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第三章 相克

 東のガリア公国、西のログレス王国――シオンたちは、その大国の国境を、エルフの森を避けるようにして南側から超えていった。ログレス王国最東端にある駅から汽車に乗り、一行はさらに西へ、王都を目指した。


 時刻は早朝五時を過ぎたあたり――夜行便の汽車の中で、向かい合わせの四人席に座るシオン、ステラ、エレオノーラ――道中、シオンとステラは、各々の正体と、王都を目指していることを、包み隠さずエレオノーラに話した。下手に誤魔化し、教会魔術師であるエレオノーラに探りを入れられる方が危険と判断してのことだ。一方で、どこまで事情を汲み取ってもらえるのかも未知数であった。

 ステラはともかく、シオンのこととなれば、エレオノーラは間違いなく敵対する立場にある。あくまで、教会の庇護のもとに活動を許されている魔術師である以上、教会に追われる身である黒騎士とは相容れないはずだ。

 いざとなれば、シオンが口封じにエレオノーラを始末することも辞さないと考えていたが――


「ふーん」


 話を聞き終えて、エレオノーラは、興味もなさそうに鼻を鳴らした。

 それを見たステラが、拍子抜けして肩を落とす。


「ふーん、って……。エレオノーラさん、興味なさそうですね」

「まあ、アンタが王女であることに関しては」

「そんなはっきりと……」

「つまり、ステラの件に関していえば、アンタの正体を誰彼構わずにべらべら喋らず、今どこにいるかをガリアの連中に黙っておけばいいってことでしょ? いいよ、それくらい。別にアタシ、ガリアの軍人でもないし」

「本当ですか!? ありがとうございます!」


 ステラが、エレオノーラの両手を握って感謝の意を示した。それを傍から見ていたシオンが、徐に口を動かす。


「ステラはともかく、俺のことは教会に知らせなくて大丈夫なのか? 仮にも教会魔術師だろ?」

「アンタが黒騎士だって全然知らなかった――こう言い切れば大丈夫なんじゃない? 最悪、脅されていましたー、とか何とか言ってやり過ごすよ。ていうか、やっぱり騎士だったんだ。どう考えてもアンタの身体能力、普通の人間じゃなかったもんね。辛抱強く付いてきて正解だった」


 心底どうでもよさそうに振舞うエレオノーラの様子に一抹の不安を覚えつつ、彼女の最後の一言が気になり、シオンはさらに質問を続けた。


「黙ってくれることに関しては有難いが――なんでお前は俺たちについてくる? 興味本位にしては、少し行き過ぎている気がする」

「興味本位の域は出ていないよ。まあ、半分は成り行きだけどね。ガリアには求職で訪れていたんだけど、国内であんな騒動に巻き込まれちゃあ、もうあの国にのんびりいることもできないし、とりあえずアンタたちについていこうって思っただけ」


 それを聞いたステラが少しだけ気の毒そうに眉根を寄せる。


「もしかしてエレオノーラさん、ガリアの出身でしたか?」

「いや、アタシはアウソニア人。だから別にガリアを追い出されたところで何も未練はないから安心して。むしろ、結果的に、アンタたちのお陰で胸糞悪い実験の片棒担がされることもなかったし。それなりに感謝してるよ。まあ、それはそれとして――」


 そこでエレオノーラは、シオンを改めて見遣った。


「残り半分の動機の方がアタシにとっては重要なの。シオン、アンタ、黒騎士ってことは、背中に“騎士の聖痕”彫ってるよね? しかも、“悪魔の烙印”付きで」


 異様に目を輝かせながら話すエレオノーラに対し、シオンはげんなりした顔になった。


「何だ、その目は?」

「ここから本題なんだけど――シオン、アンタが黒騎士であること黙っててあげるから、アタシにその背中の印章を調べさせてよ」


 エレオノーラからのその取引は、シオンはある程度予想できていた。魔術師であれば、教会が最重要機密としている“騎士の聖痕”のことを調べられる機会が与えられれば、目を輝かせて食いつくはずだからだ。

 シオンが、エレオノーラの提案に回答をしようとした時、不意にステラが手を挙げてきた。


「あの、私、印章とか魔術とか全然わからないんですけど、エレオノーラさんみたいな教会魔術師でも“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”って珍しいんですか?」

「珍しい、というか、騎士以外が目にすることなんてまずないよ。教会魔術師の資格持ってるアタシでさえ、何度も教会にお願いしても見せてもらえないんだから。あの収容所にいた教会魔術師たちは色々調べていたみたいだけど、あれはホント、特例中の特例。教皇を後ろ盾にしていたってのが大きいだろうね」


 今の話でアリスのことを思い出したのか、ステラが少しだけ気落ちしたような表情になる。すかさず、シオンが話の流れを変えるように口を挟んだ。


「教会は“騎士の聖痕”の特異性を長いこと自分たちだけのものにしている。大陸史が始まってから今まで、その絶対的な権威を失わないでいられているのも、それを隠し通せているからだ」

「……なるほど」


 ステラが納得したところで、シオンは再度エレオノーラを見遣る。


「今俺が言った通り、これは教会が隠したがっているものだ。それを調べるっていう行為は、教会への敵対行為とみなされても言い逃れできないぞ。お前はそこまで理解して、この取引を持ち掛けているのか?」


 脅迫染みたシオンの言葉だったが、エレオノーラは嗤笑気味に鼻を鳴らすだけだった。


「当然。教会が怖くて魔術師やっていられますかって話――教会魔術師だけど」


 シオンは観念したように息を吐き、目を瞑った。その後で、改めてエレオノーラを見据える。


「わかった。どのみち、俺はその取引を受け入れるしかないからな」

「交渉成立だね」


 エレオノーラが満足そうに微笑み、話はひと段落ついた。

 そんな時、不意にステラが小さく声を上げる。


「街が見えてきました」


 ステラが、車窓を開けて指差す。

 線路を囲む木々の隙間から見えてきたのは、空に向かって無数に伸びる白煙と、山に囲まれた都市だった。


「炭鉱都市リズトーン――大陸屈指の炭鉱街です。できることなら、観光で訪れたかったです」


 そう言ったステラはどこか寂しげだった。







「街に着いて早々何言い出すかと思えば、金貸してくれって……」


 エレオノーラが、シオンをやや軽蔑の眼差しで睨みつけた。その隣で、ステラが苦笑する。


「まあ、シオンさん、完全に無一文ですし……」

「だからって、昨日今日会った女に金借りる?」


 エレオノーラが呆れると、シオンが特に悪びれた様子もなく、


「教会魔術師ならかなり稼いでるだろ」


 と言い返した。


「いや、それ何の理由にもならないから。それに――」


 エレオノーラは、苦虫を嚙み潰したような顔のまま周囲を見渡した。

 ここは、リズトーンの市街地にある古風な骨董店――壁に並べられた棚には、古今東西から仕入れた珍妙な物が、所狭しと並べられている。何故、こんなところに来ているのかというと、


「武器がほしいって言ってんのに、なんでこんな所に来てんの?」


 シオンの武器を調達するためだった。

 エレオノーラとしては、てっきりガンショップのような店に入ると思っていたようで、彼女は首を傾げるばかりであった。


「剣の類の武器が欲しい。だが、今時そんなものを扱う店なんて、こういう骨董店くらいだ」

「なるほどね」


 シオンの回答に、エレオノーラはそれきり興味を失ったように肩を竦めた。

 店の奥に行くと、シオンの読み通り、複数の刀剣が壁にかけられていた。武器として使われなくなった刀剣は、美術品としてその価値を見出されているのだ。

 シオンは、真っ先にとある剣に手を伸ばした。黒い鞘に白い柄、刀身は細長く、微かに湾曲している片刃の剣だ。


「変わった剣ですね」


 ステラが覗き込んできた。


「この大陸ではない、遥か東の異国の剣だ。“カタナ”と言うらしい」


 シオンは刃の状態を確認ながら答えた。


「へー。それがいいんですか?」

「昔、現役で使っていたのがこの剣だ。馴染みのある武器があって助かった」


 シオンはそう言って、店主のもとに行った。


「これ、いくらだ?」

「百万フローリンだね」

「は!?」


 それまで、店内に並べられた骨董品を暇そうに眺めていたエレオノーラが、血相を変えてシオンと店主に詰め寄った。

 大陸共通の通貨単位であるフローリン――このログレス王国での一般成人のひと月の収入が、約三十万フローリンと言われている。つまり、この剣は、一般成人三ヶ月分以上の給料の値段ということだ。


「百万って、アンタ、それちょっとした車買えんじゃないのさ!」

「その剣、手に入れたのは偶然だけど、貴重な異国の剣だからね。美術品としての価値が高くて、それなりに高値がついてんだよ」


 店主が説明すると、エレオノーラはシオンの肩を強く握った。


「他のにして」

「教会魔術師なら百万くらいポンと出せるだろ」

「んなこと言ったらアンタだって元がアレだったんだから相当な額稼いでんでしょうが!」

「俺の口座なんてとっくに凍結されてるだろうし、資産も取り上げられているはずだ」


 エレオノーラが顔を顰めながら押し黙る。

 シオンは、自身の肩を掴む彼女の腕を握りながら、


「いつか必ず返す。それでも足りないなら体で払う」


 真面目な顔でそう言い切った。


「はぁ!?」


 酷く裏返った声を上げたエレオノーラの顔色が、怒りと驚きと恥ずかしさで、真っ赤に染まる。


「重労働なら何でもこなす。好きなだけこき使え」

「――っ!」


 エレオノーラが眉を吊り上げながらシオンの腕を払った。エレオノーラは、そういう意味かよ、ビビったわ、と苛立ちながらぶつぶつ独り言を呟いていた。

 そんなやり取りを傍らで見ていたステラが、


「何か、収入のない紐男が口説いてるみたいで、傍から見たらイメージ悪いですよ」


 白い目で、そう苦言を呈した。






「これからどうしますか? 街の中を散策するのにはこれ以上ないくらいいい天気ですけど、この街でやることって特にないですよね……」


 リズトーンの街中は、炭鉱街らしい賑わいを見せていた。街で採掘された石炭や鉱石が絶え間なくトロッコで運ばれ、炭鉱夫たちの掛け声と輸送機械の音に合わせて、輸送用の列車に続々と積まれていく。

 そんな活気に溢れる光景を一目見ようと、観光客が感嘆の声を上げながらわらわらと作業現場に群がっていた。


 不用意に人目に付くことを避けるため、ステラは咄嗟にマフラーで口元を覆い、鳥打帽を深く被った。倣うように、シオンもジャケットのフードを被った。


「駅員たちの会話を盗み聞きした限りだと、何かの臨時対応が入ったせいで王都に向かう列車は暫くの間運休になるそうだ。それまで適当な場所で休むことにする」


 それを聞いたエレオノーラが、体を伸ばしながら大きく欠伸をした。


「汽車の硬い椅子じゃあまともに寝られなかったしね。で、問題は、こんな朝っぱらから泊めてくれる宿がこの街にあるかどうかって話なんだけど」

「ここは炭鉱街として栄えている。観光地としてもそれなりに人の往来がある土地だ。期待はできるはず」

「だといいんだけどね」


 山脈地帯の真ん中に位置するこの街は、決して交通の便がいいとは言えないにも関わらず、炭鉱業を営む住民の数もさることながら、それに負けないくらいの観光客の往来があった。高層ビルの代わりに街の至る所に聳え立つのは立坑櫓であり、その周囲には採掘機械と、運搬用のトロッコレールが迷路のように張り巡らされている。朝日がまだ山の陰から姿を出したばかりだというのに、街の住民はハツラツとした様子で採炭作業に取り掛かっていた。

 他の大都市では見られない独特の生活リズムを持つこの街なら、朝早くからでも泊まれる宿はあるのでは、というのがシオンの見立てだった。


 三人がそんなやり取りをしていた時、


「あれ?」


 ステラがあることに気付いて、思わず声を上げた。


「どうした?」


 きょろきょろと周辺を忙しなく見渡すステラに、シオンが声をかけた。


「この街にいる人たちって、もしかして亜人ばかりですか?」


 ステラがそう言ったのは、目に映る住民のほとんどが、その姿に特徴的な部位を有していたからだ。

 個人差は非常に大きいが、そのどれにも共通して言えることは、体の何かしらの一部が“動物を連想させる形”をしていたのだ。わかりやすい例で言えば、耳である。人間のように頭の真横についてはおらず、頭頂部の左右に、短い体毛で覆われた、まるで犬や猫のような耳をしているのだ。

 その他には、尻尾を生やしていたり、足のつま先から踵までが非常に長かったりと、どこかに必ず獣のような特徴を持っていた。

 ステラの言葉に、シオンが頷いた。


「ああ。この街の人口の半分以上はライカンスロープだ。さらにその半分のほとんどがドワーフで、人間は全体の一割ほどしか住んでいない」


 それを聞いて、ステラは感嘆の声を漏らした。

 ライカンスロープとの遭遇率は、エルフやドワーフほどではないにせよ、大陸全体の人口比率を鑑みればそれなりに低いとされている。しかし、この街では、シオンが言った通り、その視界に映るほとんどがライカンスロープであった。

 何故、こんなにもライカンスロープが多いのだろう、とそんな疑問をステラが表情で訴えていた矢先、


「この街は、ログレス王国が亜人の奴隷制を廃止した時、それまで人間に隷属していた亜人たちが自立して生活できるようにすることを目的として作られた街なんだよ」


 エレオノーラが回答した。彼女はさらに続ける。


「ライカンスロープはエルフ以上に身体能力が高かったから、機械が発達していない時代での採炭みたいな重労働の現場では非常に重宝されてたんだ。それと、ここは石炭の他に希少鉱石、金属も多く採れる山だから、ドワーフはその加工要員としてここで働くことが多かったみたい」

「機械での採掘がメインになったとしても、重労働には変わりがないため未だにライカンスロープがこの街に多く住んでいる。加えて、この街のドワーフが加工した希少鉱石は他国のものと比べても良質とされていることから、ログレス王国からの輸出の主要品目にもなっている。そういった背景もあって、自ずと亜人の比率が高まっていったんだろう」


 最後にシオンが補足した。ステラは、見聞を広められたと、一人でうんうんと唸り――ふと、シオンが少しだけ不審な表情で、街を大きく見渡した。エレオノーラが、そんな彼を見て小首を傾げた。


「どうしたの?」

「今自分で言って不思議に思ったが、何でそんな街にガリア兵がいないんだ?」

「というのは?」

「亜人の奴隷も、燃料も、希少な鉱石も同時に手に入れることができる場所なのに、王都まで実効支配済みのガリアがみすみす見逃すはずがない」

「確かに」


 シオンの話を聞いて、ステラとエレオノーラが同意した。シオンの言う通り、ガリアにとってここは資源のフルコースである。にも関わらず、ここにはガリア兵の姿を一人も見ない。

 そんな不自然さに若干の気味の悪さを感じた時――


「崩落だ!」


 不意に、遠くから聞こえた轟音と共に、一人のライカンスロープが走ってきた。どうやら、坑道の崩落が起きたようである。

 辺りは一時騒然となり、周囲の住民たちが一斉にその現場へと急行した。しかし、


「何番だ!?」

「ん? 八番だよ。だからそんな慌てなくていいってよ」

「なんだよ。だったらいちいちそんな大声上げるなって」


 崩落した坑道の番号を聞いた瞬間、住民たちは肩透かしを食らったように大人しくなった。

 これまた異様な光景に、ステラたち三人は顔を見合わせて怪訝な顔になる。

 何があったのかと、ステラは偶然通りかかったライカンスロープの炭鉱夫に、声をかけることにした。


「あのー、すみません」

「ん、なんだい?」

「坑道が崩落したのに、何で急に皆落ち着いたんですか?」


 ステラの率直な疑問に、炭鉱夫は肩を竦めて力なく笑った。


「ああ、崩落した坑道で働いていたのはガリア兵だからな」


 思いがけない言葉に、ステラたちは目を見開いた。


「が、ガリア兵?」


 その反応に、炭鉱夫はステラたちが街の人間ではないと気付いたようだ。


「アンタら、外の人か。なら、知らないのも無理ないな。この街では、捕虜にしたガリア兵を働かせているんだ」

「捕虜? ガリア兵と交戦したのか?」


 シオンが訊くと、炭鉱夫はどこか誇らしげに頷いた。


「ああ。もう一年くらい前の話だけどな。あいつら、この街が山で囲まれた天然の城塞ってことを舐めていたらしくてね。大した兵器を持ち込むこともできず、歩兵だけで構成した部隊でこの街に攻め込んできたんだ。でも、ここに住んでいるのは俺みたいなライカンスロープの炭鉱夫が多いだろ? そんじょそこらの軍人なんか、つるはし一本で倒せるさ」

「それで、戦いに勝って、生き残ったガリア兵を捕虜にしていると」

「そうさ。だが、侵略者にただ飯食わせるほど俺たちも聖人じゃない。自分たちのやったことをわからせる意味合いも込めて、危険な坑道の採掘作業をやらせてるんだ」

「なるほど。話してくれてありがとう」

「いやいや。ゆっくりしていってくれ」


 シオンがすぐに話を切り上げたのは、隣のステラが前に出て何か言おうとしたためだ。ステラは思わず、ガリア兵の扱いについて物言いをしそうになったのだ。

 炭鉱夫が離れてから、シオンがステラを見遣った。


「彼らの境遇と心情を考えれば、そうすることもわからなくない。お前の言いたいこともわかるが、この街の現状について不用意に道徳や人道を説くようなことは言わない方がいい」

「……わかりました」


 ステラは、納得できていないことを殊更に表情に出したまま、視線を落とした。

 確かに、ガリア兵のことは許せない。だが、炭鉱夫たちのやっていることを認めてしまっては、結局は自分もガリア公国と同じなのではと思ってしまったのだ。

 ゆえに、どうにもすっきりとしない気分ではあったのだが、


「やられたらやり返す――そう思うのは、素直な感情からくるものだと思うけどね。この国の状況が状況だし、今はあんまり深く考えない方がいいと思うよ」


 そのエレオノーラの助言もまた、理解できた。

 一人で難しい顔になって黙るステラを見たシオンとエレオノーラが、互いに目を合わせ、小さく肩を竦める。


「ひとまず、休める場所を探そう。この街の現状を調べるのは、一息ついてからだ」


 そう言ってシオンが歩き出し、ステラは無言でその後ろについた。







「ここも駄目」


 宿から出たエレオノーラが、げんなりした顔で首を横に振った。ここで五件の宿に宿泊を断られたことになる。朝日はすでに山頂よりも高い位置に顔を出しており、このペースだと昼までに休むことができなさそうだ。

 シオンは、やや諦めた様子で腕を組む。


「街全体の生活リズムが早朝を軸にしているから期待したんだが、さすがにこんな朝っぱらから人を入れる宿屋はなかったか。ステラ、お前は疲れていないか?」


 そう言って、シオンはステラの方を振り返った。だが、ステラは彼に背を向ける形で、少し離れたところに立っていた。怪訝に思ったシオンとエレオノーラが、その傍らに近づく。


「何かあったのか?」

「え? あ、いえ」


 話しかけられたことに驚いた反応を見せながら、ステラは否定した。シオンとエレオノーラはそれを言葉通りに受け止めず、少女の視線の先を追う。

 そこには、三人のガリア兵が、裸足を鎖で繋がれたまま、ライカンスロープによって坑道へと案内されている姿が映っていた。

 亜人の奴隷化が今なお合法であるガリア公国の兵士たちが、こうしてその亜人から奴隷同然の扱いを受けていることは、さぞ屈辱に思っていることだろう。だが、当のガリア兵たちは、怒りや恥辱を表現する気力すら失っているのか、その顔から一切の生気を消して、まるで亡者のようにライカンスロープたちからの怒号を黙って受け入れていた。


「これじゃあ、何も変わらない……」


 ステラが顔を顰めながら呟いた。シオンがそれを隣で見ていると、


「あ、ど、どうしました?」


 意識を呼び戻したように、彼女はハッとした。

 シオンは、ガリア兵たちの方を再度見遣る。


「……間違っていると思うか?」


 その問いかけに、ステラはきょとんとした顔になった。


「やられたらやり返す――そう思うことは、お前にとっては不自然か?」


 再度、シオンに訊かれて、ステラは顔を俯けた。


「間違っているとは、思わないです。私だって、嫌なことをされたら、やり返したくなることはあります。それが命の駆け引きだったら、なおのことだと思いますし……」


 そう言ったステラの視線は、まるで蟻の行進を追うようにして泳いでいた。


「でも、それでも――それと同じくらいに、不快感も生まれてきます。やられたからって、相手に同じことをしてもいいということには、ならない、と思います……」


 最後の方は、自信が抜けていくように尻すぼみな声だった。

 シオンは、軽く目を伏せ、同意するとも、否定するとも言えない表情になる。


「余計なことを訊いたな。悪い、忘れてくれ」


 それだけを伝えて、踵を返す。シオンのそれは、まるで、誤魔化すような、逃げるような足取りだった。

 ステラがそれを不思議そうな顔で見ながら、静かにその後を追う。

 一歩遅れてエレオノーラも後ろを追いかけ――少しだけ早足になって、シオンの傍らに付いた。


「アンタって、そんなに気を遣うタイプだったっけ?」

「何の話だ?」


 シオンが前を向いたまま訊き返すと、エレオノーラは肩を竦めた。


「別に。ステラには妙に優しいなって思って」

「どういう意味だ?」

「気にしないで。ただ何となく、そう思っただけだから」


 シオンが若干不機嫌そうになったタイミングで、エレオノーラは話を終わらせた。

 そんな時だった。


「またてめぇか!」


 野太い怒号が響き渡った。自身が叱られているわけでもないのに、咄嗟にステラが身を縮こまらせる。


 怒号の発生源には、ガタイのいいライカンスロープの炭鉱夫が一人と、若いガリア兵の男がいた。

 若いガリア兵は、ぼろぼろの状態で蹲っていた。その近くには、手押しの運搬台車が横向きに倒れ、そこから零れた大量の砂が広がっている。どうやら、運搬作業中に倒れこんでしまったようだ。

 若いガリア兵は、息も絶え絶えといった様子で、地面から体を引き剥がそうとしていた。

 それを、ライカンスロープの炭鉱夫が苛立った顔で見下す。


「オラッ、さっさと立てや! ガリア軍は根性なしばかりなのか!? ああ!?」

「……獣の鳴き声がうるせえな」


 若いガリア兵の弱々しい悪態に、炭鉱夫はいよいよ怒りで激しく顔を歪めた。


「“バニラ”が吠えるじゃねえか! いい度胸だ! 泣く子も黙るガリア兵様の根性、ここで見せてみろや!」


 丸太のように発達した炭鉱夫の足が、若いガリア兵のみぞおちに勢いよく吸い込まれた。

 ガリア兵の身体は蹴りの衝撃で地面から大きく浮き上がり、音を立てて再度地面に突っ伏す。だが、その矢先に、また炭鉱夫が蹴り上げた。

 そんな光景に、いつの間に集まったのか、周りのライカンスロープたちが囃し立てるように歓声を上げる。


「どうした、さっさと立ち上がれよ! オラぁ!」


 そのひと蹴りで、ガリア兵の身体は大きく吹き飛んだ。

 ガリア兵は生々しい音を立てて地面に全身を打ち付けた。しかし、それでも必死に立ち上がろうとした。まさしく、生まれたての小鹿と形容するしかないその有様に、周りのライカンスロープはさらに沸いた。


「見ろよ! こいつ、人間の振りした小鹿ちゃんじゃないのか? これじゃあどっちが獣かわかりゃしねえ!」


 炭鉱夫の皮肉に、ドッと笑い声が起こる。

 それを見ていたシオンたち三人――シオンは、その光景をただただ真正面から見据えていた。エレオノーラも、特に珍しいことではないと、無表情で眺めている。ステラだけが、いたたまれないように、視線を外して、唇を噛み締めていた。


 炭鉱夫が、ガリア兵の首根っこを片手で掴み上げる。


「てめぇはもう用済みだよ。せめて最期は豚の餌にでもなって役に立てや」


 炭鉱夫は力任せにガリア兵を近くの家畜小屋へと投げ入れた。中にいた豚たちが驚いてその場を離れ、そこにガリア兵は頭から突っ込んだ。周囲に、糞尿で湿った藁が勢いよく飛び散る。


「仕事に戻ろうぜ!」


 炭鉱夫が号令を上げると、住民たちは続々とそれきり興味を失って各々の仕事に戻っていった。


 そして、豚小屋の周囲から人気がなくなった時、ステラが駆け出そうとする。

 だが、


「待て。お前、何するつもりだ?」


 シオンが彼女の肩を押さえる。

 ステラは驚いた顔で彼に振り返った。


「何って、あの人、手当てしないと」

「それを何でお前が助ける? あいつはガリア兵だ。お前の敵だぞ」

「だからって――」

「一時の感情に流されるな。今までだってガリア兵が死ぬ瞬間を何度も見てきただろ」

「でも――」


 そこまで言いかけて、ステラはその先を飲み込んだ。シオンの言わんとしていることを無言で理解し、頭を冷やしたように、大人しくなる。


「……すみません。また、無責任なことしようとしました」

「お前が優先するべきことは他にある。誰がどこで何を見ているかわからない状況だ。今ここで、不用意に目立つようなことはしない方がいい」

「はい……」


 ステラが頷いて、シオンは安堵の息を吐いた。

 そんな時、不意にエレオノーラが、シオンの肩を叩く。


「なんだ?」

「何か、ステラと同じこと考えている子がいるみたいだけど」


 エレオノーラが指差した先には、家畜小屋で虫の息になっているガリア兵に、誰かが駆け寄っている姿があった。

 粗末な作業用のワンピースを着た、ステラと同年代くらいの少女――その娘もまた、ライカンスロープだった。頭頂部の左右からキツネを彷彿とさせる耳を携え、髪と同じ栗色の尻尾をスカート部分の裾から覗かせている。

 ライカンスロープの少女は、ガリア兵に駆け寄ると、片方の肩を担いで、急いでどこかへ運ぼうとしていた。


 そして、


「シオンさん、ごめんなさい」


 ステラがそれに加わり、ガリア兵のもう片方の肩を担いだ。


 シオンとエレオノーラは当然として、ライカンスロープの少女も驚いた顔になる。

 だが、少女はステラに何かを訊くこともなく、黙ってその協力を受け入れた。

 シオンとエレオノーラは、揃って溜め息を吐き、眉間を手で押さえる。


「面倒なことにならないといいけど」


 エレオノーラのその希望が叶うことはないと言いたげに、シオンは渋い顔になった。







 死にかけのガリア兵を、ステラは、見ず知らずのライカンスロープの少女と一緒になって運んだ。周りから奇異な目で見られていることなど意にも介さず、二人は淡々とガリア兵を担いで歩みを進めた。そのすぐ後ろには、呆れた顔で見守るシオンとエレオノーラがついている。


 ライカンスロープの少女の案内で辿り着いたのは、街の中央から少し外れた場所にあった、穴倉の住居だ。岩壁を削り取った家で、お世辞にも人が住む場所とは思えないほどに粗雑な造りだった。

 ライカンスロープの少女は、その家の入口と思しき隙間だらけの木製の扉を開ける。


「オーケンさん! すみません、お願いします!」


 少女の声色は緊迫していたが、妙にこなれた雰囲気もあった。

 穴倉の中は薄暗く、頼りになるのは壁に立てかけられたランタンの灯りだけだった。

 そんな曖昧な光の境界の最中から、少女の叫びから少し遅れて、ぬるっと小柄な人影が現れる。


「またか。ノラ、今月で何度目だ?」


 そう言ったのは、老いた風貌をした小人だった。身長は一二〇センチほどしかない。しかし、恰幅は非常によく、老人のような風貌の割には筋骨隆々としていた。革の作業用エプロンは酷く汚れており、つなぎの作業着も糸のほつれが目立っている。


「ドワーフ!?」


 ステラが、思わずといった様子で声を上げた。

 オーケンと呼ばれたドワーフは、その太い眉をぴくりと動かして、顔を少しだけ顰める。


「今日は客人付きか。しかも人間が三人も来るとはな」


 その言葉に、ライカンスロープの少女――ノラが、どう対応したらいいか、困惑して言葉を詰まらせる。

 そんな彼女に助け舟を渡すように、


「わ、私たちは偶然この街に立ち寄ったんです!」


 ステラが声を張った。

 じろりと、オーケンはステラたち三人を見遣る。少しだけ空気が張り詰めるが、オーケンはすぐに顎をしゃくった。


「まずはそのポンコツガリア兵をいつもの場所に寝かせろ。その後はすぐに体を拭いてやれ、酷い臭いだ。家畜小屋の中にでも突っ込まれたのか?」

「ありがとうございます」


 ノラはそれだけ言い残して、オーケンの指示した部屋へガリア兵を運び入れた。ステラも連れられて、一緒に部屋に入る。


 シオンとエレオノーラが、ぽつんと家の玄関口に取り残される形になった。

 そこへ、


「家に入るならさっさと入って扉閉めてくれ。あまり日の光は好きじゃないんだ、わしらドワーフは」


 オーケンが文句を投げる。

 二人はすぐに家の中に一歩足を踏み入れ、扉を閉めた。


「すまない、いきなり押し掛けるような形になった。あの怪我人を置いたらすぐにここから出ていく」


 シオンが言うと、オーケンは怪訝に眉を顰める。


「お前さんたち、連れの娘が言った通り、この街の人間じゃないな? だからといって、旅行客という感じでもなさそうだ」

「この街には偶然立ち寄った。すぐにでもこの街を出発したいんだが、駅から暫く汽車が出な――」

「暇つぶしに人助けか? 酔狂な奴らだ」


 オーケンが遮るように言って、話を終わらせた。シオンとエレオノーラは顔を見合わせて小首を傾げたあと、再度、目の前の気難しそうなドワーフに向き直る。


「そんないきなり不機嫌にならないでよ。アタシらも急に押し掛けて悪いとは思ってるけど、うちの姫様が――」

「別に気にしていない。ここに厄介ごとが持ち込まれるのは、いつものことだ」


 そう言ったオーケンの表情は、誰の目から見ても本心と思わせるほどに、達観していた。

 そうこうしている内に、ステラが部屋から戻ってきた。一仕事終えたといった様子で、とてもいい汗を流している。


「シオンさん、エレオノーラさん、お待たせしました。我儘に付き合わせてしまってすみま――」

「クサっ! ステラ、アンタ、うんこ臭い!」

「し、失礼なこと言わないでくだ――うわ、ほんとだ! 臭い!」


 豚の糞尿塗れだったガリア兵に触れていたのだから当然だろうと、シオンが遠目で見ながら鼻をつまんでいた。

 そんなやり取りを三人でしていると、オーケンが険しい顔で、


「うちからそんな小汚い恰好をした人間の娘が出てきたと知られたら、変に誤解される。こんな穴倉でよければシャワールームがあるから、適当に浴びてこい」


 そう言ってくれた。

 ステラの表情が、途端に明るくなる。


「ありがとうございます! シオンさん、エレオノーラさん、ちょっと待っててください!」


 意気揚々として、ステラは駆け出した。思えば、ガリア公国のルベルトワを出てから今までの約一週間、まともに体を洗っていなかったなと、シオンとエレオノーラは同時に気付いた。

 それが顔に出ていたのか、オーケンがさらに呆れの深い溜め息を吐く。


「休みたいのなら好きにするといい。どうせここには誰も近寄らない。無駄に広いこの家の設備、好きに使え」


 当面の憩いの場が決まった喜びの一方で、シオンとエレオノーラは少しだけバツが悪そうに頭を軽く下げた。







「ステラが上がったら、次、アタシがシャワー浴びるけど、いいよね?」


 オーケンに案内された部屋には、丸い窓が一つと、小さなベッドが一つ置かれているだけだった。人が住まうにはいささか粗末な造りであったが、無料で休めることを考えれば、文句は言えないといった感じだ。

 そんな部屋の中で――エレオノーラが二つ縛りの髪を解きながらシオンに振り返る。シオンは、丸い窓から街の景色を興味深げに眺めていた。


「何でそんなおセンチな顔してんの?」


 エレオノーラが揶揄うと、シオンは冷めた視線を返して、ベッドに腰を掛けた。


「何も思うことはない」

「そんな風にはあまり見えないけど」


 少しだけ厭らしい笑みを浮かばせて、エレオノーラはシオンの隣に座る。


「まあ、アンタが何考えてるかなんて、どうでもいいんだけどね」


 肩を竦めて、何かを試すような口調でエレオノーラが言った。対するシオンは、彼女以上に、興味も関心もなさそうな顔をしていた。疲れているのか、それともこれから先のことを考えているのか――いずれにせよ、シオンの赤い双眸には、今この粗末な部屋の中は映っておらず、どこか別のものを見ているような雰囲気があった。


「でも、当ててみようか?」


 唐突なエレオノーラの提案に、シオンが意識を呼び戻したかのように彼女の方を見遣る。


「ステラのこと考えてたんじゃない?」

「違う」

「あら」


 しかし、いつもの無表情で、あっさりとシオンは否定した。


「じゃあ、そんな真面目な顔して何考えてたの?」

「別に何も」

「嘘つけ」


 エレオノーラは上半身を後ろに倒し、ベッドの上に仰向けになった。


「さっきのステラとのやり取りで、色々考えちゃったんじゃないの? 詳しいことはあえて訊いてないけど、アンタ、この旅で教会に復讐するつもりでしょ? 騎士団分裂戦争に負けた腹いせにさ。立場も権力も奪われたうえ、黒騎士なんて騎士にとって不名誉極まりない称号を与えられたんだもんね。やられたからやり返す――これを遠回しにステラに否定されて、迷っちゃった?」

「それはない」

「そう? アンタって何考えてるかわかんないくらいに表情が全然変わらないと思ったけど、よく見ると眉間とか目つきでちゃんと人並みに感情表現してるよね。さっきアンタとステラが話してた時、少しだけ寂しそうな顔してたから」

「よく見てるな」

「それほどでも」


 エレオノーラは冗談めかして得意げに言って、微笑する。その後で、勢いよく上体を起こした。


「まあ、それはそれとして――」


 不意に、エレオノーラがシオンの背中に手を伸ばしてきた。


「そろそろ、アタシの目的も果たさせてほしいんだけど」


 無駄に艶っぽく指を立てて、エレオノーラはシオンの背中をなぞる。そんな彼女を、シオンは胡散臭そうな目で見遣った。


「何だ、その手つき?」

「ノリ悪いなー。くすぐられて面白い反応すると思ったのに」

「“騎士の聖痕”を見たいなら、そう言え」

「はいはい。じゃあ早速、背中見せてもらえますかねー。ステラがシャワーから帰ってくるまで、軽く調べちゃお」


 シオンはジャケットとインナーをさっさと脱ぎ、上裸の状態になった。


「どうすればいい?」

「ベッドにうつ伏せになって」


 続けて、その指示通り、ベッドにうつ伏せになった。そして、エレオノーラがその上に腰を下ろす。ちょうどシオンの臀部を跨ぐような体勢になった。

 それからエレオノーラは、シオンの背中の印章を指で徐になぞった。


「……本当に黒騎士なんだね」


 “騎士の聖痕”に重ねられた“悪魔の烙印”を見て、エレオノーラはぼそりと呟いた。それまで話に聞いてはいたものの、いざそれを証明するものを目の当たりにし、改めて衝撃を受けての反応だった。


「ああ。でもまさか、教会魔術師にこうしてまじまじと観察されることになるとは思わなかった」


 シオンの言葉に、エレオノーラが同調するように笑った。


「それはアタシもだよ。まさか“騎士の聖痕”を調べるのに、“悪魔の烙印”付きの黒騎士の背中を見ることになるなんてね。今まで色んな印章を調べたり勉強したりしたけど、こんなレアもの目の当たりにしちゃうと、さすがにちょっと興奮してきたかな」


 そう言って、エレオノーラはシオンの背中を愛おしそうに両手で撫でまわした。シオンの顔が、若干、不快に歪められた。


「おい、何だその手つき。さすがに少し気持ち悪――」


 そのタイミングで、ガチャリ、と部屋の扉が開けられた。続いて、タオルを首にかけたステラが、濡れた髪を拭きながら入ってくる。


「シャワーお先に頂きましたー。いやー、久しぶりに浴びると、心身ともに生き返った感じが――」


 と、言ったところで、ステラは固まった。

 ステラの目には、ベッドで横たわる男女が映っている。上半身裸のシオンに馬乗りになって跨るエレオノーラ――何も知らない人間が見れば、“そうした行為”が今まさに始まろうとしている場面に思うだろう。

 それに気付いたシオンとエレオノーラが、揃って、あ、と間抜けな声を上げた。

 しかし、


「す、すみませんでした! わ、私、おおお、お二人がそんなことになっているとは――」

「いや、違う!」「待って、これは違うの!」


 ステラが顔を真っ赤にしながら、慌てて部屋から出ていった。

 同時に否定するも、逆に“それ”を認めてしまっているような雰囲気になってしまい、シオンとエレオノーラは何とも言えない顔になって硬直した。


「……後でちゃんと釈明しよう」

「……うん」







 オーケンの家の中央部分はダイニングになっていた。この家の中で一番広い部屋だとオーケンは言っていたが、人間であるステラたちから見てはあまりそうだと思えず、それはドワーフ基準の話なのかもしれない。人間の成人が五人も入れば窮屈と感じるほどの広さしかないのだ。天井も低く、長身のシオンがぎりぎり頭頂部を擦りつけないでいられるくらいの高さしかない。

 しかし、何の見返りも求められずタダで休憩させてもらっている身としては、間違っても不平不満などは言えなかった。


 ステラは、ダイニングの長テーブルに着席し、正面に座るシオンを白い目で見遣った。


「驚かさないでください。私、てっきりシオンさんとエレオノーラさんがいつの間にか“そういう関係”になったのかと邪推しちゃいましたよ。今日からどんな顔してお二人と話せばいいか、さっきまで真剣に考えちゃいました」

「エレオノーラの目的はお前も知っていただろう。確かに、いきなりあんな光景見たら勘違いするのも無理はないが」

「まあ、変な過ちさえ犯さなければなんだっていいですけど。ただ、いい年した男女なんですから、風紀と節操のある振る舞いを心がけてくださいね」

「だから――いや、もういい。俺だけ言われるのも癪だ。後で同じこと、エレオノーラにも言ってくれ」

「当然です」


 ステラは、ふんすっ、と鼻息を荒げて同意した。

 エレオノーラは今シャワーを浴びている最中なのでこの場にはいなかったが、念のため後で釘を刺しておくべきだろうと、ステラは意気込んだ。


 そんなステラの隣で、不意にシオンが、彼女の服を見ながら小首を傾げた。


「ところで、お前、その服はどうした?」


 ステラの恰好は、今まで来ていた動きやすそうな革の軽装ではなく、作業用のワンピースだった。ノラというライカンスロープの少女が着ていた服の色違いである。


「これですか? 私の服、酷く汚れていたので洗濯してもらうことになりました。乾くまでこれ着てくださいってノラさんが。あ、ノラさんっていうのはさっきのライカンスロープの女の子です」

「エレオノーラに魔術で汚れ飛ばしてもらえばすぐだろ。いつまでその恰好でいるつもりだ?」

「い、いいじゃないですか、たまにはこういう服着たって。私だって女なんです。お洒落したいんです」

「お洒落って……それ、作業用のワンピースじゃ――」

「いいんです! 久しぶりにスカート履きたかったんです!」


 シオンが今一つ理解できないと顔を顰めたが、ステラは頬を膨らませてそっぽを向いた。

 そんなやり取りをしていると、ダイニングにオーケンがやってきた。工務用のエプロンを外したあとで、ドカッ、と長テーブルの椅子に腰を下ろす。


「ようやく仕事が一区切りついた。今更になるが、まずは自己紹介をしておこうか。見ての通り、わしはこの街で鉱石加工を営んでいるドワーフだ。名前はオーケン、歳は見た目通りで六十歳ほどだ。わしらドワーフは人間でいうところの老年期が早く来る上に長いからな。年齢を言わないと話が噛み合わないことがあるが、わしに限っては大丈夫だ。見た目通りのジジイを相手にしていると思って構わん」


 オーケンはそう言って、パイプに火を点けた。白い髭を煩わしそうにかき分けながら、ゆっくりと煙を吹かす。


「で、お宅らはいったい何者だ? 休ませてやってるんだ、素性くらい話してもらわんとな」


 ステラがシオンを見て、どう答えるべきかを目で訴えた。シオンは同じく視線で頷いて、口を開く。


「俺たちは――」

「最初に言っておくが、余計な嘘はつかないでもらえるか。お前たち三人とも、一般人というわけではないだろ。黒髪の兄さんからは教会の狗たちと同じ臭いがするし、赤毛の娘さんからは王族の臭いがする。今ここにいないもう一人の娘さんからは強い魔術の臭いがした」


 すかさず、オーケンが釘を刺すように言った。ステラが驚き、思わず息を呑む。


「に、臭いっていうのは――」

「わしらドワーフは鼻が利く。昔嗅いだことがある臭いは根強く記憶される。こうして臭いの強い煙草で時々鼻を誤魔化さないと落ち着かないくらいにな」


 オーケンはパイプを吹かし、再度、ステラたちを見遣った。


「厄介ごとを持ち込まれるのには慣れているが、余計な地雷をわざわざ踏みたくない。正直に話してもらおう」


 シオンとステラは無言で軽く顔を見合わせる。

 二人は、間もなくして、他言無用を条件に、オーケンに自分たちの素性を話し始めた。ステラが王女であること、シオンが黒騎士であることを主軸に、これまでの経緯をできるだけ簡潔に伝える。

 二人が一通り話し終えたところで、それまで黙って聞いていたオーケンがパイプの葉を取り変えた。それからまた火を点け、大きく吹かす。


「……話だけを聞くとにわかには信じられないが、お宅らの臭いを嗅いだ限りでは本当のことなんだろう。この国の主権を取り戻すために王女様が王都へ向かっている、か。なかなかにご苦労なことだな」

「この話は亜人であるオーケンさんにとっても悪い話ではないと思います。このままガリア公国にこの国が支配され続ければ、亜人たちは奴隷として扱われるはずです」

「そうだな。それは間違いないだろう。この街の亜人たちに話してやれば、喜んでお宅らを支持するだろうな」

「本当ですか!?」


 ステラは思わず明るい声を出した。だが、その一方で、オーケンはどこか物悲しそうな顔をしていた。ステラが女王になり、ログレス王国が再度大国としての威厳を取り戻すことができれば、亜人にも大きな恩恵が与えられるはずだというのに――オーケンがあまり嬉しそうではないことに、ステラは首を傾げた。

 そんな時、不意にシオンが、


「俺からも質問させてほしい。この家、やけに部屋数が多いが、住んでいるのはアンタだけなのか? 街に入ってからライカンスロープはよく見たが、他にドワーフはいないのか?」


 オーケンにそう訊いた。

 オーケンは少しだけ渋い顔になり、パイプを吹かす。


「この街のドワーフは、もうわししかおらんよ。他の奴らは全員どこかに行っちまった」

「何故? それに、ドワーフがいなくなって、製鋼や鉱石加工ができるのか?」

「商売の話なら心配無用だ。今は機械技術が発達している。ドワーフが扱ったものより質は落ちるが、売り物にできる程度の金属はライカンスロープたちだけでも精製できている」

「ドワーフがいなくなったのはそれが原因か? 機械のせいで自分たちの技術が不要になったと――」

「まあ、そう考える奴も中にはいたが、それが決定打になったわけじゃない」


 シオンとステラは、ますます怪訝な顔になった。


「じゃあ、いったい何が?」

「理由は大きく二つある。一つは、ガリア兵がここに攻め込んできたことだ。血の気の多いライカンスロープたちが一度追い払ったものの、またいつやってくるかわからない。ドワーフは体が小さいせいか、極端に争いごとを嫌う習性がある。今のうちに安全な場所を探して、そこで新しい生活を始めることを選んだ奴も少なくない」


 納得できる理由に、ステラは大きく何度も頷いた。一方で、シオンは腕を組み直し、表情をさらに険しくした。


「もう一つの理由は?」

「お宅らも関わった件さ。捕虜のガリア兵の扱いを見たんだろう? あれを見て、ライカンスロープに嫌気がさした奴が大勢いてな。捕虜にするまではよかったんだが、捕虜を使って敢えて危険な仕事をさせたり、見世物にするのに同胞たちは強い嫌悪感を示していた。ライカンスロープたちの言い分としては、ガリア人も亜人を奴隷にしているから許される行為だと言っていたが、日に日にエスカレートしていく行為にいよいよ耐えきれなくなったようだ。ドワーフは争いを好まない、平和主義者が多いからな」

「ドワーフとライカンスロープとで仲違いしたのか?」

「そこまで大袈裟な話じゃないが、夜逃げするように同胞たちはこの街から出ていったよ。初めこそライカンスロープたちは悪態をついていたが、ドワーフたちの仕事の大部分が機械で代替できるとわかった今となっては、そんなことがあったことすら忘れているように振舞っている」

「なるほど」


 オーケンの話にシオンは納得した。


「ステラの話を聞いてアンタがあまり芳しい反応をしなかったのはそれが原因か。ステラの存在を知れば、ライカンスロープたちはさらに息巻いて捕虜のガリア兵たちに酷い扱いをしかねない。アンタはそれを危惧しているんだな?」

「平たく言えば、そういうことだ。わしもその平和主義者のドワーフだ。ガリア兵はわしらを虐げる立場の人間とはいえ、無駄に嬲られて死ぬ姿を見るのは気分のいいものじゃない」


 それを聞いて、ステラはハッとした。


「ガリア兵の捕虜がここに運ばれるのも、それが理由ですか? 放って置いたら、そのまま死んでしまうから……」

「いつどこで死んでもおかしくない軍人、まして敵の命を救おうとするのは愚かだと思うかね? まあ、今まさにその敵に追われている立場のお嬢さんからしてみれば、理解し難い行為かもしれんな」

「そ、そんなことないです!」


 ステラが椅子から立ち上がって、声を張り上げた。その姿に、オーケンは目を丸くさせる。


「確かに、ガリア兵は怖いし、憎いです。ここに来るまでに、エルフが酷い目に遭っているところも見ました。それを許すつもりもありませんし、ましてこのままこの国を好き勝手にさせたくないです。でも、それでも、それとこれとは、違う気がします……」


 最後の方の声量は自信なさげに小さくなったが、それでも、オーケンはステラのその言葉に一定の理解を示したようだった。髭で覆われた口の端を微かに歪めて、どことなく嬉しそうな面持ちになる。


「被害者は免罪符をぶら下げた暴徒であってはいけない、ということか」


 それから、オーケンはパイプを手に立ち上がった。


「お嬢さんがこの国の王様になるのなら、個人的には大いに支持しよう。だが、今言ったような考えをよしとしない連中は国内に大勢いるはずだ。女王になったお嬢さんがどこまでそんな奴らを説得させることができるか、これから楽しみだな。もちろん、今のは皮肉でも何でもない、わしの本心だ」


 オーケンはそのままダイニングの扉の方へと向かった。


「だが、この街では不用意にその考えを表に出さない方がいい。無駄に目を付けられれば、わしやノラのように生き辛くなるだけだ」

「あの、どちらに?」

「ノラと、ガリア兵の様子を見てくる。いつも通りなら、そろそろ騒がしくなる頃だ」


 これからまた一仕事を始める、といった様子で、オーケンは腰を軽く叩いた。

 ステラは、これから何が起こるのかを尋ねるようにしてシオンを見遣るが、彼もまた軽く肩を竦めるだけだった。







 ステラとシオンがオーケンの後に続いて入った部屋には、件のライカンスロープの少女――ノラと、捕虜のガリア兵がいた。ガリア兵はベッドの上で仰向けに寝ていたが、


「気色の悪い亜人が、俺に触れるな!」


 看病するノラに対して、酷い悪態をついていた。だが、ノラは慣れた様子でガリア兵の治療を続ける。


「まだ骨折も治ってないじゃない。大人しくしてて」


 ノラが淡々として言うと、ガリア兵は観念したように動きを止めた。クソ、と短く吐き捨て、天井を仰ぐ。

 そこへオーケンが近づいた。


「今日も手ひどくやられたな。挑発するのを止めたら少しはマシになるだろうに」


 嘆くように言ったが、ガリア兵は舌打ちをして顔をそむけた。


「ドワーフに説教される筋合いはない」

「なら怪我するのを止めてもらえるか? いつまでここに通い詰める気だ?」

「そこのライカンスロープの女が頼んでもいないのにいつも運ぶだけだ! 俺が言っているわけじゃない!」

「なら、ノラに一言礼を言ってやれ。お前さんが今こうして生きていられるのは、この子のおかげだ」

「恩着せがましい亜人が――痛っ!」


 ガリア兵は、再度悪態をつこうしたが、痛みで顔を歪めた。

 見ると、ノラが彼の折れた腕に新しい添え木を巻き付けていたところだった。


「勝手に治療されたくなかったら、もう無駄に怪我をしないで。貴方が何と言おうと、私は怪我人を放っておかないから」

「……それを言うなら、この街の連中に言えよ。今日は怪我をする間もなく、坑道の崩落に巻き込まれて死んだ奴が二人いるんだぞ」


 ぼそりと、明確な不満を声色に孕んでガリア兵は呟いた。ノラは一瞬、包帯を巻く手を止めたが、すぐにまた再開する。


「貴方たち捕虜の扱いを改善できないか、また聞いてみる。だからもう、無茶なことはしないで」


 ガリア兵は無言のままだった。

 一連のやり取りを見ていたステラが、不意にシオンに耳打ちをする。


「何だか、色々と複雑そうですね。今回、初めてここにガリア兵が運ばれたってわけでもなさそうですし……」


 シオンもそれに無言で同意して、少しだけ面倒くさそうな顔になった。


「この国の情勢を鑑みれば、こうしたことが起きても不思議じゃない」


 そんな時だった。

 玄関の方から、何やら荒々しい物音が聞こえた。扉を乱暴に開ける音、それから、数人の靴音だ。

 勢いよく、部屋の扉が開かれる。


「邪魔するぜ」


 入ってきたのは、ライカンスロープの男三人だった。厚手のオーバーオールを見る限り、彼らもまた炭鉱夫なのだろう。それにしてはガラが悪いと、ステラは思ったが、そんなことは口には出せず、大人しくシオンの背中にさっさと隠れた。


 男たちを見たノラとオーケンの表情が、一気に険しくなる。


「毎度毎度ご苦労なこったな。まあ、お前らのおかげで、こうしてこいつらをまたこき使えるってもんだ。初めは何でガリア兵を治療するんだと苛立ったもんだが、今では体のいい労働力の確保に感謝してるぜ」

「何をしに来たんですか?」


 ノラが眉を吊り上げると、炭鉱夫はなれなれしく彼女の肩に手を回した。


「そんな邪険にするなよ。ノラ、お前はもう充分によくやったよ。こんな穴倉で病院まがいのことなんかしてねえでよ、また看護師としてちゃんと働けや」


 そう言われたノラは、勢いよく炭鉱夫の腕を払った。


「貴方たちが捕虜を無駄に痛めつけなければ済む話です。そうすれば、私だって病院で正規の看護師として働き続けていました」


 ノラの回答に、炭鉱夫たちがゲラゲラと笑い始める。


「相変わらず勇ましいこと言うじゃねえか。俺も怪我して、体の隅々まで面倒見てもらいてえな。優しくしてくれよ?」


 それを横目で見ていたガリア兵が、軽く鼻を鳴らした。


「盛るなら人のいないところでやれよ、獣が。見苦しいんだよ」


 途端、炭鉱夫たちの目つきが急変した。文字通り、血肉に飢えた肉食獣のような双眸がガリア兵に向けられる。


「瀕死の“バニラ”が随分と元気になっているな。よほど、ノラにいい看病をしてもらったらしい」

「てめぇが期待しているようなことは何一つされていないけどな。下の世話されたかったら、母ちゃんのいる実家に帰りな、犬っころ」


 炭鉱夫が近くの家具を蹴り飛ばした。人間、エルフ、ドワーフ、ライカンスロープ――大陸に住まう四種族のうち、もっとも膂力が強いとされるライカンスロープの蹴りは、吹き飛ばした家具を原型なく粉砕した。


「てめぇを引き取りに来たが、気が変わった。今ここで息の根止めてやるよ」


 全身から殺意を放って、ベッドで横になるガリア兵に近づく炭鉱夫。それをノラが止めようとした。


「待ってください! お互いに煽り合った末に殺しなんてやめてください!」

「うるせえ!」


 炭鉱夫がノラの腕を振り払うと、彼女の身体は勢いよく部屋の壁に叩きつけられた。ガリア兵が、思わずといった様子で上体を起こす。


「おい、てめぇ! 同じライカンスロープだろ! 何しやが――」


 そう言いかけたところで、ガリア兵は、炭鉱夫に首を鷲掴みにされて持ち上げられた。


「こっちがちょっと優しくしたらつけ上がりやがって。これだから“バニラ”は気に食わねえんだ。中途半端に生きているから、ノラがいつまでたってもてめぇらみてえなカスを相手にしなきゃならねえ。だったら、いっそここで殺しちまった方が色々と手っ取り早く話が進む」


 炭鉱夫の腕に、太い青筋が浮かび上がる。それに呼応するようにして、ガリア兵から苦悶の声が上がった。


「いい声出すじゃねえか、“バニラ”のガリア兵が」

「やめて! それ以上やったら本当に死んじゃう!」


 ノラが嘆願するが、炭鉱夫は聞く耳を持たない。

 熊の筋力とタメを張れるほどの力が、ガリア兵の首に徐々にかけられていく。

 そして――


「その辺にしろ。ここは戦場でも何でもない。ただの殺人犯になるつもりか」


 シオンが、ガリア兵の首を絞める炭鉱夫の手首を掴んだ。


「シオンさん……」


 ステラが、ほっとした声を上げる。

 一触即発の空気が流れるが、炭鉱夫はすぐに嘲るような笑みを浮かばせた。


「“バニラ”が何の真似だ? てめぇもガリア兵か?」

「違う。とにかく、その手を離せ。このガリア兵は戦うどころか、まともに身動きすらできない。今ここで嬲り殺しにしたとことで、ただの浅ましい自己満足にしかならないぞ」


 シオンの言葉に、炭鉱夫たちの顔が憤怒に歪んだ。


「おい、口には気を付けろよ! “バニラ”風情が、何を偉そうに――」


 そこまで言いかけて、炭鉱夫の顔色が変わった。

 次の瞬間には、炭鉱夫の手からガリア兵の首が解放された。

 それから間もなくして、炭鉱夫が苦悶の表情を浮かべるようになった。


「な、なんだ! てめぇ、“バニラ”じゃないのか!?」


 シオンはいつもの無表情のまま、炭鉱夫の腕を掴んでいるだけだった。しかし、そこから“聞こえる音”は穏やかなものではなく、まるで大蛇が子羊の身体を締め付けているかのような音だった。

 しかもそれが、人間が片手で、屈強な亜人の腕を握るだけで起きているとなれば、その異常事態に、この場に居合わせた誰もが驚愕の表情になった。


「ぬあっ!」


 やがて、炭鉱夫は命乞いをするように両膝を付いた。そこでようやく、シオンは手を離した。

 炭鉱夫は荒い息遣いで、シオンを見上げる。


「て、てめぇ――」


 しかし、炭鉱夫の顔に迫力は一切なく、あたかも捨てられた野良犬が強者に遠吠えするかのような有様だった。

 炭鉱夫は強く歯噛みして、勢いよく立ち上がった。


「行くぞ!」


 そして、取り巻きの他のライカンスロープを連れて、早々にオーケンの家から出ていった。







 ライカンスロープの炭鉱夫たちをシオンが追い払ってから三十分ほどして、オーケンの家はようやく落ち着きを取り戻した。負傷したガリア兵も眠りにつき、先ほどまでの騒動が嘘のように静かになった。


 シャワーを終えたエレオノーラも戻ってきて、一同は揃ってダイニングの長テーブルに着席していた。


 ノラには、オーケンが立ち合いのもと、ステラから色々と事情を話した。ステラがこの国の王女であることにノラはかなり驚いていたが、余計な詮索をすることなく、すぐに受け入れてくれた。無論、ステラと、シオンの正体については、他言無用でいてくれるとのことである。先ほどの騒動を早々に収めた恩義もあるのだろうが、偏にノラの人柄の良さがあってのことだろう。

 敵国の軍人、まして亜人を奴隷にすることに何の抵抗もない人間を当たり前に看病できる気高い精神を持つ彼女であれば、そのくらいの配慮は造作もないことなのかもしれない。


「今日はありがとうございました。怪我人の搬送だけでなく、暴漢まで追い払ってもらって」


 神妙な面持ちで言ったノラに、ステラは気を遣って両手を振った。


「そんな、気にしないでください。私たちが勝手にやったことなので」

「しかもまさか、手を差し伸べてくださったのがこの国の王女様だなんて――不謹慎かもしれませんが、少し感激してしまいました」

「まあ、今はただの放浪者みたいなもんですけどね」


 称賛とも汲み取れる不意な言葉に、ステラは照れ隠しで頭の後ろを掻いた。

 それを見たノラが、少しだけ嬉しそうに笑う。ライカンスロープ特有の獣の耳が、本人の意思に反応するようにして、小さく揺れた。


「ところで、ノラさんはどうしてまた看護師を辞めてまで捕虜のガリア兵の治療をしようと思ったんですか?」


 ステラが訊くと、ノラは少しだけ顔をそむけて答えづらそうになった。その様子にステラが首を傾げていると、僅かな沈黙を破るようにしてノラが口を開く。


「そ、それは、私も、オーケンさんと同じで――人間とはいえ、無意味に傷つくところを見るのが嫌で……」


 しかし、どこか落ち着きがない。ステラは真意を確認するように、今度はオーケンを見遣る。だが、オーケンは軽くパイプを吹かすだけで、我関せずといった素振りだった。

 再び、妙な無言の間が空く。

 そんな時だった。今まで黙って濡れた髪の毛をタオルで拭いていたエレオノーラが、不意に何か気づいたように、顔を顰めた。


「もしかしてさ、アンタ、その捕虜に惚れてんの?」


 そんなことを口走り、場の空気がますます凍り付く。


「エレオノーラさん! いきなりなんてこと言うんですか!」

「いや、何となく……女の勘ってやつ?」


 ステラが諫めて、エレオノーラは苦笑しながら宥めた。

 すぐさまステラはノラへと向き直り、愛想笑いをする。


「す、すみません、ノラさん。急に変なこと言ってしまっ――」


 しかし、ノラはそれを肯定するかのように、頬を紅潮させていた。その愛らしい獣の耳は、彼女の心中を表現するかのように、穏やかに寝かせている。


「ま、マジですか?」

「ほら、当たったじゃん」


 驚くステラに対し、エレオノーラがしたり顔で見返す。

 ステラは、改めてノラに向き直った。


「あのガリア兵はこの街に攻めてきた張本人なんですよね? それが、どうして……」


 信じられない、といった顔をするステラに、ノラは少しだけ複雑そうな面持ちになった。


「そう、ですよね。おかしいですよね、こんなの。ライカンスロープが、人間のことを好きになるなんて」

「い、いえ、種族うんぬんに関してはそんなことない、と思いますけど……」


 自信なさげにステラが視線を泳がせる。

 ノラはそれを見て微笑した。


「いいんです。亜人が人間のことを好きになるなんて、どう考えても普通じゃありませんから」


 寂しそうに言って、ノラは軽く目を伏せた。

 そこへ、髪を乾かし終わったエレオノーラが、髪をいつもの二つ縛りに結いながら口を開く。


「アタシは直接見たわけじゃないけど、その捕虜のガリア兵、助けたアンタらに酷い悪態ついてたみたいじゃん。どうしてまたそんな奴を好きになんてなったの? そいつがたとえアンタと同じ亜人だったとしても、好きになる要素なんてない思うけど」


 ノラは軽く口を噤んだ。それから少しの間を置いて、徐に話し出す。


「何もかもが、偶然でした。一年ほど前にガリア軍がこの街にやってきた時、私はまだ看護師で、街から少し離れた場所にある病院の畑に薬草を取りに行ってたんです。その時に、この街に住む男の人たちに襲われそうになったんですが、近くに彼が斥候として潜伏していて、助けてくれたのが出会いでした」


 それを聞いたシオンが、感心するような、呆れたような顔になる。露骨にここまで表情を崩すシオンは珍しかった。


「見ず知らずの亜人を助けるためだけに、軍の作戦を放棄したのか」

「……はい、結果的にそうなりました。彼が私を助けたせいで、ガリア軍は当初予定よりも早く街に進軍する羽目になったそうです。そのせいもあってか、ただでさえ兵装が不十分だったガリア兵たちは、事前の準備もままならない状態で街に攻め込むことになりました」

「何とも言えない話だ。アンタは間接的にこの街を救ったことになるが、代わりに自分を助けてくれたガリア兵を無駄に苦しめることになったのか」


 シオンが言うと、ノラは同意するように表情を険しくした。


「怪我の治療も、捕虜になってしまったことをただ不憫に思うだけで、罪悪感と恩返しから始めたものでした。初めこそお互いにキツく当たったりしましたけど、段々と自分のことも話すようになってくれて……。それにあの人、普段は私たち亜人に対して憎まれ口を叩いているんですけど、一対一で話す時とかは結構普通に会話してくれるんです」

「んで、そうこう係る時間が長くなるうちに、好きになっちゃったと?」


 エレオノーラが止めを刺すと、ノラは気まずそうに顔を赤らめながら頷いた。

 ステラが、おお、と感嘆の声を上げる。だが、すぐに胡乱げな顔つきになった。


「でも、やっぱりガリア兵のさっきの態度見てたら、中々信じられないです。思いっきり亜人のこと馬鹿にしてたじゃないですか。許せないんじゃないですか?」


 すると、ノラは、ふふ、と小さく笑った。


「多分、彼――カルヴァンは、亜人どうこうの前に素直な性格じゃないんです。お礼はまだ一度も言われたことないですけど、治療が終わって元気になったあとは、必ずいつもこの家の前に花を置いてくれるんです。前に私が花が好きだって言ったこと、覚えてくれたみたいで」


 ノラはそう言いながら幸せそうな顔になった。

 それを見たエレオノーラが鼻を鳴らした。


「何だ、順調に惚気てんじゃん」

「の、惚気てるだなんてそんな」


 焦りながらも強く否定しないノラを見て、エレオノーラはますます嫉妬するような顔に、ステラはニヤついた顔になった。

 そうやって恋愛話に女性陣が花を咲かせる一方で――シオンだけが、いつもの気難しい顔つきのままだった。


「アンタは、そのカルヴァンとかいうあのガリア兵を信用しきっているみたいだな。いつかまたここを襲うために、怪しい動きとかは見せていないのか?」


 水を差すようなことを言って、旅仲間の女二人から厳しい視線を同時に受けることになった。


「シオンさん、そんな言い方はよくないと思います。折角、女の子が好きな人の話して幸せそうなのに」


 ステラがぷんすかして不満を言った。

 シオンはそれを無視して、ノラを真剣な表情で見遣る。すると、ノラは目を逸らしてしまった。


「……ない、と思います」


 それから、口の中で掻き消えそうなほどにか細い声でそう応じた。

 シオンの眉間にますます深い皺が刻まれていくが、そんな彼の額を、エレオノーラが中指を弾いて打った。ぺち、と間抜けな音が鳴る。


「会ったばかりの女の子に詰めるような尋問しない。アンタ、イケメンのくせにモテないでしょ?」


 エレオノーラが揶揄うと、シオンは大きな溜め息を吐いてテーブルを立った。

 それを、エレオノーラが厭らしくニヤついた顔つきで見遣る。


「もしかして怒った? 図星?」

「シャワー浴びてくる」


 いつも以上にぶっきらぼうな返事を聞いて、ステラとエレオノーラは揃って笑い声をあげた。その傍らで、ノラが少しだけ笑顔を取り戻す。

 長テーブルの離れたところで一連の会話を聞いていたオーケンが、やれやれと首を横に振っていたが、賑やかなのが久しぶりだったのか、どこか楽しそうにしてパイプを吹かしていた。







「王都方面へ向かう汽車はまだ暫く運休するみたいです。詳しいことは駅員さんも知らされていないようですが……」


 時刻が昼を過ぎた頃――買い物がてら街の路線情報を聞きに行ってくれたノラが、オーケンの家に戻って早々にそう教えてくれた。

 ダイニングでエレオノーラとお茶を楽しんでいたステラが、怪訝に眉を顰める。


「何かあったんですかね? 事故とか」


 カップから口を離したエレオノーラが、人心地が付いたような息を吐いた。


「さあ。ま、汽車が動かないなら動かないで、もうちょっとここでのんびりしようよ。一度出発したら次はいつゆっくり休めるかわからないんだし」

「いや、私たち、オーケンさんのご厚意でここに身を置かせてもらっているんで、無駄に長居は……」


 エレオノーラの図々しい言葉を受け、気まずそうにステラがオーケンを横目で見遣る。

 しかし、意外にもオーケンは気にした様子もなく、肩を竦めるだけだった。


「わしのことは気にしないでいい。部屋数だけは無駄に多い家だ。寝るなり休むなり、好きにしろ」


 オーケンの言質を得て、エレオノーラはしたり顔でステラを見た。


「オーケンさんもそう言っていることだし、お言葉に甘えようじゃないの。ってなわけで早速、お昼寝しようかな。オーケンさん、適当な部屋借りるね」

「ダイニング奥に並んでいる部屋なら寝具も整えてあるからすぐに寝られる。人間からしたら狭いかもしれないが、寝るだけなら問題なく使えるはずだ」

「ありがと」


 エレオノーラは小さく手を振って謝意を伝えたあと、ダイニング奥に並んだ無数の扉のうちの一つを開け、部屋の中に消えた。


 次に、オーケンがパイプを吹かしながら椅子から立ち上がり、腰を伸ばした。


「さて、わしはぼちぼち仕事に戻るとしよう。魔術師のお嬢さんみたいに、空き部屋は好きに使ってもらって構わない。休みたいだけ休むといい」


 オーケンはそう言い残し、地下へと続く階段を下りて仕事部屋に入った。

 続いて、


「私も、カルヴァンの様子を看ます。そろそろ包帯も変えてあげないと駄目なので」


 ノラも、カルヴァンが寝る部屋に消えた。


 そうして、ダイニングには、シオンとステラの二人だけになった。初めの出会いこそ二人だけであったが、こうしてまた、他に誰もいない状況になるのは、それ以来かもしれない。

 二人は一瞬、ハッとして、そんなことを同時に思い浮かべたような顔になった。


「……あ、あの、誰もいなくなったからこの際、なんですけど、聞いてもいいですか?」


 妙な沈黙を先に破ったのはステラだった。シオンはそれを無言で了承し、椅子に座りなおす。


「なんだ?」

「……シオンさんが、教皇を暗殺しようとしている理由です」


 シオンが、ぴくり、と反応する。


「余計な詮索をしない方がいいと思って、今まで訊きませんでした――いえ、怖くて、訊けませんでした。でも、やっぱり知らないわけにはいかない気がしてきたんです」


 ステラは、やけにまっすぐな視線でシオンを捉える。


「シオンさんは二年前の戦争で分離派に与していた騎士で、未だに教皇に怨みを持っているんですよね? だから、この旅で教皇に復讐するつもりなんだと、私は思っています。そしてそれは、私を利用して果たされるということも理解しています。正直、暗殺に自分が利用されるのは複雑な気分だし、復讐なんてやめてほしいと思っています。けど、それがこの旅の条件だし、必要以上に強く言うことはできません。でも、だったらせめて、その理由くらいは聞かせてもらえませんか?」

「教皇を死なせてしまったら自分の責任になるかもしれないと思っているのか? だったら気にしなくていい。俺が勝手にやったことにする。お前のことも、人質にして連れ回していたことにすればいい。余計なことは――」

「もうひとつ、訊いていいですか?」


 不意にステラがシオンの言葉を遮った。シオンが怪訝に眉を顰める。


「急にどうした?」

「教皇を殺したあと、シオンさんはどうするんですか?」


 瞬間、シオンの顔から表情が、すっ、と消えた。


「教皇を暗殺できたところで、そのあと普通に生活なんてできないですよね?」


 ステラの問いかけには答えず、シオンは黙ったままだった。


「……目的を果たしたら、シオンさんも死ぬ気なんじゃないんですか?」


 ステラはさらにそう続けた。

 シオンは、依然として感情を失った顔のままで、じっとステラを見据える。


「余計なこと訊いているとはわかっているんですけど、でも、やっぱり気になっちゃって……」


 シオンから放たれる異様な圧に気圧されるように、ステラの声は尻すぼみになった。

 そして、


「お前が女王になった後のことは、互いに関係のない話になる。お前相手でも答える義理はない」


 突き放すようにシオンが言った。シオンは逃げるように椅子から立ち上がり、ダイニング奥の空き部屋へと向かっていく。次いで、扉のドアノブを回したところで、軽くステラの方を振り返った。


「ここを出たら次はいつ休めるかわからない。お前も休めるときに休んでおけ」


 そう言い残し、扉の向こうへと姿を消した。

 ステラは軽く息を吐いて、天井を仰ぐ。


「……なんか、嫌だな」


 一人だけ広いダイニングに取り残され、天井の電球に群がる小さな虫たちに話しかけるように、ぽつりと呟いた。







 時刻が十六時を過ぎて、西の空が徐々に赤くなっていった。採掘音も穏やかになり、街の喧騒はピークの時と比べると鳥のさえずりが聞こえるほどに静かになっている。


 オーケンの家に来客があったのは、そんな時だった。


 不意に玄関の扉が叩かれ、またあの荒くれた炭鉱夫が来たのではないかと、少しだけ緊張が高まる。

 今、玄関から直通するダイニングにいるのは、夕食の準備を進めているステラとノラ、それに昼寝から起きたばかりのシオンだった。

 当然のように、シオンの表情が引き締まる。

 そして、玄関の扉が開けられ、入ってきたのは――一人のガリア兵の捕虜だった。他の捕虜の例に漏れず、ぼろぼろの軍服に身を包み、酷くやつれた様子でいる。両手首には枷が填められており、足には金属の重りが括りつけられていた。そのやせ細った体では、歩くことすらやっとなのだろう。酷く息を切らして、やや虚ろな瞳をしていた。


 ノラが、沈痛な面持ちでガリア兵に駆け寄った。


「カルヴァンに会いに?」


 ノラの問いかけに、ガリア兵は力なく頷いた。


「炭鉱夫たちに……見てこいと、言われて……俺たち、ガリア兵じゃないと、また揉めるからって……」


 ふらふらと歩みを進めながら、ガリア兵が家の中に入っていく。それをノラが支えながら、カルヴァンのいる部屋へと案内していった。

 そこへ、


「いいのか、炭鉱夫たちの見えないところでガリア兵同士を接触させて?」


 不意にシオンがノラにそう訊いた。

 ノラは少しだけ困った顔になったが、すぐに首を縦に振る。


「どのみち、捕虜たちはまとめて一か所に収容されていますから。それに、見ての通り、この人たちにはもう何かをどうこうする気力なんてないんです」


 そう言い残して、カルヴァンの部屋に入ろうとする。

 しかし、扉が閉まりかけた時、シオンがすかさず手を滑り込ませた。


「何でもないなら俺がいても問題はないな?」

「え? え、ええ……」


 突然の出来事に、ノラが驚いた。

 その一瞬だった。本当に僅かな、瞬きがされるかされないかくらいの間に、それまで弱々しかったガリア兵の瞳に、生気が戻ったかのような輝きがあった。

 シオンはそれを見逃さず、途端に眉間に皺を寄せる。


「俺がいると、何か不都合なことがあるのか?」


 威圧的に訊くと、ガリア兵は再び弱々しい態度になった。


「い、いや……俺は、ただ、あいつに、炭鉱夫たちからの伝言を……」

「何を伝えようとしている?」


 戸惑うノラを余所に、シオンは一歩も引き下がることなくガリア兵を問い詰めようとした。

 そこへ、カルヴァンがベッドから立ち上がって、覚束ない足取りで近づいてきた。


「おい、誰だか知らねえが、あまり同胞を責めないでやってくれねえか? アンタらログレスの人間からしちゃあ俺たちは敵だが、見ての通りぼろぼろだ。少しくらい恩情かけてやってくれや」


 カルヴァンの言葉に同意するように、ノラが睨むようにシオンを見る。

 それでもシオンは引かなかったが、カルヴァンが、ガリア兵の傍らに寄り添う形になった。


「そんな体でわざわざ悪いな。今日もこき使われたんだろ?」

「げ、現場監督が……明日、八番坑道の、後始末だって……」


 カルヴァンが体を支えると、ガリア兵は弱々しく伝言を残した。それを聞いたノラが、怒りに顔を歪める。


「カルヴァンは今日怪我をしたばかりなのに……!」


 そんな彼女の頭をカルヴァンは優しく撫でた。


「今回に限った話じゃねえよ。それに、お前らだって俺なんか早くここから追い出してぇはずだろ? よかったじゃねえか、厄介払いができて」

「またそんなこと言って……」


 ノラが頬を紅潮させながら言うと、カルヴァンもまた少しだけ笑顔になった。それから二人は、捕虜のガリア兵を再度見遣る。


「現場監督に伝えてくれ。ちゃんと明日の朝、仕事始まりには八番坑道に行くからってな」

「……す、すまない」

「いいってことよ。ほら、さっさと戻りな。あんまりぐずぐずしてると、また犬っころたちにサンドバッグにされるぜ」


 カルヴァンはそう言って、ガリア兵に早く戻るよう促した。

 これまでの一連のやり取りは、表面的に見れば、哀れな捕虜たちが互いに敵地で励まし合う健気な光景だったのだろう。

 だがしかし、訪問者のガリア兵は、カルヴァンと体を近づけた時に何かを手渡していた。

 そしてそれは、シオンとノラの死角で、密かに行われていた。

 当然、シオンとノラは、そのようなやり取りがされていたことなど、この時は知る由もなかった。







 夕食を終え、日が完全に落ちた頃――オーケンの家の一室では、ベッドでうつ伏せに寝るシオンの上に、エレオノーラが跨っていた。天井に吊るされた小さな電球と、獣の油から作られた蠟燭の小さな灯りを頼りに、エレオノーラは、シオンの背中に刻まれた“騎士の聖痕”を調べていた。

 数多の印章の研究結果をまとめた自身の魔導書を片手に、印章に沿ってシオンの背中を指でなぞる。すると、ところどころ、触れたところから微かに皮膚と筋肉が反応した。エレオノーラはそれを面白がって、少し意地悪く、あえてくすぐるようにした。


「ここ、弱点?」

「何の話だ?」

「ここをこうやってなぞると、ピクピクって動くから。なんか軽く鳥肌立ってるし」


 軽く笑うエレオノーラに対して、シオンは面白くなさそうに顔をベッドにうずめた。


「……少しくすぐったい」


 堪らず、エレオノーラはゲラゲラと声を上げる。


「黒騎士だなんだの言って、アンタも所詮はただのヒトだね」

「悪かったな」

「いやぁ、人間らしくて大変よろしゅう思いますがねぇ」


 若干、恥ずかしそうにするシオンを見て、エレオノーラはますます上機嫌になりながら彼の背中を指で露骨になぞっていく。

 そこでふと、シオンがベッドから少しだけ顔を上げた。


「人間らしい、か」

「うん?」


 珍しくシオンが自分への評価に反応したなと、エレオノーラは思った。この男とはまだ一週間ほどの付き合いしかない。だが、それでも彼が、人付き合いを好む方ではないことは、この短い期間で如実に見て取れた。

 だからこそ、その何気ない反応に少しだけ違和感を持った。


「珍しいね。アンタが自分の評価を気にするなんて」

「……昔、そう言われて嬉しかった覚えがある」

「ふーん。今は?」

「そうでもなかった」

「何それ」


 エレオノーラが顔を顰めながら嘆息する。私が言うと駄目なのか――そんなことを考えた。


「まあ、騎士って言ったって、人間であることには変わりないんだし。人間らしいって言われて喜ぶのも中々変わってるよね」

「こんな体になると、自分が本当に人間なのか、疑問を持つことが多々ある。超人的な能力を身に付けてしまったことを受け入れることができずに精神を病んでしまう騎士も少なくない」

「自業自得じゃん、そんなの。自分で騎士になること選んだんでしょ?」

「選ばざるをえない騎士も多かった。身寄りがなく、孤児としても生活ができない子供が、それこそ奴隷の掃き溜めのようにして扱われ、行き場を失って騎士団の門を叩く――そんな事例は数えきれないほどにあった」


 自分のことのように話すシオンを見て、エレオノーラの手が一瞬止まった。それはアンタのこと? ――と、訊こうとして、喉にその言葉を留めた。代わりに、何か魔術師らしいことを言って話を変えようと、瞬時に頭を切り替える。


「じゃあ、騎士団は人材には困っていなさそうだね。羨ましい限りだわ。教会魔術師は年々数を減らしていっているっていうのに。ま、そのおかげでアタシも大陸諸国では引く手あまたなんだけどさ」

「騎士団は慢性的に人材不足だ。騎士になれる子供はわずかだからな。百人に聖痕を刻んで、そのうち五人もなることができれば上出来だ」

「……騎士になれなかった子供はどうなるの?」

「どうなる、というより、どうにかなってしまって、騎士になれない。人間の子供だからといって、“騎士の聖痕”に必ず適合するわけじゃない。どうにかなったうちの半分が肉体の劣化、もう半分は厳しい訓練に耐えきれずに命を落とす」

「……聞くんじゃなかった。この話と今日の印章解析、もうオシマイ!」


 そう言って、エレオノーラはシオンの背中を、ペチン、と勢いよく叩いた。ベッドから立ち上がり、魔導書を閉じる。その後ろでは、シオンが黙々と服を着ていた。


「“騎士の聖痕”については何もわからなかったけど、“悪魔の烙印”については少しわかったことがあるよ。それだけでも今日の収穫としては充分かな」

「何がわかった?」

「“悪魔の烙印”の役割は大きく二つ。“騎士の聖痕”の仕組みを暗号化するのと、印章効果の抑制。多分、こうやって万が一、外に黒騎士が逃げ出した時に“騎士の聖痕”を解析されないようにするのと、これ以上騎士が強くならないようにするためじゃないかな」

「なるほど。納得した」


 そう端的に感想を述べたシオンはジャケットを羽織り、早々に部屋を後にしようとした。

 そこへ、エレオノーラがふと思い出したことがあり、声をかける。


「そういえばさ、アンタってなんでまた教皇に喧嘩売ったりしたの? 二年前に騎士団分裂戦争が勃発した時、大陸中大騒ぎだったよ。でも結局、戦犯の騎士の犯行動機は不明で、お茶の間は不完全燃焼だったけど」


 シオンは、エレオノーラに目を合わせなかった。


「お前には関係ない話だ。下手に知れば、お前も騎士団に目を付けられるかもしれないぞ」

「“騎士の聖痕”を解析しようとしている時点で今さらって感じだけど、まあ、アンタなりの優しさってことで深入りしないでおく」


 これで会話が終わり――シオンが部屋から出ようと足を踏み出した時、


「じゃあさ、もしもの話、次こそ教皇の暗殺が成功したら、アンタはそのあとどうするつもりなの?」


 次に、エレオノーラは間髪入れずにそう訊いた。

 エレオノーラの質問を背に受けたシオンは足を止め、少しだけ顔を後ろに向けた。


「……ステラに訊けって言われたのか?」


 何でそこでステラが話に出てくる――エレオノーラは軽く顔を顰めた。


「何それ? ステラがどうのとか知らないし」

「あいつにも同じことを訊かれた」

「あっそ。お生憎様、姫様とはまったく関係ございません。アタシが個人的に気になっただけ」


 シオンは、少しだけ考えるような無言の間を置く。それから、徐に口を動かした。


「特に何も決めていない」

「死ぬ気でしょ? 教皇暗殺なんかしでかして、そのあとこの大陸に居場所なんてできるわけないもんね」


 エレオノーラの言葉に、シオンは何も反応を示さなかった。エレオノーラは肩を竦めながらさらに続ける。


「まあ、黒騎士になった時点で将来なんてあるわけないんだろうけど。そう考えたら、死ぬしかないか」

「……そうだな」


 そのシオンの声は、今までに聞いた中でも一番に弱々しかった。何気なく放った今の発言も軽くあしらわれるだけだろうと、エレオノーラは思っていた。それだけに、意外にも寂しそうな反応を見せたことに、エレオノーラは虚を突かれた。


「――ならさ、いっそこのままどっか逃げる?」


 それに何かしらの感情が付与される前に、エレオノーラは、ぼそりと言った。

 シオンが眉間を顰めながら振り返り、首を傾げる。


「何か考え事しながら話しているのか? 少し変だぞ」


 言われて、エレオノーラは意識を取り戻したようにハッとした。


「あ、いや、ホントね! ちょっとぼーっとしてた! ごめんごめん」


 エレオノーラは誤魔化すように頭の後ろを掻き、アハハ、と愛想笑いをした。

 それを見たシオンはまだどこか不審そう見ていたが、一度小さな息を吐いて、部屋の扉に手をかけた。


「疲れているなら早く寝ろよ。協力関係にいるうちは、頼りにしているんだからな」

「はいはい」


 そう言い残して、シオンは扉の向こうに消えた。

 静かに閉じられた扉を見て、エレオノーラは軽く目を伏せる。


「頼りにしてる、ね。素直に言われると、何だか調子狂うわぁ」


 しかし、その言葉に反して、内心そこまで気分は悪くなかった。むしろ、自分でも認識しきれない初めて感じた気持ちに、どこか高揚感に似た居心地の良さすら抱いている。

 何故か少しだけ速まった鼓動を落ち着かせるように、エレオノーラは大きく深呼吸をした。

 その後で、表情を少しだけ引き締める。


「……ちゃんと仕事しないといけないのに」


 そして、“自分の役割”を改めて再認識させるため、ひとり呟く。それからエレオノーラは、軽く両頬を手で叩いたあとで、勢いよく踵を返した。

 今日はもう遅いし、このまま寝てしまおう――部屋の扉が勢いよく開いたのは、そう思った時だった。入ってきたのはシオンだ。


「え、ちょ、な――」


 エレオノーラがそれに驚いているなか、シオンが部屋の明かりを消して彼女の口を塞ぐ。

 あまりにも突然の出来事に、エレオノーラはされるがまま壁際に追いやられた。心臓がバクバクと音を立て始めた矢先、シオンが彼女の耳元に顔を近づけてきた。

 これから何をされるのか、色んな感情が胸中を駆け巡り――


「ノラとカルヴァンが慌ただしく部屋を出ていった。カルヴァンが半ば無理やりにノラを連れ出したようにも見えたが――この部屋の窓から見える方に向かったみたいだ。少し覗かせてもらうぞ」


 シオンはそれだけ言い残して、さっさと部屋の窓の方へ行ってしまった。カーテンの布を開け、熱心な様子で、家から出ていった二人の動向を伺っている。

 暗闇の中でエレオノーラは、そんな彼の背中を白い目で見遣る。それまで昂っていた彼女の“何かしらの気持ち”が、急速に冷めていった――そんなことなどいざ知らず、シオンはいつもの調子で振り返る。


「カルヴァンは夕方に他のガリア兵の捕虜と接触したが、幾つか不審な点があった。その直後にこれだ。嫌な予感がする」

「さいですか」


 エレオノーラはえらく平坦な声で応じて鼻を鳴らした。

 それには構わず、シオンは一人忙しく、今度は部屋の外へ足を向ける。


「俺はこれから二人の後をつける。お前は念のため、いつでもここから出られる準備をしてくれ。ステラにも同じことを伝えるの、頼んだぞ」


 エレオノーラは渋い顔をしながら後頭部を掻き毟り、大きなため息を吐いた。


「はいはい。いつも通り、何か面倒なことになんのね。仰せのままに、黒騎士様」







 夜中にカルヴァンが突然部屋に訪れた時は驚いた。

 その時のノラは、今まで彼から訪ねてくることがなかったために、まるで宇宙人を目の当たりにしたかのような反応をしてしまった。

 だが、カルヴァンはそんなノラにいちいち何か反応することもなく、強引に腕を掴んでオーケンの家から連れ出した。

 戸惑うノラがようやく状況を整理して落ち着きを取り戻したのは、二人が初めて出会った薬草栽培用の畑に足を踏み入れてからだった。


「ま、待って! カルヴァン!」


 ノラは勢いよく腕を振りほどいた。直後にカルヴァンが振り返り、お互いに息を切らしながら見つめ合う。

 満月の映える、林の木々がぽっかりと抜けている場所の畑で、亜人の少女と、人間のガリア兵が対峙するような形になった。


「……さっき、オーケンさんの家を出る間際に言ったことは本当なの?」


 呼吸を整えたノラが、痛ましげな面持ちでそう訊いた。

 カルヴァンは表情を変えずに頷く。


「ああ。あと一時間もしないで、本国から第八旅団がこの街に送られてくる」


 それを聞いたノラが、すぐに踵を返そうとした。だが、カルヴァンが許さない。彼は傷ついた体で、辛うじて動かせる右腕でノラの肩を掴んだ。

 そして、ノラはそれをすぐに振り払った。


「街の皆に知らせないと!」

「無駄だ!」


 呼び止めるようにして、カルヴァンが叫んだ。


「む、無駄、って――」

「もう間に合わない。この街は、この国の他の街と同じようにガリアに取り込まれる」

「一年前と同じように、また街の皆で応戦すれば――」

「次に来る第八旅団は俺のいた隊とは比較にならない兵力を持っている。炭鉱夫のライカンスロープがたかだか数千人いたところで、どうにかなる話でもない」


 カルヴァンのやけに落ち着いた声色は、それが真実であることを間違いなく裏付けていると、ノラは思った。だが、自身もこの街の住人である以上、カルヴァンの言うことを素直に聞くわけにはいかなかった。


「じゃ、じゃあ、何で私をここに連れてきたの?」

「お前を死なせたくない」


 カルヴァンの凶行を咎めるように言うと、ノラにとってはあまりにも予想外で、驚くほどに素直な言葉が返ってきた。

 ノラがその真意を問う間を与えずに、カルヴァンはさらに続ける。


「ガリア公国軍第八旅団の旅団長――ガストン・ギルマン准将は、今回の侵攻作戦でリズトーンにいる亜人全員を一掃するつもりだ。あの街で今日の夜を過ごした者は誰も生き残らない」


 獣の耳と尻尾を緊張させながら、ノラは眉を顰めた。


「何で貴方にそんなことがわかるの?」


 ノラの疑問に答えるようにして、カルヴァンは懐から一枚の小さな紙切れを取り出す。


「夕方、同僚が俺を訪ねてきただろ。その時に今回の指示がまとめられたメモを受け取った」

「指示って、貴方たちずっと炭鉱で働かされていたでしょう? そんなのどうやって?」

「半年ほど前から、軍用通信と同じ信号規則を使って、音や光で街の外から情報が送られていた。ガリア軍は半年前からこの街を囲う山の周辺に潜伏して、捕虜の俺たちに情報を渡していたんだ」


 にわかには信じられなかったが――腐っても彼は一国の軍人である。ノラはそのことを思い出すようにして、沈痛な面持ちで奥歯を噛み締めた。


「私を騙していたの?」

「騙していたわけじゃない。だが、黙っていたことは謝る。だからこそ、今こうしてお前を連れ出した!」


 理由になっているような、なっていないような回答に、ノラの表情はますます怪訝になった。


「……何で、私だけ?」

「お前には世話になった。敵国の軍人なのに、お前だけが俺たちをここでヒトとして扱ってくれた」

「オーケンさんだっているじゃない」

「あのドワーフは気の毒だが連れていけない。ガリア本国に行けば、ドワーフはそれこそヒトの扱いを受けない。お前だって亜人なら知ってるだろ? ガリアは、エルフ、ライカンスロープ、ドワーフの順で亜人を格付けして強い差別をする。あのドワーフのおっさんを一緒に連れていったところで、文字通り工場の歯車と同じ扱いを受けるだけだ」


 カルヴァンは、自分こそが正しいことを言っているといった顔で、一歩踏み出した。


「お前はこれから俺と本国に行って、新しい生活を始めるんだ。大丈夫だ、お前はライカンスロープだから、俺が所有権を国に提出すれば奴隷でもちゃんと人並みの生活を送ることができる。性奴隷にされるエルフみたいなことにはならない。俺と一緒にいれば――」

「貴方の言っていることが理解できない……」


 ノラはそれを拒絶して、慄いた顔で後退った。


「なあ、わかってくれよ。俺はお前に恩返ししたいんだ。死なせたくないんだ。ここにあと数時間もいれば、亜人は――あの街の住人は例外なく全員殺されちまう」

「だから私を貴方の奴隷にするの?」


 震える声で訊いたが、対するカルヴァンはいたって平然とした表情のままだ。根本的に、亜人に対する価値観が違うのだろう。

 亜人は奴隷であって然るべき存在――カルヴァンの話は、そのことを根底に置いたようにしか展開されなかった。

 一年近い日々を共に過ごし、異性として好意を抱くまでに心を通わせることができたと自負していたが――どうやらそれは勘違いに近いものだったと、ノラは思った。


 ノラは、悔しさに唇を強く噛み締め、スカートの裾を強く握りしめる。

 一方で、ノラの言わんとしていることを察しつつも、思い通りにならないことに苛立ちを覚え始めたのか、カルヴァンの眉根に深い皺が寄せられた。


「それが一番確実なんだよ。お前だって、俺のこと――」


 荒めの語気でそこまで言いかけて、突然、街のある方を見た。すると間もなくして、林の木々から人影が一つ現れる。

 一本に結った黒長髪に整った顔立ちの長身の青年、シオンだ。

 シオンは、カルヴァンを見るなり、短いため息を吐く。


「腐っても軍人、やはり裏で何かしらの工作活動はしていたか」


 近づいてくるシオン――それに向かって、カルヴァンが懐から拳銃を取り出して突きつけた。


「なんだてめぇは?」


 カルヴァンのその声は、軍人というより、チンピラといった方が適切だった。

 しかし、シオンは顔色一つ変えることなく、淡々と歩みを進める。


「何故ガリア軍はこのタイミングで街を襲撃することにした?」


 シオンがそう問いかけた刹那、乾いた発砲音が鳴る。

 そして、瞬き一回分にも満たない僅かな瞬間に、いつの間にかシオンがカルヴァンの拳銃を握っていた。それにカルヴァンとノラが驚く前に、拳銃がシオンの手の中で握り潰される。

 ここでようやくカルヴァンが反応し、シオンの人間離れした身体能力に慄きながら地面に尻もちをついた。


「て、てめぇ、普通の人間じゃないのか……!」

「答えろ」


 赤い双眸で見下すシオンに、カルヴァンは軍人らしからぬ怯んだ顔つきで歯噛みする。


「し、知らねえよ……お、俺は、ただ指示を受け取っただけだ……!」

「何の指示だ?」

「て、“定刻、二三三〇までに撤退準備を完了せよ”――俺たち捕虜はそう命令を受けた。め、メモが、夕方に仲間から受け取ったメモが、ズボン右ポケットに入っている……!」


 シオンはすぐさまカルヴァンの右ポケットに手を入れ、紙切れを取り出した。そこには確かに、彼の言った通りの言葉が拙い大陸語の文字で書かれていた。


「ガリア軍はここで何をしようとしている?」


 カルヴァンは険しい表情のまま鼻を鳴らした。


「同じことを何度も言わせんな。ギルマン准将はリズトーンを一度ゴーストタウンにするつもりなんだよ。街の亜人を皆殺しにして、ここを資源採掘の拠点にすることを計画してんだ」


 その直後だった。

 突如として、夜の闇が眩い光によって切り裂かれる。同時に怒るのは轟音――それは、耳の鼓膜を破りかねないほどの激しい“雷鳴”だった。

 今宵は星空であるにもかかわらず、雷が起きたのだ。

 ノラとシオンがそれに驚いている傍らで、カルヴァンが何かを諦めたように顔を伏せた。


「……今の雷を見たろ。あれ、ギルマン准将の魔術だ。あんなことをする化け物を相手にして、生き残れるはずがない」

「教会魔術師か?」


 カルヴァンは頷いた。


「それだけってわけじゃない。ギルマン准将が率いる第八旅団は、ガリア軍屈指の精鋭が集められた武闘派集団だ。構成員が漏れなく人体の一部を機械化した“強化人間”な上に、戦闘用に調教した魔物も多数従えている。何より、ギルマン准将本人が、自ら前線に立つほどの豪傑だ。教会魔術師であり、強化人間でもある――“機械仕掛けの雷神”の二つ名を与えられた、騎士に匹敵する戦闘力を持つガリア最強の兵士だ。第八旅団は殲滅部隊として動く。今まで攻め込まれた場所は、赤子一人生き残った試しがない。俺たち捕虜が受け取った指示も、第八旅団の侵攻に巻き込まれないようにするための、“ただの配慮や恩情”の類だ」

「それでお前は、恩人のノラだけは助け出そうとしたのか」


 どこか素直になり切れていない様子で、カルヴァンは無反応だった。

 シオンが再度、カルヴァンの胸倉を掴む。


「軍はどこから攻めてくる?」

「あ?」

「さっさと言え」


 抑揚の欠いた、やけに落ち着いたシオンの声色に、カルヴァンは恐怖心を抱いたように唾を飲み込んだ。


「し、詳細は知らねえが、この街は山に囲まれた盆地だ。多分、街で唯一の入り口になる線路側から来るんじゃねえのか? 第八旅団は真正面から攻め込むことを目的に編成されている。それしか考えられねえ」

「……列車の運行を止めていたのは、この件も絡んでいそうだな」


 吐き捨てるように言って、シオンはカルヴァンを解放した。それからすぐに、街の方へ向かって駆け出す。

 そして、その後を追うように、ノラも走り出した。

 その背中に、思わずといった表情でカルヴァンが手を伸ばす。


「お、おい!」


 ノラが足を止め、振り返る。

 しかし、その表情にはかつて彼に向けていた慈愛の感情はなかった。


「私、貴方とは一緒に行けない」


 そう言い残し、街へと駆け出していった。







 シオンとノラがリズトーンの街に戻った時には、すでに辺りは騒然としていた。もうすぐ日付が変わろうとしているにも関わらず、住民たちが外灯を頼りに不安げな面持ちで外に出ていたのだ。無論、先の雷を不審に思ってのことである。今宵は晴天の星空だが、その時に起きた雷は、嵐に起きるそれ以上のものであったからだ。

 雷は街のいくつかの建物に落ちたようで、小火騒ぎにもなっていた。石炭に引火させまいと、炭鉱夫たちが総出で消火活動に当たっている。

 それらを尻目に、シオンとノラはオーケンの家へと入った。するとそこには、ステラ、エレオノーラ、オーケンがダイニングに集まっていた。ステラとエレオノーラについては、身支度を終えていつでも出発できるような状態だ。

 シオンが入ってくるなり、エレオノーラが険しい顔になって椅子から立ち上がる。


「さっき大きな雷が鳴ったんだけど、あれ、自然に起きたものじゃない。かなり強力な魔術で作られた雷だった」


 シオンは彼女の前に立った。その表情は、いつになく切迫している。


「エレオノーラ、ガストン・ギルマンという教会魔術師を知っているか?」


 その問いに、エレオノーラは怪訝な顔で頷いた。


「し、知ってるけど……。銘は“機械仕掛けの雷神”――ガリア軍の准将でしょ?」

「そいつが率いる軍隊がもうすぐこの街に攻め込んでくるらしい。さっきの雷も、そのギルマンとかいう教会魔術師の仕業だ」

「じょ、冗談でしょ?」


 シオンの言葉に珍しく慌てるエレオノーラ――騎士を相手取った時でも、ここまでの狼狽はなかった。シオンは表情を引き締めて首を傾げる。


「珍しいな、お前がそんな慌て方をするなんて」

「ガストン・ギルマンはアタシたち教会魔術師の中でも超武闘派の魔術師よ。おまけに人体を機械で改造した強化人間――大げさかもしれないけど、騎士と同等以上に渡り合える数少ない魔術師だよ」

「カルヴァンの言っていたことは本当みたいだな」


 シオンが忌々しそうに軽く溜め息を吐く。

 そこへ、ステラもやってきた。


「ガリア軍の准将ってことは、もしかして、私を捕えに?」


 また何かやらかしてしまったのか――そんな不安を孕んだ瞳で、シオンを見遣る。だが、彼はすぐに首を横に振った。


「いや、関係ないだろう。今回の進軍はあらかじめ計画されていたみたいだからな。そんな時にこの街に来た俺たちも運が悪い」

「で、でも、何で准将クラスの人がこの街に?」

「一年前のリベンジだろう。これだけの規模の資源採掘場だ。ガリアとしても、どうにかして手に入れておきたいはずだ」


 ステラの疑問にシオンは短く答えて、すぐにエレオノーラを見遣った。


「あと一時間もしないで強化人間と魔物で構成された旅団規模の軍勢がここに来る。すぐにこの街から立ち去るぞ。もしガリア軍と遭遇した場合は交戦になる可能性が高い。いつでも魔術で応戦できるようにしてくれ」

「がってん」


 そう言ったことが当然のことのようにして、二人は準備を始め、オーケンの家から出ようとした。

 それを、


「待ってください!」


 ステラが声を張り上げて止める。

 シオンとエレオノーラは立ち止まったが、ステラの方には振り返らなかった。


「シオンさん、詳しく聞かせてください。どうして准将クラスの人がそんな大軍を率いてくるんですか?」

「さっきも言っただろ。この街を資源採掘の拠点として――」

「この街の人たちはどうなるんですか?」


 まどろっこしいやり取りを省略するようにして、ステラは毅然と言った。シオンの顔が、少しだけ強張る。


「ここから逃げるってことは、ここにいる人たちを見捨てるってことですよね?」


 それにシオンが答える前に、エレオノーラが一歩前に出た。


「ステラ、アンタ、そろそろ自分の立場を理解しなさいよ。なんでアンタが王都を目指しているのか、よく考えてから――」


 そこまで言いかけて、エレオノーラは口を閉ざした。

 シオンが、手を軽く挙げて制止したのだ。


「よく聴け。状況はかなり悪い。これからここに来るのは殲滅部隊だ。住民全員を殺すつもりで進軍が開始される。今ここで、ガリア軍の旅団と鉢合わせるようなことになれば、ここで死ぬことも充分に考えられる」


 ステラはじっとシオンを見据えていた。


「お前はこの国の最後の希望だ。アリスの無念、エルリオたちエルフの期待――ひいては、この国の未来が、お前の動向にかかっている。今ここで――」

「今も先も、私にとっては同じログレス王国です」


 ステラはそう言い切って、突然、両膝を地面につけた。首を垂れ、黒騎士と魔術師に向かって跪く。

 シオンが表情を顰めると同時に、エレオノーラが目を丸くさせた。


「ちょっと、アンタ、今自分が何してんのかわかってんの? やめてよ、一国の王族がそんな軽々しく跪くなんて――」

「シオンさん、エレオノーラさん、お願いします。この街を助けてください」


 静かに懇願するステラの言葉を聞いて、エレオノーラは困惑した顔で、助けを求めるようにシオンを見遣った。

 シオンは渋い顔のまま目を伏せ、小さく嘆息する。


「ギルマンが率いる軍勢は旅団で、相当な兵力と規模になるはずだ。たとえ俺がいたとしても、勝算はあまり望めないぞ。お前の旅もここで終わる可能性がある」

「……わかっています」


 ステラのその言葉は小さく低い声色だったが、確固たる意思を孕んでいた。

 観念したように、シオンは天井を仰ぐ。それからエレオノーラを見た。


「悪いな、エレオノーラ。お前だけでも逃げるといい」

「はぁ!? アンタまで何言い出してんの!?」

「ここにいれば生き残れるかどうかもわからない。ほとんど成り行きで付き合わせているお前をこれ以上巻き込めない」

「アタシとの約束はどうなるのさ!? てか、アンタたちそれぞれにも旅の目的がちゃんとあるんでしょ!? なのに何でこんな……!」


 血相を変えて声を張り上げるエレオノーラ。それに対して、ステラはやけに落ち着いていた。跪いた体勢のまま、自嘲気味に一度口を固く噤み、徐に動かす。


「この街の人たちを見捨てて旅の目的を果たしても、きっとそれは私の望んだ結果にはならないと思うから……」


 弱々しい声で発せられた回答に、今度は逆にエレオノーラが言葉を詰まらせた。

 シオンは、そんな彼女に対して、軽く肩を竦める。


「だそうだ。このままだと、こいつ一人だけでもここに残りかねない。俺は付き合うことにした」


 しばしの沈黙――それから、エレオノーラは勢いよく椅子を蹴り飛ばした。


「信じらんない! どいつもこいつも好き勝手なことばかり言いやがって! 頭悪すぎだろ!」


 それから、縦長のスーツケースから銃を取り出す。乱暴にガシャガシャと状態を整え、弾丸となる可燃物を装填し始めた。


「ヤバくなったら、誰がどうなろうと、アタシはすぐに逃げるからね! それまでは、付き合えるところまでは付き合う!」


 癇癪起こしたように吠えているが、エレオノーラも協力する意思を示した。

 ステラは面を上げ、自身の願いを聞き入れてくれた二人を改めて見遣る。


「ありがとうございます……!」


 そして、震える声を出しながら、もう一度だけ首を垂れた。







「駄目です……街の皆、誰も避難しようとしてくれません……!」


 息を切らしながら、戻ってきたノラが悲痛な表情を見せた。オーケンの家の前に集まった一同――シオン、ステラ、エレオノーラ、オーケン、そして合流したノラが、“ある程度予想していた事態”に揃って顔を顰める。


 ガリア軍が攻めてくる――その事実を街の住民に伝えても、誰もそれに応じた危機感を抱かなかったのだ。

 落雷による火災の鎮火を終えた炭鉱夫たちは急遽集会を始めた。ノラから伝えられたガリア軍の侵攻を耳にして、彼らはその対抗策を取ることにしたのである。

 一国の旅団規模の軍勢がこの街に押し寄せてくる――しかし、街の住民は、揃ってこう口にしたのだ。また一年の前のようにやればよい、と。


「一年前とは違うって言っても、誰も聞く耳を持ってくれなくて……」


 焦りと嘆きで取り乱しかねないノラの背中を、ステラが優しく支える。

 シオンは両腕を組み、わかり切っていたように小さく嘆息した。


「だろうな。一度うまくいった実績があるせいで、また同じようにうまくいくと思い込んでいるんだろう。フィジカルの面でも、どう考えてもライカンスロープに分がある。そう判断するのもおかしくはない」


 その評価を聞いて、ステラは不安そうに眉を顰めた。


「侵攻してくるのは“強化人間”っていう兵士なんですよね? ライカンスロープよりも強いんですか?」

「俺もあまり詳しくはないが、知っている限りでは、その膂力は生物の域を超えているらしい。十人も揃えば騎士一人を肉弾戦で倒せるとは聞いている」

「そ、そんな人たちが大量に押し寄せてくるんじゃ、シオンさんでも相手にならないじゃないですか!」

「だからさっきから言っているだろ、逃げた方が得策だと」


 今更か、と苛立ち気味にシオンが少しだけ声を張った。


「しかも強化人間の兵士だけじゃなく、今回は魔物も付いてくるときた。到底、俺一人じゃ捌ききれない」

「じゃあ、どうすれば……」


 ステラが訊くと、シオンはエレオノーラを見遣った。エレオノーラはエレオノーラで、少し前に皆から距離を取り、何やら淡々と魔術で周囲の物の配置や地形を変えている。


「エレオノーラに頼るしかない。エレオノーラの魔術なら広範囲を強力な火力で焼き払える。強化人間はともかく、魔物の軍勢であれば容易に対処できるはずだ」

「魔物はそうとして、強化人間はどうするんですか? ガストン・ギルマンっていう凄く強い人もいるんですよね?」


 その問いに、シオンは露骨に視線を明後日の方に向けた。一瞬の間を空けた後で、


「……何とかする。いざという時に取るべき手段も、一応はある」


 喋りたくなさそうな声色で、ぼそりと呟いた。

 らしくないシオンの反応に、ステラは思わず小首を傾げた。だが、彼女に何かしらの反応を示す前に、シオンはその場から移動してしまう。

 彼が向かった先は、仏頂面で魔術を行使し続けるエレオノーラのもとだった。

 エレオノーラは横目でちらりとシオンの姿を確認したが、それ以上、何か応えることはしなかった。シオンが気を遣うように静かに近づく。


「準備にあとどれくらいかかりそうだ?」

「十五分もかからないくらい」


 ぶっきらぼうな答えには、確かな不満が含まれていた。

 エレオノーラの魔術によって、隣接する家屋同士の隙間が、土や岩によってみるみるうちに埋められていく。街の入り口となる駅から中央区に向かって、一本道の通路が作られたような状態だ。


「アンタの作戦、当てになるの?」


 エレオノーラが、不意にシオンへそう尋ねた。シオンはそれを、芳しくない面持ちになって首を横に振る。


「わからない」

「頼りにならない男だね。まあ、アタシも同意見だけど」

「俺の考えた対抗策も、あくまで“俺がガリア軍ならこうする”という前提ありきで立てたものだ。まして、国軍が考える戦略や戦術、作戦には疎い。正直なところ、うまくいく自信はまったくない」

「騎士は脳筋ばかりってこと?」


 エレオノーラが呆れたように皮肉を言ったが、シオンは真面目な表情のまま軽く目を伏せた。


「中らずと雖も遠からず。実際、騎士の強さは圧倒的な個の戦闘能力に依存している。何か事を起こすにしても、その機動力と火力を活かした拠点制圧にしか投入されることがほとんどなかった」

「なるほど。攻めることは得意でも、守ることは苦手ってことか」

「そうだな。だからこそ、今この場面ではお前の力が何よりの頼りになっている」


 エレオノーラは胡乱げに顔を顰めた。


「お世辞のつもり?」

「本心だ」

「あっそ」


 吐き捨てるように言って、エレオノーラは再び魔術の行使に集中し始めた。身の丈ほどもある長大な銃を杖に見立て、地面に突き刺す。そのたびに、周囲の地面が生き物のようにして形を変えていった。


「最初の雷なんだけどさ、あれ、何のためにやったと思う?」


 唐突にエレオノーラが言った。


「できるだけ街の住人を家屋から外に出しておきたかったんだろう」

「なんで?」

「蜂の巣が欲しい時に、蜂に居座られたままだと面倒だと考えるはずだ」

「は?」


 シオンの見解を聞いて、エレオノーラが眉を顰めながら首を傾げた。


「あくまで想像だが、ガリア軍はこの街を資源採掘の場として手に入れることを望んでいる。設備や環境は可能な限りそのままにしておきたいと思うはずだ――となれば、奴らにとって邪魔なのはここの住民。住民を一人ずつ始末するのに、家の中をいちいち開けて回るのは効率が悪い。それも、魔物を使うとなればなおのことだ。下手に魔物に任せれば、家屋や施設を無駄に破壊することになる」

「だから、騒ぎを起こすようなことをして、住民の動きを活発にさせたってこと? 外に出させれば、あとは魔物が勝手に刈り取るから」

「ああ。俺ならそうする」

「本当、獣狩りをする要領ね」


 辟易してエレオノーラが肩を竦めると、シオンはさらに続けた。


「恐らく、ガリア軍は魔物が住民を襲撃している間に、本隊となる強化人間たちを街の周囲に展開して取り囲むはずだ。街から逃げる住民たちをそこで仕留めるためにな」

「だから、尖兵隊となる魔物たちを正面に誘導して、アタシの魔術で根こそぎ焼き払う、と。そうすれば、後続の強化人間たちは街を取り囲まず、魔物たちの代わりに正面から街に侵攻してくるってわけね」

「ああ。街を囲われなければ、住民たちをその間に外へ逃がすことができる。結果的に街を放棄することになるが、これでステラの望みは最低限叶えられるはずだ」


 シオンの考察に、エレオノーラは難色を示すように口元を微かに歪ませた。何か渋いものを食べたかのように、顔を顰めさせる。


「どうした?」


 シオンが訊くと、エレオノーラは魔術を行使する手を少しだけ休めた。


「ねえ、アンタはさ、ステラに何を――期待してんの?」


 その言葉には一瞬妙な間があったが、シオンはそれに気付いているかいないのか、


「俺の目的を果たすために必要不可欠な人間。そうとしか思っていない」


 即答して、目つきを鋭くした。

 エレオノーラが、後頭部を掻き毟って溜め息を吐く。


「そう。アタシから見たらそんな感じはしないけど、とりあえずはわかった」


 そう言って彼女は、再度銃を地面に突き立て、魔術の行使を再開する。また、地面が生き物のようにしてうねり始めた。

 そうして、即席の誘導路が完成した。エレオノーラが作ったこの誘導路は、街の唯一の入り口となる駅舎から、街の中央部分まで大きな道一本で構成されている。リズトーンは山に囲われた高所に位置する街――魔物を引き連れた旅団クラスの大人数が入り込むとなれば、まずここまでの移動手段に汽車以外を選ぶことはないだろう――そうシオンは予想した。

 エレオノーラが大きな息を一つ吐いて、シオンに振り返る。


「言われた通りやったけど、本当に引っかかる? 何か露骨すぎない?」

「露骨な方がいい。先に送ってくるのは間違いなく魔物だ。知能の低い魔物は必ず通りやすい道を選ぶ」

「まあそうかもしれないけど――あ、そうそう。ちゃんと“仕込み”もやったから、抜かりなく」


 エレオノーラが肩を竦めると、シオンは神妙な面持ちになって彼女の前に立った。


「な、なに?」

「魔物を焼き払ったあとのこと、頼んだ」

「……ステラたちを連れて街の外に逃げるって話?」


 シオンが頷く。


「ああ。俺が殿をやってできるだけ時間を稼ぐ。その間に、山奥へ避難させてくれ」

「アンタは死ぬ気なの?」

「まさか。俺も逃げるつもりだ」

「どうやって?」

「一つ訊いていいか?」


 逆に質問を返したシオンに、エレオノーラは訝しそうに眉根を寄せる。


「な、なに?」

「“悪魔の烙印”には魔術の抑制効果があるって前に言っていたな?」

「そうだけど」

「それがどれだけの効力なのかわかるか?」

「どれだけの効力……いや、そこまではまだわかっていない。ただ間違いなく、“騎士の聖痕”から発動される魔術を抑えているってことしか」


 エレオノーラの回答に、シオンは軽く息を吐いて少しだけ無念そうな表情になった。何故そんな反応をしたのかと、エレオノーラはますます怪訝な顔つきになったが――すぐにハッとした。


「あ、アンタ、もしかして――」

「シオンさん、エレオノーラさん!」


 エレオノーラがシオンに何かを訊こうとした矢先、ステラが駆け寄ってきた。

 ステラは二人の前で止まると、両膝に手をついて呼吸を整え、早口で喋り出した。


「今さっき街の人が、駅にガリア軍の軍用列車が到着したって言ってました! それを聞いた炭鉱夫たちが、一斉に駅に向かって行ったようです!」

「始まったか」


 シオンが言って、エレオノーラを見遣った。


「エレオノーラ、お前、人を殺したことはあるか?」


 突然の問いかけに、エレオノーラは少しだけ面食らった顔になる。だが、すぐに表情を引き締めて――どこか郷愁を帯びたような目つきをした。


「……あるよ。昔、小国同士の紛争で兵器として駆り出されたことあるから」


 シオンは、申し訳なさそうな、安心したような、複雑な表情を返す。


「お前が相手取るのは基本的には魔物だが、いざという時は頼んだ」

「わかってる」


 エレオノーラはつまらなそうに肩を竦めて応じた。

 続けてシオンはステラに話しかける。


「ステラ、お前はノラとオーケンと一緒にいろ。炭鉱夫たちが敵わないと判断した時、そこで初めて住民たちは一斉に逃げ出す選択肢を取るはずだ。その時に、ノラたちと一緒になって可能な限り誘導してくれ。あとでエレオノーラを合流させる」

「わかりました」


 ステラが返事をした直後、駅舎の方からいくつもの雄叫びが上がった。

 獣のような咆哮――ライカンスロープたちの鬨の声が、夜の空気を勇ましく震わせた。







 冷えた空気が星空の下に漂う中、リズトーンの駅舎は異様な光景を見せていた。

 そこに車掌を始めとした従業員の姿は一切なく、代わりにいるのは、青い軍服に身を包んだ無数の兵士たちだった。だがその兵士たちの中に、生身の人間は一人としていない。強化人間――軍服を一枚捲れば、そこには青白い人工筋線維に包まれた金属製の強化骨格の腕が覗かせる、機械化された人間だけがいる。

 大陸最先端の生体工学を用いて、自らを戦闘人形と化した集団――ガリア公国軍第八旅団と呼ばれた彼らは、その無機質な顔を隠すようにして、戦闘用マスクを一斉に装着した。


 続いて、駅舎に二本の軍用列車が入ってくる。甲高いブレーキ音に紛れて聞こえてくるのは、悍ましい唸り声だ。軍用車両には、強化人間の兵士たちが担ぐ重火器の他に、巨大な檻が積まれている。

 そこには、魔術によって生み出された動物ならざる生物――魔物が、家畜の如く無数に押し込まれていた。

 醜悪な容姿、緑がかかった土色の肌に、人の子供ほどの大きさしかない小鬼――ゴブリン。

 人よりも一回りほど大きな体を持ち、下顎から生えた巨大な牙を携え、ゴブリンに引けを取らない醜悪さを持った怪物――トロール。

 象やゴリラといった巨獣の生体情報を組み合わせて作られた一つ目の巨人――サイクロプス。

 それら三種で構成された魔物の軍勢は、数にして千匹以上で構成されていた。

 魔物たちは奇声を上げながら、今か今かと格子を揺らして解放されるその時を待っている。そのいずれもが、リズトーンに住まう住民たちの血肉を求めて、目を血走らせていた。


「ギルマン准将閣下」


 強化兵士の一人が、両腕を組んで立つ巨影に向けて敬礼した。

 その巨影の背後には、隊列した強化兵士たちが、あたかも等身大の人形のようにして一糸乱れずに整列している。


「魔物を含め、総員、突入準備完了しました。定刻通り、作戦を開始できます」

「よろしい」


 巨影が腕を解いて振り返ると同時に、強化兵士が隊列に戻った。

 巨影の眼前にあるのは、総勢千人で構成された強化人間の兵士たち。ガリア公国軍最強の歩兵集団と言われる第八旅団が、今まさにリズトーンへの侵攻に向けて戦闘準備を整え終わったところだ。


「これより第八旅団はリズトーン制圧作戦を開始する。この戦いは、リズトーンに住まう獣たちの不当かつ身勝手な占領に対する、正当な鎮圧行為である。奴らはガリア公国からの再三の申し出にも関わらず、我らの代理統治を拒み続け、大陸の財産として共有されるべき貴重な資源を独占している。この現状は、街に巣くう獣どもに中途半端な戦力で挑んだ我が軍の汚点ともいえるべき愚かな行いが招いたことだ。この事実は訓戒とすべきだろう」


 そう声を張った巨影――ガストン・ギルマンは、丸太のように太い腕を横一線に払い、軍用コートを靡かせた。


「ゆえに、我々は同じ過ちを犯すことはない。害獣どもを一匹残らず殲滅し、大陸の発展に寄与することが我らの使命」


 その体躯は二メートルを超えており、青い軍服と黒の軍用コートが彼をさらに威圧的に見せていた。隊列の兵士たちと同様、その顔は特異な戦闘用マスクで隠されていたが、発する野太い声質と声量から、ごつごつとした歴戦の兵士の人相を思い浮かべるのは誰もが容易だった。


「諸君、この名誉ある戦いに、存分にその力を振るうといい。獣の体毛一本、街から残すな」


 決して叫ぶような声ではない、あくまで落ち着いたセリフであった。だが、そこに込められた確かな熱に、隊の兵士全員が、漏れなく大きな声で応じた。

 ギルマンがそれを満足そうに見たあと――魔物を閉じ込める檻が、複数の兵士たちによって隊の先頭に運ばれた。

 そして、ギルマンが片腕を高く掲げる。


「さあ、一匹残らず食い殺せ!」


 その一声と共に腕が振り下ろされ、檻が勢いよく開かれた。

 解放された無数の魔物たちが、血肉を求めてリズトーンへと一斉に駆け出していく。







 ライカンスロープの炭鉱夫たちは、五十人ほどの隊を形成して駅舎へと向かっていた。そのうちの十数人の手には、一年前のガリア軍との交戦時に鹵獲した小銃が握られている。それ以外には、つるはしを始めとした採掘用の道具を武器代わりにしていた。

 炭鉱夫たちは、エレオノーラが作った大きな一本道の誘導路を怪訝な顔で見遣りつつ、その足を速めていった。


「なあ、駅から街に続く大通りってこんな窮屈な感じだったか?」


 炭鉱夫の一人が疑問を言って、


「何か旅の教会魔術師がいたとか何とかで、俺たちに協力してくれるんだとよ。この道も、その教会魔術師がやってくれたらしい。敵の侵入を制限する誘導路だと」

「へえ、そりゃ心強い話だ。だがまあ、そんな大げさな奴の手を借りずとも、俺たちだけでどうにかなる話だがね」

「違いねえ。さっさと終わらして、明日の仕事に備えようぜ」


 他の炭鉱夫たちが談笑混じりに答えた。まるで、これから雨漏りを塞ぎに行くような感覚の会話だった。

 これから起こるのは、一年前と同じような戦い――“バニラ”と蔑む人間たちを、身体能力の面で圧倒的なアドバンテージを持つ自分たちライカンスロープが蹂躙する光景だ。

 この街に住まう多くの住民が、そう信じて疑っていなかった。ゆえに彼らはここまで気楽に構えていられるのだ。

 しかし、その楽観的な考えはすぐに終わりを迎えることになった。

 ライカンスロープ特有の優れた聴覚と嗅覚が、その異変を真っ先に捉えた。


「おい、何か様子が変じゃないか?」


 炭鉱夫の一人が足を止めて声を上げると、それに倣って次々と全員が足を止めた。その間に、また別の炭鉱夫が不意に地面に耳を付けて意識を集中させる。そして、そこから伝わってくる音と振動に、顔を青ざめさせた。


「じ、尋常じゃない数が迫ってきているぞ! しかも、明らかにヒトの重量じゃない足音が幾つかある!」

「おい、あれ!」


 その言葉を裏付けるかの如く、無数の小柄な影と、いくつかの巨大な影が駅の方から迫ってきた。

 奇声に雄叫びを混ぜた耳障りな魔物の咆哮が、夜の凍てついた空気を悍ましく震わせる。


「なんだあれ!? “バニラ”の兵士じゃないのか!?」

「身体能力じゃ俺たちライカンスロープに勝てないからって、魔物を使ってきやがったのか!」


 炭鉱夫たちが驚愕に表情を歪めながら武器を構える。

 その光景を眼前にした魔物たちが、一斉に歓喜の鳴き声を上げた。

 ゴブリンたちが四足歩行になって加速し、一人の若い炭鉱夫に狙いを定めて一斉に飛びかかる。


「ひい!」


 若い炭鉱夫はゴブリンの醜悪な容貌を見て怯えた声を上げつつ、つるはしを振った。つるはしの先端が飛びかかったゴブリンのこめかみにめり込み、その小柄な体を勢いよく吹き飛ばす。他のゴブリンたちがそれに若干気取られるようにして一瞬動きを止めると、若い炭鉱夫は意気揚々として息を荒げた。


「な、何が魔物だ! 見ろよ、所詮は俺たちライカンスロープに敵う相手じゃ――」


 そう言いかけて、言葉を詰まらせた。

 吹き飛ばしたゴブリンが、頭を半分失った状態で立ち上がり始めたのだ。その異形の双眸には明らかな怒りの情が込められており、まるで駄々っ子のようにして地団駄を踏み始めた。


「な、なんだ、こいつら……何でまだ生きてるんだ……!」


 恐怖と困惑で狼狽する若い炭鉱夫を尻目に、他のゴブリンたちが怒りに狂う同族を見て嘲笑していた。その怒りに我を忘れたゴブリンはというと、脳漿をあたりにぶちまけながら、再度若い炭鉱夫へと肉薄していった。

 若い炭鉱夫は、突然の突進に対応することができず、ゴブリンに馬乗りにされてしまう。


「うわあ!」


 両腕を前に出しながら悲鳴を上げた直後、怒り狂ったゴブリンが若い炭鉱夫の顔面を食い潰した。それに続けとばかりに、他のゴブリンたちが若い炭鉱夫の手足を引きちぎってその血肉を貪り始める。


「畜生! 銃も効かねえ!」


 ゴブリンたちは、銃で撃たれようが、つるはしで身体を貫かれようが、お構いなしに前進した。

 そんな出来事の傍らで、


「助けてくれ! 死にたくない! 誰か――」


 一つ目の巨人、サイクロプスが、今しがた炭鉱夫の上半身を嚙み砕いて飲み込んでいた。その片手には、鮮血を吹き出しながら痙攣する下半身が握りしめられている。サイクロプスはそれも口の中に放り込んだあと、また新たな餌を求めて、逃げる炭鉱夫たちに巨大な一つ目で視線を送った。五メートルを超える体高を誇る魔物が、次々と炭鉱夫たちを手に収め、口の中に放り込んでいく。


「クソ、魔物が来るなんて聞いてねえぞ! お前ら、ここはいったん街の中心まで引いて――」


 とある壮年の炭鉱夫がそう言いかけて、身体をぺしゃんこに潰された。彼の身体の真上には、トロールの巨体が乗っている。

 三メートルを超える筋骨隆々とした体躯は、ライカンスロープの身体能力を遥かに凌駕する運動能力を有していた。トロールたちは、脱兎のごとく逃げ出す炭鉱夫たちを、それ以上の速度で追いかけ、真上から踏み潰していった。その潰されていった炭鉱夫たちの亡骸は、ゴブリンたちがハイエナのように群がって処理していく。

 駅舎から街の中央へと続く大通りは、単なる魔物の餌やり場と化していた。







「応戦に行った奴らが全員やられちまった! ガリアの奴ら、魔物の大群を率いているぞ! もうすぐそこまで迫ってきている! 今すぐ逃げろ!」


 見張り塔にいた住民が震えた声を張り上げた。酷く狼狽しており、自身もすぐさま地上へと降りて一目散に駆け出してしまう。

 突然の出来事に、他の住民たちが揃ってきょとんとした顔になっていたが、やがて駅舎の方角から聞こえてきた地鳴りに戦慄するようになる。ライカンスロープたちの優れた視力と聴力が、すぐさまその地鳴りの正体を捉えたのだ。駅舎方面からこちらに向かってくるのは、奔流の如く押し寄せてくる無数の魔物たち――ゴブリン、トロール、サイクロプスが群れを成し、餌となる住民を求めて咆哮していた。


「う、嘘だろ!」


 誰かが発したその一声を皮切りに、それまで高を括っていた住民たちが一斉に駅舎とは反対方向に走り出していった。

 先の雷の影響で、街の半数以上の住民が外に出ていた状態だったが、悲鳴と怒号が混ざった騒ぎに、家屋の中にいた残りの住民たちもただ事ではないと、続々と避難の輪に加わっていく。

 阿鼻叫喚として、我先にと他人を払いのけて先に逃げようとする住民たち――その傍らでは、ノラとステラが必死に声を上げて彼らに呼び掛けていた。


「皆さん、落ち着いてください! 他の人を押さないで!」

「駅舎と正反対の方角に向かってください! そのまま街の外に出て、決して街には戻らないでください!」


 しかし、二人の声は逃げる住民たちの喧騒に掻き消され、誰一人として耳を貸す者がいなかった。

 こうなることは予想していたが、実際にそうなってみると何とも歯痒いと、シオンは表情を険しくして露骨に苛立ちを見せた。そこへ、オーケンが徐にやってくる。


「黒騎士の兄さんの言う通りだ。街の周囲を囲むように、嗅ぎなれない臭いが駅舎の方からぐるりと移動し始めている」

「想像以上に手際がいい。逃げる住民の何人かは兵士と鉢合わせして、殺されてしまうかもしれないな」


 シオンが申し訳なさそうに視線を落とした。それを見たオーケンが、やんわりと首を横に振る。ドワーフ特有の髭がわさわさと優しく揺れた。


「仕方がない。この短期間でわしらにできることは限られていた。まして、住民たちはお前さんたちの言うことに一切耳を傾けなかった。彼らにこれから起こることは、なるべくしてなる結果だろうさ」

「……それで納得しない奴もいる」


 そう言ってシオンが視線を送った先には、喉奥を裂かんばかりの勢いで声を張り上げるステラの姿があった。オーケンが、感心したような、呆れたような小さなため息を吐く。


「一国の王女が、こうして自ら体を張って動くとはね。わしらのことを切り捨てでもやらなければならないことがあるだろうに。まあ、わしらとしては有難い上に、少し安心もした」

「安心?」


 シオンが小首を傾げると、オーケンはその気難しそうな顔を少しだけ笑顔で緩めた。


「将来、わしらの国を治めるであろう御仁が、ああいう娘でよかったってな」

「どうかな。政治は綺麗ごとだけで務まるものじゃない。俺個人としては、あいつにそんな大層な役が務まるとは到底思えないな」

「まるで王女の保護者のような言い草だな」


 オーケンが力なく笑うと、シオンが片方の眉を上げるような感じで訝しんだ。


「どういう意味だ?」

「気にしないでくれ。近くにいる奴と、傍目から見た奴とでは、その個人の印象もまた違って見えるというだけだ」


 結局何を言いたいのか理解できないまま、シオンは眉根に皺を寄せたままだった。だが、それ以上の追及をすることは叶わず、


「ちょっと、シオン! もう時間がない! さっさと準備に入って!」


 エレオノーラが怒号さながらに招集をかけた。シオンは、彼女のもとへ行く前に、一度オーケンへ軽く目を馳せる。


「アンタも早く避難した方がいい。ここも安全じゃなくなる」

「ああ。ノラと王女の娘さんが仕事を終えたら一緒に行くさ」


 頷いて、シオンはエレオノーラの傍に駆け寄った。

 エレオノーラはライフルを抱えるようにして両腕を組み、いつも通りの若干不機嫌な顔を見せている。


「もう無駄話する余裕なんてないんだから、しっかりしてよね」

「わかってる、すまない」


 シオンの軽い謝罪に、エレオノーラは小さく鼻を鳴らした。

 それから二人は、駅舎へと続く大通りの方へ向き直る。大通りに並ぶ街灯が、街中に向かって走る魔物たちの姿を、鮮明に映し出す。すでに、人間の視力でも肉眼で視認可能な距離まで近づいていた。


「準備はいい? 予定通り、アタシはひたすらぶっ放すから。魔物や兵士が近づいてきたら、ちゃんと対処してよ」

「ああ。加減なしに頼んだ」


 エレオノーラが、ライフルを構える。その照準の先は、無論、魔物の群れだ。

 残り一〇〇メートル、九〇、八〇と、彼我との距離が迫る。

 群れの先頭を走るゴブリンの一匹が、シオンとエレオノーラの姿を双眸に捉え、奇声を上げながら飛びかかった。

 そして――


「きっしょ」


 エレオノーラが引き金を引き、銃口から巨大な火球が放たれた。車数台は楽に吞み込んでしまいそうなほどの火炎が、魔物の群れに襲い掛かる。

 エレオノーラの炎は、先頭を走っていたゴブリンたちを漏れなく消し炭と化し、さらに奥へと突き進んでいった。後続に控えていた屈強なトロールをも焼き払い、発射地点から五〇メートル離れたところで着弾する。炎は着弾と同時に駅舎方面へと伸びて勢いを増し、大通り一帯を火の海と化した。

 この火力は、エレオノーラが放った弾丸だけによるものではない。彼女は大通りの地形を変える際に、ある仕込みを同時にしていた。

 このリズトーンという街はログレス王国でも屈指の炭鉱街――採掘済みの石炭を始めとした化石燃料が街中至る所に存在する状態だった。また、周囲の山脈から流れる地下水もこの街には豊富に延ばされていた。

 エレオノーラは、それらを大通りの地面に混ぜ込んでいたのである。

 そこへ巨大な火種が着弾した瞬間――彼女は、すぐさまライフルで地面を突き、魔術によって地中の燃料と水を可燃物、水素、酸素に変化させた。

 それらは瞬く間に連鎖的に引火し、大通りを劫火に包ませたのだ。


 よもやヒトであれば間違いなく瞬時に焼死するような有様――しかし、獄炎の中にいるのは、通常の生物よりも遥かに頑丈に造られた魔物である。この炎で、大通りにいたすべての魔物を焼き殺すことができたわけでもなかった。

 体を火傷で激しく損傷しつつ、脂肪に火を点けたまま雄叫びを上げ、数匹のゴブリンとトロールが炎の中から姿を現してきた。


 この炎がエレオノーラによって生み出されたことを理解しているのかどうかは定かではないが、いずれにせよ、ゴブリンたちは痛みと熱さ、怒りによって形相を酷く歪めていた。

 そして、その感情を発散するかの如く、エレオノーラに狙いを定めて襲い掛かっていく。

 だが、魔物たちの進撃は、指一本として彼女に届くことはなかった。


 シオンが刀を鞘から走らせ、まずは一匹、ゴブリンの頭を刎ね飛ばす。その首と胴体が地面に着く前に、さらにもう一匹のゴブリンが縦に両断された。

 エレオノーラに向かってさらに二匹のゴブリンが飛びかかるが、シオンが振るう刃は、先ほど両断したゴブリンが左右に分離する前に、その二匹の頭を上顎から斬り捨てる。

 時間にして三秒も満たさない一連の剣技に、魔物は当然として、エレオノーラすらも何が起こったのか反応できずにいた。


 炎から逃げ出たゴブリンたちを屠ったところで、今度は二匹のトロールが雄叫びを上げながら、文字通り身を焦がしてシオンに肉薄してきた。

 三メートルは超える巨体でありながら、その身体能力はライカンスロープをも凌ぐ俊敏さを有している。二匹のトロールは、ゴブリンたちとは比較にならない身のこなしで、颯爽とシオンとの距離を詰めて拳を振り上げた。手の甲に炎を引火させて高所から振り下ろすその有様は、さながら小隕石の落下のようだ。


 しかし、次の瞬間にはトロールの振り下ろされた腕は胴体から斬り離されて宙を舞っていた。その断面から鮮血が吹き出す間もなく、今度は頭が縦に両断される。薪を割ったような頭部から、花火のような勢いで血が溢れ出た。

 トロールの一匹が何かの芸術作品のような姿になった矢先には、すでにもう一匹のトロールはシオンの刀によって首を刈り取られていた。


 僅か数秒の間に、炎から逃れてきた魔物はすべて討ち取られた。

 シオンは他に魔物の気配がないことを確認すると、刃の血糊を雑に払って一度刀を鞘に納める。


「お、お見事……」


 エレオノーラが呆気に取られた様子で賛辞の言葉を送ったが、シオンの目つきは鋭いままだった。


「炎の中で異様にでかい魔物がまだ暴れているな」


 シオンの言葉通り、火の海のど真ん中で、何やら行き場を失った子供のようにして喚きながら両腕を振るう一つ目の巨人――サイクロプスがいる。この炎によって足を焼き潰したためその場から動けずにいるようだが、依然として上半身は無事だ。

 その様子を見たエレオノーラが、表情を険しくしながら鼻を鳴らした。


「ちょうどいいや。このまま“次の攻撃”、仕掛けちゃうから」


 エレオノーラはそう言って、ライフルをくるくると回し出す。


「シオン、危ないからちょっと離れてて」


 そう言ってシオンを後ろに下がらせると、エレオノーラはライフルを長杖に見立てて、自身の正面に両手で構えた。


「火種は至る所に、燃料と酸素も充分」


 目を瞑り、周囲の条件を確認するようにぼそぼそと呟く。

 次の瞬間、魔術の実行反応である青白い発光がエレオノーラの周囲から発せられた。光は地面を割るように、大通りへと延びていく。

 やがて、地面が小刻みに震えだし、地鳴りのような音が鳴り始める。

 そして、エレオノーラがライフルの先を大通りへ向けた途端、


「消し飛べ!」


 彼女の言葉に呼応するようにして、大通りの地面が怒涛の勢いで捲り上がった。土と、炎と、可燃物と、水が、何かの意思を孕んだかのように駅舎へと流れていく。紅蓮の奔流は火砕流のようにして、大通り一帯を容赦なくなぎ倒していく。

 その光景はまるで、地雷原に仕込まれた爆薬が一斉に炸裂したかのようだった。

 炎の濁流は、魔物の群れを瞬く間に呑み込んでいき、一匹たりとも逃がしはしなかった。

 “紅焔の魔女”から放たれた炎は、まさしく災害染みた力を以て、敵を殲滅せんとしていた。







 爆炎と煙が少しずつ晴れ、大通りの赤熱した地面が露わになってきた。そこに魔物の姿は一切なく、骨の欠片すら残っていない。大通り沿いに並んでいた建築物も、炎の熱によって焦げ散らかしている状態だ。

 エレオノーラは、力が抜けたようにがっくりと膝をつき、荒々しく呼吸を再開した。


「ひ、久々に本気出したから、ちょっと息切れ……」


 彼女の手をシオンが取り、そのまま肩を貸して立ち上がらせた。


「動けるか?」

「何とか。でも、もう一回あれをやれって言うのはナシだからね。頭痛いし」

「ああ、これだけやれば充分だ。あとは俺に任せて、お前は先にステラたちと合流してくれ」

「それはいいんだけど、最後にこの街を出るアンタとはどうやって落ち合うの? 山の中じゃあ、最悪お互いに遭難すると思うけど」

「まっすぐ北の山を越えてくれ。そのすぐ麓に農村があるはずだ。俺もそこに向か――」


 シオンはそこまで言いかけて、不意に黙った。エレオノーラがそれに怪訝な反応を示す前に、突然、シオンは彼女の身体を突き飛ばす。

 刹那、二人の間を割くようにして一筋の銀閃が走った。何が通り過ぎたのか――至近距離で放たれた拳銃の弾丸すら肉眼で見切ることのできるシオンですら、それを視認できなかった。咄嗟にエレオノーラの身体を突き飛ばして銀閃を躱すことができたのも、ほとんど勘に頼ったものだ。


 シオンは銀閃が向かった先に目を馳せようとしたが、その正体が何かわかる間もなく、二人から一〇〇メートルほど離れた場所にある建築物にそれはぶつかった。

 直後、眩い光と轟音が起きる。手榴弾でも炸裂したかのような爆発だった。その余波はシオンたちのいる場所にまで届き、衝突の際に相当なエネルギーが放出されたのだとわかる。


「な、なに、今の……!?」


 エレオノーラが尻もちをつきながら驚き、シオンもまた、理解が追いつかないこの一連の現象に顔を顰めた。

 思いがけない事態に警戒心を最大限に強めた時、今度は、駅舎方面から向かってくる複数の気配にシオンは気が付いた。魔物の生き残り――ではない。こちらに向かってくるそれらの速度は、明らかに“生き物”のそれを逸脱している。続けて聞こえてきたのは、大気を小刻みに爆ぜさせるエンジン音だ。


 大通りに立ち込める硝煙を突き破って中央区に侵入してきたのは、軍用自動二輪車に跨る強化人間の兵士たちだった。小銃や片手の戦斧で武装しており、その数は十二人――


「エレオノーラ、お前は自分の身を守れ!」


 シオンはすぐさま駆け出した。刀を引き抜き、先頭を走る兵士に向かって瞬時に距離を詰める。

 騎士の身体能力にはさすがに強化人間でも反応できないのか、その兵士は突如として眼前に現れたシオンの姿に驚いた反応を見せた。そして、頭部を目元から横一線に分断される。

 頭部上半分を失った兵士の身体は自動二輪車と共に投げ出され、後続の兵士たちを撒きこむようにして横転した。


 後続の兵士三人はすぐにそれに対応した。自動二輪車を乗り捨て、空中で小銃を構えてシオンに発砲する。生身の人間では到底できない動作を見せつけてきたが――それはシオンとて同じである。


 シオンは、三人の兵士から放たれた弾丸を難なく躱すと、刀の先を兵士の一人に向けて投擲した。その兵士は空中で避けることができず、深々と胸に刀を突き刺してしまう。

 だが、兵士はそれに苦悶した様子を見せることなく、肉薄するシオンに対して淡々と応戦しようとしていた。小銃を投げ捨て、今度は腰の戦斧を両手に構える。

 兵士は着地と同時に戦斧をシオンに振り下ろしたが、シオンはそれを横薙ぎに払った蹴りで力任せに弾いた。兵士の腕が歪に変形するが、なおも兵士はシオンへの攻撃を止めようとしない。

 そこへ、シオンは兵士の胸に突き刺さった刀を掴み、兵士の頭部に向かって一気に刃を走らせた。胸から頭頂部まで真っ二つに分断された兵士は、そこでようやく動きを止め、電源が切れた自動人形のように仰向けに倒れる。


 続けて、二人の兵士がシオンに襲い掛かる。シオンを挟み込むようにして、彼の左右から戦斧の刃が迫った。

 シオンは刀を逆手に持ち替え、両脇の兵士二人の腕を斬り落とす。通常の人間であれば到底視認できない剣を振るう速度――しかし、兵士たちはそれに臆することなく、今度は蹴りでシオンを捉えようとした。

 シオンは、一人の兵士の蹴りを受け止め、その間にもう一人の兵士の足を刀で分断した。一本足となった兵士がふらついている間に、蹴りを受け止めた方の兵士の首を刎ね飛ばす。一本足の兵士の頭も上顎から横に斬り捨て、シオンはすぐさま他の兵士たちに目を馳せた。


 兵士の残りは九人――その数の少なさに、シオンは顔を顰めた。魔物の群れを一掃すれば、半分以上は強化人間の兵士たちを正面から送り込んでくるはず――その予想が外れたのだ。

 恐らく兵士たちは、今頃街の周辺を取り囲んでいるのだろう。となれば、先に街の外に避難しようとしたステラたちもかなり危険な状態にさらされているということになる。


 シオンは舌打ちをしつつ、いずれにせよ目の前の兵士たちを片付けなければならないと、意識を集中させた。


 今度は、四人の兵士がシオンに向かって特攻していった。

 自動二輪車のアクセルを最大限に回し、車輪で土埃を巻き上げながら捨て身のような突進を一斉に繰り出す。

 シオンは、先ほど討ち取った兵士から片手用の戦斧を拾い上げ、それを向かってくる兵士の一人に投げつけた。

 その兵士は身を屈めて飛来する戦斧を避けるが、直後にシオンの刀が上から喉を貫き、延髄を損傷させられる。兵士は体を硬直させたまま壁へと追突し、自動二輪車の爆発に巻き込まれてそれきり静止した。


 残りの三人の兵士が、自動二輪車ごとシオンに迫るが――突如として、兵士たちの身体が宙を舞う。見ると、地面からブロック状の岩がいくつも突き出し、それらが兵士たちの乗る自動二輪車を上方に飛ばしたのだ。


「シオン、伏せて!」


 エレオノーラの一声を受けて、シオンは咄嗟に姿勢を低くする。

 直後、宙を舞う三人の兵士たちに向かって、エレオノーラの火球が放たれた。火球は自動二輪車に積まれた燃料に引火し、激しい爆炎と轟音を発生させる。その衝撃に巻き込まれた兵士たちの身体は四肢を失いつつ火炎に包み込まれ、地面に投げ出された。ぴくりとも動かないことから、そのまま絶命したのだろう。


 時間にして僅か一分ほどの攻防劇だった。ここでようやく、ガリア兵たちの攻撃の手が止まる。

 残りの兵士の数は五人――シオンとエレオノーラはお互いの背中を預けるようにして立ち、兵士たちの動向を伺った。


「ねえ、何か想像以上に数少なくない?」


 エレオノーラの不安そうな問いに、シオンは忌々しげに頷いた。


「ああ、どうやら俺の予想が外れたみたいだ。ガリア兵のほとんどが今頃街の周囲に展開されているんだろうな」

「どうすんの!?」

「ステラたちを呼び戻す。逆に大通りから駅舎にかけて手薄になるのなら、ここからあいつらを逃がせば――」


 そこまで言いかけて、シオンは黙った。彼の視線は、大通り――駅舎の方角へ向けられている。

 そこに、ひとつの大柄な人影があった。二メートルは超えるであろう体躯だが、魔物ではないことはその身なりでわかる。ガリアの青い軍服、それに軍用コートを纏っていることが何よりの証だ。

 その人物は悠然と一人で大通りの中心を歩き、シオンたちへと近づいてくる。

 街の街灯がその人影を照らし出した時、その胸に付けられているいくつもの勲章がチカチカと光を反射させた。


 ガストン・ギルマン准将――シオンは、大胆不敵に歩くこの軍人こそがその人だと、確信した。

 刹那、シオンは勢いよく地面を蹴った。如何なる陸上生物をも凌ぐ騎士の走力が、ギルマンとの距離を瞬く間に縮める。


 そして、引き抜かれた刀がギルマンの首筋に吸い込まれ――


「ほお。噂通り、報告通り、か。まさか、本当に黒騎士がいるとはな」


 甲高い金属音が鳴り、刃はギルマンの片腕によって防がれた。

 強化人間とはいえ、騎士でもない人間に自身の一閃を防がれたことに、シオンは目を丸くさせた。

 直後、ギルマンの周囲が妙な光を発しだす。それを見たシオンは、反射的に後ろに飛び退いた。

 それで正解だったと、すぐに思い知ることになる。ギルマンを中心に、視認できるほどの電気が迸ったのだ。けたたましい音を上げながら、電気は地面を焼き焦がしていく。

 シオンは、無数の蛇に追われるような感覚でその電撃から距離を取った。

 その様子を見たギルマンが、満足そうに肩を小刻みに揺らした。


「さすが、騎士の身体能力は相当なものといえる。あの電撃、反応できただけでも大したものだというのに、まさかすべて躱してしまうとは」


 やけに楽しそうな声色だったが、一方のシオンは表情を険しくして舌を鳴らした。

 戦えば勝てそうではあるが、果たしてそんな悠長なことをして、限られた時間内でステラたちを無事に呼び戻すことができるのか――次の手の思案が脳裏に目まぐるしく浮かぶが、この状況では到底集中することができない。

 そんな苛立ちが、自ずと表情、態度に出てしまっていた。


「王女の安否が気になるか、黒騎士?」


 そんな心境を読み取ったかのようにギルマンが言った。シオンとエレオノーラが、揃って呆然とする。


「我々が何も知らないでここに来たと思っているのか? だとすれば、いささか貴様らは一国の軍人というものを舐めすぎているな」


 答え合わせをするかのようにギルマンが言って、今度は徐に右手を軽く挙げた。

 すると、街の奥の方――ステラや住民たちが逃げていった方角から、兵士たちに取り囲まれながらぞろぞろと大勢の人影がやってきた。

 それらは避難したはずのリズトーンの住民たちで、その中には、


「す、すみません。捕まっちゃいました……」


 ステラ、ノラ、オーケンの姿もあった。

 それに加えて、住民たちを取り囲む兵士の中には、


「カルヴァン・クレール伍長、よくやった。貴官の働きにより、逃亡した住民たちを迅速かつ滞りなく一網打尽にすることができた」


 カルヴァンの姿があった。







「まずは武装を解除してもらおうか。黒騎士、それと“紅焔の魔女”――エレオノーラ・コーゼル」


 ギルマンの要求に、エレオノーラが驚きつつ顔を顰めた。


「あんな災害級の魔術を扱える奴など、この大陸に数えるほどしかいるまい。名乗らずとも貴様がエレオノーラ・コーゼルであることは自明だ」


 ギルマンがその心中を読み取ったように説明して、エレオノーラは舌打ちをする。それから、ライフルを地面に投げ捨てた。ライフルを兵士が拾い上げると、ギルマンは次にシオンを見遣る。


「黒騎士、貴様もさっさと武器を捨てろ。ここで王女を失いたくはあるまい」


 その言葉からやるべきことを汲み取ったようにして、無言でカルヴァンがステラに銃を突きつけた。

 ノラが、沈痛な面持ちで歯噛みする。


「カルヴァン、貴方、何をしているのかわかってるの?」


 しかし、カルヴァンは答えなかった。

 敵国の軍人であれ、彼とは長い苦楽を共にしたことで心を通わすことができたと思っていただけに、ノラの心境は酷くかき乱されているようだった。

 そんな静かなやり取りを尻目に――シオンは険しい表情のまま、刀を鞘に納めて地面に置いた。刀もまた、兵士によって颯爽と奪い取られる。


「よし。では、王女と“紅焔の魔女”を俺の前まで移動させろ」


 ギルマンの指示を受けて、複数人の兵士がステラとエレオノーラに銃を突きつける形で二人を誘導した。両手を挙げた状態の二人は、ギルマンの正面五メートルほどの位置に立たされる。


「まずは王女だ。貴様は生死問わずに捕えよと言われているが、生け捕りできることに越したことはない。大人しく我々に従えば、当面の間は身の安全を保障する」


 そして、次の瞬間、突如としてステラの足元から何本もの金属製の細い柱が突き出してきた。それらはステラの頭上でかち合うように合わさり、鳥籠のような形になる。


「な、何ですか!?」


 ステラが驚きながら、落ち着きのない囚人のようにして格子状になった柱を両手で揺らす。

 だが――


「うわっ!」


 バチン、という短い破裂音のような音が鳴り、ステラの手と柱に青白い発光が起きた。


「仮にも王女だろう? 猿のような真似をするな。体に樹状の火傷痕を残したくなければ、大人しくしていることだ」


 その言葉から察するに、ステラを囲う籠には、ギルマンが自在に電気を流せるのだろう。この籠自体も、ギルマンによるものであることは容易に想像できた。おそらくは、地中にある金属を使って作り出したに違いない。


「次は貴様だ、エレオノーラ・コーゼル」


 ギルマンがエレオノーラを見遣る。不意に思わずといった様子で、エレオノーラは体をびくつかせた。


「貴様がただの教会魔術師であれば今ここで始末したのだが――貴様に何かあると面倒事が増える。“親”に命を助けられたな」


 ギルマンが妙な含みを持った発言をした直後、


「きゃあっ!」

「エレオノーラさん!?」


 短い悲鳴を上げて、エレオノーラがその場に倒れた。その直前に、ギルマンと彼女の間に導火線のようにして電流が走っていた。恐らく、魔術によって感電させられたのだろう。

 エレオノーラは地に伏したまま全身を痙攣させ、目を半開きにして意識を失わせていた。そんな彼女の身体もまた、突如として地面から現れた金属製の籠に囲われてしまう。


 ギルマンは二人を閉じ込める籠の脇を通り抜け、今度はシオンの方へと歩み寄った。


「騎士団分裂戦争で恐れられた黒騎士も、人質を取られては何もできないか」


 嘲るでもなく、ただその事実を確認するかのようにギルマンが訊いた。

 シオンは顔を顰めるように目尻を吊り上げ、目の前の強化人間を見上げる。


「いつ、誰から俺とステラのことを知った?」

「無論、我が軍の情報網からだ」

「その情報網に、教皇も関わっているんじゃないのか?」


 シオンの言葉に、ギルマンは小さく鼻を鳴らした。


「さすがに、ガリアと教皇の関係は知っていたか。まあ、ルベルトワの領主を強襲し、エルフの奴隷を解放したのだから、そのくらいの情報を仕入れていたとしてもおかしくはないか」


 ふと、ギルマンがシオンに背を向けて少しだけ距離を取り始める。


「貴様も難儀な男だ。よりによって、この大陸における最高権力者の命を奪おうとした挙句、あらゆる勢力を敵に回すことになるとはな。歴代の黒騎士を浚ったとしても、こんな窮地に立たされたのは貴様以外にいるまい」

「何故、教皇はガリアと手を組んでいる? 騎士団は何をしている? 教会の権力者が一国の政治や軍事に肩入れすることは固く禁止されているはずだ。そんなこと、騎士団と――聖女が許すはずがない。あいつらも教皇と繋がっているのか?」

「話してやってもいいが、その意味も、必要性もない」


 シオンが小首を傾げる。

 と、ギルマンはコートを靡かせ、右の手の平を広げながら、再度シオンに振り返った。


「貴様はここで死ぬからな」


 刹那、ギルマンの手の平からシオンの胸に向かって、一筋の銀閃が走った。

 銀閃はシオンの身体を貫き、彼の背後の家屋に衝突して爆発と轟音を引き起こした。この現象は、先刻、シオンとエレオノーラを襲ったものと同じであった。


 そして、シオンは、自身の身体を見下ろして目を見開く。

 胸に、ぽっかりと拳一つ大の風穴が開けられていた。傷口は焼き潰され、出血すら起きていない状態だ。


「――」


 シオンは、支えを失ったように両膝を付き、そのままうつ伏せに倒れ込んでしまった。

 その有様を見たステラが、顔面蒼白になって口を何度も開閉させる。


「シオンさん……?」


 それには構わず、ギルマンは、調子を確認するようにして自身の右手の平を動かす。人工の筋線維と骨格となる強化フレームが、高熱を帯びて若干ぎこちない挙動をしていた。


電磁投射砲レールガンの弾丸速度は、騎士の動体視力を以てしても見切ることはできなかったか。威力も申し分ないが、いかんせん撃った後のクールダウンの時間が厄介だな。まだまだ改良の余地ありといったところか」


 シオンを貫いた銀閃の正体は、電磁投射砲レールガンと呼ばれる兵器から放たれた弾丸だった。ギルマンの魔術で作り出した膨大な電気が彼の腕部に仕組まれた小型兵器に作用することで、金属の杭を超高速で発射したのだ。火薬を必要としない弾丸は、騎士ですら見切ることのできない銀閃と化してシオンの身体を穿った。


「シオンさん、嘘ですよね!? シオンさん!」


 ステラが、先ほどギルマンから受けた忠告など忘れたようにして、激しく籠を揺さぶる。しかし、彼女の呼びかけ虚しく、シオンはうつ伏せに倒れたまま一切の反応を示さなかった。

 ギルマンはその傍らを通り抜け、今度は兵士たちに囲まれる街の住民たちの方へと歩みを進める。

 住民たちライカンスロープの表情が、いよいよ恐怖に耐えきれないものになった。


「さて、最後は諸君だ、リズトーンに住まう害獣たちよ。我々は貴様らを生かしてこの街から出すつもりはない。潔く自らの運命を受け入れ――」

「待ってください、話が違います! 私が貴方たちに従えば、街の人たちには危害を加えないって!」


 涙目のステラが叫ぶと、ギルマンは少しだけ億劫そうに彼女の方へ振り返った。


「俺はそんな約束をした覚えはない。まあ、部下が貴様を大人しくさせるために適当な約束を取り付けただけだ。申し訳ないな、王女よ」

「ふざけないで!」

「仮に約束があったとして、もはや貴様は我々の手中だ。今更、それを忠実に守ると思うか?」


 くだらない押し問答をさせるなと、最後にギルマンが付け加えた。

 ステラの顔が憤怒に歪み、噛み締めた下唇から血の筋が滴り落ちる。

 そして、それを嘲笑うかのようにして、ギルマンが右手を軽く挙げた。同時に、周囲の兵士たちが一斉に銃口を住民たちに向ける。


「逃げてぇ!」

「撃て」


 ステラの叫びが、幾つもの発砲音によって掻き消された。

 夜の闇が、銃口からの発砲炎によって照らされる。その眩い光が映し出すのは、ライカンスロープたちが血と肉片をまき散らしながら、踊るように倒れていく光景だった。

 銃声に混ざって聞こえるのは幾人もの絶叫――それが、ステラの生気を奪っているかのようにして、彼女は籠の中でゆっくりとへたり込んでく。目と口は呆然と開かれたまま、ステラもまた無言の悲鳴を上げているかのような表情だった。


 やがて銃声が止み、夜の闇と静寂が取り戻される。立ち込めるのは硝煙と、血の臭い。それまで生き物だった肉の塊からは、弾丸の熱と、微かに残った体温が冷気に当てられ、弱々しい白煙が魂の如く上がっていた。

 兵士たちはすぐさまライカンスロープたちの亡骸の中へと足を踏み込み、生き残りがいないか確認を始める。

 ギルマンはそれを監督しつつ、近くの兵士に目を馳せた。


「たったこれだけで住民全てというわけでもあるまい。街の周囲に展開させた部隊はどうなっている?」

「王女を確保したので、残りの住民については発見次第、射殺するように指示を出しております」

「よろしい。明け方までには完遂させておくように。街から一匹たりとも逃すな。この作戦が明るみになると、政治屋どもが文句を言って騒ぎ出すからな」


 ギルマンの言葉を受けて、兵士は敬礼をして立ち去った。

 次に、ギルマンは踵を返してステラの方へ向かおうとするが――ふと、目に留まったものがあった。


「……カルヴァン・クレール伍長、何をしている?」


 カルヴァンが、ノラとオーケンに銃を向けたまま、まるで静止画のようにして硬直していたのだ。

 ギルマンに呼びかけられ、カルヴァンは意識を取り戻したようにハッとする。


「ぎ、ギルマン准将閣下――」

「何故、そこのライカンスロープとドワーフだけ貴官の傍にいる?」

「そ、それは――」

「まあいい。さっさと処理しろ」


 ギルマンの指示を受けて、カルヴァンは一度大きく唾を飲み込んだ。彼の握る拳銃が震えているのは、炭鉱夫から受けた怪我の痛みがもたらすものではない。


 そして、そんな様子のカルヴァンを、ノラとオーケンは、いつもの彼を見遣る目で、ただじっと見つめていた。


「クレール伍長、上官命令だ。その害獣どもを始末しろ」







 ノラが初めてカルヴァンと出会ったのは、街外れにある薬草畑だった。月が出始めた時間帯に、当時、街の病院に勤務する看護師だったノラは、一人で薬草を摘みにいっていた。

 そんな時に、彼女は街の悪漢たちに襲われそうになった。悪漢たちはノラを羽交い絞めにし、畑を囲う林の中へと連れ込んだ。

 服を脱がされ、恐怖で抵抗する気力も失った矢先――


「こんなところで獣が盛ってんじゃねえよ」


 カルヴァンが、悪漢たちに銃を突き付けて木立の陰から姿を現した。




 ※




 カルヴァンのこの独断行動によって、ガリア軍が街の周辺に潜伏している事実が住民たちに知られることになった。

 ガリア軍は作戦開始を早めて街へと侵攻するも、補給を待たずして挑んだ不十分な兵装では、街に多く住まうライカンスロープたちに身体能力の面で圧倒され、ほとんどなすすべなく返り討ちにされた。

 その後、カルヴァンを含めたガリア軍の兵士たちは捕虜にされ、危険な坑道での強制労働を強いられることになった。

 特に、カルヴァンは口が悪く、亜人たちに反抗的な態度を殊更に見せることが多かったため、炭鉱夫たちの日ごろの鬱憤晴らしに使われた。

 坑道での労働が終われば、夜は酔った炭鉱夫たちがサンドバッグ代わりにカルヴァンたち捕虜を痛めつける――ここ一年、そんな光景が日常となった。


 ひとしきり殴られたあと、カルヴァンは他の捕虜とは違って、そのまま酒場の前に投げ出されて一晩過ごすことがほとんどだった。

 そして、そのたびに、ノラが彼を迎えに行き、オーケンの家で看病した。


「亜人が俺に触るんじゃねえよ!」


 そう悪態をつくのも無視して――いつしかそれは、彼女と、彼の日課になっていた。







「お前、看護師クビになったって?」


 不意に、カルヴァンがそう訊いてきたことがあった。

 ノラには目を合わせてこなかったが、どことなくその声色は申し訳なさそうだった。カルヴァンは、ノラが敵国の軍人の看護をしているがために解雇されたものだと思っているようだった。実際は、病院内で白い目で見られることが多くなり、居心地が悪くなったために自主的に辞めただけであり――


「貴方が気にすることじゃないわ」


 ノラがその一言だけを返すと、カルヴァンもそれ以上の追及をすることはなかった。

 その次の日あたりから、定期的にオーケンの家の前に、花が数本置かれるようになった。

 そういえば、何気ない会話の中で花が好きだと言ったなと、ノラは思い出した。

 彼なりの謝辞と誠意の現れなのだろう――そう考えたら、思わず小さく笑ってしまった。

 いつか、彼から直接、その言葉を聞けたらいいなと――







 カルヴァンに拳銃を突きつけられたノラは、何も言わず、静かに目を閉じた。

 それを見たカルヴァンが、酷く狼狽して目を見開く。


「お、お前、何のつもりだ?」

「好きに撃っていいわ」

「ふ、ふざけること言うなよ」

「ふざけてなんかいない。どのみちこの状況じゃ、私は生きることができない。ならいっそ、貴方の手にかかることが本望だわ」


 毅然とした態度で言い放ったノラを見て、カルヴァンはさらに慄くように呼吸を乱した。彼の手に握られた拳銃が、それを嘲笑うようにしてカタカタと音を立てている。

 拳銃の照準はノラの胸元を捉えているが、そこへ不意にオーケンが間に入ってきた。


「なあ、ガリアの坊主よ。この際、わしのことはどうでもいい。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。わしはもう充分に人生を謳歌した。だが――」


 オーケンは視線を落とし、少しだけ頭を下げるような姿勢になった。


「ノラと、お前さん自身に対して嘘を吐くようなことはしないでくれないか? こんな結末、お前さんだって望んでいるわけじゃないだろ」


 カルヴァンが言葉を詰まらせ、顔をひきつらせた。


「頼む。お前さんがノラを撃ち殺すなんてことだけは、絶対にしないでくれ」


 カルヴァンの呼吸がさらに荒くなる。もはや正気を失っているような形相で、二人の亜人を正面に据えていた。

 そんな彼を見たギルマンが、


「クレール伍長、何をもたもたしている。早くその亜人二体を始末しろ」


 苛立った声を荒げた。


「クレール伍長!」


 叱咤するようなギルマンの一声が続き――その直後に銃声が一発響いた。

 カルヴァンの握る拳銃からは硝煙が上がっていた。その銃口が向く先は、彼の下顎だ。板挟みとなり、行き場を失った弾丸は、彼自身の命を標的にした。

 しかし、


「……ノラ?」


 カルヴァンを押し倒し、覆いかぶさるようにして、ノラがそれを制止した。彼女のライカンスロープの身体能力が、カルヴァンの自決を阻止したのだ。

 カルヴァンの体に覆いかぶさったまま動かないノラを見て、彼は青ざめた顔で何度も彼女の身体を揺すった。


「おい、ノラ! ノラ!」


 そこで、徐にノラの面が上げられる。なぜか彼女の顔は嬉しそうで、カルヴァンが不安そうに眉を顰めた。


「名前呼んでくれたの、初めてかも」


 ノラのその笑顔は、カルヴァンが今までに見てきた中で、最も屈託なく、幸せそうなものだった。

 カルヴァンが銃を投げ捨て、ノラの身体を両腕で抱き締める。嗚咽混じりに息をして、目と鼻からとめどなく体液を漏らしていた。


「すまない、すまない……!」

「貴方が素直じゃないの、今知ったわけじゃないから」


 ノラがそれに応えるように、カルヴァンの体に両腕を回す。

 オーケンはそれを、ほっと胸を撫で下ろして見守っていた。

 カルヴァンとノラ――二人が抱き合う光景は、人間と亜人の間にある感情が確かな形で繋がったことの証であった。

 しかし――


「クレール伍長、今この状況における貴官の行動について説明を求める」


 ギルマンの巨体が、二人のすぐ傍らに立った。その声色は、先ほどまでと打って変わり、不気味なほどに落ち着いていた。

 カルヴァンはすぐにハッとして、ノラを自身の背後に隠した。それから両膝を地に着けたまま、ギルマンを見上げる。


「申し訳ございません、閣下! 自分は、自分は――准将閣下のご命令に背きました!」

「その説明を求めている」

「……どうか、この二人を見逃してもらえないでしょうか! この二人は、自分の命の恩人なんです!」


 ギルマンは沈黙したまま、カルヴァンをじっと見下ろしていた。

 カルヴァンはさらに続ける。


「この街で捕虜となって、死んだ方がマシと思えるような扱いを受けてもなお、今ここで生きていられるのはこの二人のお陰なんです! 俺……俺、ここまで“ヒト”から優しくしてもらったことなんて、祖国にいた時でもなくて……だから、だからどうか、この二人だけは生かしてもらえないでしょうか!」


 決死の形相で、カルヴァンはギルマンに訴えた。

 ギルマンは、彼の嘆願を聞いて、暫く石像のようにして固まる。その間の張り詰めた空気は数秒であったが、やけに居心地が悪く、ギルマン以外のその場に居合わせた全員が息を呑んでいた。

 そして、ギルマンが興味を失ったように踵を返す。


「貴官の思い、よくわかった」


 その一言を聞いて、カルヴァンの表情が一気に明るくなる。


「ギルマン准――」

「総員、“避雷針”の用意」


 しかし、直後に発せられた言葉に、血の気を失わせた。

 “避雷針”――その単語を耳にして狼狽したのは、カルヴァンのみならず、強化人間の兵士たちも同様だった。

 ギルマンが、うろたえる部下たちを一瞥して、少しだけ腹立たしそうになる。


「何をしている。早く準備に取り掛かれ。この場にいない同志にも速やかに伝達しろ」


 途端に、兵士たちがきびきびとした動きを見せるようになった。無線機を背負った通信兵が慌ただしく通信先の兵士に“避雷針”の用意を伝える。すると、通信先の兵士からも、驚いた声が上がった。


「総員、速やかに“避雷針”の用意! 間もなく、ギルマン准将閣下が“トールハンマー”を使用する! 繰り返す! 総員、速やかに“避雷針”の用意! 間もなく、ギルマン准将閣下が“トールハンマー”を使用する!」


 他の兵士たちは、各々が腰に装備していた一本の金属製の棒を取り出し始める。それらは警棒のような形状をしていたが、グリップ部分を捻って回すと三メートルは超える長槍へと変形した。兵士たちはそれを、次々と地面に突き刺していく。


 それらを尻目に、ギルマンは街の開けた場所へと一人移動していた。

 街の中心部と思しき場所で立ち止まると、不意に彼の足元から無数の稲妻が走り出す。それらは地面を細く焼き焦がしていき、巨大な印章を焼き付けた。


 一連の事態を飲み込めないノラ、オーケン、ステラを置き去りに、カルヴァンが一人、ギルマンのもとへと駆け出す。


「閣下、お待ちください! それはあまりにも――」

「おめでとう、カルヴァン・クレール伍長。貴官は殉職による二階級特進により、曹長となることを約束しよう」


 カルヴァンはいよいよ絶望した顔になり、すぐにノラとオーケンのもとへ戻った。


「二人とも、すぐに避難するぞ!」

「ま、待って、カルヴァン、何が起きるの?」


 鬼気迫る様子のカルヴァンに、ノラがすかさず質問した。


「ギルマン准将が魔術でこの街に雷を落とす! それも普通の雷じゃない! この街一帯を消し飛ばす威力を持った雷だ!」


 カルヴァンの回答に、ノラとオーケンが言葉を失う。

 そんな二人の背を、カルヴァンは急かすように押した。


「オーケンの家だ! あの穴倉なら雷をやり過ごせるかもしれない! 走れ――」


 突如として、強烈な破裂音が幾度と鳴り響いた。そして、夜の闇が、目も眩む光によって切り裂かれる。

 ギルマンの頭上高くに、巨大な球雷が造られ始めていた。球雷はけたたましい音を上げながら小さな稲妻を地上へと走らせている。街中のガラスや街灯が次々と破裂し、樹木や建物から火が上がり始めた。


 球雷から溢れ出した電撃の一部が、ステラを囲う籠の方へと流れていく。

 ステラは悲鳴を上げながら咄嗟に身を屈めたが、電撃は籠に当たった瞬間、何事もなかったかのように消えてしまった。

 ステラが怪訝な顔で首を傾げていると、


「王女よ、巻き込まれたくなければ籠の中で大人しくしていることだ。貴様とエレオノーラ・コーゼルを囲う籠には“避雷針”と同様の効果がある。そこから動かなければ貴様らは無事だ」


 ギルマンがその答えを言った。

 それを聞いて、ステラは、身体に風穴を開けたままうつ伏せに倒れるシオンの方へ向いた。


「シオンさん、目を覚ましてください! シオンさん! このままだと雷に打たれてしまいます!」

「無駄な呼びかけだな。いかに騎士といえど、生身の人間がそんな風穴を身体に開けて生きられるはずもない」


 ステラが必死になってシオンへ声をかける姿を、ギルマンが鼻を鳴らして嘲笑う。

 そうこうしているうちに、球雷はさらに当初の二倍ほどの大きさへとなっていた。その有様は、まさにもう一つの太陽ともいえるほどだった。


 凶悪な光の球体を目の当たりにして、カルヴァン、ノラ、オーケンはさらに足を速めた。あと一〇〇メートルほどでオーケンの穴倉式の家に到着する。間に合うかどうかの瀬戸際――そんな時だった。


「きゃあ!」「うぐっ!」


 カルヴァンの後方で、ノラとオーケンが同時に苦悶の声を上げた。

 見ると、ノラとオーケンの足元が焼け焦げており、二人の足もまた焼けてしまっていた。球雷から発せられた電撃が、二人の足を直撃してしまったのだ。


「ノラ、オーケン!」


 カルヴァンが引き返して二人のもとに駆け寄る。急いで立ち上がらせようとするが、


「駄目、痺れて足が動かない……!」


 両者とも、まともに立ち上がることすらできずにいた。

 狼狽えるカルヴァンの腕をオーケンが掴む。


「ノラを抱えて先に家に入れ!」

「お、おっさん……」

「早くしろ!」


 オーケンが、躊躇うカルヴァンに喝を入れる。

 カルヴァンは一瞬悲痛な表情になるが――すぐに何かに気付いたようにして、オーケンの家とは逆方向に走り出した。向かった先は、シオンが屠った強化人間の亡骸だ。

 カルヴァンは強化人間の亡骸に駆け寄ると、装備から“避雷針”を取り出す。これがあれば、避難せずとも雷を防ぐことができる――はずなのだが、


「“機械仕掛けの雷神”の銘、今ここに証明してみせよう」


 ギルマンが、頭上の球雷に向かって手を伸ばした。

 それを見たカルヴァンが、急いでノラとオーケンのもとへ戻ろうとする。


 しかし、それから五秒と待たずして、球雷が大爆発を起こした。

 球雷に蓄えられた電気が、無数の雷となってリズトーンの街全域に降り注いでいく。それらは束となり、もはや巨大な一筋の光の柱となっていた。あたかも、神話の雷神が振るう戦鎚が振り下ろされるかの如く、自然現象の域を大きく外れ、常軌を逸脱した轟音と電撃が地上を焼き払った。







 恐る恐るステラは目を開いた。耳を両手で塞いでいたにも関わらず、落雷の轟音が未だに頭の奥で響いている感じがする。耳鳴りのせいで、周囲の環境音をうまく拾うことができなかった。

 鼻腔を突くのは色んなものが焼け焦げた臭い――吐き気を催すのは、銃殺されたライカンスロープたちの肉が焼けた臭いが混ざるためだろう。

 やがて視界もはっきりし始めた時――ステラは目の前の光景を見て、愕然とした。

 落雷によって、街の様子は一変していた。建築物は軒並み天井部分から焼け落ち、地面は帯電しつつ、湯気を上げながら赤熱していた。

 一言で表すなら、まさに地獄絵図――今までに見たことのない凄惨な光景に、ステラは言葉を失って固まった。


 そんな静寂を引き裂くようにして、甲高い悲鳴が突如として起きる。それは、紛れもなくノラのものだった。

 見ると、ノラとオーケンがいた場所に、一本の“避雷針”が突き刺さっていた。どうやら二人は、そのおかげで生き延びることができたらしい。

 しかし、どうして二人の近くに“避雷針”が――その疑問を証明したのは、ノラの視線の先だった。


 初め“それ”を見た時は、何かの石像かとステラは思った。

 だが、目を凝らして見れば見るほどに、その正体がはっきりとした。

 それは、表面の皮膚を焼け爛れさせ、完全に動きが停止したカルヴァンだった。彼の姿勢は、何かを投擲したようなまま硬直している。

 その何かが、彼が強化人間の亡骸から奪い取った“避雷針”であることは、ノラとオーケンが無事でいることが何よりの証明だった。


「カルヴァン! カルヴァン!」


 ノラが動かない足を引きずりながら、発狂した様子で彼に近づこうとしていた。

 そんな時、不意に、低い笑い声が響いた。


「哀れな男だ。命令に背かなければ、死ぬこともなかっただろうに。亜人ごときに恩義などを感じた結末が、貴官のその無様な有様だ、カルヴァン・クレール“軍曹”」


 ギルマンがそう嘲笑して、歩みを進める。その向き先は、ノラだ。


「貴官が何をしようがしまいが、その亜人二匹が死ぬことに何も変わりはない。文字通り、無駄なあがきだったな」


 そう言って、腰から拳銃を取り出し、這いつくばるノラに照準を合わせた。

 そして、引き金に指がかけられ――


「――?」


 不意に、ギルマンが後ろを振り返った。

 ステラもまた、ほぼ同時に彼が見遣る方へ目を馳せた。

 この二人だけではない。取り乱すノラ以外、この場に居合わせた誰もが、“その場所”に目を向けていた。


 そこには、稲妻が迸っていた。

 先ほどまでの青白い光ではない。

 夜の常闇に同化するかの如く、不気味で、禍々しい色――赤黒い稲妻が、周囲の景観を侵すように、絶えず、成長するように勢いを強めながら発生していた。

 そして、その発生源となっていたのは、虫の息の状態で倒れていたシオンだった。


 シオンが、徐に立ち上がる。







 満身創痍――シオンの身体は、そうとしか表現できないほどに痛めつけられていた。みぞおちに開けられた穴然り、先のギルマンの雷によって、その体表には無数の樹状の火傷痕を残している。少なくとも、普通の人間ではまず立ち上がることなどできるはずがない。

 シオンは、解けた長髪と、ズタボロになった服を靡かせながら、ゆっくりと歩みを進め始めた。シオンが歩くたびに、彼の背中から放たれている赤黒い光と稲妻が勢いを増していく。


「まるで質の悪い亡霊でも見ているような気分だ。身体に風穴を開けられたうえ、俺の“トールハンマー”をまともに受けた人間が生きているなど」


 そう言って、ギルマンがすぐに兵士たちに指示を出した。

 強化人間の兵士たちが小銃を手に、シオンの行く手を阻むように取り囲む。


「だが、ここまでだ。総員、構え」


 ギルマンの一声に応じて、兵士たちがシオンに照準を定めた。


「――撃て」


 直後に、兵士たちの小銃から一斉に弾丸が放たれ、シオンに集中砲火が浴びせられる。乾いた発砲音が、夜の大気をけたたましく震わせた。

 しかし――


「……これはいったい、どういうことだ?」


 兵士たちの狙いは、間違いなくシオンを捉えていた。無数の弾丸はシオンの身体を貫き、彼を血の滴る肉塊へと変える――はずだった。

 小銃から放たれた弾丸は、いずれもシオンに当たることなく、彼の目の前で静止していた。空中で静止した弾丸は障害物に当たって拉げたというわけでもなく、虚しく回転して、前進することができていない。やがてその動きも止まると、殺虫剤を吹きかけられた羽虫のようにぽとぽとと地面へ落ちていく。

 あまりにも不可解な現象に、ギルマンと兵士たちがこぞって狼狽えた。


 それから間髪入れずに、シオンの背中からひと際強い稲妻が迸る。

 刹那、シオンの身体に急速な異変が起きた。

 みぞおちの空洞が、視認できる速度で再生していったのである。そればかりか、焼け爛れた表皮、樹状の火傷などが、瞬き数回の間に跡形もなく治ってしまった。


 彼に起きた変化はそれだけではない。


 体がもとの状態に戻った直後、今度は赤黒い稲妻が体中を伝うように走っていった。それらは、樹状の火傷とはまた違った痕跡をシオンの身体に刻んでいく。

 例えるなら、どす黒い血を通わせた血管――それらが、目や心臓の周辺、腕に残された。

 その異様な痕跡が侵すようにして、シオンの白い網膜が黒く染め上がる。もともとが赤い瞳であることも相まって、彼の双眸は奈落の深淵に溜まる血だまりのようになった。


「なんだ……その有様は……これではまるで――いや、これこそまさしく――」


 そして、最後に、頭上に光と稲妻が収束していく。それはやがて刺々しい輪を模るが――形状をうまく保てないのか、前面部分がぽっかりと欠けてしまっていた。本来であれば、茨状の光輪になっていたものと思われるが、前面が欠けているせいで、またその色が赤黒く禍々しいせいで――


「“悪魔”ではないか」


 双角に見立てられ、今のシオンの姿を、ギルマンがそう形容した。







 シオンの一連の変貌を、息を殺して見守っていたステラ――彼女が捕らわれている籠の横で、小さな呻き声が聞こえた。

 見ると、隣の籠の中で、エレオノーラが体を地面から引きはがし、どうにかして立ち上がろうとしているところだった。


「エレオノーラさん!」


 ステラが涙目になって喜びの声を上げた。エレオノーラは頭を押さえながら軽く首を横に振り、意識をはっきりさせようとする。


「エレオノーラさん、大丈夫ですか!? エレオノーラさん!」

「そんなキンキン高い声出さないでよ……聞こえてるって。多分、身体も大丈夫。ちょっと痺れてる感じするけど」


 ステラの呼びかけに煩わしそうに応じると、エレオノーラは籠に手をかけて徐に立ち上がった。

 そして、弱々しい目つきで、目の前の光景に愕然とする。


「……アタシが意識失っている間に何があったのか知らないけど――“あれ”、いったいどういうこと?」


 エレオノーラの視線の先には、赤黒い稲妻を纏う禍々しい姿となったシオンがいた。彼女の胡乱げな問いかけに、ステラもどうしたらいいのかわからないといった様子で声を震わせる。


「わ、私も何が何だか……! シオンさん、重傷を負って動かなくなったと思ったら、凄い雷の直撃を受けてあんなことに……」


 エレオノーラは眉を顰めて目を凝らし、シオンの有様を事細かく確認した。そして、シオンの頭上にある欠けた光輪を見て、ハッとする。


「やっぱりあいつ、“帰天”を使えたんだ……だからアタシに“悪魔の烙印”の効力を訊いて……」

「“帰天”?」


 聞きなれない言葉にステラが首を傾げるも、エレオノーラはいったんそれを無視する。


「でも、アタシが知っている“天使化”とはだいぶ違う……。あんな凶悪な見た目じゃ、とてもじゃないけど天使なんて呼べないじゃん」


 呼吸を整えながら独り言を発するエレオノーラに、ステラは若干苛立たしそうに籠を揺らして迫った。


「え、エレオノーラさん、何ですか、その“帰天”とか“天使化”って? シオンさんに何が起きてるんですか?」


 エレオノーラは一度大きな呼吸をし、改めてステラを横目で見遣った。


「“帰天”は騎士が“天使化”する特殊な魔術――そして“天使化”は、騎士だけが行使できる特殊な身体強化状態。アタシも魔術の勉強の一貫でそういうものがあると知っているだけで、実際に目にするのは初めて――なんだけど、あいつの“天使化”、どう見ても普通じゃない」

「普通じゃないって言うのは?」

「今のシオン見てみなよ、どこをどう見れば天使なんて形容できるのさ。アタシの知っている限り、“天使化”した騎士は青白い光と茨の光輪を携えた美しい姿をしているって話だけど、今のシオンはその真逆じゃない」


 エレオノーラの言葉に同意するようにして、ステラは息を呑んだ。

 それを尻目に、エレオノーラはさらに説明を続ける。


「多分、“悪魔の烙印”の抑制反応のせいだ。“悪魔の烙印”が“天使化”を抑え込もうとしているからあんな見た目になっているんだ。でも、だとしたら、シオンの“帰天”は“悪魔の烙印”の効力を無視するほどに強力って話になるわけだけど……」


 学者のようにぶつぶつと呟き始めたエレオノーラに、ステラが再度、籠を揺らして迫る。


「あ、あの! 結局、これからどうなるんですか!? シオンさんは無事なんですか!?」

「……あの強化人間たち、シオンに皆殺しにされるよ」


 言葉にするのも憚れるといったエレオノーラの口調に、ステラは目を丸くした。







 シオンは“天使化”を遂げたところで、不意に左手を横に伸ばした。すると、兵士に取り上げられたシオンの刀が、離れた場所から吸い寄せられるように彼の左手に収まる。

 その瞬間、ギルマンが声を張り上げた。


「総員、近接戦闘の用意! 目標は黒騎士だ! 整い次第、攻撃を開始しろ!」


 ギルマンの指示に応じて、兵士たちが片手用の戦斧を左右両手に構える。

 間髪入れず、シオンの背後に向かって、一人の兵士が飛びかかった。


「――!?」


 しかし、兵士の戦斧は虚空を薙いだ。ついさっきまで、確かにそこにシオンはいたはず――刹那、戦斧を空振りした兵士が、縦に両断されて地に伏した。

 そして、そこから三十メートルほど離れた位置に、いつの間にか移動したシオンが納刀していた。

 静かに納められた刀が小さな金属音を発した直後、両断された兵士とシオンの直線状にいた他の兵士たちの首が、ずるりと落ちていく。


「何が起こった!?」


 不可解な現象にギルマンが吠えたが、その疑問が解決する間もなく、周囲の兵士たちが同じように斬り伏せられていく。一人、また一人と、悲鳴を上げる暇すら与えられずに身体を両断されていった。

 続々と屠られていく兵士の間に走るのは、一筋の赤い光だった。それはあたかも悪魔が紡ぐ死の線のようにして、夜の闇の中で不気味に点滅している。

 それが、生物の域を超えた速度で移動するシオンの軌跡であったと、ギルマンが理解できたのは、彼以外の今この場にいる強化人間の兵士が全員討ち取られた後になってからだった。


 シオンが、何もないところに赤い光と共に忽然と姿を現す。刀を鞘に納め、徐にギルマンの方へ目を馳せた。


「“余計なこと”をしなければ、あのまま俺を殺せていたかもしれなかった」


 シオンから発せられたその声は、いつも以上に抑揚に欠いていた。感情の一切を失ったように、淡々とした様子で佇んでいる。


「よ、余計なことだと?」


 呆然と立ち尽くしていたギルマンが、シオンの声によって意識を呼び戻した。


「アンタの雷だ。あれのお陰で、ほんの一瞬、意識を覚醒させることができた。もしあれがなければ、身体に開いた穴が致命傷になってそのまま死んでいたかもしれないな」

「俺を小馬鹿にしているつもりか……!」


 ギルマンが拳を握り、怒りに体を震わせた。それから軍用コートを勢いよく脱ぎ捨て、両足を大きく広げてシオンに対峙する。


「“その姿”がいったい何の小細工は知らんが、いつまでも調子に乗っていられると思うな、黒騎士! 俺はガリア公国軍第八旅団団長、“機械仕掛けの雷神”――ガストン・ギルマン准将だ!」


 威勢のいい声を上げた直後、ギルマンから夥しい量の電気が放たれる。紫色の雷光はたちまちギルマンの軍服を焼き払い、彼の表皮すらも焦がしていった。そこから露わになったのは、強化人間特有の人工筋線維と金属製の外殻だ。帯電によって淡く輝き、電熱が周囲の空気と地面を焼き潰していく。


「光栄に思え! 俺が本気を出して一対一で戦うのは貴様が初めてだ、黒騎士! この状態の身体能力は騎士をも超える! 周囲の電気は触れれば象すらも即感電死させるほどの高圧だ! さあ、来い!」


 刹那、ギルマンの身体が後方に大きく吹き飛んだ。赤い光となってシオンが繰り出した拳が、ギルマンの顔面を殴り飛ばしたのだ。

 続けて、シオンは吹き飛ぶギルマンに追いつき、彼の巨体を蹴り上げる。蹴り上げられたギルマンの身体は、糸を失ったマリオネットのように宙を舞った。


 そして、その落下地点近くで、シオンが刀を抜いて構える。

 ギルマンが自然落下するのに合わせて、シオンは刀を袈裟懸けに振り下ろした。ギルマンの身体は左肩から右わき腹にかけて両断され、右腕の先もついでに斬り捨てられる。

 ガラクタ同然となったギルマンの身体が、激しい土埃を上げて地上に転がった。


「ぬ、ぬう……!」


 バチバチと微かな電気を放電させながら、ギルマンが低く呻く。

 その傍らに、シオンが立った。


「もう一度訊く」

「……な、なに?」


 唐突なシオンの問いかけに、ギルマンは低く唸った。


「教皇はガリアと組んで何をしようとしている? 騎士団はどこまで関わっている? 聖女は?」


 それは、ギルマンが回答しなかったシオンの質問だった。

 ギルマンは壊れたマスクの隙間から口元を覗かせ、激しく歯噛みをした。


「痛めつければ俺が口を割ると思ったか、黒騎士! 俺は誇り高きガリア公国軍第八――」


 そこまで言いかけて、ギルマンは完全に沈黙した。

 シオンが、ギルマンの頭を踏み潰したのだ。


「答える気がないのならいい」


 シオンはそれだけを言い残して、踵を返した。同時に赤い光も止み、シオンの容貌も元に戻る。

 リズトーンの街に、朝日はまだ昇っていなかった。







 団長であるガストン・ギルマンを失った第八旅団の兵士たちは早々に撤退を始めた。しかしそれは決して整列されたものではなく――まさか、教会魔術師であり、ガリア軍最強とまで謳われた強化人間を失ったことに、信じられないといった様子だった。作戦を継続できないと悟った瞬間、ライカンスロープをも凌ぐ身体能力を持つ強化人間たちが、我先にと駅の軍用列車へと殺到した。

 そうして、リズトーンの街からガリア軍が完全撤退したのは、東の山から日の光が差し込んできたあたりだった。


 街の中央区では、ノラの嗚咽混じりのすすり泣く声が響いていた。彼女の腕に抱かれているのは、ギルマンの落雷によって身を焦がしたカルヴァンだ。

 カルヴァンは、命の恩人であるノラとオーケンを庇い、 “避雷針”を手放したがために、ギルマンの魔術をまともに受けてしまった。表皮は焼け爛れ、呼吸も完全に停止している状態だ。


 その少し離れたところでは、オーケンが街の住民たちの亡骸を前に項垂れていた。住民たちとはあまりうまくいっていなかったと聞くが、それでも彼なりに思うところがあるのだろう。

 日の光が強くなってきたところで、オーケンは徐に埋葬の準備を始めた。

 不意にそこへ、ステラが駆け寄った。


「私も手伝います」


 籠から解放されてまだ体力も戻っていないだろうに、ステラはそう言って住民の遺体を運ぼうとした。

 だが、


「ステラ、さっさとここを出るぞ。いつまたガリア軍がここにやってくるかわからない」


 シオンが、いつもの無表情でそう制止した。エレオノーラに修復してもらったジャケットを羽織りながら、ステラに鋭い視線を向ける。


「待ってください。だったら、尚更この状況を放っておけません。せめて街の人たちを――」

「だったらお前とはここまでだ。あとは好きにしろ。俺は先にこの街を出る」


 ステラが皆まで言うのを遮って、シオンは吐き捨てるように言い放った。

 思いがけない言葉に、ステラは勿論、エレオノーラも固まった。


「エレオノーラ、お前はどうする? 俺としてはお前についてきてもらえると有難い」

「え、あ、ちょっと、アンタ、いきなり何言い出してんの?」

「俺と来るなら好きな時に好きなだけ“騎士の聖痕”を見るといい」


 エレオノーラにとって誘惑のような、勧誘のような――シオンがらしくないことを冷たい口調で淡々と言い続ける。

 ステラが血相を変えて前に出た。


「い、いきなりそれはないでしょう! 幾らなんでも無責任です! そもそも、私たちがうまくやればこの人たちは死なずに済んだんです! だけど――」

「そもそも俺たちがいなければ、誰一人として生き残ることはなかった」

「で、でも――」

「でもなんだ? お前まさか、ここの住民がお前のせいで死んだと思っているのか? 自惚れるのも大概にしろ。あの状況でお前一人に何ができた? せいぜいノラの手伝いをしただけだろ」

「私がいたから住民が人質に――」

「お前がいなければ住民はその場で殺されていた。むしろ、俺たちがいたことでノラとオーケン、逃げ切れた僅かな住民を救うことができた。最悪の結果が、少しばかりよくなっただけだ。良くも悪くも、あの時のお前の影響力はその程度だ」


 論破するかの如く、シオンは饒舌だった。

 ステラは呼吸を荒くしながら、言葉を詰まらせる。


「お前のやるべきことがここにあるのなら残ればいい。だが、俺にも教皇を暗殺するという目的がある以上、先に進ませてもらう」


 吐き捨てて、シオンは踵を返そうとした。

 そこにエレオノーラが立ち塞がる。


「ちょっと、アンタ! 言い方ってもんがあるでしょうが!」

「ここにいつまでも留まれる余裕はない。ルベルトワの時と違って、すでに俺たちが何者なのか知られている状態でガリアに喧嘩を売ったんだ。黒騎士がギルマンを屠ったと知られれば、最悪、すぐにでも第八旅団以上の規模の軍隊を送ってくる可能性がある」


 シオンのもっともな言い分に、エレオノーラも押し黙ってしまう。さっさと立ち去ってしまうシオンと、地面を見つめたまま固まるステラを見比べて、おろおろと首を左右に振る。

 そしてエレオノーラは、自身のスーツケースを担ぎ上げ、シオンの方へと走っていった。その間際に、


「ステラ、アンタも変な意地張ってないでさっさと来なさい! あの、多分――駅で待ってるから!」


 そう言い残した。


 取り残されたステラの目から、とめどない涙が溢れてくる。唇を噛み締め、握りしめた両手の拳を震わせた。暫くそうしていたが、ついに我慢できなくなり、弱々しい泣き声が自ずと漏れてしまう。

 まるで幼児が親と逸れたような――それでいて、自身が弱い立場であることを認めたくなく、悔しさに負けることを拒むような泣き方だった。

 その隣に、オーケンがそっと立つ。


「お嬢さん。ここでくたばっちまった奴らを想うお前さんの気持ちは本物だ。王族としての立場に、強い責任を感じていることもわかる。だからな――」


 そこで区切って、ステラを見上げた。


「もし本当にこの国のことを思って何かをしようと思っているなら、お前さんにしかできないことをやってくれ。そしてそれは、きっとお前さんにならできる」


 泣きじゃくった顔で、ステラはオーケンを見た。


「そんな顔をできるのは、お前さんが本当にわしら国民のことを思ってくれている何よりの証拠だ。だから、“頼む”――この国を救ってくれ、王女様」


 ステラは何度も口を小さく開閉させ、必死に言葉を紡ごうとした。だが、息が詰まってしまい、どうしても声を出すことができない。

 そこへ――


「ステラ様」


 ノラがやってきた。ひとしきり泣いたのか、目は赤く腫れ、酷い隈が目元に残っていた。

 ステラは、そんな彼女を目の当たりにして、さらに涙を流す。


「ノラさん……ごめんなさい……! 私が、私がちゃんとしていれば――私が、ノラさんの大事な人を……!」


 しかし、ノラはやんわりと首を横に振った。それから、そっと、ステラのことを抱き締める。


「カルヴァンを失ったことはとても悲しいです。ですが、ステラ様のせいではありません。この結末を受け入れるにはまだ少し時間がかかると思いますが――それでも、私は今こうして生きています。ステラ様たちと、カルヴァンがくれた命です。貴女が声を上げたおかげで救われた命が、今ここにこうしてあるんです」


 ステラは嗚咽を殺すように歯を食いしばった。


「私たちは大丈夫です。だから、ステラ様は先に進んでください。それが、一国民としての願いです」


 ノラの言葉を聞いて、ステラは食いしばる歯に一層の力を込めた。それから、勢いよく互いの体を引き剥がす。

 ステラは、ノラとオーケンを正面に据えた後で、一度涙を腕で乱暴に拭った。


「ノラさん、オーケンさん、ごめんなさい。私、行きます」


 拭き取れなかった涙と鼻水を顔に残しつつ、震えた声で言った。

 一国の王族とは思えないほどに情けない顔をした少女に、亜人の二人は暖かい笑みを返した。


「はい。道中、お気をつけて」

「わしらはわしらで勝手に生き延びる。だから、王女様も達者でな」


 ノラとオーケンの言葉を受けて、ステラは後ろ髪を引かれる思いで踵を返し、駆け出した。







「アンタも発破かけるの下手くそだよね。あれじゃあ本当に見放したみたいじゃん。まあ確かに、あれくらい強引にいかないと、あの娘はいつまでもあの街でめそめそしてたかもね。でも、女の子なんだから、もうちょい優しく背中叩いてやりなよ」


 ガリア軍の占拠を受けて無人となった駅舎――そのホームのベンチにて、エレオノーラが足をぷらぷらさせながら言った。

 その隣に座るシオンは、どことなく不機嫌そうにしていた。


「何の話だ?」

「じゃあ、何でここにこうして無駄に座っているのさ? この駅、誰もいないし暫く汽車も停まりそうにないけど?」


 エレオノーラの言葉通り、駅の従業員は誰一人として見当たらず、ホームの線路には通行止めの看板が置かれている。誰がどう見ても、この駅に汽車が停車するとは思えない状態だった。恐らく、ガリア軍が手配したためだろう。


「夜通し教会魔術師一人とガリア公国の旅団を相手にして、その上死にかけたんだ。それなりに疲れている。休んでいるだけだ」


 シオンがそれらしい言い訳を言って、エレオノーラが妙な声を上げながら空を仰いだ。


「かーっ! 何言ってんだかね、この黒騎士は。素直にステラを待ってるって言えばいいものを」


 それを聞いたシオンが仏頂面のまま小さく溜め息を吐く。


「ギルマン相手に何もできなかった奴にとやかく言われたくない」


 エレオノーラが、カチンときた様子で顔をひきつらせた。


「アンタ、言っていいことと悪いことあるんじゃないの!? アタシがいたから魔物の群れをどうにかできたようなもんでしょ! それに、アンタこそ人質取られる前にさっさと“天使化”していればもっといい結果になったんじゃないの!? ていうか、“帰天”を使えるんなら最初から言いなさいよ!」

「……そうだな、俺もステラに対して偉そうなことを何も言えない。相手の力量とタイミングさえ間違えなければ、もっと多くの命を救えたかもしれなかった。何もかも、俺の考えが甘かったせいだ」


 急にしおらしくなったシオンに、エレオノーラが戸惑う。てっきり言い合いになると思っていたのだが、思いがけない反応に、しどろもどろになってしまった。


「あ、いや、ごめん……そんなつもりで言ったわけじゃないんだけど――そ、そうだ!」


 不意に、エレオノーラが話を変えるようにスーツケースの中を漁り始めた。

 そこから取り出したのは、一枚の観光パンフレットだ。


「今アタシたちがいる山脈地帯を抜けたらさ、“アルクノイア”って街があるんだけど、そこに寄っていかない? ここさ、ログレス王国で二番目に大きな街なんだよね。人も多いし、木を隠すなら森の中で逆に目立たずにいられるんじゃない?」


 一人で必死になって話題を振るエレオノーラ――シオンはそれを見て、ホームの天井を仰ぎながら軽く息を吐いた。


「……ステラと出会ってからまともに休めていないからな。目立たずにいられるような場所があれば、それもいいかもしれない」

「でしょでしょ? んじゃ、決まりね。ステラもいい気分転換になるっしょ」


 指を鳴らして、エレオノーラはうきうきとした笑顔を見せる。

 しかし、ふと、シオンはそこで表情を引き締めた。


「ただその前に、ひとつ訊きたいことがある」

「ん?」


 唐突にシオンの声色が変わって、エレオノーラが間抜けな顔で首を傾げる。

 それから間髪入れずに、


「お前の“親”って、何のことだ?」


 シオンが、まるで“敵”を捉えたかのような眼差しでエレオノーラを見た。

 ギルマンとエレオノーラが対峙した際に、彼の口から放たれたその一言を、シオンは聞き逃さなかったのである。

 それまで年相応の無邪気な笑みを見せていたエレオノーラの顔から、スッと感情が消えた。

 シオンとエレオノーラ――これまで、利害関係のみで手を組んでいた二人の間に、微かな綻びが見え始める。

 一秒もない沈黙の間に、確かな猜疑心と若干の敵意が、互いの双眸に映り込んでいた。

 そして、エレオノーラが先に口を開こうとした時――


「シオンさん、エレオノーラさん!」


 不意に、駅のホームに声が響いた。

 見ると、目と鼻を赤くして息を切らしたステラが、仁王立ちするように立っていた。

 ステラは、シオンとエレオノーラが座るベンチの前に立つと、勢いよく頭を下げた。


「さっきはすみませんでした! 私、自分のやるべきことを見失っていました! もう迷いません! だからどうか、また一緒に旅をさせてください! お願いします!」


 怒涛の勢いで声を上げるステラに、シオンとエレオノーラが揃って目を丸くさせた。暫くの間、鳥のさえずりが妙な静寂を繋ぐ。

 そんな平和な沈黙を破ったのは、エレオノーラの笑い声だった。


「アンタも本当にわかりやすい子だね! シオン、何か言ってやりなよ」


 すると、シオンは珍しく視線を泳がせて、顔を軽く掻いた。


「……まあ、俺もきついこと言ったの、悪かった。そもそも、お前がいないと俺の目的も果たせないし……」


 バツが悪そうにぼそぼそと言ったシオンの返答に、エレオノーラがいよいよ笑いが止まらないといった様子で、ゲラゲラとお腹を抱えだした。

 そんな光景を、ステラがまた泣きそうな顔になって見遣る。鼻を啜りながら、それでいてもう無駄に泣くまいと、必死に堪えていた。


 シオンはそこで溜め息を吐いた。後頭部を軽く掻き、不意にベンチから立ち上がる。


「揃ったなら、さっさと行くぞ。エレオノーラもいつまで笑ってる」


 言われて、エレオノーラがすぐにベンチから立ち上がった。


「ああ、ごめんごめん――って、こっからどうやって山脈地帯抜けるの? 結構距離あるはずだけど」

「いつ汽車の運行が再開するかわからないんだ。歩くしかないだろ」


 当然のように言ったシオン――それに対して、ステラとエレオノーラが、揃って驚きと不満の声を上げた。


 王都までの道のりは、まだ続く。







 王女たちが街を去って一時間ほどが経った頃――リズトーンの街で、ノラとオーケンは、ガリア軍に殺されてしまった住民たちの弔いを始めていた。同時に、いつ再来するかもわからないガリア軍から逃れるための準備も進めている。

 弔いは、オーケンが即席の魔術で掘った穴に、住民たちの遺体を納める形で済まそうとした。本当ならしっかりとした墓を人数分立ててやりたいところだが、時間が限られている以上、やむを得ない方法だった。

 オーケンが埋葬の準備をしている間に、ノラは可能な限り遺体を綺麗な状態にしようと、一人ひとりの身なりを整えさせていた。

 そして、ノラの想い人であるカルヴァンの傍らに寄り添う。


 まだ、彼の死を受け入れることはできなかった。いつも通り、看病をすればまた目を覚まして憎まれ口を言ってくるのではないか――そんな淡い期待を寄せながら、ノラはそっとカルヴァンの頬に手を添える。

 そんな時だった。


「――……」


 カルヴァンの口が、微かに動いた。

 ノラは目を疑いつつ、急いで彼の脈を取る。すると、僅かにだが、確かに鼓動を取り戻し始めていた。

 信じられない出来事に、ノラは呆然とした表情のまま、急いでこのことをオーケンに知らせようと立ち上がる。

 そこへ――


「あ……」


 カルヴァンが、何かを言いたそうに弱々しい声を上げた。

 ノラは慌てて彼の傍へ戻り、耳を傾ける。


「……ありが、とう」


 絞り出すような声で、カルヴァンがそう言った。

 見ると、彼の目は開かれ、その瞳にしっかりとノラを映し出していた。

 ノラが抱き締めると、カルヴァンもまたそれに応えるように、力の入らない腕を回してきた。







 アウソニア連邦国内の騎士団本部から数百キロメートル離れた場所に、聖王教の総本山――教皇庁は、白亜の大宮殿の如く屹立していた。

 あと数分で日付が変わる深夜の時間帯――並のコンサートホールでは到底及ばない広さを持つ人気のない身廊に、数人分の靴音がカツカツと歯切れよく響いていた。

 眼鏡をかけた初老の男が、両脇に二人の護衛を付け、早足に歩いていたのだ。何かに酷く憤っており、その皺まみれの顔に一層の深い皺を刻んでいる。


「教皇猊下! 教皇猊下はいらっしゃるか!?」


 初老の男が、身廊の先にある主祭壇に向かって吠える。

 すると、主祭壇にて一人佇む白い影が、重々しく動き始めた。


「ガリア大公、こんな遅くに何用で?」


 白い祭服に身を包んだ男が、徐に面を上げた。

 聖王教会教皇アーノエル六世ガイウス・ヴァレンタイン――齢四十二にして大陸の最高権力者へと上り詰めた男である。聖職者とは思えぬほどに厳格かつ精悍な顔立ちで、ネコ科の動物のような金色の双眸には野心的な灯を宿していた。

 その威圧的で大柄な体躯に圧倒され、初老の男――ガリア大公カミーユ・グラスは、思わずといった様子でたじろいだ。

 だが、すぐさま先ほどまでの威勢を取り戻す。


「何か用、ではない! いったい何を考えておられるのだ!?」


 まくしたてる老人に辟易した顔で、教皇は眉を顰めた。


「話が見えませんな。もう少しわかりやすくご説明願おうか」

「黒騎士の件だ! ルベルトワで好き勝手に暴れられただけではなく、我が軍が誇る教会魔術師の将校をも奴に屠られた! ガリアばかりがいいように損害を被っている! この落とし前、いったいどうしてくれるのか! 騎士団をコントロールするのも猊下のお役目であろう!」

「騎士団はすでに黒騎士討伐の任に赴いておりますが」

「それが機能していないと申しているのだ!」


 唾を吐き散らしながら青筋を立てるガリア大公に、教皇の眉がぴくりと動いた。


「大体、ルベルトワの件に至っては、わしの与り知らぬところで領主と密約を交わしていたと言うではないか! いかに猊下といえども、これ以上の勝手は――」

「騒がしい老人だ。それを引き合いに頭に血を昇らせているのなら、貴様らの侵略まがいの行為が、何故今なお不問となっているのか、よく考えてほしいものだな」


 教皇の言葉に、ガリア大公が怯む。


「ルベルトワの件は気の毒だが、将校を討たれたことについてはお前たちの落ち度だろう。私が認めたのは、あくまでログレス王国の代理統治だ。貴国が勝手に軍事力を以てしてのジェノサイドに取り掛かり、そして勝手に失敗した。それだけの話だ」

「し、しかし、これ以上、黒騎士に邪魔をされては――」

「好きにさせておけばいい。奴がどれだけ暴れまわろうが、“辿り着く結末”に何も変わりはない」


 淡々と言いくるめられ、ガリア大公は尻込みするように大人しくなった。


「猊下がそこまで言うのなら……。だが、本当に、頼みましたぞ。我々の計画の成就、必ずや果たしてくだされ。そのための協力は、我々も惜しまぬゆえ」


 それを聞いて、教皇は打って変わり、再び穏やかな顔つきをした。


「ええ、ご安心を。この大陸に真の平和をもたらすことを、約束いたします」


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