り替えるように小さく息を吐いた。


「エレオノーラ、ありがとう。助かった」


 シオンに言われて、エレオノーラは口を若干尖らせながら視線を外した。どこか居たたまれなさそうに、もじもじと二つ縛りの髪を両手で触り出す。


「……こ、今度から気をつけなさい。まあ、アンタが“帰天”使うのを渋っていた理由、今回の件でわかったから、いざという時はまたフォローするけどさ」


 そんな彼女を、ステラがどこか満足げにかつ嬉しそうに見て、何度もうんうんと頷いていた。


 この件については、いったん保留にしておこう――考えても結論が出ない上に、かといって、下手にエレオノーラを問い詰めるようなことをしたくない。もしかしたら、彼女の意思ではない何かが、情報を錯綜させているかもしれないのだ。ここで変に信頼関係を失うことは、得策ではなかった。


 そんなエレオノーラへの疑念を忘れるようにして、シオンはステラの方を見た。


「ところでステラ、こいつらの処分と、ログレス王国軍の兵士たちはこれからどう扱うつもりだ?」


 シオンの一言に、場がまた少しだけ張り詰めた。

 先送りにしていた偽物二人の処分に、未だ頭だけを出した生き埋め状態のテイラーとクロフォードが、びくりと体を震わせる。


「わ、私はこれから何でもします! だからどうか、ステラ様、ご慈悲を!」

「僕もです! お願いします! ステラ様のために何でもします!」


 二人の命乞いを聞いて、ステラが、うーんと悩みだす。両腕を組み、知恵を捻り出すように眉間に皺を寄せる。


「ステラ様!」「ステラ様!」


 数秒そうしていたあと、テイラーとクロフォードからの嘆願の呼びかけを受け、軽く溜め息を吐きながら目を開いた。

 そして、ステラは二人の前にしゃがむ。


「本当に、何でもしますか?」


 真摯な問いかけに、二人は息を呑みながら大きく、はっきりと頷いた。

 ステラはそこで、顔を少しだけ険しくした。


「わかりました。今回の件については、お二人に処分は下しません。国の状況が状況ですしね。こういうのはやっぱり、ちゃんとした裁判とかで決めないと。それに、王族とはいえ、一方的に罪の重さを決めることはしたくないです」

「ステラさ――」

「ただし、条件があります」


 歓喜の声を上げようとした二人の声を、ステラが重々しい口調で遮った。


「テイラーさん、クロフォードさん、お二人にはこのまま、私とシオンさんの偽物でいてもらいます。そしてそのまま、ログレス王国を回ってください」


 思いがけない言葉に、その場に居合わせた全員が驚いた。ただし一人だけ――シオンだけが、なるほど、と小さく納得していた。


「この二人を囮にするつもりだな?」


 シオンの答え合わせに、ステラは頷いた。


「はい。今このタイミングで本物と偽物が合流したことを利用しない手はないです。私はこれから、シオンさんたちと王都に向かいます。その間、テイラーさんとクロフォードさんには、できるだけガリア軍と騎士団の注意を引き付けてほしいんです。ただそうなると、私たちを騙って外に出れば、間違いなくガリアと騎士団の両方から命を狙われることになります。非常に危険な依頼です。それでも、やってくれますか?」


 いつになくステラの眼差しは真剣だった。

 十五歳の少女がするとは思えない表情に、テイラーとクロフォードはおろか、兵士たちも呆気に取られる。

 微かな沈黙のあと、テイラーとクロフォードは、意を決したように表情を引き締めた。


「は、はい! お任せください!」「は、はい! お任せください!」


 その返事を聞いて、ステラは微笑する。


「ありがとうございます。その依頼達成を以て、贖罪としてください」

「はい!」「はい!」


 テイラーとクロフォードは覚悟を決めた声で、最後に威勢のいい返事をした。

 それを見ていたシオンが、


「うまいこと考えたな。やってきたことに対しての相応の償いにもなる。だが、あの二人だけで大丈夫か? 騎士団に関しては恐らく偽物とわかった途端に興味を失うと思うが、ガリアはそうもいかないだろ。最悪、偽物とわかっても本物として討ち取り、王女の訃報を流すかもしれない」


 そう質問した。

 ステラはそこで、今度は兵士たちの方を見遣る。


「勿論、そんな危険な状態でお二人を放っておきません。テイラーさんとクロフォードさんには、兵隊さんたちが何人か護衛としてついてください」


 ステラの言葉に、ブラウンがやや不服そうな表情をする。


「私たちが偽物の護衛、ですか?」

「はい。今まで騙されていたので嫌かもしれないですが、お願いします。兵隊さんたちがついていれば、ガリア軍もより本物と信じるはずです」


 ステラがそう提案すると、ブラウンが唸るように納得した。


「なるほどですね。仰る通り、偽物にまた首を垂れるふりをしなければならないのはいささか不本意ではあります。ですが、ステラ様のご命令とあらば」


 ブラウンが敬礼して、対するステラは礼をするように頷いた。

 彼女は続けて、


「あと、兵隊さんたちには他にもお願いしたいことがあるんです」

「と、いいますと?」


 ステラはここで、ルベルトワであったエルフの件と、リズトーンであったライカンスロープとドワーフの殲滅の件を話した。

 終始、兵士たちは言葉を失って聞いており、次第に怒りに表情を歪めるようになったが――それは、敢えてステラがそうしているのではないかと、シオンは思った。兵士たちは、ガリア公国がログレス王国国民に対して行った仕打ちに対して酷く嫌悪し、正義感を刺激されていた。

 そして、ステラは、兵士たちのモチベーションが最高潮になったところで、逃亡生活をしている亜人たちへの合流と、その保護を指示したのである。


 話を終えて、ブラウンが重たい口を開いた。


「その任、確かに承りました。各地に潜伏している他の兵と合流しつつ、必ず亜人たちとも合流し、保護いたします」

「お願いします」

「となれば、早速準備に取り掛かります。状況的に悠長なことは言っていられないので、我々は明朝ここを出発いたします」


 そう言い残して、ブラウンは他の兵士たちと出発の準備を始めだした。ついでに、テイラーとクロフォードも地面から掘り出す。万が一を考慮され、二人は逃げないようにすぐに縄で縛られていた。


 そこまで終えて、ステラは、全身の緊張が解けたように、大きく息を吐いた。徐に夜空を仰ぎ、しばし放心状態となる。

 一息ついた、というところで、今度はシオンとエレオノーラの方を向いた。


「あの……相談もなしに勝手に色々決めちゃいましたけど――こ、これでよかったでしょうか?」


 先ほどまでの威厳溢れる姿はどこにいったやら――また、いつものポンコツな年相応の顔になって、てへ、と気恥ずかしそうに頭の後ろを押さえた。


 しかし、シオンとエレオノーラは、後半に入ってからは、ステラの王族たる毅然とした姿の片鱗を見て、見惚れるように呆然としていた。


「あ、あの……シオンさん、エレオノーラさん?」


 ステラの自信なさげな呼びかけを受けて、エレオノーラが驚きの表情のまま小さく拍手をした。


「アンタ、いつの間にそんな王様っぽくなっちゃったの?」

「あ、だ、大丈夫でした? なら、よかったです」


 エレオノーラの賛辞に、ステラがくすぐったそうに喜ぶ。

 次にステラは、シオンを見た。


「あの、シオンさん的には、どうでしたでしょうか……?」


 恐る恐る訊いてきたステラ――シオンの表情は、いつになく穏やかなものだった。


「俺から言うことは何もない。うまくいくといいな」


 だが、褒めたにもかかわらず、今度は逆に、ステラが驚愕の表情で固まった。なぜか、エレオノーラもシオンを見て硬直している。

 シオンは、すぐに怪訝に眉を顰めた。


「な、なんだ?」

「今、笑いました!?」「今、笑った!?」


 ステラとエレオノーラが、同時に詰め寄ってくる。


「ちょ、い、今の顔、もう一回見せてください! 何か、こう、グッとくるものがありました!」

「何あの顔! ねえ、もっかい、もっかい! 笑いなさいよ!」


 興奮気味に二人が迫ってくるが、シオンには一切の心当たりがなかった。

 二人は笑顔を強要してくるが、シオンの顔はそれとは逆に、苛立たしい感情を表すようにますます顰められた。


「知らん。もういいだろ」

「あーん!」「あーん!」


 煩わしそうにシオンが踵を返して、ステラとエレオノーラが揃って間抜けな声を上げた。

 そんな二人は放っておいて、シオンは、放置されっぱなしのトーマス大臣のところに向かった。


 トーマス大臣は、すっかり意気消沈という状態で、もはやもぬけの殻同然だった。だが、シオンの姿を見るなり、瞬時に息を吹き返して、情けない顔で彼のことを見上げる。


「た、頼む……! どうか、どうか殺さないでくれ……!」

「アンタにはまだ聞きたいことがある」


 シオンが言うと、トーマス大臣は不思議そうに眉を顰めた。


「な、なんだ? わしに答えられることならなんでも答える! だから――」

「教皇は、ガリアと結託して何をしようとしている?」


 瞬間、トーマス大臣が青ざめた。一番訊かれたくないことを訊かれた――そんな顔だ。

 シオンはそれを見逃さなかった。


「どうした? 答えろ」


 トーマス大臣は、まるで酷い風邪を引いたかのように、強烈に震え出した。呼吸を荒げ、見えない何かに怯えるように戦慄し始める。

 それが数秒続き、ついに意を決したようで――


「教皇猊下は――」


 しかし、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。

 何故なら、トーマス大臣の姿が忽然と消えたからだ。そこに残ったのは、彼を埋めていた穴だけである。トーマス大臣が消える間際――一瞬だけ、光の粒のようなものが空中に漂ったことだけは視認できた。だが、逆に言えば、それだけである。

 何が起こったのか、この場の全員が理解できずに呆然としていた時――


 シオンは、この現象が何かを“思い出した”。


「――イグナーツ!」

「何ですか?」


 シオンがその名を叫んだ時――その名を持つ本人が、シオンの目の前に、煙草を吹かしながら立っていた。


 円卓の議席Ⅱ番――イグナーツ・フォン・マンシュタイン。聖王騎士団副総長にして、“賢者”の銘を持つ教会魔術師が、ここにいた。







 突如として姿を現した一人の男に、シオンを始めとした全員が驚きで狼狽した。瞬きをした僅かな時の狭間に、その男は何の前触れもなくシオンの目の前に立っていたのだ。

 ブラウンを筆頭にログレス軍の兵士たちが一斉に小銃を構えるが、男はまったく意に介していない様子だった。


 カソックと軍服を掛け合わせたような白の戦闘衣装に、大仰なケープマント――その装いから、騎士であることに間違いはない。背中まで伸びた黒髪に、闇の塊を押し込めたかのような黒瞳。それと人形のような非生物的な青白い肌が特徴的で、見ているだけで妙な恐怖心を煽られた。背丈は、一八〇センチを超えるシオンより頭一つ分高く、かなりの長身だ。


 男は、特に何かを感じている様子でもなく、何気ない所作で煙草を一息吸った。それから、じっとシオンを見据えながら口を開く。


「お久しぶりですね、シオン卿――と、今は黒騎士でしたね、失敬。元気そうなところを見る限り、まだアルバート卿たちとは会っていないようで」


 シオンは、いつになく鬼気迫る表情で、男の一挙一動に目を光らせていた。冷や汗をかきつつ、いつでも刀を抜ける状態で、威嚇するような眼差しを男に向けている。

 そんな彼の様子に、ステラはかつてない危機感を自ずと感じ取った。


「し、シオンさん、この人、騎士ですよね? まさか、またシオンさんを狙いに?」


 しかし、シオンは無言のままで――というより、そんなことに答える余裕すらないといった様相だった。

 対して、男の方はというと、まるで自宅にいるかのような落ち着きようで――ステラの言葉を聞いて、ああ、と己の失態を恥じるかのように小さく声を上げた。直後、彼が手にしていた煙草が、どういうわけか、瞬時に跡形もなく燃え尽きる。


「ステラ王女を前に失礼いたしました。わたくし、聖王騎士団副総長、イグナーツ・フォン・マンシュタインと申します。円卓の議席Ⅱ番に座し、“賢者メイガス”の銘を持つ教会魔術師としての肩書も有しております。一国の王族である御身に拝謁するには好ましくない場ではありますが、ステラ王女にお目にかかることが叶いまして至極光栄に思う所存です」


 男――イグナーツは、こなれた振る舞いで深々とステラに一礼した。

 ステラは一歩後退り、目を丸くさせる。


「副総長!?」


 騎士団のナンバーツーが、何故こんなところに――いや、黒騎士であるシオンがここにいるのだから、それしか理由がないだろうと、ステラはすぐに頭の中を整理した。

 そんな思考を察したのか、


「ここで貴方を殺すつもりは毛頭ないですよ。アルバート卿たちの仕事を奪いたくはないですしね」


 ステラが何も言わずとも、イグナーツが自らそう説明した。

 しかし、シオンは依然として戦闘態勢を解かず、天敵を前にした獣のような殺気を放ち続けている。


「大臣をやったのはアンタだな?」

「はい」

「口封じか?」

「そんなところです」

「教皇の差し金か?」

「そうですね、そう捉えてもらって構いません」


 刹那、シオンが刀を引き抜き、イグナーツの首を刎ねた。瞬きすらも許さない一閃に、周囲が驚く間もなくイグナーツは――


「落ち着いてください。貴方は昔からこらえ性がないですね。そんなだから、黒騎士になってしまうんですよ」


 何事もなかったかのように、その場に立ち続けていた。

 ステラの目には、確かに一瞬、イグナーツの首が胴体から切り離された光景が映し出されていた。だが、今見ると、それが錯覚か幻であったかのように、何も変わりがない。


 イグナーツがやれやれと呆れた顔になる一方で、シオンもまた、始めからその結果がわかっていたかのように、忌々しそうに顔を顰めた。


「騎士団も教皇と繋がっていたか」


 微かな怒気が込められたシオンの言葉に、イグナーツは肩を竦めながら口をへの字に曲げる。


「何を当たり前のことを。騎士団が教会の一部である以上、教皇と繋がっているも何もないでしょう? 教皇から何か命令があれば、副総長の私だって否応なく動かざるを得ないですよ」

「騎士団の職務には教会権力者の監視、監査も含まれているはずだ。教皇がガリア公国と癒着している現状を放置していいわけがない」

「色々と込み入った事情があるんですよ、我々も。所謂、政治的な話、ってやつです」


 憤りを見せるシオンに対し、イグナーツは微笑混じりに答えた。どこからともなく煙草を一本取り出し、まるで職場の休憩室で一服するかの如く、火を点ける。


「他に訊きたいことはありますか?」

「アンタが出張ってまで秘匿したいことはなんだ? 教皇は何を企んでいる?」

「さあ? 私もよくわかっていないです。仮に知っていたとしても、貴方に言うわけないでしょ。あ、私が訊きたいことがあるかどうか訊いたんでしたね、すみません」


 ハハッ、と、最後の方は嘲笑混じりだった。

 普段、どれだけの激情を抱いても、目元くらいしか表情の変化を見せないシオンが、苛立ちで酷く顔を歪めている。それだけで、イグナーツという男がこの場にいることが異常事態なのだと、ステラは容易に察することができた。


 そんなシオンの神経をさらに逆撫でするかの如く、イグナーツは急に腰を下ろした。彼が両膝を曲げると同時に、地面から急成長した植物のように椅子が出来上がる。恐らく、魔術で作り出されたものだろう。


「私からも貴方に少しお伺いしたいことがあるんですよ、黒騎士シオン」


 シオンは無言でその先を促した。


「貴方がステラ王女と王都を目指している理由はわかっています。王女に戴冠式を開催させ、来場した教皇を暗殺したいのですよね。ですが、王都はガリアに実効支配されている状況です。そんな状況で、貴方はどうやって戴冠式を開催するおつもりで?」

「答えると思うか?」

「まあ、貴方の考えていることは何となくわかっているんですけどね。ガリア公国のルベルトワで手に入れた、エルフの実験記録を利用するのでしょう? あれがあれば、ガリア公国と教皇の癒着の事実を証明できますからね。平たく言えば、脅迫、ですかね。戴冠式に来ないとこれを公表するぞー、って感じで」


 その問いに対してシオンは口を開かなかったが、イグナーツはそれを肯定と汲み取ったようで、


「貴方は本当、口を開けばきかん坊で、黙れば素直ないい子ですね」


 煙草を吸いながら、揶揄うように笑った。イグナーツは前屈みになり、すぐに真剣な表情になる。


「でも、ですよ。“あの”教皇が、その程度の脅しに屈しますかね? 下手すれば、王女の立場を逆に危うくしてしまうと思いますよ? なんせ、相手は、この大陸のどの国家元首よりも強大な力を持つ、最高権力者ですからね」


 それは部下に指摘をする上司のような口ぶりだった。シオンも、どことなく自身の考えを鑑みるような目つきになっている。

 イグナーツはさらに続けた。


「そこで提案なのですが、私に、その書類と、ステラ王女を預けてみません? 勿論、証拠隠滅が目的じゃありません。貴方がさっき言ったように、教会の権力者の監視、監査も騎士団の仕事なので、その一環です。嘘は言っていません、 “神に誓って”」


 突拍子もない話に、その場に居合わせた全員が驚きの声を上げた。特に、兵士たちは瞬時に強烈な警戒心を持ったようで、小銃を握る手に一層の力を込めた。


「ああ、やっぱりそういう反応になりましたか。でも、私はいたって大真面目に言っています。何でしたら、シオン、貴方、もう一度騎士団に入りたくありませんか?」


 さらに、耳を疑うような言葉がイグナーツから発せられる。


「免罪符さえ発行すれば、黒騎士でも騎士団に戻れますよ。まあ、完全に騎士と同じようにとはいかないでしょうけど。諸々行動制限はあると思いますが、どうです? ちなみに、議席ⅩⅢ番は未だに貴方が座っていることになっているので、円卓会議にも参加できますよ」


 その口ぶりと顔つきは、冗談を言っているようには見えなかった。イグナーツは、本人の言う通り、いたって真剣な提案をしているのだろう。

 しかし、それを理解できているのか、いないのかはさておき――シオンは、まるで汚物の掃き溜めを見るかのような眼差しで、イグナーツを睨みつけていた。


「ふざけるなよ。“二年前に何もしなかった”アンタの言葉を、どうやったら信用できる」


 静かだが、心臓を抜き取られるような悍ましさを孕んだ声だった。

 イグナーツは、煙草を一息吸ったあとで、空を仰ぎながら軽く目を瞑る。


「そうですか。残念です」


 そう言って、イグナーツは椅子から立ち上がり、無念そうに嘆息した。


「悪い話ではないと思ったんですが、信用されていないのなら仕方ないですね」


 それから、不意に右手を横に伸ばす。すると、突如としてそこに、一本の杖が収められた。


「気が変わりました。黒騎士シオン、貴方をここで殺すことにします」







「エレオノーラ! 今すぐステラと兵を連れて逃げろ!」


 シオンが怒号を上げた。刀に手を添えて構えたまま、イグナーツの挙動を見逃さぬよう一切の視線を外さなかった。

 エレオノーラが慌てて一歩前に出る。


「ま、待ってよ、シオン!」


 シオンを宥めるかの如く、愛想笑いのような笑みを浮かべる。


「相手は騎士団の副総長で、 “賢者メイガス”の銘を持つ教会魔術師だよ!? “賢者メイガス”は教会魔術師の中でも最上位の術者に与えられる特別な銘! アンタでもさすがに無理だって! もう一度話し合って――」

「そんなことはわかってる、さっさとしろ!」


 振り返ってエレオノーラを睨みつけたシオンの表情は、かつてないほどに怒りで歪んでいた。

 エレオノーラは怯えに体を震わせ、それ以上の言葉を詰まらせる。それから、奥歯を強く噛み締めてステラの腕を引いた。


「行くよ!」

「え、エレオノーラさん!?」


 強く腕を引かれ、ステラは堪らずたたらを踏む。


「待ってください、シオンさんはどうするんですか!?」

「知らないよ、あんな奴! 逃げろって言うんだから、そうするしかないじゃない!」


 やけくそ気味にエレオノーラが言うと、ステラは彼女の腕を振りほどいた。


「置いていけないです! だって、あの騎士は副総長で――」


 ステラはそこまで言いかけて、うわっ、と短い悲鳴を上げた。

 兵士のブラウンが、彼女を肩に乗せて担ぎ上げたのである。


「ステラ様、申し訳ありませんがここに残ることは承服しかねます。騎士同士の争いに巻き込まれれば、この場にいる兵の総力を以てしてもステラ様をお守りすることはできないでしょう。ここは、逃げる以外の選択肢がありません」


 ブラウンはステラを諭すように言って、兵士たちを引き連れ、この場から走り去ろうとした。

 その間際に、ブラウンに担がれたステラがシオンの名を叫ぶが――彼の耳には、届かなかった。


 そして、この廃集落に、シオンとイグナーツの二人だけが残った。未だに燃えるヒュドラの亡骸が、黒騎士と、騎士団副総長に、長い影を残す。


「ギャラリーがいなくなったところで、ぼちぼち始めますか」


 イグナーツが煙草を吹かしながら、不意に歩き始めた。向かう先は、燃え続けるヒュドラの死体である。


「アルクノイアではユリウス卿とプリシラ卿と交戦したみたいですが、さすがに議席持ちでもないあの二人では相手にもならなかったようですね。二年間投獄されていたとはいえ、その実力は衰えずといったところでしょうか」


 そして、何を思ったのか、突然、ヒュドラに杖を突き立てた。


「とはいえ、私が直接戦うとなると、いささか可哀そうな話でもあります。ウォーミングアップも兼ねて、まずは前座を用意しましょうかね」


 イグナーツのその言葉に応じるかのように、ヒュドラの死体に変化が生じ始めた。

 ヒュドラの死体が、杖を刺されたところから変形していく。泡立つように肉塊がうねり出し、その巨躯から分離していった。本体から離れたそれらの肉塊は、それ一つが生き物のようにしてさらに何かを模っていく。

 それからものの数秒で、変化は止まった。最終的に肉塊が模ったのは、成人男性ほどの大きさの蜥蜴である。大きさもそうだが、何よりもそれが特異と思わせるのは、全身が鱗の代わりに炎に包まれていたことだ。


「“火の精霊サラマンダー”――見るのは久々ですかね? 実を言うと、私もこうして精霊を造り出すのは久しぶりでして。うまくできて、少しだけほっとしています」


 イグナーツは煙草を吸いながら、足元を這う三匹のサラマンダーたちに目を馳せた。ペットを可愛がるようにして、火が燃え移ることを恐れずにそれぞれの頭を軽く撫でる。


 精霊――魔物が魔術によって生み出された人工生物であるのに対し、精霊には命、あるいは魂と呼ぶべき概念がない。造り出した術者の意のままに操られる、いわば人形のようなものだ。魔物の製造と比べて大掛かりな設備を必要とせず、指示に調教の必要もないことから、より利便性に長けた疑似生命体である。だが、その反面、常に魔術師がその動きを制御しなければならないため、魔物と違い、調教を経て覚えさせた言葉による指示指令はできず、誰もが扱えるというわけではなかった。


 イグナーツは紫煙を吐き出しながら、シオンを改めて見遣る。


「さて、まずはお手並み拝見といきましょうか。ガリア公国軍准将、“機械仕掛けの雷神”を屠ったその実力、とくと見せてください」


 刹那、三匹のサラマンダーが一斉にシオンに向かって走り出した。さながら地割れの亀裂が広がるようにして、三つの炎が地面を這っていく。


 三匹いるサラマンダーのうちの一匹が、シオンの頭に向かって大口を開けた。サラマンダーの身体はヒュドラの血肉を利用して造られているため、生物と同様に有機的ではあったが、身に纏う炎がその実体をぼやかしている。何も知らない者が見れば、それは朱色に燃ゆる幽霊にしか映らなかっただろう。


 シオンは刀を引き抜き、縦一閃にサラマンダーを斬り裂いた。斬り裂かれたサラマンダーは地面に落ちると同時に元の肉塊に戻り、直後に灰となる。

 それを見たイグナーツが、おお、と嬉しそうに声を上げた。


「あっさりと一匹倒しましたか。剣の腕はいまだ健在ということですね」


 続けて、左右からサラマンダーがシオンに向かって襲ってくる。

 シオンはそれを上に飛び退いて躱すと、落下の勢いを利用して片方のサラマンダーの頭を踏み抜いた。地面ごと穿つ踏みつけは、サラマンダーの頭を跡形もなく爆散させる。

 刹那、もう一匹のサラマンダーが、激昂したかのようにその身に纏う炎を花弁の如く広げた。まさしく炎の精と呼ぶにふさわしい有様になった状態で、シオンへと突進していく。


 だが、すでにシオンの姿はなく――彼は、いつの間にかそのサラマンダーの胴体を横に分断していた。最後の一匹は、蝋燭の火が消えるような趣で地に伏した。


 二十秒もかからなかった一連の出来事に、イグナーツが拍手を送る。


「さすが、円卓の議席ⅩⅢ番の実力は伊達ではないですね。サラマンダー三匹、並の騎士ならそれなりに苦戦したであろうに。一匹だけでも、強化人間くらいであれば楽に倒せるくらいの強さなんですがね」


 イグナーツは手にしていた煙草を消し炭にした。


「体も温まってきたところで、そろそろ本番といきますか」


 その一言を受けて、シオンは刀を構え直した。イグナーツからは殺気を感じないが、異様な圧はひしひしと肌に刺さっていた。


 イグナーツがどんな戦い方をするのか、それは元部下のシオンもよく知らなかった。多種多様な魔術を駆使し、それこそ御伽噺に出てくるような“魔法使い”のように、ありとあらゆる現象を恣意的に起こすということくらいしか、情報は持ち得ていない。


 そんな彼と敵対する上で最も気を付けるべきは、何といっても、先のトーマス大臣を一瞬にして消してしまった、物質の分解である。イグナーツは、生物、非生物を問わず、ありとあらゆる物質を分子、あるいは原子レベルまで分解することができる。


 当然、その魔術を食らった生物は死ぬことになるのだが――それには他の魔術とは違った、特定条件下でしか行使できないという制約があった。それは、分解対象が生物であった場合、術者がその生体情報を遺伝子レベルで把握しておく必要があることだ。

 制約をクリアするには、イグナーツが分解対象の生体情報を即席ですべて解析する必要がある。解析する手段として一番手っ取り早いのが、採血して間もない対象生物の生き血を手に入れること。

 つまり、シオンは、イグナーツとの戦闘において血を流すことはできないのだ。


「随分と慎重ですね、貴方らしくもない」


 サラマンダーと対峙した時とは打って変わって大人しくなったシオンを見て、イグナーツが挑発した。


「このまま何も起こらないというのもつまらないので、先に仕掛けますか」


 そう言って、イグナーツがシオンに向かって人差し指を向ける。すると、突如として指先から稲妻が迸った。稲妻はそのまま矢のようにシオンへと向かい、彼の胸を穿とうとする。

 シオンは、その光の矢を間一髪のところで避けると同時に、一気にイグナーツへと肉薄した。そのまま刀を素早く薙ぎ、イグナーツを逆袈裟に斬りつけるが――


「いい反応です。なんだ、二年間の運動不足は、まったく問題ないみたいですね」


 イグナーツは血を出すこともなく、また、着ている服にすらも異常がない様子でそう言った。

 シオンが、忌々しそうに顔を顰める。


「くそっ!」


 悪態をついた後で、一度イグナーツから距離を取った。それからシオンは呼吸を整えながら刀を握り直す。

 そこへ、


「シオン、もう一度考え直してはみませんか? どう考えても、貴方が私に勝つことはあり得ないと思うのですが」


 イグナーツが再度提案してきた。

 しかし、シオンはその言葉を聞いて、さらにその赤い双眸を怒りの炎で染め上げる。


「――ほざくな!」


 そして、怒号に合わせて“帰天”を使った。

 “天使化”したシオンは、赤黒い稲妻を纏い、双角に見立てられた欠けた光輪を携えた。

 その名に反した禍々しい見た目になった直後、イグナーツへと疾駆する。駆け抜け様に振られた彼の剣閃は間違いなくイグナーツの胴体を上下に分断したはずだが――振り返って確認すると、例によってイグナーツは何事もなかったかのように無事でいた。

 イグナーツは、変わり果てたシオンの姿を見て、少しだけ目を細める。


「なんて有様ですか。まるで“天使”とは程遠い。さしずめ、貴方の使うそれは、“堕天”、そしてその姿は“悪魔”といったところで――」


 言いかけたところで、イグナーツの頭が上顎半分から、シオンの刀によって刎ねられる。

 しかし、


「――すか。いやはや、昔の貴方の“天使化”状態は、それはとても美しいものだったんですがね。何だか、不良になってしまった親戚の子供を見ているような気分ですよ。親戚いないんですけどね」


 イグナーツは無事な様子で、嘆かわしそうに首を左右に振っていた。

 余裕たっぷりな振る舞いをするイグナーツ――その一方で、シオンはすでに疲労困憊といった様子だ。激しい息切れを起こしており、肩を大きく上下させて呼吸している。追撃すらも憚られているようだった。

 イグナーツがそれを見て、呆れた顔になる。


「“天使化”の一時的な身体強化は、騎士の強靭な肉体があってようやく耐えられるもの。そして、“天使化”中に使うことのできる電磁気力を利用した斥力と引力の操作は、それ以上に行使者の身体に負担をかける。まして、シオン、貴方の“帰天”は“悪魔の烙印”による抑制効果を無理やり無視するようにして発動させている。その身体にかかる負荷は、通常のそれとは大きく逸脱しているでしょうに」


 自分事のようにして忠告をぼやいた。

 だが、シオンはそんなことなどまったく耳に入っていないようで――悪魔を呼びつけるような雄叫びを上げた。


 直後、シオンから、赤黒い稲妻が周囲の物質を消し飛ばすようにして沸き起こる。

 シオンは、赤い光刃そのもののとなって、イグナーツへと強襲した。


 もはや、生物の枠組みを外れ、光の速度さえ上回ったのではと思わせるほどの一閃だった。


 そうしてシオンが最後に放った一刀の跡には、何も残っていない。地面は広範囲に黒く焼け焦げ――その上に、イグナーツの姿は微塵も残っていなかった。


 しかし――


「少し、頭を冷やしましょうか」


 突如として現れたイグナーツが、いつの間にかシオンの隣に立ち、一方的に肩を組んでいた。

 そして、シオンがそれに驚く間もなく――彼は“氷漬け”にされてしまった。

 文字通り、刹那の出来事だった。


 シオンの身体は、イグナーツに首を向けた状態で、時間そのものが止められたように静止している。体中の表面を白い氷で覆われ、季節外れの氷像になっていた。

 イグナーツは徐にシオンから体を離すと、どこからともなく煙草を取り出して火を点ける。


「やれやれだ。暴れん坊なところはまるで変わっていない。普段はいたって涼しげなんですがね」


 そう言いながら煙草を吹かし、シオンを正面に見据える。


「強さにかまけた無鉄砲さ――貴方個人の話であれば大いに結構なのですが、それを今回の騒動に持ち込まれては、こちらとしてもいささかやりにくいのですよ。まあ、ステラ王女を保護しつつ、教皇の弱みを手に入れたことには感謝していますが。私も、“脱線事故に見せかけた”甲斐があったというものです」


 イグナーツは、杖の先をシオンの心臓部分に突き付けた。


「ここで貴方を消してしまうのは造作もないことですが――またまた気が変わりました。折角なので、もう少し、貴方には働いてもらいましょうかね。このままだとアルバート卿たちが手持ち無沙汰になってしまいますし」


 こつん、と杖の先をシオンに当てると、彼を拘束していた氷が、一瞬で剥がれる。そのまま脱力して倒れるシオンの身体を、イグナーツが受け止めた。


「私から見れば、今の貴方は生者でも死者でもない。何者にもなれず、ただ教皇への復讐心のみを糧に動き続ける哀れな半端者だ」


 イグナーツはシオンの身体を仰向けに寝かせる。


「まあ、それほどまでに、“彼女”への想いが強かったということなのでしょうかね。一人の男として同情しますよ、貴方には」


 それから煙草を一息吸って、イグナーツは踵を返した。


「願わくば、次に会った時には、かつての気高い騎士としての志を取り戻していることを期待しますよ。黒騎士シオン」


 それがシオン本人に聞こえているのかいないのか――そんな些末なことを確認するまでもなく、またしてもイグナーツの姿は、忽然と消えていた。







 ――また来たの?


 白濁とした意識の中で、“彼女”が呼びかけてきた。

 戦争終結直後に実施された異端審問――あの日から、もう数えきれないくらいに同じ夢を何度も見る。

 何もない白い場所で、自分一人だけが取り残されている。そこへ、“彼女”の声だけが聞こえるのだ。


 ――貴方からしてみれば、私は凄いお婆ちゃんなのだけれど。


  “彼女”の名を呼ぼうとするも、この空間の中では一切の声を上げられなかった。それどころか、手足すら重く、まったく動くことができない。


 ――私たち、仮にも聖職者なのに、こんなことになって大丈夫なのかな。


 悪戯っぽく笑う“彼女”の声だけ聞こえるのが、腹立たしいほどにもどかしかった。何故こうも、苛むような状態で見せてくるのか。


 ――シオン、あとは、よろしくね。


 また、あの笑顔を、せめてもう一度だけ見たい。

 この夢が覚めるのは、いつもその想いが収まりきらなくなった時だった。







 やけにかじかんだ感じと、肌を刺す微かな痛みによって意識を呼び戻した。

 シオンは、うっすらと開けた瞼に差し込む光に目を眩ませながら、小さく顔を顰める。


「シオンさん!?」「シオン!?」


 はじめに視界に入ったのは、青い空だった。その左右に、自身を覗き込む二つの顔がある。今となっては、もはや見慣れた二人の女だ。

 セミロングに整えられたバーミリオンの髪に、青い瞳を持つ少女――ステラ。

 二つ縛りの薄い桃色の髪に、琥珀色の瞳を持つ女――エレオノーラ。


 不安そうに眉根を寄せる二人を認識して、シオンは現実に戻ったのだと理解できた。

 上体を起こすと、身体の節々が痛んだ。イグナーツから受けた攻撃というより、“天使化”による影響だろう。ただ、不幸中の幸いで、“天使化”していた時間が短かったためか、前回ほどの苦痛はない。


「無理しないで」


 背中を支えてきたエレオノーラ。シオンは、未だに霞がかった視力で彼女を見遣る。


「何がどうなった? イグナーツは?」

「わからない。いつまで経ってもアンタが来ないから、夜が明けたタイミングで様子を見にここに戻ってみたの。その時にはもう、アンタ一人が仰向けに寝ているだけで、他には誰もいなかった」


 ようやく視界がはっきりしてきたところで、シオンは周囲を見渡してみた。


 もしや、イグナーツと遭遇したこと自体が夢だったのではとも思ったが、交戦した跡は間違いなく残っている。ヒュドラの亡骸もそのままで、そこから造られた精霊の残骸もしっかりと存在していた。

 騎士団副総長にして、最上位の教会魔術師であるイグナーツが、敵の止めを刺し損ねたとは考えにくい。恐らくは、見逃されたと考えるのが妥当だろう。


 シオンは顔を顰めながら頭を軽く左右に振った。


「いったい何が目的だ、あの男」


 忌々しく小声で吐き捨てて、立ち上がる。エレオノーラに肩を貸してもらいながら、シオンはもう一度周囲を見てみた。

 ここに居合わせているのは、自分の他に、ステラと、エレオノーラ、それにブラウンを含めた数名の兵士たちだ。兵士たちは、当初より半分ほどの人数になっている。


「他の兵たちはすでに出発したのか?」


 シオンが訊くと、ブラウンが頷いた。


「陽動も兼ねて、偽物たちと一緒に、一足先にリズトーンへ向かわせた。我々も後でそこで合流して、それから国内を巡ることにしている」


 次に、シオンはステラを見る。


「お前は無事なのか?」


 不意に話しかけられ、ステラは一瞬驚いたように体を上下させた。


「あ、は、はい。私は特に何もありませんでしたが――シオンさんこそ、大丈夫なんですか?」

「身体に痛みはあるが、前回のように動けないほどじゃない。これくらいなら歩きながらでも回復する」


 しかし、ステラは、どことなく信じられない――というより、心底心配するような面持ちで、訝しげに眉根を寄せた。


「本当ですか? 意識失っている間、ずっとうわ言を呟いてましたけど……」

「ステラ!」


 すかさず、エレオノーラがステラの言動を咎めるように制止した。

 シオンは、若干、恥ずかしさで顔から火が出るような心境になった。


「う、うわ言?」


 ステラとエレオノーラに確認すると、二人はどことなく気まずそうに頷く。

 シオンは、いたたまれない気持ちに駆り立てられるように、


「な、なんて言っていた?」


 思い切って訊いてみた。

 ステラとエレオノーラは、互いに顔を見合わせて、何とも言えない表情になる。無言で、どちらがその問いに答えるかを押し付け合っているかのようだった。

 シオンはいよいよもどかしさを抑えられなくなり、やや苛立った目つきをエレオノーラに向けた。


「なんだ、そんなに言い辛いことを言っていたのか、俺は?」


 すると、エレオノーラは少しだけ、何か不満そうな顔になって、口を開き始めた。


「……“リディア”って、誰?」


 その名を聞いて、シオンは一気に血の気が引いた。双眸は虚空へと向けられ、口を半開きのまま徐に俯く。


 まさか――いや、夢に見ていたのだから、無意識のうちにその名を口にしていてもおかしくはない。


 異様な反応を見せたシオンに、ステラとエレオノーラが揃って慌てた。


「あ、こ、答えたくなかったらいいんだけどさ」

「すみません、シオンさんの女性関係を野暮に訊いてしまったようで――」

「別にそういう話って決まったわけじゃないでしょうが」

「え、でもリディアって女性に多い名前じゃあ……」


 二人が、微妙な空気にしてしまった責任の押し付け合いを始めだした。

 一方のシオンはというと、エレオノーラの肩から体を離し、一人でふらふらと前進する。地面に落ちていた刀と鞘を拾うと、黙々と剣袋に入れて剣帯に収めた。剣帯を身体に巻いて刀を腰に差し、ステラとエレオノーラに振り返る。


「――昔の同僚だ」


 それだけを答えた。







「本当に王都に向かわれるのですか? それも、たった三人で」


 ブラウンたち兵士が、別れの間際にそう訊いてきた。

 その問いに、ステラは力強く頷く。


「はい。戴冠式をしないことには、ガリアはそれを口実に延々と駄々をこねる一方だと思うので。それしか、選択肢はありません。三人といっても、一緒に来てくれるのは、黒騎士と教会魔術師ですからね。文字通り、百人力です」


 確かな決意を孕んだステラの言葉を聞いて、ブラウンは一度大きく息を吸って、徐に吐いた。


「本来であれば、ステラ様をお守りするのはログレス王国国軍である我らの務めなのですが――それが叶わないこと、どうかお許しください」

「仕方ないですよ。何人も兵隊さんを連れて歩くと、目立っちゃいますからね。こっそり王都に近づくには、シオンさんたちと一緒に少人数で行くのが一番です」


 やけに真面目腐って、まるで無礼を詫びるかのようなブラウンの佇まいに、ステラは苦笑気味に応じた。ブラウンもそれにつられて小さく笑い――不意に、兵士たちが一斉にステラの前に整列し始める。

 そして、


「総員、ステラ王女に敬礼!」


 唐突なブラウンの号令と共に、兵士たちが一斉に敬礼を見せてきた。その後の、直れ、の号令が出されるまで、ステラは呆気に取られた様子で目を丸くさせた。

 ステラがまだ気圧されている最中に、ブラウンが再度近づいてくる。


「それではステラ様、道中、どうかお気をつけて。王都で再会しましょう」


 そう言って、微笑みながら、再度敬礼した。


「はい、ブラウン中尉たちもお気をつけて」


 ステラも慣れない所作で敬礼を返し、そう彼らを激励する。


 そんな短いやり取りを経て、兵士たちはリズトーンのある方角に進みだした。

 彼らが目標とするのは、リズトーンの騒動で生き残った住民たちと、森を追われて国内を放浪しているエルフたちの保護である。また、保護が完了した暁には、国内各地で潜伏している王国軍と合流し、王都へ戻る算段だ。来たる日に、女王に即位するステラを必ず守りに行くと、ブラウンたちは誓ってくれた。


 ステラは暫くその背中を一人ひとり見送っていたが、やがて見えなくなったところで――


「シオンさん、エレオノーラさん」


 振り返り、黒騎士と、教会魔術師に向き直った。


「あともう少しですが、引き続きよろしくお願いします」


 かしこまった王女に、エレオノーラがなれなれしく肩を寄せる。


「どうしたのさ、今更、改まっちゃって」


 エレオノーラがステラの両頬を揉みながらそう揶揄った。ステラは頭の後ろを掻きながら、どことなく申し訳なさそうな笑みを見せる。


「い、いやあ、自国の兵隊さんたちを目の当たりにしたら、しっかりしなきゃ、って思いまして」

「王様っぽくなってきたんじゃないのー。この、この」


 照れるステラの両頬を、エレオノーラがさらに指で揉みしだいた。


 そんな二人のやり取りを、少し離れたところでシオンは眺めていた。

 いたって平和な微笑ましいやり取り――だが、シオンの表情は、あまり柔和なものではなかった。


 どうしても、疑念が晴れないのだ。


「ちょっと、シオン。さっきから何怖い顔してんの?」


 エレオノーラ――彼女の存在が、この旅の中で不穏に大きくなっていることに、彼は気付き始めていた。







 鳥のさえずりもまだ聞こえない早朝――騎士団本部の円卓の会議室にて、イグナーツは目を覚ました。両手を腹の上で組み合わせる姿勢で、自身の議席Ⅱ番に深く腰を掛けている。


「“お帰りなさいませ”、イグナーツ様」


 ふと視線を横に向けると、Ⅲ番の席にリリアンが座っていた。相変わらずの人形のような希薄な顔つきに長い銀髪を携え、ガラス玉のような瞳で見てくる。


「ああ、リリアン卿。早いですね、何かありましたか?」


 イグナーツが椅子に座り直しながらそう訊いた。すると、リリアンは変わらぬ調子で、


「朝早くに恐れ入ります。教皇猊下が、至急、教皇庁に来るようにと」


 と、伝えてきた。

 イグナーツが、うんざりした顔になって首を左右に倒して鳴らす。


「いやはや。こっちは黒騎士を相手にしたばかりで疲れているというのに。まあ、そんなこと、あっちからしたら知ったこっちゃないんでしょうが」

「シオン様のご様子はいかがでしたでしょうか?」


 イグナーツは煙草を取り出し、火を点けて軽く吹かした。


「元気でしたよ、とっても。ただ、“天使化”はもう使わせない方がいい気がしますね。かなり無理をしている感じでした。さっさと“悪魔の烙印”の解呪を――」

「イグナーツ様、会議室は禁煙です」


 リリアンに言われて、イグナーツはハッとして煙草を握りつぶした。


「失敬。言い訳ですが、あちこちに“意識を飛ばしている”と、自分が今どこにいるかわからなくなってしまう時があるんですよね。ご容赦を」


 軽く笑って誤魔化そうとするが、リリアンは相変わらずの無機質な表情のまま、じっと見つめてくるだけだ。


「……そろそろ禁煙を考えますかね」


 苦笑して、イグナーツは席から立ち上がる。


「さて、あまり猊下をお待たせすると、いらぬ猜疑心を持たれてしまう。リリアン卿、私が留守の間は、騎士団本部をお任せしますよ」

「かしこまりました。それと、もうひとつお伝えすることがあります」


 会議室の出入り口に手をかけようとしたイグナーツだが、その一言を受けて足を止めた。


「何です?」

「総長ユーグ・ド・リドフォール様と、聖女アナスタシア様が、間もなく今年度の巡礼を終えて帰還するとのことです」


 リリアンの報告を受けて、イグナーツは頭を人差し指で搔きながら、小さく肩を竦めた。


「本格的に忙しくなりますね。もう二、三人、自分が欲しくなります」

「“もうすでにお持ち”ではないかと思料いたしますが」


 リリアンからの指摘に、イグナーツは声を上げて笑った。


「手厳しい」







 空中戦艦スローネのブリッジは、その部屋の大きさに反して相変わらず閑散としていた。床と天井いっぱいに描かれた印章以外に何もない、無機質な空間――そこに、四人の騎士が集まっている。円卓の騎士、Ⅳ番からⅦ番までの連番が、円陣を組むようにして対面していたのだ。


 Ⅳ番――この空中戦艦の艦長にして騎士団最年長の老騎士、ヴァルター・ハインケル。

 Ⅴ番――短くまとめたブロンドの髪を持つ女騎士、レティシア・ヴィリエ。

 Ⅵ番――サングラスをかけた褐色肌の大柄な騎士、セドリック・ウォーカー。

 Ⅶ番――鳶色の髪をした青年騎士、アルバート・クラウス。


 老若男女を体現したかのような絵面に、堪らずヴァルターが吹き出した。


「随分と珍妙な人員が集まったものだ。まさか、黒騎士討伐の追加要員にⅤ番とⅥ番が当てられるとはな。切れ者イグナーツも、ついに焼きが回ったか。これから小国ひとつ滅ぼしに行くかのような面子だ」


 最高齢の騎士が、この場に相応しくない冗談を口にしたことに、レティシアが殊更に顔を顰めた。


「貴様が言うと冗談に聞こえない。口を慎め、老害」


 ヴァルターは失言だったことを認めるようにして鼻を鳴らし、それきり黙った。

 セドリックが、サングラスのブリッジを上げながら肩を竦める。


「そう言うな、レティシア。事実、これだけの戦力を総長、もしくはイグナーツの監督なしに駆り出すということは、それだけ状況が切迫しているということだ。もっとも、二年前の戦争を思い出すような事態に、あまりいい気はしないがな」

「その通りです」


 アルバートが、話を切り替えるようにぴしゃりと言い放った。


「セドリック卿が仰ったように、我々が置かれている状況は深刻と言ってもよいでしょう。先日の円卓会議で取り上げられた議題について、今この状況がその通りであれば、もはや一刻の猶予もありません」


 それから、改めて他の三人を見遣る。


「ヴァルター卿、レティシア卿、セドリック卿――今回の任務については、私が全権を委ねられています。若輩者であるがゆえに不平不満を抱かれることは重々承知しておりますが――」

「おい」


 アルバートが話している途中で、レティシアが不意に遮った。


「ところで、お前のお供は今何をしている? ユリウスと、プリシラだったか」


 すると、アルバートは、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。

 レティシアが、ますます不機嫌になったように目つきを鋭くさせる。


「なんだ、その顔は? なにがあった?」


 一度大きく息を吸った後で、アルバートは口を開いた。


「彼らには、先んじて黒騎士の討伐に向かわせました。今、我々が向かっている“グラスランド”にすでに到着している状態です」


 その言葉を聞いたレティシアとセドリックが、怪訝に眉を顰める。ヴァルターについては、その辺の事情をあらかじめアルバートから聞いていたため、特に動じた様子はなかった。


「どういうことだ? 議席持ちでもない雑魚二人にシオンの相手が務まるはずがないだろう」


 レティシアが言葉を選ばないで、率直にアルバートに訊いた。

 直後に、アルバートが軽く頭を下げる。


「ここは、同じ議席持ちである私の顔を立てると思って、どうかご了承いただきたいです。あの二人には、各々どうしてもつけなければならない“ケジメ”があるのです」

「ケジメ? ふざけるな。任務に私情を持ち込むなど言語道断だ。今すぐに二人を――」

「まあ、いいではないか」


 そこで、ヴァルターがレティシアを制止した。

 レティシアは何かを言いたげにヴァルターを睨みつけたが――老騎士から発せられる異様な雰囲気に飲まれそうになり、すぐに押し黙った。


「ユリウスとプリシラの二人がシオンを倒せるとは到底思えんが、もとよりわかりきっていることだ。我々は我々で、与えられた任務をこなせばよい。それに、結果論として、あの二人にはそれ以上の役割が与えられるかもしれんからな」


 妙な含みを持って言った老騎士に、レティシアとセドリックが眉根を寄せる。


「どういう意味だ?」


 ちょうどその時に、空中戦艦スローネが高度を徐々に下げ始めた。まだらな雲海を抜けた先に広がっていたのは――


「すぐにわかる。さあ、“グラスランド”に着くぞ」


 朝の霞を帳のようにして降ろす、ログレス王国屈指の観光地、“グラスランド”だった。







 ログレス王国の西寄りの場所に存在する都市――グラスランド。

 中世以前の街並みを色濃く残すこの街は、大陸屈指の観光地として名を馳せていた。石畳の路地を始めとして、古風な木組みの家が多く建ち並んでいる風景は、大陸各地で語り継がれる“騎士の御伽噺”の舞台を、図らずとも忠実に再現していた。あまりにも幻想的な場所であるおかげなのか、ガリア公国による侵略まがいの干渉を受けてもなお、この街の観光業は何事もなかったかのように栄えている。


 そんな古の街並みが、朝日を受けて徐々に人の出を増やした頃――とある宿泊施設のロビーが、物々しい雰囲気に包まれた。

 カソックと軍服を掛け合わせたような白い衣装に身を包んだ二人組が、ロビーの中央を突っ切るように歩いている。


 一人は、派手な金髪を後ろに流すようにまとめた眼鏡の男で、もう一人は、絹のような銀髪をショートカットにして、前髪を横一線に揃えて目元を覆う女だ。

 ユリウスとプリシラ――二人の若い騎士は、覚悟を決めたような表情で、出口の扉に手をかけた。


「あいつらが来ているのかもわかっていねえが――この街も広い。虱潰しに探すのは骨が折れるぜ」


 ユリウスが煙草を吸いながら言って、


「わかっている。だが、私たちにとっては、これがシオン様と接触できる最後のチャンスだ。何が何でも、見つけ出す」


 プリシラが静かに応じた。


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