目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第二章 王女の決意

「シオンさん、エルリオさんから着替えもらって――って、おわっ!」


 木立の陰から、衣服の入った袋を抱えたステラが顔を出した。彼女の目に映ったのは、小さな滝つぼ――このエルフの隠れ里で水浴びに使われている場所で、ちょうどシオンが体を洗い終え、体を拭いていたところだった。

 ステラは袋を投げ捨てるようにシオンのところへ置き、すぐに木立の陰に戻る。


「す、すんません、タイミング悪く……」

「刃物もこの袋に入っているのか?」


 顔を赤くして両目を手で覆うステラに対し、シオンは淡々と訊いた。


「入ってます。狩猟用のナイフで肉もスパッといくから気をつけろって言ってました」

「これか」


 そう言ってシオンは後ろ髪を紐で束ねた後で、前髪と横の髪を無造作に切り落としていった。その様子をこっそり見ていたステラが、思わず声を上げる。


「そんな雑な髪の切り方したら痛みますよ! 折角綺麗な髪なのに勿体ない! ていうか、後ろは切らないんですね。なんかこだわりでもあるんですか?」


 シオンはその問いを無視して、袋の口を下に向けて中身を地面に広げる。エルフから用意された服には、彼らの衣装と、人間の服があった。


「エルフたち、人間の服も持っていたんだな」

「いざという時のために、ガリア軍から鹵獲したものを修繕したりして保管してたみたいです。結局、誰も使いたがらなかったみたいですけど。それと、エルフたちも人間社会とはまったく交流がないわけではなかったようで、行商人を通じてのちょっとした交易とかはあったらしく――」

「なるほど、その時に手に入れていた衣服か」


 シオンはそう言って、できるだけ軽くて頑丈そうなものを選んでいった。靴とボトムスは軍服を修繕したものに、トップスは、袖のないファスナー付きのニットをインナーに、アウターには大きなフードの付いたジャケットを選んだ。

 シオンは着なかった服を無造作に袋の中に詰め直し、エルリオのいる場所へと歩みを進めていく。その後ろをステラが慌ててついていった。

 エルリオを見つけると、シオンは袋を返却した。


「人間の服があって助かった」

「そうか。人間の服は誰も着ようとせず持て余していたから、こちらとしても助かる。あとは武器なんだが――」


 エルリオがそう言って、無造作に地面に並べられた武器を見せてきた。

 そこには、エルフお手製の弓と短剣の他、これまたガリア軍から鹵獲したと思われる銃が何種類かあった。


「ここから好きなものを選んでくれ」

「銃もガリア軍から手に入れたのか?」

「我々としては不本意だが、森の中に放っておくわけにもいかないのでやむなく回収した。使う気もないのでいつか処分しようと思っているが、ばたついているせいで結局できないでいる」

「使える物は使った方がいいと思うが、それはエルフとしてのプライドが許さないか」


 そう言ったシオンだが、彼自身も銃には軽く目を通しただけで手には取らなかった。少し悩むように物色したあと、最終的に手に取ったのは短剣だ。


「これを貰っていいか?」

「構わないが、それは先ほど御身が髪を切るために用意したものと同様のナイフだぞ? 武器としては心もとない気がするが」

「本当はこれよりも長い刀剣類が欲しかったが、やむなしだ。まあ、これからガリアの街の中に入り込むことを考えれば、目立たなくて好都合かもしれない」


 そう言って、シオンは早々に短剣の状態を確認し始める。

 その傍らでは、エルリオがやや不安そうに表情を険しくしていた。


「その……本当にやるのか?」


 不意に、エルリオから疑念の言葉がかけられた。

 シオンは短剣を鞘にしまい、静かに立ち上がる。


「そこの王女と、アンタらエルフが生き残るための手段はそう多くはない。それとも、いつかアンタが言っていたみたいに、この森と一緒に種族揃って心中するか?」

「正直、御身が考えた計画がうまくいくとは思えない」


 エルリオの酷評に、シオンは軽く上を仰ぎながら息を吐いた。


「――まず、収容所が存在する領地に俺たちが入りこみ、恐らくその領主が所有しているであろう奴隷の売買記録を奪う。その後は収容所にいるエルフたちを解放し、売買記録をもとに街中のエルフを逃がす。逃がしたエルフたちは、ステラが女王になるまでガリア軍の目を避けながら人里離れた場所で暫く逃亡生活を送る――自分で言葉にしてみたが、確かにあまり現実的じゃないな。ステラを女王にするにしても、ガリアに実効支配されている王都で戴冠式を開催させる方法を思いつけていない」

「それに、連れ去られた全員を取り戻せるわけではないのだろう? 私の妹もそうだが、連れ去られてから一年以上経っている者もいる。森を捨て、危険を冒しても全員を助けられないことに不満を持つ者がいくらかいる」

「何もしなかったら誰一人として帰ってこないぞ。アンタはいつか帰ってくるかもしれないと言っていたが、そんなことはあり得ないと思った方がいい」


 シオンが冷たく言い放ったが、エルリオもそれは理解できているようだった。さらにシオンは続ける。


「この計画に乗れないって言うのなら、俺はステラを連れてこのまま王都へ向かう。アンタたちを救うというこの話は、あくまで“王女様のご厚意”ということを忘れるな。俺個人としては、むしろその方がさっさと話しが進んで助かる」


 その言葉に、ステラがむっと顔を顰める。


「そんな言い方しなくたっていいじゃないですか! それに、シオンさんだって服もらってるからエルフの皆さんに恩はあるはずです!」

「いくら何でも釣り合わない」


 ステラの物言いを正面切って言い返し、シオンは改めてエルリオに向き直った。


「どうする? やるか、やらないのか。族長代理のアンタが決めて、エルフたちを取りまとめてくれ」


 エルリオは、思いつめるようにして静かに目を伏せる。それから数秒沈黙したあと、意を決した双眸をシオンに向けた。


「御身の言う通りだ。このまま何もしないで状況が好転するとは思えない。黒騎士殿、どうか、力を貸してほしい」







 ガリア公国とログレス王国の国境近くにある城塞都市――ルベルトワは、五百年以上前の生活様式を色濃く残した古風な街だった。隣国からの侵略を想定した石造りの高い防壁がぐるっと街を丸ごと囲んでいる。その中にある建物の多くが当時の状態を維持しており、街全体が時代を置き去りにしてしまっているかのようだった。


「検問があるのか」


 フードを目深に被ったシオンが面倒くさそうに呟いた。両脇には、鳥打帽とマフラーで顔の大部分を隠したステラと、頭をエルフ独特の長い耳ごと布で覆ったエルリオがいる。

 ステラが、慌ててシオンの腕を引っ張った。


「ど、どうするんですか? 私たち三人とも、ガリア公国から見たら敵ですよね?」

「堂々としていろ。検問といっても、大したことはしていなそうだ」


 シオンに宥められ、ステラはマフラーを深く巻き直した。それに倣って、エルリオも頭の布をきつく締め直す。


「エルリオ、他のエルフたちはちゃんと近くで隠れられているのか?」


 歩きながらシオンが訊くと、エルリオは静かに頷いた。


「ああ、問題ない。この街から少し離れたところに雑木林があった。そこに十人ほど待機してもらっている。囚われている同胞を街の外に出した後は、私が彼らのところまで誘導してそのままログレス王国へ戻る算段になっている。戻ったあとは、御身の計画通り、新たな女王が誕生するまで身を潜めて生活する」

「十人もいてちゃんと隠れられるのか?」

「安心してほしい。我々は人目につかないよう木々の中に隠れるのは得意だ」


 エルリオのどこか誇らしげな言葉を聞いて、シオンは肩を竦めた。

 そうこうしているうちに、ついに検問の順番が回ってきた。銃剣で武装した二人の兵士が近づいてくる。

 兵士たちはシオン、ステラ、エルリオの顔をそれぞれ一瞥すると、手持ちの荷物を見せるよう指示してきた。


「その背嚢の中身も見せろ」


 兵士が、ステラを指して言ってきた。ステラは大人しく背嚢を降ろし、口を開けて中身を地面にばらまく。主に生活用具ばかりで特に変わった様子もなく――とは、どうやら兵士たちは思わなかったようだ。

 兵士たちの顔が強張る。


「おい、この筆記道具はガリア国内のものではないな? 貴様ら何者だ?」


 しまった、とステラが青ざめる。弁明しようとするが、何も返す言葉が見つからなかった。

 そこへ、


「俺たちはログレス王国から来た。国の政治が不安定になったので、暫くガリア公国で暮らそうと考えている」


 シオンがそれらしい理由をでっち上げた。

 兵士たちは顔を見合わせ、再度シオンたちを見る。


「……国交旅券は?」

「ない」

「旅券がないのに一般人が国境を越えたら駄目だろ! ちょっとこっちこい!」


 兵士の一人がそう言って街の中へと促してきた。もう一人の兵士は、ここに残って検問を続けるようだ。

 兵士はシオンたちを防壁内の関所へと入れると、呆れたように首を振るう。

 関所の中に、他に兵士はいない。


「まったく、ログレス王国が不安定な状態なのは承知しているが、せめてルールは守ってもらわないと! 今日だけでお前たちで三回目だぞ! 今から出す書類に身元を――」


 兵士がそこまで喋ったところで、シオンが片手で兵士の首を後ろから掴み上げた。兵士は頸動脈を圧迫させられ、短い抵抗の後に失神してしまう。

 シオンは、気を失った兵士を椅子に座らせ、テーブル上に突っ伏した姿勢に整えた。


「無事に街に入れたな」

「だ、大丈夫なんですか、これ?」

「長居するつもりもない。それに、どのみちここを出るときは大騒動になるはずだ。行儀よくするだけ時間の無駄だろ」


 一切の躊躇いのないシオンの行動に、ステラとエルリオが揃って苦虫を嚙み潰したような表情になる。それには構わず、シオンはさっさと関所を出て街中へと向かって行った。ステラたちも慌てて彼の後を追う。


 ルベルトワの街の中は、古めかしい造りの家が多く建ち並び、どことなく渋い雰囲気が見て取れた。だが、その落ち着いた景観とは相反して人々の横行は激しく、見かけの人口密度以上に大都会のような活気で溢れていた。露店が並ぶ通りでは、注意していないと人とぶつかってしまいそうなほどの喧騒である。

 そんな街並みをステラが物珍しそうに見ていた時、ふと、彼女の顔色が変わった。


「どうした?」


 それに気付いたシオンが声をかけた矢先、続けて、エルリオもステラ同様に顔色を悪くしていた。

 二人の視線の先を追うと、そこには粗末な服を着たエルフの女と子供が檻の中に入れられ、まるで見世物小屋のようにして晒されていた。


「ログレスにずっと住んでいれば、ああいう奴隷市場を見ることもないか。そう気分のいいものじゃないが、今は耐えろ」

「……はい」


 ステラは鳥打帽を深く被り直してそれきり黙ったが、エルリオはというと、そう簡単に切り替えることができていない様子だった。足を止め、悲痛な面持ちで檻の方を見続けている。

 シオンは早足で立ち戻り、エルリオの傍らについた。


「まさかあの中に妹がいたのか?」

「……いや、いない」

「ならさっさとここを離れるぞ。そんなに凝視していると、無駄に怪しまれる」


 エルリオはシオンに腕を引かれ、覚束ない足取りでその場を後にした。

 それから三人は、この街にあるとされる収容所の場所を確認しにいった。収容所は街の中央区に存在しており、周囲の街並とも一線を画していた。古めかしい建築物が多いこの街で、その区画だけ現代的で真新しく無機質な建物が建ち並んでいる。恐らくはどれも軍の施設なのだろう。

 その中でもひと際大きな低階層の建物――しかし敷地は広く、周囲は金網と有刺鉄線で固められている――それこそが、収容所だった。金網の前には一定間隔で武装した兵士たちが立っており、警備の体制も厳重だ。


「あれが収容所みたいだが、予想通り警備が手厚いな」


 シオンが、建物の陰から覗き込むようにして言った。エルリオが険しい顔つきで口を開く。


「街全体を巻き込むような騒ぎを起こして、その隙に収容所を解放させると御身は言っていたが、何か具体的な方法はあるのか?」

「まだ決めかねている。それと、収容所をどうにかする前に、奴隷の売買記録を手に入れる必要がある。エルリオ、アンタはここの領主が持っているんじゃないかって言っていたが、確度はどの程度だ?」

「……正直、推測の域を出ていない。その情報も、今から三十年ほど前に、この街の奴隷市場から逃げてきた同胞が一人いて、その時に聞いただけだからな。帳簿のようなものを大切に保管していたようで、領主自ら管理していたと」

「三十年も前の話となると、帳簿での管理運用が今もされているかどうかも怪しいな」


 嘆息気味に短い息を吐くシオンの隣で、ステラが小さな疑問の声を上げた。


「三十年前って……エルリオさん、今いくつなんですか?」

「九十三歳だが?」

「え!? おじいちゃんじゃないですか!」


 ステラが驚きの声を上げると、エルリオが若干不機嫌そうな顔になった。

 それを察したシオンが、話の流れを止めるようにすかさず手を上げる。


「この王女、歳の割にあまり教養がないみたいなんだ。少し大目に見てやってほしい」

「……いや、別にいい。人間からそう反応されることはある程度慣れている」

「ステラ、エルリオに一言謝罪しておけ」


 シオンからの鋭い眼光に一瞬たじろぎながらも、ステラは自身の失言を内心恥じた。心底申し訳なさそうに眉根を寄せ、しゅんとなる。


「エルリオさん、ごめんなさい」

「王女よ、御身が王位につく前に、是非とも我々エルフのことを深く理解してくれることを心より願う」

「はい……」


 エルリオから皮肉のような返しがきて、ステラはしょんぼりと肩を落とした。

 一連のやり取りに嘆息したシオンが、改めて二人を見遣る。


「そろそろ視察は終わりにしていったん離れるとしよう。領主への接触の仕方も考えないと――」

「あ!」


 シオンがここから引き下がろうと提案した矢先、突然ステラが声を上げた。彼女が指し示すのは、収容所の端の方だ。


「なんだ?」

「あそこ、エルフの小さな女の子が収容所に近づいていってます」


 見ると、確かに、まだ十歳にもなっていなさそうな少女が周囲を気にしながら収容所へと駆け寄っている。少女の耳はエルフ特有のものであり、右の方には金属製のタグがピアスのようにしてつけられていた。


「あの子も奴隷なんでしょうか?」

「耳にタグが付けられているので恐らく。だが、妙だ」


 エルリオがステラの疑問に答えつつ、眉根を寄せる。


「奴隷にしては身なりが小奇麗すぎる。顔や腕といった肌を露出している部分にも傷や痣が一切ない。それに、一人で出歩いていることも不自然だ」


 エルリオの言う通り、エルフの少女は可憐なワンピースを着ていて、その肌つや、表情などは、奴隷とは思えないほどに良好そうだ。

 三人が不思議に思っている間に、エルフの少女は収容所の入り口前にたどり着く。それから少女は、何やら入り口前の兵士たちに向かって話し始めた。

 ステラが、ハラハラした表情でその様子を伺う。


「だ、大丈夫なんですか、あの子? 奴隷なんですよね? あの兵士たちに酷いことされないですか?」

「少し静かにしてくれ」「少し静かに」


 シオンとエルリオから、同じ言葉が同時に発せられた。人間の身体能力を“騎士の聖痕”の力で超越した騎士と、もとより人間より遥かに優れた身体能力を持つエルフの聴力を以てすれば、少し離れた場所の会話など、耳を澄ませば容易に聞き取ることができる。

 シオンとエルリオは、少女と兵士たちの会話に耳をそばたてた。


「お母さんは、元気ですか?」


 エルフの少女は、兵士の機嫌を損ねないよう、慎重な声色でそう訊いた。

 兵士は心底どうでもよさそうな顔つきで鼻を鳴らす。


「さあな。我々も収容所にいる奴隷一人ひとりの健康状態を見ているわけではない」

「そう、ですか……」


 冷たい兵士の回答に、エルフの少女は元気をなくして肩を落とす。少女はそのまま踵を返し、とぼとぼと収容所から離れようとした。

 どうやらエルフの少女は、収容所にいる母親の様子を伺いに来たようだ。


「下手をすれば兵士に殴り飛ばされるかもしれないのに、勇敢な子だな。母親のことを訊くためだけに兵士に話しかけたのか」


 シオンが感心していると、不意にエルリオが何かに気付いたように短く声を上げる。


「……アリス?」


 彼の口から出てきたのは、少女の名と思しき言葉だった。


「知り合いか?」


 シオンが咄嗟に聞き返すと、エルリオはしっかりと頷いた。


「ああ。一年前に連れ去られた同胞の一人だ。少し成長しているからすぐには気付かなかった。母親と一緒にガリア軍に囚われたはずだが、まさかこんな形で見ることになるとは……」


 彼は感極まったように声を震わせ、思わずといった様子でエルフの少女――アリスへと駆け寄っていく。シオンが呼び止める間もなく、エルリオはあっという間にアリスのもとへとたどり着いた。


「アリス! 無事だったか!」


 エルリオが声を上げると、それまで俯きがちに歩いていたアリスが徐に面を上げる。アリスの視界にエルリオが入った途端、彼女の表情は瞬く間に明るいものになった。

 そして、エルフの少女は一心不乱にエルリオの方へと駆け寄った。


「エルリオ伯父さん!」

「伯父さん!?」「伯父さん!?」


 シオンとステラが、揃って間抜けに叫んだ。







 エルリオとアリス――伯父と姪の再会は、思わぬところで叶った。それは当人たちが一番驚いていたようで、二人は抱擁を交わした後、互いに目に涙を浮かばせながら、通行人の人目もはばからず暫くそうしていた。

 そろそろ兵士たちの目に留まりそうだ、というところでシオンが声をかけ、いったんその場から離れることにした。


「アリス、買われた場所で酷いことはされていないか?」


 エルリオがアリスの手を引きながら訊くと、彼女はブンブンと勢いよく首を横に振った。


「大丈夫。ご主人様、凄く優しいんだよ。お金が溜まったら、お母さんも一緒に働かせてくれるって」

「アリス、きみが今働かされている場所はどんなところなんだ? よければ、これから連れていってくれないか?」

「うん!」


 エルリオの頼みに、アリスは満面の笑みで応じた。伯父の手を離し、先導するようにしてシオンたち三人よりも前に駆け出す。


「お、おい、いきなり走ると危ないぞ」


 そう言いつつも、エルリオの表情はどこか嬉しそうであった。久しぶりの身内の再会に、いくらか心が救われているようだ。

 それを横目で見ていたシオンが、徐に口を開く。


「まさかアンタに姪がいたとはな。妹の子か?」

「……すまない、隠していたわけではないんだ。だが、その……」


 その先を言い辛そうに、エルリオは黙ってしまった。

 シオンは小さく息を吐き、軽く肩を竦める。


「言いたくないことがあるのなら別にいい。無理をして言う必要は――」

「いや、御身たちには話しておく。あの子は、ハーフエルフなのだ」


 思いがけない言葉がエルリオから発せられ、シオンは反射的に目を丸くさせた。その隣では、ステラがいまいちことの重大さを理解できないようで、一人首を傾げている。


「ハーフ……ってことは、人間とエルフの間に生まれた子ってことですか?」

「その通りだ。あの子は、私の妹――ソフィアと、人間の男との間に生まれた子だ。もっとも、夫の方はあの子が生まれて数年後に病で亡くなったがな。エルフと共に生活することを選んだが、森の中での生活は人間にとっては非常に過酷だったようだ」


 人間を“バニラ”と蔑んでいたとは思えないほどに、その口調は悲哀に包まれていた。恐らくは、その人間の男とはよほど良好な関係を築けていたのだろう。

 だが、シオンの関心はそんなところにあるわけではなく――


「ハーフエルフであること、ガリア軍はわかっていて連れ去ったのか?」


 いつになく真剣な声色でエルリオに詰め寄った。エルリオは静かに首を横に振る。


「いや、おそらくは知らないだろう。もし知っていれば、あの子はこんなところにただの奴隷としているわけにはいかない」

「……俺たちに敢えてあの子の存在を言わなかったことも、ハーフエルフであると聞けば納得だ。まして俺はもともと騎士団に身を置いていた。言えないのも無理はない」

「理解いただけて助かる」


 ステラは、勝手に二人で納得する目の前の美青年とエルフを交互に見遣りながら、完全に置いてけぼりにされている状況に苛立っていた。


「ちょ、ちょっと! 二人で納得しないで私にも教えてください!」

「ハーフエルフであることがバレていれば、あの子は騎士団に殺されている」


 突き放すような冷たいシオンの言葉に、ステラは血の気を失ったように顔を白くさせた。


「な、なんで、ハーフエルフだと――」

「教会が人間と亜人の混血を認めていない」


 端的に、それでいてわかりやすく、それ以上のない答えをシオンが言い放った。だが、ステラは食い下がるようにして彼に近づく。


「混血だからって、そんなの理由にならないんじゃ……」

「エルフと人との間に子供が生まれることは、本来あり得ないこととされていた。生物学的にもな。だが、ごくまれに――それこそ万に一つの確率で、ハーフエルフが生まれることがある。その事実を教会は認めたくないんだ」

「だから、なんで――」

「ガリア公国でエルフの女子供が奴隷として扱われる理由は、皆まで言わずとももうわかっているな?」


 シオンが、いつになく感情的に――いや、いつもよりも感情を抑えたような目つきで、ステラを見た。その無機質な瞳に、ステラは思わずたじろぐ。


「は、はい……」

「今でこそログレス王国を始めとして亜人の奴隷化を禁止している国は多数あるが、“それ”自体は人類がこの大陸で、千年以上も前からやってきたことだ。そして、教会はその非人道的な行為を表向きには遥か昔から強く否定している。だがそれでも、“そうした事実が大陸であったことを消すことができない”。教会には、昔から騎士団を使って、大陸の平和と秩序を保ってきた矜持がある。だから教会は、体裁として、行動として、自分たちの面子を保つための手段として――教義の下に、暗黙的な振る舞いをすることにした」

「どういう意味ですか?」

「“亜人と人は肉体を交わすことはない”――その証拠となる確たる存在――ハーフを消し去ることで、教会としての立場と権威を明確にすることにしたんだ」


 シオンから淡々と語られた話に、ステラは頭を真っ白にさせた。彼女はすぐさま頭の中で聞いた話を整理し、口を動かし始める。


「じゃあ、ハーフエルフは、教会の……教会の……」


 それ以上の言葉を詰まらせていると――


「平たく言えば、教会のパフォーマンスのために殺される。大陸の秩序と平和を守るという免罪符付きでな」


 シオンが、一切濁さずに、わかりやすい表現で言った。

 ステラが呆然としていると、エルリオがその背を軽く押す。


「どうか、アリスのことは内密に頼む」


 その言葉を受けて、ステラは意識を取り戻したかのように視線を前に向けた。そこには、先頭を走ったアリスが立ち止まり、こちらに向かって手を振っている姿があった。







 アリスの案内で入ったのは、二階建てのこぢんまりとした宿屋だった。一階は酒場となっており、昼下がりの今はさすがに客がいない――というよりも、そもそもまだ酒場は開店していないようだ。吹き抜けとなっている二階廊下にはいくつもの部屋があり、そこが宿泊用の部屋になっているのだろう。


「ただいま戻りました、ご主人様」


 アリスが言うと、カウンターの陰からのそっと大柄な影が現れた。熊かと見まがうほどの巨漢だったが、小奇麗に整えられた髪や髭には白髪が混ざっており、それなりの年齢を感じさせる。

 エルリオは巨漢の姿を見るなり、途端に表情を険しいものにした。それをシオンが見て、咄嗟に彼の肩に手を置く。


「落ち着け。アリスが酷い扱いを受けていないのは、アンタも何となく感じているだろ」


 シオンに言われて、エルリオは少しだけ肩の力を抜く。

 一方で、宿の主人はシオンたちを見てじろりと睨みを利かせた。これでエプロンをつけていなかったら、盗賊団のボスにでも間違われるような人相だ。ステラが思わずといった様子で後ずさりするほどである。


「……悪いが酒場は十八時にならないと始まらない。宿なら十五時から取る。どちらにしても今は準備中だ」


 宿の主人はそう言うと、再びしゃがんでカウンターの陰に隠れてしまった。

 そこへ、アリスが小走りで近づいていく。


「ご主人様、この人はアリスの伯父さんなんです」


 彼女は屈託のない笑顔で、そう主人に報告した。直後、カウンターに頭をぶつける宿の主人――それから驚いた顔で、シオンたち三人の方を見遣る。

 エルリオが、一歩前に出た。


「姪が世話になったようだな。貴様のような粗暴な風貌をした“バニラ”のもとにアリスがいたとは――虫唾が走る」


 エルリオは頭の布を解き、耳を露出させた状態で吐き捨てた。憎悪と嫌悪で顔が歪み、エルフ特有の美貌は見る影もない。

 宿の主人は、そんな鬼の形相と化したエルフを目の当たりにしていたが、そこに怯えなどは一切なく、むしろ安堵に表情を緩めていた。


「そうか……それは、よかった」


 彼はそのままカウンターに両手をつき、長い息を吐きながら穏やかに目を瞑った。

 その意外な反応に、シオンとステラが揃って怪訝になる。宿の主人の言葉の真意をどちらかが訪ねようとしたその直前に、


「店が始まる前でちょうどよかった。少し、話をさせてくれないか?」


 彼自身から、会話の打診があった。







 長テーブルの一角にシオンたちが座ると、飲み水の入ったグラスが一人ずつ配られた。それを手伝うアリスの姿はとても活き活きとしており、この子が奴隷であることを忘れてしまうほどだった。

 間もなく宿の主人がその巨体を着席させると、真摯な面持ちで一同を見遣る。


「俺はドミニク。見ての通り、この酒場と宿の主人だ。そして、この子――アリスを買い取った人間でもある」


 その言葉を聞いたエルリオの眉間に深い皺が寄せられる。今すぐにでも飛びかかりそうなほどに頭に血がのぼっているようだったが、どうにか有りっ丈の理性で堪えているようだ。

 そんな怒れる伯父の姿を見たからなのかはわからないが――


「まずは謝る。アンタたちエルフを奴隷として働かせていること、はらわたが煮えたぎる思いだろう。それも、こんな子供を。本当に、申し訳ない」


 謝罪の言葉が、真っ先に投げられた。これにはエルリオも面食らったようで、怒りの表情を咄嗟に解いてしまっていた。


「アリスを取り戻しに来たエルフと会うことがあれば、腹を刺されてもおかしくはないと覚悟していた。だが、これだけは信じてほしい。俺はこの子に、店の手伝いこそさせていたものの、何一つとして傷つけるようなことはしていない」


 ドミニクが言って、エルリオがアリスの方を見る。するとアリスも、その言葉に同意するようにして笑顔になった。


「ご主人様は優しい人だよ」


 アリスの屈託のない無邪気な笑顔が、ドミニクの言っていることを真実と証明していた。


「そのご主人様っていうの、何とかならないのか?」

「ごめんなさい……」

「ああ、いや、そんな悲しい顔をしないでくれ。収容所や奴隷商人に、そう教えられていたのはわかっている。怒っているわけじゃないんだ。だけど、いつも言っているだろ、人前ではせめて店長とか、オヤジさんとか……」


 アリスの落ち込む表情に、ドミニクが慌てふためく。まるでそのやり取りは、主人と奴隷というより、祖父と孫のようであった。

 奴隷のエルフがこのような手厚い待遇を受けていることを目の当たりにして、エルリオはまるで夢でも見ているかのように呆然としていた。

 そんな彼に代わって、シオンが口を開く。


「アンタ、この子が奴隷市場で売られている姿を見て不憫に思って買い取ったのか?」

「その通りだ」


 ドミニクからの予想外なほどの即答に、シオンは若干顔を顰めた。気持ちは何となく理解できるが、亜人の奴隷化が合法とされているこの国でその振る舞いができることにいささか疑念があったのだ。


「ガリア人にしては珍しいな。亜人に対して、随分と人情的だ」

「なら逆に訊くが、こんな小さな子供が冷たい檻の中で一人震えている姿を見て、お前は何も思わないでいられるのか?」


 まさしくこれぞ慈愛から生まれる怒りの眼差しといった感じで、ドミニクはシオンを睨みつけた。

 シオンはそれを見て、小さく息を吐く。


「エルフ――しかも女児ともなれば、かなりの金額を払わされただろうに」

「なんとでも言うがいい。善行とまでは言わないが、独り身のジジイの気まぐれでこの子が元気で生きられるんだ。周りからどう言われようと、俺はそれだけで満足だ」


 ドミニクが言い切ると、それに同調するようにしてステラが頷く。


「そうですよ。どんな形であれ、こうしてアリスちゃんが笑顔でいられていることが何よりも大事なことだと思います」

「そうだな。それで――」


 ステラの言葉を雑に流して、シオンはエルリオの方を見た。


「アンタはこれからどうする、エルリオ?」


 エルリオはそこで、ハッとしたように意識を取り戻した。それを見て、シオンは若干目を細める。


「普通に考えれば、アンタはアリスを連れて帰るべきだろうが、状況が状況だ。この子はこのままここで暫く保護してもらうというのもひとつの手かもしれない」


 エルリオも同じようなことを考えていたようで、何とも言えない表情になった。だが、ドミニクが先に割って入った。


「いや、俺ははなっから迎えが来た時には素直にこの子を引き渡すつもりだった。少し嫌なことを言うが、ここが酒場兼宿屋であることを何かと勘違いした客がいて――アリスが部屋に連れていかれそうになったことが何度かあった。もちろんそんなことはさせなかったが、正直、こんなところにこの子をいつまでも置いておきたくないっていうのが俺の本音だ」


 それを聞いて、エルリオがますます頭を抱えたそうな顔になる。シオンはそんな彼を横目で見ながら――奴隷帳簿を探さなければならないこと、収容所の解放のことも同様に――問題ばかりが積もっていく状況に、若干、辟易していた。

 これからどうするべきか――悩める男たちを余所に、いつの間にか、ステラとアリスが、長話に飽きてしまったのか、二人で店の隅で遊び始めていた。


 そんな混沌とした有様の中で、不意に店の扉が強くノックされた。エルリオが咄嗟に布で耳と頭を隠す。

 直後、店主のドミニクが了承していないにも関わらず、扉が乱暴に開かれた。


「看板は閉まっていたようだが、なぜ客がいるのかな?」


 宿に入ってきたのは、三人組の男たちだった。

 一人は小奇麗な身なりの中年の男で、入って来て早々に高圧的な態度で振舞っている。その脇を固めるのは、この街の憲兵と思しき二人組だった。

 ドミニクの表情が、その三人組を見た瞬間、嫌悪と怒りで歪んだ。


「ちょっとした手違いですよ、領主殿。アンタには関係のない話だ」

「関係がないことはないだろう。以前から、今日この時間にこの店に来るとは伝えていたはずだ。予定を押さえていたのに、別の客を入れるとは何事か」

「この人らは客じゃない。それに、以前からこの時間は店をやっていないと返事していたはずですがね」


 ドミニクが苛立ちを隠さずに言うと、領主と呼ばれた中年の男は顔を少しだけ引きつらせた。


「ふん、御託はいい! さっさと“例の話”をさせてもらうぞ!」


 領主が鼻息を荒げると、彼の脇に控えていた憲兵二人が突然小銃の先をシオンたちに向けてきた。

 ドミニクが、観念したように首を横に振る。


「すまないが、お前たちとの話はここまでだ。次はこの男の相手をしないと駄目らしい」

「こいつがこの街の領主か?」


 シオンがすかさず小声で訊くと、ドミニクが小さく頷いた。


「ああ、フレデリックって野郎だ。この街の一切を仕切っている。もちろん、エルフの奴隷についてもな」

「なるほど、いいことを聞いた。ありがとう」


 シオンはそれだけを言い残して、ステラとエルリオを連れて扉へと向かっていった。フレデリックとのすれ違いざま、彼からやけに陰湿な視線を向けられていたことにステラが露骨に腹を立てていたが、シオンが彼女の首根っこを掴んで事なきを得る。

 店の外に出て、シオンは改めてステラとエルリオを見遣った。


「さっきのドミニクの口ぶりだと、今も奴隷の流通記録はこの街の領主――さっきのフレデリックという男が管理していそうだ」


 その言葉を聞いたステラが息巻いた。


「じゃあ早速とっちめないと!」

「お前はいつからそんな過激派になった」

「だって――」

「エルリオ」


 ステラを無視して、シオンは、先ほどからずっと俯きがちなエルリオの方を向いた。


「アリスのことはなるべく早くに結論を出しておいてくれ。連れていけば、あの子にも暫く放浪の旅をさせることになる。ドミニクを信じてここに残らせるのも選択肢だ」

「……理解している」


 その回答とは裏腹に、未だにエルリオは酷く悩んだ顔のままだった。

 シオンは一度溜め息を吐いて――


「偵察がてら、少し街の中を歩こう。一時間後に、またこの店の前に戻る」


 そう提案をした。







「あの、シオンさんは、アリスちゃんのことどうするべきだと思いますか?」


 エルリオが、少し一人で考えたいと言って別行動を取った直後に、ステラがそう訊いてきた。シオンは歩みを止めずに彼女を一瞥し、徐に口を動かす。


「さあ。俺には判断できない」

「またそんな冷たいことを……」

「決めるのはエルリオとアリス本人だ。無責任なことを外野からとやかく言うつもりはない」

「確かにそうですけど……」

「逆に訊くが、お前はどうしたらいいと思う?」

「私は、わかりません……」

「俺も同じだ。今はまだドミニクのお陰で安全な暮らしができているみたいだが、いつまた奴隷的な扱いを受けることになるかわからない。それならいっそ、過酷な旅にはなるだろうが身内と一緒にログレス国内で放浪する方がいいかもしれない――いずれにしても、これは当事者が決めないと駄目なことだ」


 シオンがそこまで言うと、不意にステラが足を止めた。


「……どうして、エルフだけこんなにも辛い選択を迫られるんでしょう」


 彼女のその言葉は、シオンに訊いているというよりは、思わず声に出してしまった、といった感じだ。


「この手の話はエルフに限った話じゃない。大陸に住まう亜人全般に言える。エルフ、ドワーフ、ライカンスロープ――この大陸ではいつの時代も、少数派の彼らが俺たち人間によって過酷な生き方を強いられてきた。……だが、ひとつお前には忘れないでほしいことがある。その長い大陸史における人種の扱いに一石を投じたのが、お前の祖先だ」

「え?」


 シオンが言うと、ステラが意外そうな顔になった。


「それまで当然のようにして成り立っていた亜人の奴隷制度を先駆けて撤廃したのが、ログレス王国だ。だからエルフたちは、ログレス王国の領土内に独立自治区を持つことができたと言ってもいい。自分の国、まして先祖の偉業なのに知らなかったのか?」

「し、知りませんでした……」

「女王になる前に、お前は真面目に勉強した方がいいな」

「はい……」


 シオンの苦言に、ステラが返す言葉もないといった様子で縮こまる。

 だが、その後で、


「でも、その話を今ここで聞けてよかったです。ご先祖様にできたのなら、きっと私にも同じことができるんじゃないかって思えてきました」

「どういう意味だ?」

「私が頑張れば、またエルフの人たちに安心して過ごせる環境を提供できるかもしれないって思ったんです。そうすれば、エルリオさんもアリスちゃんも、アリスちゃんのお母さんも一緒に仲良く暮らせます。王族だからって、この考えはちょっと傲慢ですかね?」


 ステラはそう言って、少しだけ気まずそうに苦笑する。

 しかし、シオンは小さく首を横に振った。


「亜人たちがそれを聞いてどう思うかはわからないが、ログレス王国の次期女王がそういう志を持っていること自体はいいんじゃないか」


 背を押すようなシオンの言葉を聞いて、ステラは少しだけ気恥ずかしそうにしながら頭の後ろを掻いた。

 それから二人は、徐に歩みを再開しようとする。

 と、そんな時だった。


「ねえ。そこの二人、ちょっといい?」


 突然、何者かが声をかけてきた。妙に気だるげな、若い女の声だ。

 二人が揃って声の方を見ると、そこには女が一人立っていた。歳は二十前後で、シオンより少し年下くらいに見える。童顔ながらも非常に整った容姿をしており、薄い桃色がかかった髪を耳より少し高いところで二つに分けて縛っている髪型が特徴的だった。フリルの付いたブラウスに、スリットの入ったスカート――自分のスタイルに自信があるのか、コルセットで強調された体のラインは、その気がなかったとしても目のやり場に困るほどに艶麗だった。

 だが、彼女の美しさ以上に目を引くのは、その手荷物だった。一つは、どこにでもある革のスーツケースで、問題は、もう一方の荷物だ。彼女の身長ほどもある縦長のスーツケースで、およそこのような美麗な女が持ち歩くには、あまりにも物々しく、違和感しかなかった。


「宿屋に行きたいんだけど、手ごろなところ、知ってる?」


 眠たそうな顔をしていて、声にもあまり張りはなかったが、きっとこれが彼女の普通なのだろう。

 戸惑いながらも、ステラが対応する。


「えっと、どの宿でもいいですか?」

「いいよ。早く休みたいから」


 相当疲れているのか、無気力な声質で答えてきた。

 ステラはいったんシオンの方を見る。


「シオンさん、この人、ドミニクさんの宿に案内してあげませんか?」

「むしろ俺たちはそこしか案内できないだろ。他の宿も知らないし」

「さっきは珍しく褒めてくれたと思ったら、急にまた塩対応になりましたね」


 ステラが大げさにしかめっ面をすると、シオンは軽く肩を竦めて応じた。それから、ステラは女に歩み寄り、宿のある方角を指で示す。


「あっちに宿があります。一階が酒場になってる建物です。十五時にならないと受け付けてくれないみたいなので、少し待ってから行くといいですよ」

「さっき通り過ぎたけど、あそこ宿屋だったんだ。ありがとう、助かるよ」

「いえ、困った時はお互い様です。私はステラって言います。あっちの怖い顔した人はシオンさんです」


 ステラがそう言って手を差し伸ばす。女は、その気だるそうな表情を少しだけ緩め、口元に小さな笑みを見せて握り返した。


「エレオノーラだよ。よろしくね、二人とも」


 そう言ったエレオノーラの顔を見て、ステラは思わず頬を赤らめる。容姿とスタイルもさることながら、どこか儚げでダウナーな雰囲気が、彼女のことをより一層妖美に見せていたのだ。

 ステラが手を放すと、エレオノーラは荷物を手に取って宿の方向に歩みだす。その背中を見つつ、ステラはどこか気恥ずかしそうに頭の後ろを掻く。


「な、何か、綺麗な人を目の前にすると照れちゃいますね」


 同意を求めるようにシオンの方を振り返ったが、彼は彼で別の印象をエレオノーラに持っていた。険しい目つきをして、いかにも不審者を相手取るような面持ちでいる。


「どうしたんですか? いつにもまして深い皺を眉間に寄せて?」

「あのエレオノーラとかいう女、スリットから覗く太ももに弾丸を巻き付けていた」

「弾丸って……何かの見間違いじゃないですか? ていうか、シオンさん、意外と目ざといですね」

「いや、間違いない。しかもかなりの大きさの口径だ。少なくとも拳銃レベルで扱えるようなものじゃない」

「何かのファッションなんじゃないんですか?」

「……だといいけどな」


 ステラの言葉にあまり同意していない声色で返事をしつつ、シオンは街の中の散策を再開した。

 そろそろ、エルリオとも合流しなければ――二人は歩みを少しだけ速めることにした。







 ドミニクは、自身の宿にフレデリックを招き入れると、そのまま一階酒場の適当なテーブルに座らせた。護衛の兵士二人が、テーブル端に銃を構えて立つ。

 その物々しい雰囲気に、アリスは酒場のカウンターに隠れて息を潜めた。


「さっきいた妙な三人組はお前の知り合いか? 随分と親しげに話し込んでいたようだが?」

「アンタには関係ないでしょう」

「ふん、無愛想な店主だ。客には茶の一つでも出してもらいたいもんだね」

「アンタは客じゃないからな」


 ドミニクの返しに、フレデリックが額に青筋を浮かばせる。


「私はこの街の領主だぞ。言葉は慎重に選べ」

「そいつは悪かった。あまり育ちのいい方じゃないんでね」


 一触即発の空気が酒場に漂うが、先に折れたのはフレデリックの方だった。彼は軽く鼻を鳴らすと、テーブルに片肘をついて足をテーブルの外に投げ出す。


「まあいい、お前と口喧嘩をしに来たわけじゃないんだ。さっさと本題に入らせてもらう」


 フレデリックは懐から葉巻を取り出し、手早く火を点けて口から紫煙を吐き出す。


「私からの手紙は読んでくれたな? あれに書いてあった通り、お前が買い取った奴隷のガキはこちらに引き渡してもらう。もちろん、お前が支払った分の額はちゃんと渡す」

「その手紙の返信にちゃんと書いたはずだ。いくら積まれたってアリスをアンタんところに戻すつもりはないってな」


 ドミニクが威嚇するような顔つきで言うと、フレデリックは葉巻を吹かしながら愉快そうに笑った。


「おいおい、勘違いしないでくれ。これは領主としての――“お国”からのお達しだ。ただの奴隷売買の話じゃない」

「なら、ちゃんと説明責任を果たしてくれませんかね。こっちとしても、そうほいほいと手放す道理はまったくないんだよ」

「まったく、何をそんなにあのガキにこだわるのか。よほど“具合”がいいと見える。もう玩具一つに駄々をこねる年齢じゃ――」


 途端、フレデリックの身体が勢いよく吹き飛んだ。ドミニクが、その巨体から発せられる力を存分に使って、拳による渾身の一撃を見舞ったのだ。

 護衛の兵士たちが、一斉にドミニクに向かって銃を構える。酒場のカウンターの陰では、アリスの小さな悲鳴が聞こえた。


「悪いがもうこれ以上アンタとは会話する気になれない。それに、そろそろ宿屋の開店時間だ、お引き取り願おう」


 ドミニクが怒気を込めて言うと、フレデリックは切れた口から出た血を拭いながら、さも予想通りであったかのように不気味な引き笑いをする。


「……ドミニク、この際だ。そもそもこの話を持ち掛けた、決定打となるいいことを教えてやろう」


 フレデリックはそこまで言って、一度上半身を起き上がらせる。


「収容所に入れられたエルフたちは、奴隷市場に出回る前に、一度必ずその健康状態を検査される。持病を持っていたり、すぐ死ぬような奴を市場に出したところで意味がないからな」

「何の話だ?」


 ドミニクが低い声で唸るが、フレデリックは意も介せずに淡々と服の汚れを払う。


「その時に血液検査をするんだ。まあ、エルフは人間よりも遥かに強靭な肉体を持っているから、病気を持っていることなんて滅多になく、いつもなあなあで済まされるんだが」


 それからフレデリックは、落とした葉巻を拾い上げて徐に咥え直した。まずは一服して、ドミニクに近づく。


「しかし、だ。つい最近、うちに教会魔術師の研究者たちが数人やってきてな。そいつらがこれまでの奴隷たちの血液検査の結果を興味本位に調べたんだ。するとどういうことだ、あのアリスとかいうガキ、とんでもない代物であることがわかったんだ」

「何が言いたい!? さっさと――」

「あのガキはハーフエルフだ」


 フレデリックが、そうドミニクに耳打ちをした。ドミニクは目を見開き、そのまま硬直してしまう。


「これで私があの子供を引き取ろうとする理由がわかっただろう? このままだと、お前もただでは済まないはずだ。無論、お前とて騎士団のような化け物連中に命を狙われたくはあるまい? 私は一領主として、国民の安全を守るためにこの提案をしてやっているのだ」


 フレデリックは口に含んだ紫煙をドミニクの顔に吹きつけた。それでもドミニクは、石像のように固まったままだ。


「まあ、こうして領主である私自ら赴いてまで忠告はしてやったんだ。あとはお前の好きにするといい。余生の短い老いぼれに、今更どうこう言うつもりはない」


 フレデリックは葉巻を酒場の床に投げ捨て、踵を返す。その後に、兵士たちも続いた。


「私が話したかったことは以上だ。お前が聡明であることを願うよ」


 そう言い残して、フレデリックが店から出ていく。

 数秒の静寂――カウンターの陰から、アリスが出てきた。アリスは不安そうな面持ちで、ドミニクへ近づく。


「あ、あの、ご主人様……」


 ドミニクが、そのか細い声を聞いて意識を取り戻した。すぐに、足元にこぢんまりと佇むアリスを見て、


「あ、ああ。どうした?」


 彼女の頭を、熊のような大きな手で撫でる。

 アリスはむず痒そうな顔をしながら顔を綻ばせ、改めてドミニクを見遣る。


「アリスは、ご主人様と一緒がいいです。それと、いつかお母さんとも一緒になれると、いいと思ってます」


 その言葉を聞いたドミニクが、酷く辛そうな顔になった。ドスン、と椅子の上に体を預け、片手でその髭面を静かに覆う。


「ご主人様?」


 アリスが小首を傾げても、ドミニクは黙って、暫くそうしていた。







 ドミニクの宿を出てそろそろ一時間が経過し、シオンとステラは予定通り再びそこへ戻ろうとしていた。

 エルリオと合流したのは、ちょうどその足が向かい始めた時である。

 シオンは、未だ決心しかねていそうな表情のエルリオを見て、


「アリスをどうするか決められなかったのなら、もう少し時間を取るか?」


 少し気遣うように声をかけた。

 しかし、エルリオは長い息を吐いたあとで、ゆっくりと首を横に振る。


「いや、不要だ」


 その言葉を聞いたステラが、痛ましそうな表情になって彼の前に立った。


「アリスちゃん、どうするんですか?」

「あの子には暫く辛い思いをさせることになるかもしれないが、ここから連れ出すことにする。アリスの振る舞いからあのドミニクとかいう人間に預けることも考えたが、何よりアリスは母親――私の妹のソフィアと共にいたいはずだ。ソフィアが収容所にいるのであれば、解放することでアリスの願いも叶う」


 エルリオの決断に、ステラは表情を引き締めて力強く頷いた。


「わかりました。私も微力ながらご協力します」

「恩に着る」


 その言葉通りに期待をしているかはさておき、エルリオは儚げな微笑を浮かべて礼を言った。

 話がまとまったところで、シオンたちは宿への歩みを再開する。


「しかし、これから、どうやって捕らわれた同胞を解放するつもりでいる?」

「街を散策しながら、この街の奴隷について聞き込みも俺とステラでしてきた。この街はそれなりに規模が大きいが、奴隷を扱っている店は二つしかないとのことらしい。まず一つは俺たちも見た奴隷市場、そしてもう一つは娼館だ。アリスはドミニクに買われて本当に運がよかった」


 それを聞いたエルリオが、歯噛みしながら悪態をつく。


「蛮族どもが……!」

「だが少し妙なことも耳にした」

「妙?」


 エルリオが怪訝になると、ステラが頷いた。


「奴隷市場にも、娼館にも、ここ一、二年、エルフは数えるほどしか出回っていないそうなんです。エルリオさんの話だと、エルフの人たちが大勢攫われ始めたのってここ数年の話なんですよね? 何だかおかしくないですか?」

「他の街に連れていかれたのではないか? 同胞を連れ去ったガリア軍は何もこの街に駐在する兵士だとは――」

「同じことを私とシオンさんも思って、すぐに教えてくれた人に訊き返したんです。すると、それはあり得ないって言っていました」

「なぜ?」

「ガリア公国の貴族たちは領地の縄張り意識が非常に強い。この国の貴族たちは数年に一度の選挙で自らが国の元首である大公になるため、領地の力を互いに競い合うように発展させていく。亜人の奴隷が合法であるこの国では、その獲得数も一つの指標に数えられるらしい」


 ステラに代わって、シオンが続きを話し出す。


「そしてこの街は、ガリアとログレスの国境付近にあり、他の都市と比べてもっともエルフの森と地理的に近い場所にある。いわば、ガリアの他のどの領主よりも、奴隷となるエルフを攫うのに有利な場所にいる状態だ。ここの領主がそれを見落としているとは考えにくいし、みすみす他の領主にエルフを譲ってやることもしないだろう、とのことだ」

「で、では、攫われた同胞たちは――」

「まだ収容所に大勢いると思われる」


 狼狽するエルリオに、シオンが断定するかのような口調で言った。


「ちなみに軍専属の娼婦にされている可能性はないそうだ。あの収容所は周辺こそ大量の兵士に囲われているが、実際に中に入るのは一日を通して片手を数えるほどらしい」

「スケベそうなおじさんが無駄に熱弁していました。軍人たちが独り占めしてるかと思って収容所の近くで数日張り込みしていても、全然人の出入りがなかったって。だから信憑性は高いと思います」


 それを根拠にするのはいかがなものだろう――と、シオンとエルリオは言いたげな顔をしつつも、収容所からエルフがほとんど出てきていないことが不自然であることには変わりなかった。

 しかし、解放することを考えれば、それはメリットでもあった。


「だが、収容所さえ解放してしまえば、ほとんどの同胞を救出できるということか」

「はい! 少し希望が見えてきましたね!」


 エルリオの表情に、初めて余裕の一端が生まれる。それを見たステラの顔にも微かな笑みが浮かべられていた。

 だが、その二人の傍らで、シオンだけは未だに――いや、より一層、眉間に深い皺を残していた。

 ステラがそれに気付く。


「シオンさん、どうしたんですか? お腹痛いんですか?」

「……ひとまずはドミニクの宿に戻ろう。まだ聞いておきたいこともある」

「大丈夫ですか? 我慢できます?」


 無論、ステラが心配しているようなことは、シオンに起きていない。

 だが、シオンは、そんなことを否定する気にすらならないほどに、溜飲が下がらない思いだった。

 奴隷としての市場価値が高いエルフたちを大勢連れ去ることができたのに、なぜ収容所に入れたままにしておくのか――彼がかつて騎士として様々な任務に就き、大陸各地を巡った時でも、そのような事例は今までに一度も目にしたことがなかった。







「さっきはどーも」


 そう言って手を振ってきたのは、エレオノーラだった。彼女はドミニクの宿の玄関前で、階段に腰を下ろしている。


「あれ、どうしたんですか? 中に入らないんですか?」


 ステラの問いに、エレオノーラは扉にかけられた“CLOSED”の文字を指差す。


「まだ閉まってたから、開店するまでここで待ってたんだ。もう歩くの疲れたし」


 そう言いながら、気だるげに欠伸をした。むにゃむにゃと涙目になりながら、エレオノーラはシオンたち一行を軽く見遣る。そこで、彼女の視界にエルリオが入った時、ふとその美麗な瞳が細められた。


「さっきはいなかったね、そこのエルフさん。お友達?」


 エレオノーラが、一目見ただけでエルリオをエルフと見破った。彼は布でその特徴的な耳と金髪を隠しているはずだが、いったいなぜ――


「それで変装しているつもりだったんだ。驚いてるみたいだけど、耳と金髪隠してもわかる人にはわかっちゃうよ。エルフって薄暗い森の中で過ごすことに目が慣れちゃってるから、こういう日の下にいると瞳孔が極端に小さくなるんだよね。実は今、目が痛くなったりして結構辛いんじゃない?」


 と、疑問に思った矢先に、回答が返ってきた。

 途端に、シオンの顔が険しくなる。しかし、エレオノーラはそれすらもどこか楽しげに眺めていた。


「ちょっと、そんな怖い顔しないでよ。折角のイケメンが台無しだよ」


 揶揄うような言動を受けても、シオンはエレオノーラの動き一つ一つを見逃さないよう、注視し続けた。最初会った時に目にした、太ももに巻かれた大量の弾丸――やはり、この女は普通の人間ではなかった。

 空気が急速に張り詰めていく。

 だが、


「別にそのエルフさんをどうこうしようなんてつもりは一切ないから安心して。ただ、見たところ奴隷じゃないみたいじゃん? だから、ちょっとした親切心のつもりで言っただけだよ。さっきアタシが言ったみたいな方法で見分ける人もいるから、気を付けてって意味で。この国の人たち、エルフを奴隷として扱うこと当然みたいに思ってるし。ま、アタシには関係ないからどうでもいいんだけどね」


 その言葉通り、心底どうでもよさそうに、エレオノーラはもう一度大きな欠伸をした。

 シオンとエルリオはまだ警戒を解いていなかったが、ステラは少しだけほっとしたように胸を撫で下ろす。その後で、シオンとエルリオの耳に口を近づけた。


「びっくりしましたけど、悪い人ではなさそうですよ?」

「……“バニラ”の言うことは信じられない」

「同感だ」

「シオンさん、私たちもその“バニラ”です」


 そんな短いやり取りをしている最中、不意に宿の扉が開く。中から出てきたのは、アリスだ。

 アリスは、エルリオの姿を見るなり、ぱあっと明るい顔になって駆け出してくる。その勢いのまま、伯父の懐に飛び込んでいった。


「また会ったね!」

「あ、ああ」


 エルリオは戸惑いながらも姪の小さな体を受け止めると、優しくその頭を撫でた。

 そこへ、シオンが、


「念のためアリスの瞳はあの女に見せないようにしろ。金髪と耳、あとはタグでエルフと思われるはずだ」

「承知した」


 エルリオに小さな声でそう伝えた。

 それから、シオンはステラを連れて先に宿へと向かっていく。その際に、一度エレオノーラの前で立ち止まる。


「先に入ったらどうだ? 疲れてるんだろ?」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」


 んー、と声を上げながら、エレオノーラが伸びをする。彼女は手荷物を拾って、宿へと入っていった。

 それを確認したあとで、シオンがステラを見遣る。


「俺の目の届かないところであの女と接触するな。最悪、アリスの正体がバラされる危険もある」

「は、はい……」


 ステラは、緊張した面持ちでしっかりと頷いた。







 ドミニクの宿屋にある一階酒場にて――時刻が十八時半を回った時、長テーブルに腰をかけるステラが唐突に首を傾げた。


「そういえば、ここって十八時から酒場が始まるんじゃないんでしたっけ?」


 一向に客が入ってくる気配がないことを疑問に思ったのだ。

 ドミニクは料理を運びながら、


「アリスが家族と再会できた記念だ。今日はゆっくりさせてやりたいと思ってな、お前さんらの貸し切りにしたよ。宿もな」


 妙に静かな声で答えてきた。

 ステラは、なるほど、と言って隣にいたアリスを見る。


「よかったですね、アリスちゃん」

「うん! ご主人様、ありがとうございます!」


 アリスの笑顔を見て、何故かドミニクは表情を暗くしてすぐに離れていった。アリスの正面に座るエルリオが、不意に立ち上がってその後を追おうとする。だが、


「エルリオ、アンタはアリスの傍にいてやれ。今後のことは俺から話しておく」

「……わかった」


 シオンがそれを止めて、代わりにドミニクのいるカウンターへと向かっていった。

 シオンはカウンター越しにドミニクの前に立つと、少しの間を空けて徐に口を動かした。


「アリスのことだが、エルリオに引き渡してほしい」

「また唐突に切り出してきたな」

「ここに戻ってすぐに話すつもりでいたが、あの時はエレオノーラがいたからな。すぐにアリスの話をできなかった」

「そういえば、あの姉ちゃんはお前さんたちの連れじゃないのか? 早々に宿取って今の今まで部屋からずっと出てこないが」

「偶然この街で会っただけだ。相当疲れていたみたいだから、大方部屋に入って即行で寝たんだろう。それより、アリスの件だ」

「……奥で話そう」


 ドミニクはそう言って、カウンター奥へとシオンを案内する。そこは裏口扉のある食材置き場で、ドミニクは壁際に並べられた木箱の一つに腰を掛けた。


「アリスを連れていくなら、今夜、すぐにでも連れていってくれないか?」

「何故?」

「お前さんは、アリスのこと、どれだけ知っている?」


 引っかかる言い方に、シオンは顔を顰めた。だが、その意図は把握できている。


「あの子と一緒にいるうえで“知っておかなければならないこと”は知っている。あのエルフ――エルリオから聞いた」

「ということは、あの子がハーフエルフであることは知っているみたいだな」

「アンタ、あの子がハーフエルフであることを知っていて自分のもとに置いていたのか?」


 ドミニクは首を横に振る。それから視線を床に落とし、ぐったりと項垂れた。


「今日、フレデリックという領主がここに来ただろ。奴が、教えてきた」

「なるほど……あの領主もアリスを狙っているのか」


 ドミニクは頷く。


「ああ。今日は大人しく引き上げたが、いつ強硬手段に出てくるかわからない。それに、アリスがハーフエルフであることに気付いたのは、子飼いの教会魔術師の研究者だったそうだ。教会関係者が知ったのなら、いずれ教会にもその情報が伝わって、騎士団がここに送られてくる」

「――教会魔術師の研究者?」


 話を聞く中で、シオンは気になった部分を咄嗟に口に出した。意外な部分に食いついたシオンに、ドミニクが眉を顰める。


「どうした? 何かおかしいこと言ったか?」

「いや、研究者がこの街に何のためにいるんだと思って」

「さあな。貴族様の考えることなんて俺ら平民にはわからんよ。そんなことより――」


 ドミニクが木箱から立ち上がった。


「アリスのこと、頼めるか? 必要なものはこれから俺が準備しておく。夜は防壁の扉を閉められるが、街の外に出るための抜け穴が――」

「いや、今日はさすがに無理だ」

「なんでだ?」

「俺たちはアリス一人だけを連れ出しに来たわけじゃない。この街に囚われているエルフ全員を解放するつもりでいる」

「しょ、正気か?」


 シオンの言葉に、ドミニクが上ずった声で驚いた。しかし、シオンはいたって真面目な顔で頷く。


「ああ。どうやって解放しようか、今も悩んでいる」

「とんでもない若造だな……。俺の若い頃でも、そんな無茶、考えたこともなかった」

「俺が言い出したわけじゃないがな。ともかく、今日はどのみち無理だ。明日、一度エルリオと話してから決めたい。最悪、エルリオとアリスの二人だけ外に連れ出すことになるかもしれない」


 シオンが言うと、ドミニクが呆れた顔で溜め息を吐いた。


「わかった。だが、アリスの件に限ってはあまり悠長なことを言っていられないということは忘れないでくれ」

「ああ、わかっている」


 そう言って、シオンはステラたちのいるテーブルへと戻っていった。続けて、ドミニクが追加の料理を運んでいく。

 アリスは、ステラとエルリオに挟まれ、とても幸せそうに笑っていた。願わくば、この笑顔が永遠に守られるように――







 宿の一階奥に、従業員の生活スペース――ドミニクとアリスの私室がある。今日はドミニクの計らいで、アリスはエルリオと一緒の部屋に寝ることになった。

 シオンとステラもそれぞれ宿の部屋を借りて、今晩はここで一泊することにした。

 時刻は午前二時を回った頃――街の喧騒もなくなり、夜の静寂が皆を眠りへといざなった――その時だった。

 唐突に聞こえたのは、複数台の車が近場で停車する音――シオンはそこで瞬時に目を覚ました。体を起き上がらせ、暫く意識を耳に集中させる。

 それから一分とせずに、扉が蹴破られる音と、複数の発砲音が鳴った。その微かな隙間を縫うように、アリスの叫び声が一瞬聞こえる。

 シオンはベッドから跳ね起き、部屋の窓から地上へ降りた。そのまま裏口へと回り――


「エルリオ! アリス!」


 目にしたのは、血を流してぐったりとしているエルリオと、そんな彼にしがみつくアリスが、黒づくめの集団に車の中に押し込められている場面だった。直後に、車が走り出す。

 シオンが、騎士の強靭な脚力を使って一気に距離を詰め、車の後ろに辛うじて片手を引っかけた。だが、不意に車の中から窓越しに銃弾が放たれ、掴んでいたリアバンパーを車体から剝がされてしまう。

 シオンの身体は路上へと放り出され、近くの街灯に激突して止まった。


「クソ!」


 短く悪態をついて、いったんドミニクの宿に戻ることにした。

 おおよそ人の走力は思えない速度で路地を駆け抜け、すぐさま裏口から宿に入る。電灯のスイッチを入れ、そこで見たのは――


「ドミニク!」


 自らの血だまりに沈む、ドミニクの姿だった。

 脈を取ると、辛うじて生きているといった状態だ。シオンがいることに気付いたドミニクが、血をあぶく口を必死に開閉させる。


「あ、アリスが……!」

「わかってる。喋るな」


 シオンが、ドミニクの傷口を見る。腹と胸に弾丸が撃ち込まれており、弾は貫通していないようだ。傷口から溢れ出る血をシオンが手で強く押さえるが、一向に収まる様子がない。

 そこへ、ステラがやってきた。


「あの、何か大きな音がして――」


 瞬間、凄惨な現場を見て、息を詰まらせるような短い悲鳴を上げた。ステラは口を両手で押さえ、腰が抜けたようにへたり込む。


「ステラ!」


 突然、シオンに声をかけられ、ステラは涙目になりながら体を上下に跳ねさせる。


「包帯でも寝具でも何でもいい。清潔な布――止血できるものを持ってきてくれ!」

「え、あ、あの――」

「早くしろ!」


 シオンが言って、ステラが駆け出した。

 それからステラは、どこからか大量の清潔なベッドシーツを見つけて、シオンたちのところに戻ってきた。シオンはそれを乱暴に破ると、ドミニクの患部に巻き付けていく。だが、唐突にその手を止めた。

 ステラが、顔を顰める。


「ど、どうしたんですか?」

「――死んだ」


 シオンの短い回答に、ステラがふらふらと後退しながら壁に背をぶつける。そのまま、糸を切らしたように床に座り込む。

 シオンはそんな彼女を無視し、淡々とドミニクの体を静かに横たわらせた。その上にベッドシーツをかけたあとで、ステラを見遣る。


「エルリオとアリスが連れ去られた。場所は恐らく領主の館か、収容所――今から俺はそこに行く」


 シオンに声をかけられ、ようやくステラは意識を呼び戻した。


「え、でも――」

「もう考えている時間がない。今、エルリオを失えば、エルフたちは今度こそ路頭に迷うことになる。できれば取りたくない手段だったが、領主を締め上げて収容所を無理やりにでも解放させる」


 そう言って、シオンは踵を返した。その後を、ステラが慌てて追いかける。


「待ってください! 私も――」

「お前はここにいろ。収容所を解放した時はかなりの騒ぎになるはずだ。その時に合流してくれ」

「奴隷市場や娼館にいるエルフたちは――」

「諦める。街にいるエルフ全員の解放を期待していたエルフたちには俺が殴られておく」

「そんな!」


 一階酒場に出たところで、ステラがシオンの前に飛び出た。


「なら、奴隷市場と娼館のエルフたちは私が行って何とかします!」

「駄目だ。お前、自分が敵国にいる認識は持っているのか? 一人で勝手なことをすれば、最悪、お前も死ぬことになるぞ」


 シオンに言われて、ステラは言葉を詰まらせた。


「全部は救えない。それだけは覚えておいてくれ」


 ステラが、両拳を強く握りしめて顔を伏せた。打ちひしがれるようにして体を震わせ、立ち尽くす。

 シオンは、短いため息を吐いて、軽く頭を横に振った。その後で、宿を出ようとした時――


「ねー、さっきからうるさいんだけどー」


 エレオノーラが、吹き抜けの手すり部分に寄りかかって見下ろしながら、寝間着姿で訊いてきた。二つに縛っていた髪は下ろしており、目は寝起きでしょぼしょぼしている。


「何かあったのー?」

「俺たちと一緒にいたエルフと、ここで奴隷として働いていたエルフの少女が連れ去られ、宿の主人が殺された」

「え、何それ? やばくない? ていうか誰がそんなことしたの?」


 エレオノーラが、少し目を覚ました声色で言ってきた。

 シオンは、答えるかどうか一瞬悩んだ後で、


「恐らくこの街にいる貴族の領主だ。宿の主人と、色々もめていたらしいからな」


 少し濁した回答をした。それを聞いたエレオノーラが、興味ありげな視線を送ってくる。


「ふーん。で、アンタたちはこれからどうするの?」

「連れのエルフを取り戻しに行く。アンタも、これ以上巻き込まれたくなかったら、今のうちに――」

「あ、じゃあちょっと待って。アタシも行く」

「は?」


 思わぬ言葉が投げかけられ、シオンとステラは揃って間抜けな声を上げてしまった。


「アタシ、ここの領主に用があってこの街にきたんだ。そんなやばい奴だったら関わりたくないから、明日会いに行く前に見ておきたいなと思って」

「お前、何者――」

「着替えてくるからちょっと待ってて」


 マイペースな様子で、エレオノーラは踵を返そうとした。


「そんなの待っていられるか。俺は先に追いかける」

「アタシが行かないと、色々と丸く収まらないと思うけどー?」

「どういう意味だ?」


 シオンが訊くと、エレオノーラはひらひらと左手を軽く振って微笑んで見せた。


「だから、ちょっと待っててね」







 いつになく忙しい今日この日に、領主フレデリックは苛立ちを隠せずにはいられなかった。時刻はとうに日付を跨ぎ、あと四時間もすれば日が昇り始めるという頃だった。しかし、未だに仕事が終わらない。

 フレデリックは、執務室の机に張り付くような形で、目の前の書類に目を通していた。


「おい! この明細の計算、間違えているぞ!」


 怒号を飛ばすと、秘書たちが慌ててフレデリックが床に散らした書類を拾い出した。

 フレデリックは椅子の背もたれを大きくしならせ、天井を仰いだ。


「クソ! 何だってこの忙しい時に――」


 と、何かの愚痴を言いかけたところで、卓上の電話がけたたましい音を立てて鳴り始めた。フレデリックは怒りで顔を引きつらせながら、乱暴に受話器を取る。


「誰だ! 今は忙しい! 大した用件でないなら――」

『私だ』


 フレデリックは、電話先の声を聞いて顔色を青くした。座る姿勢を正し、受話器を持ち直す。


「あ、ああ、し、失礼いたしました!」

『繁盛しているようで何よりだ』

「は、はい! 何もかも貴方様のお陰であります! しかし、いったいこんな深夜に何用でございましょうか?」

『例のハーフエルフの件がどうなったのか、まだ報告を受けていなかったのでね。日中、買い取り先と交渉したのだろう?』


 フレデリックは、電話の相手の言葉を聞いて冷や汗を吹き出した。


「は、ハーフエルフでしたら、つい先ほど回収したと部下から報告を受けました。今頃、収容所に送られているはずです」

『それはよかった。だが、これから先は少し急ぐ必要がありそうだ』

「と、仰るのは?」

『最近、騎士団の動きが妙だ。もとより、分裂戦争後からその兆候は見られているのだが、私の意向とはまた別に、何やら独自に動き出しているようだ』


 電話相手の言葉を聞いて、フレデリックは受話器を強く耳に押し当てる。


「もしや、ハーフエルフの存在を悟られたと?」

『わからん。だが、希少なハーフエルフをみすみす騎士団に始末させるようなことはしたくない。少々勿体ない気はするが、早々に“実験”へ回せ』

「お言葉ですが、ハーフエルフを使ったところで“実験”がうまくいくとは――」

『構わん。ハーフエルフを使っただけで成功するとは考えていない。今必要なのは、サンプルの数だ。これまでエルフで駄目だった実験が、人との混血であった場合にどのような結果をもたらすのか、それを知りたい』

「かしこまりました」

『期待しているよ。次回の大公選挙では、私からも支持しておくことを検討しよう』

「きょ、恐縮でございます! 必ずや、実りのある成果をお伝えいたします!」


 激励の言葉を受けて、フレデリックの顔が厭らしく歪む。通話が相手側から切られると、フレデリックは受話器を持ったまま急いでダイアルを回した。繋いだ先は、収容所だ。


「私だ。先ほど回収したと言っていたハーフエルフを早速“実験”に使え。失敗しても構わん。サンプルとしての実験結果さえ得られればそれでいい」

『かしこまりました』


 それからフレデリックは受話器を置き、大きく息を吐きながら天井を仰いだ。先ほどまでの忙殺による苛立ちと疲労が吹き飛んでしまうかのような心持だった。次回の大公選挙が楽しみだ――自身が国家元首になったことを想像すると、自然と笑みが出てしまう。

 しかし、すぐにまた気を引き締めた。


「おっと、のんびりしている場合ではないな。“実験”は収容所の奴らに任せて、私は私で領主としての仕事を果たさなければ――」


 刹那、どこからか轟音が鳴り響き、屋敷全体が小刻みに揺れる。地震か――いや、これはどちらかと言えば、爆撃の衝撃に近い。

 フレデリックが慌てて椅子から立ち上がったのと同時に、執務室へ一人の兵士が入ってくる。


「領主様! こちらにいらっしゃいましたか!」

「何事だ!?」

「屋敷が何者かによって襲撃を受けております! 今、駐在する軍の兵士たちをこちらに緊急招集させておりますゆえ、領主様は急いで避難を!」

「襲撃!?」


 フレデリックは驚いた声を上げたあと、ハッとして表情を改めた。

 もしや騎士団が?――だとしたら、非常にマズい。

 フレデリックは袖机の鍵棚から、奴隷の売買記録と、“実験”に関わる全ての資料を取り出した。それらを鞄に乱暴に詰め込み、コートを羽織る。

 兵士に誘導され、逃げるように執務室を後にした。

 だが、その直後――突然、屋敷の中央ホール、一階正面扉が爆散する。その勢いは扉を破壊してもなお止まらず、続けて中央ホールに集合していた兵士たちが紙人形のようにして吹き飛ばされた。


「何事だ!?」


 フレデリックが叫んだ矢先、壊れた扉に立ち込める黒煙から人影が見えた。

 その人物は、この惨状の中にあってはあまりにも似つかわしくないほどに美麗で、可憐な容姿をしていた。


「お邪魔しまーす」


 妙に気だるげな声を発して、黒煙の中から姿を現したのは、一人の若い女だった。薄い白桃色の髪を二つに分けて結っており、服装は動きやすそうなブラウスとロングスカートの組み合わせだ。だが、その可憐な見た目とは裏腹に、その手には、一丁の巨大な銃が握られていた。マスケットを模したようなライフル――あまりにも物々しい様相に、フレデリックは顔をひきつらせた。







 エレオノーラは肩をライフルで軽く叩きながら、屋敷の中を軽く見渡す。

 屋敷の中央ホールには爆散した扉や壁の破片が散らばっており、爆発の余波を受けて吹き飛んだ兵士たちが呻きながらどうにか立ち上がろうとしていた。

 吹き抜けになっている二階廊下を見ると、何やら兵士に守られるような形で立っている初老の男がいた。


「ねー、あれが領主?」


 エレオノーラが、未だ黒煙立ち込める正面扉の方に向かってそう訊いた。すると、黒煙の中から、咳き込みながらステラが出てきた。

 ステラは手で軽く煙を払ったあと、エレオノーラが指さす方を見る。


「あ、そうです! あの人です! ドミニクさんと会話してたの、あの人です!」


 興奮気味にステラが答えると、エレオノーラはにやりと唇を歪ませた。


「わざわざ二手に分かれる必要もなかったね。シオンって言ったっけ、あのポニテのイケメン? 今頃、このだだっ広い屋敷の中、必死になって徘徊してんだろうね」


 楽しそうに笑うエレオノーラと、その傍らで微妙に引きつった笑いをするステラ――と、そんなことをしている間に、二人の周りを兵士たちが取り囲んだ。


「この騒ぎは貴様らの仕業か!? とんでもないことをしてくれたな!」


 二階廊下から、激昂したフレデリックが怒鳴り散らす。紳士的な初老の男が激しい剣幕をしている様は中々に迫力があったが、エレオノーラはまったく意に介していない面持ちだった。


「アンタこそ舐めたマネしてくれてんじゃん。アタシをこの街に呼んだのも、エルフを使って何か良からぬ実験をさせようとしていたからなんでしょ? この子たちに聞いたよ、わざわざエルフの森襲撃してまで攫っていたってさ、えぐ過ぎだよね」

「あ? 貴様のような小娘を招いた覚えなんぞないが?」

「教会魔術師の募集かけてたじゃん。実験の研究者が不足しているからって。で、採用されたから遥々こんな辺境の地まで来たわけなんだけど、とんだ無駄足だったわ」


 その言葉を聞いて、フレデリックは突如血の気が引いたように狼狽し始めた。目を大きく見開き、エレオノーラを指差しながら、口を何度も細かく開閉する。


「ま、まさか、お前、教会魔術師のエレオノーラ・コーゼル――“紅焔の魔女”か!?」


 しかし、エレオノーラは、驚愕と畏敬の視線を向けられているにも関わらず、誇るどころか不機嫌そうに顔を顰める。


「その“紅焔の魔女”って呼ぶの、止めてくれない? ダサいから嫌なんだけど」

「“紅焔の魔女”と呼ばれているからどんな厳ついババアが来るのかと思いきや、まさかこんな小娘が……」

「だからさ、その呼び方やめろっての!」


 エレオノーラが語気を強め、手に持っていた長大なライフルの柄を床に打ちつけた。

 すると、彼女を起点にして床が突然波打ち始め、周囲を取り囲んでいた兵士たちを漏れなく転倒させる。続けて、床や壁からいくつもの無機質な蔦が現れ、兵士たちが瞬く間に拘束されていく。魔術で作り出された異形の蔦は、兵士の体を床と壁に縛り付けるようにして容赦なく締め付け、彼らをものの数秒で漏れなく失神させた。

 そして、エレオノーラはライフルを片手で持ち直し、銃口をフレデリックに突き付ける。

 そのライフルは白を基調にした金色の装飾が施されており、中々に華美な見た目をしている。だが、それが普通のライフルではないことは、銃身と柄に細かく刻まれた印章が証明していた。エレオノーラの銃は、魔術を行使するための道具なのだ。


「おっさん、覚悟しておきなよ。諸々、教会に報告するから。騎士団がやってくるの、楽しみに待ってな」


 エレオノーラの挑発的な言葉を聞いて、フレデリックが忌々しそうに激しく歯噛みする。だが、すぐに不敵な笑みをして、彼女を睨み返した。


「教会に報告、か。まあ、したければ好きなだけするといい。それで私がどうにかなることはないがな」

「随分と余裕じゃん。何か策でもあるわけ?」

「ああ、とっておきのがな。もっとも、そんなことを気にせずとも、貴様らにはここで死んでもらうがな」


 不意に、フレデリックが壁の燭台を勢いよく引き下げた。ガコン、という何かがはまる大きな音が鳴った直後、今度はキリキリと歯車が動き出すような小振動が起き始める。

 すると、中央ホールの床の一部が徐に開かれた。ぽっかりと開いた四角い穴だったが、今度はそこから箱型の檻がせり上がってきた。

 そこに大量に詰め込まれていたのは、人ではない、しかし人に良く似た形状をした生物だ。形容するなら小鬼――緑がかかった土色の肌に、その身長は人の子供ほどの大きさしかない。その容姿は非常に醜く、とても知性の類があるようには見えなかった。

 エレオノーラとステラの姿を見るや否や、小鬼たちは歓喜の雄叫びを上げて一斉に檻の格子を激しく揺さぶる。

 フレデリックがそれを見て高笑いした。


「お嬢さん方、魔物を見るのは初めてかな? こいつらは魔術によって人工的に生みだされた生物で、ゴブリンと言われている。猿や豚といった動物の生体情報を組み合わせ、狂暴性を限界まで引き上げている。気をつけろよ、ゴブリンの好物は若い女の人肉だ!」


 それを聞いたステラの顔が嫌悪と恐怖で青ざめる。


「え、エレオノーラさん、逃げましょう! 数が多すぎます!」

「馬鹿が、もう遅い」


 フレデリックがそう言うと、檻の格子が勢いよく外された。中のゴブリンたちが、緑の奔流となってステラとエレオノーラに向かっていく。

 ゴブリンたちは飛び跳ねるように――まるでネコ科の動物のようにして肉薄してくる。数の多さとフットワークの軽さのせいで、先ほどの兵士たちのように、魔術で要領よく拘束することはできそうにない。

 だが、エレオノーラはいたって落ち着いていた。


「あのさ、なんであたしが“紅焔の魔女”なんてダッサイ異名で呼ばれているか、知ってる?」


 そして、エレオノーラがライフルの引き金を引いた。

 銃口から出たのは、鉛玉ではなかった。ホールを照らすシャンデリアの灯りなど比にならないほどに明るい光が、そこから放たれたのだ。

 まるで、太陽の火の一部がそこから出てきたかのようにして、強烈な熱と光がゴブリンの群れを焼き払う。

 魔術で作られた業火は、一瞬にしてゴブリンを一匹残らず消し炭にした。

 その光景を目の当たりにしたフレデリックが、狼狽しながらよろめく。


「ば、馬鹿な……!」

「何驚いてんの。教会魔術師が人間兵器って呼ばれてんの、知らないわけじゃないでしょ?あんな魔物、ものの数じゃないっての」


 エレオノーラは呆れたように言って、ライフルをくるくると回しながら銃口から出る煙を掻き消す。その傍らでは、ステラも領主と同じく、驚愕の表情をして固まっていた。


「す、凄い……。教会魔術師ってこんなに強いんですね……」


 エレオノーラはそれには構わず、ゴブリンの消し炭を踏み潰しながらフレデリックの方へ向かう。それに気付いたフレデリックが、小さな悲鳴を上げて二階の奥へ走って逃げようとした。


「あ、コラ、待て!」


 エレオノーラが声を上げた瞬間、突如としてフレデリックの体が後方に吹き飛ぶ。顔面を何かに打ち付けて、そのまま気を失ってしまった。続けて、彼を護衛していた兵士たちも同じように吹き飛ぶ。

 二階廊下の曲がり角から出てきたのはシオンだった。エレオノーラたちとは別口から侵入したシオンが今になって合流し、フレデリックたちを蹴り飛ばしたのだ。


「さすが!」「ナイス!」


 ステラとエレオノーラがそれぞれ賛辞の言葉をかける。シオンはそれには構わず、フレデリック本人と、彼が落とした鞄を拾い上げた。

 その後で、フレデリックの顔面を数発叩いて目を無理やり覚まさせる。


「色々聞かせてもらうぞ」


 シオンがその赤い双眸で見下ろすと、フレデリックは酷く青ざめた顔で短い悲鳴を上げた。







 エレオノーラが、魔術で作り出した蔦でフレデリックを縛り上げる。その傍らでは、シオンとステラが、フレデリックの鞄をひっくり返して中の書類を漁っていた。

 不意にステラが、あっ、と声を上げて、奴隷の売買記録を見つける。


「街で聞いた通りです。直近二年以内に収容所に入れられたエルフたち、そのほとんどがどこにも出回っていないです」


 隣では、シオンが別の書類に目を通していた。そこには、魔物の生成実験記録と、極秘と書かれた文書があった。

 シオンはそれらを雑に捲っていき、斜め読みを進める。


「――亜人への“騎士の聖痕”適合実験?」


 シオンが少しだけ驚いた声を上げ、直後にフレデリックへ鋭い視線を向ける。


「おい、何をやっているのか理解しているのか? こんなこと、まさかお前の独断でやっているわけではないだろ? 誰の指示でやっている?」


 らしくなく、シオンがやや語気を荒げながら詰め寄った。しかし、フレデリックは鼻を鳴らして顔をそむける。


「貴様ら、一国の領主である私にこんなことをしてただで済むと思うなよ。すぐにでも軍の増援が――」


 その言葉の続きは、フレデリック自身の絶叫によって遮られた。シオンが、彼の手の小指を折ったのだ。


「誰の指示でやっている?」

「き、貴様! 絶対に殺してや――」


 シオンはさらに薬指を折った。

 フレデリックが歯を食いしばり、押し殺した叫び声を歯列の隙間から漏らす。


「誰の指示でやっている?」

「知らんな! それよりも、さっさと私を解放しないと――」


 瞬間、フレデリックの左目から鮮血が吹き出した。シオンが、エルリオから譲り受けたナイフで切り裂いたのだ。

 先ほどまでとは比にならない絶叫がフレデリックの喉から迸り、堪らずステラが目を逸らす。エレオノーラも、思わずといった感じで顔を顰めていた。


「誰の指示でやっている?」


 微かな返り血を頬に受けてもまったく動じた様子もなく、シオンは淡々と訊き続ける。

 フレデリックは呼吸を整えた後で、


「……きょ、教皇様だ! アーノエル六世――ガイウス・ヴァレンタイン様だ!」


 観念して答えた。

 途端、シオンの目つきが変わる。


「何で教皇が、たかが一領主のアンタと仲良くしている? 実験は何が目的だ?」


 シオンは、ナイフをフレデリックの指と指の間に入れ、徐々に食い込ませていく。フレデリックは完全に恐怖に飲まれた顔になった。


「こ、答える! 答えるから、止めてくれ!」

「早く言え」

「ガリア公国での次期大公選挙で教会が私を支持してくれる見返りに、エルフの奴隷たちを使っての実験に協力することにした! 教皇様は、騎士に代わる強力な戦士の開発を模索していて、ならば生まれつき人間よりも強靭な肉体を持つ亜人に“騎士の聖痕”を施せば、騎士よりも強力な戦士を生みだせるのではとお考えになったのだ! 教皇様が私にこの話を持ち掛けたのは、この土地がエルフの森に近いために、実験材料となるエルフを潤沢に調達できたからだ!」


 壊れたジュークボックスのように、フレデリックは早口で説明を始めた。

 シオンはナイフを突きつけたまま、さらに問い詰める。


「“騎士の聖痕”は幼少期の人間にしか適合しない。それを知っていて実験に加担したのか?」

「そ、そんなことは知らない! 教皇様が数人の教会魔術師の研究者をこちらに寄越して、実験そのものは彼らに任せっきりだった! 確かにうまくいかないとは研究者から報告を受けていたが、亜人に“騎士の聖痕”を刻印することでどうなるかなんて私は全く知らないんだ! 本当だ、信じてくれ!」


 普段、あまり表情を面に出さないシオンが、露骨に怒りで顔を歪めていた。

 そこへ、ステラが恐る恐る近づく。


「あの、“騎士の聖痕”っていったい何なんですか?」

「騎士の化け物染みた身体能力を実現させる特殊な印章だ。一時的なドーピングと違うところが他の印章とは一線を画す理由だ」

「それは、どういう――」

「騎士を作るために、“騎士の聖痕”は五歳前後の人間の子供に刻まれる。その後、成長期の間に厳しい訓練を経ることで、“騎士の聖痕”は宿主の肉体を徐々に強靭なものに作り替えていく。結果、騎士は生物としての遺伝情報になんの異常をきたすことなく、必要最小限の副作用で化け物染みた強さを手に入れることができるんだ」

「つまり、騎士のアホみたいな膂力は魔術で手に入れたものであるけれど、魔術で一時的に強化したものではなく、あくまで本人の身体機能そのものってこと」


 最後のまとめは、エレオノーラが補足した。エレオノーラは、“騎士の聖痕”にやたらと詳しいシオンを見て、訝しげに眉を顰める。


「ねえ、アンタさ、やっぱりただのイケメンじゃないよね。“騎士の聖痕”についてそこまで詳しい人間なんて、そうそういないはずなんだけど」

「お前の質問に今答えるつもりはない」


 シオンが言うと、エレオノーラは軽く舌打ちをして肩を竦めた。

 ぴりぴりした空気に怯えながら、ステラはさらに伺いを立てる。


「そ、その“騎士の聖痕”を亜人に施すと、どうなるんですか?」

「死ぬ」


 間髪入れずに、何も濁すことなくシオンが答えた。


「“騎士の聖痕”は幼少期の人間にしか適合しない。人間であっても、成長期の終わった大人に刻めば急速な肉体劣化が始まって死に至る場合がある。亜人に至っては、細胞の異常活性が起こり、そのまま命を落とす」

「じゃ、じゃあ、収容所から出てこなかったエルフは――」

「軒並み実験で死んでいったんだろうな」


 シオンが吐き捨てながら、フレデリックを射殺すような眼差しで睨みつける。その視線に、フレデリックは今にも泣き出しそうな顔で声を震わせた。


「わ、私も亜人に“騎士の聖痕”を施すとどうなるかなんて知らなかったんだ! それに、もともと捕えたエルフたちはいつも通り奴隷市場に回す予定だったんだ! だが、騎士団分裂戦争後に教皇様が急に話を持ち掛けて――」

「ハーフエルフの子と、成人の男のエルフを連れ去ったな? 今どこにいる? 収容所か?」

「しゅ、収容所だ! 教皇様に言われて、すぐに実験を始めるように指示を出した!」


 シオンとステラが、同時に顔から表情を失わせた。

 シオンは、フレデリックを縛る蔦を力づくで解くと、その老体を床に放り投げる。フレデリックは情けない声を上げながら、シオンを見上げた。


「は、話せることは全部話した! 頼む、もうこれ以上は――」

「これから収容所に向かう。お前には人質になってもらうぞ」


 シオンの顔は一切の感情を失っていたが、それがこの上ない怒りを表していた。







 目を覚ましたエルリオが最初に感じたのは、左肩の激しい痛みだった。続いて、やけに湿っぽい空気に不快感を覚える。

 それからさらに数分後、朦朧としていた意識がようやく晴れてきた。呼吸も整ったところで、ゆっくりと上体を起こす。

 目を凝らしてみると、今いる場所は、上下四方がコンクリートで囲われている個室であることがわかった。覗き窓のある鉄製の扉が一つ設けられているだけで、他にはなにもない。


 エルリオは、自分がどこかの独房に入れられていることを理解した。より詳しく部屋を確認しようと立ち上がろうとしたが、両手に鉄の枷をつけられていることに気付く。後ろ手にされているせいで、うまく体のバランスを取れなかった。

 何故こんなことになっているのか、枷を忙しなく鳴らしながら、直近の記憶を辿っていく。


「……宿で何者かに襲撃を受けて、それから――」


 そしてすぐに、アリスのことを思い出した。


「アリス、アリスはどこだ!?」


 扉に勢いよく寄りかかり、覗き窓に向かって必死に吠える。


「アリス、どこにいる!? アリス!」


 突如、それに応じるかのように扉が開かれた。扉に体重を預けていたエルリオの身体が、支えを失って床に倒れる。


 床に体を打ちつけたエルリオは、短く呻いて周囲を見渡した。

 そこにいたのは、覆面を被った兵士たちだ。制服からしてガリア軍の兵士なのだろうが、どうにも様子がおかしい。


「立て」


 やけに抑揚のない声で、兵士が言ってきた。

 エルリオは、力の入り切らない体をどうにかして奮い立たせ、立ち上がる。


「……ここはどこだ?」


 荒い息遣いで訊くが、兵士たちは無視してエルリオの背を小銃で小突いてきた。


「余計なことは聞くな。黙って指示に従え」


 仕方なく、エルリオは躓きながら、言われるがまま前進した。

 歩いた先にあったのは、薄暗く、先の見えない長い廊下だった。消えかけの足元灯を頼りに暫く進み続けると、ひと際大きな扉の前に到達した。兵士の一人が脇のレバーを引くと、ガコン、という音と共に扉がせり上がる。

 扉を抜けてさらに先へ進むと、廊下は徐々に明るくなり、周囲の様相もはっきりとわかっていった。

 やがて、とある大部屋に入ると、そこは酷い血の匂いで満たされていた。少し視線を横にやると、幾つもの寝台が規則的に並べられている。寝台には黒革のベルトがいくつも備え付けられており、シーツにはどす黒い染みが影よりも濃く残されていた。

 いったい何を目的にした施設なのか――理解しかねている時、


「ああ、生きてたんだ。よかった、よかった」


 妙に楽しげな男の声が大部屋に響いた。

 異様に強い逆光に目を眩ませながら、エルリオは正面の人影を見遣る。


「この収容所にいるエルフが女子供ばかりでサンプル収集に難航していたんだ。活きのよさそうな男のエルフは思わぬ収穫だ。ハーフエルフの子供も手に入ったし、今日はとても良き日だ」


 そこには、白衣を纏ったやや若い人間の男がいた。

 その白衣の男は、何やら興味深そうにエルリオを眺めたあと、今度は忙しなく手元の書類に視線を移した。


「採血した遺伝情報を調べてみたが、きみはあのハーフエルフと血縁関係にあるようだね。ますます期待値が高まる」


 何を言っているのかわからないが、エルリオは、この男を目の当たりにした途端にかつてないほどの嫌悪感を覚えた。初対面の人間を相手に、ここまでの不快感に苛まれるのは初めてだと、酷く顔を顰める。


「何の話をしている?」


 エルリオが嗚咽混じりにそう訊くと、白衣の男は上機嫌に近づいてきた。


「エルフにも個体差があるんだ。同じ実験をしても、その結果には結構な差が出るんだよ」

「……貴様は何者だ?」


 エルリオが怒りを込めて尋ねると、白衣の男は自らの失態に気付いたかのように短く声を上げる。


「ああ、すみませんねえ。まだ名乗っていなかった。僕はフリードリヒ・メンゲル。教皇様の勅命を受けて派遣された教会魔術師で、この収容所で行われているエルフを使った実験の現場責任者だ」


 白衣の男――メンゲルはそう名乗り、軽く会釈をしてきた。しかし、エルリオの興味はそんな男の名前などではなく、


「エルフを使った実験?」


 その言葉だった。

 朦朧としていた意識が、一気に冴える。同時に、黒騎士と王女の言っていた言葉が思い出された。ここ一、二年で連れ去られたエルフが、収容所からどこにも出回っていなかった、と。

 最悪の結論が脳裏に浮かんだ時、エルリオが狂犬のように唸った。


「貴様! まさか同胞を使った人体実験をここで行っていたのか!?」


 その苛烈な剣幕にメンゲルは驚きながら後退し、露骨に嫌悪した表情で睨み返してきた。


「な、なんだきみは、急に怒鳴って。さっきそう言ったじゃないか。同じこと訊き返さないでくれよ!」


 メンゲルは早口で怒りながらエルリオから離れ、とある機械の前に立った。無数のボタンやレバーを備え付けられた、操作基盤のような装置だ。

 一方のエルリオは、噛みつかんばかりの勢いで前のめりになるが、突如として兵士たちに体を抑えつけられる。


「ちょっとそこで静かにしててくれ。先にハーフエルフを試したい」


 そう言って、メンゲルは何かの装置のレバーを降ろした。

 すると、大部屋の床の一部が音を立てて開き、ガラスの壁でできた小さな部屋がせり上がってきた。

 そして、その中心の寝台にうつ伏せで縛り付けられているのは――


「……アリス!」


 意識を失った裸体のアリスだった。

 メンゲルは、手元の基盤を忙しなく操作しながら、鼻歌混じりに独り言を話し出す。


「このハーフエルフはこの間の実験で使ったエルフの直系だ。もしかしたら、もしかするぞぉ」


 それを聞いたエルリオが、ハッとしてメンゲルの方を見遣る。


「この間の実験で使ったエルフの直系? どういうことだ?」

「どうもこうも、このハーフエルフの親族ってこと以外にないだろう。ちょっと考えればわかるだろうに、馬鹿かきみは。確か、遺伝情報の関係的には母親に相当していたかな? 個体名はソフィアとか言っていたな」


 エルリオから、一気に血の気が引いた。


「“騎士の聖痕”を刻んだあと、一番長く生きていたんだ。結局、残念ながら三日ほどで死んでしまったけど、驚くべきことにこのエルフだけがヒトの形をまったく失わずに、衰弱死という結果になったんだよ。そんなサンプルの子供、しかもより人間に近い遺伝情報を持つハーフエルフなら、史上初、亜人への“騎士の聖痕”の適用例が――」


 メンゲルの独り言は、エルリオの慟哭によって掻き消された。

 アリスの母親――つまり、エルリオの妹は実験体として扱われ、命を落としてしまっていたのだ。

 救おうとしていた命のうちのひとつが、そのような最期を迎えていたとは受け入れられず、咄嗟に泣き叫ぶことしかできなかった。

 メンゲルはそれを、まるで汚物を見るかのような目で蔑む。


「ああ、もう! 静かにしてくれないか! 折角いい気分だったのに!」


 そう苛立ちながら、手元の基盤の操作を継続した。すると、ガラス張りの中の天井から、幾つもの機械のアームが伸びてきた。そのアームの先は鋭利な針状になっており、パチパチと青白い電気を発している。

 それらはやがてアリスの背中へと伸びていき、彼女の背中に“何か”を刻印し始めていった。


「んー、体が小さいから調整が難しいね。一回きりだし、慎重にやらないと」


 エルリオが、兵士に抑えつけられながらも、必死になってアリスのもとへ向かおうとする。


「アリス! 目を覚ましてくれ! アリス!」


 妹の忘れ形見となった姪に向かって、声帯を潰しかねない勢いで呼びかける。だが、一向にアリスは目覚めない。

 そんな光景を目の当たりにしたメンゲルが、突然、癇癪を起したかのようにずかずかとエルリオへと近づいていく。


「ああ、もう! 気が散るだろ! うるさいんだよ! お前は後! 今はハーフエルフなの!」


 そう言って、エルリオの顔面に何発も蹴りを見舞った。

 エルリオがぐったりと倒れ込むと、メンゲルは気を取り直すように白衣を正し、再び基盤の前に立って操作を再開した。

 アリスの背中に、再び、“印章”が刻まれ始めていく。


「――アリス……」


 エルリオのか細い声など届くはずもなく、着々と、ハーフエルフの少女の背中に“騎士の聖痕”が刻印されつつあった。

 どうすることもできないのか――と、諦めかけた時だった。


 不意に、エルリオの身体が軽くなる。

 なにが起きたのか、蹴られた痛みに堪えながら面を上げると、そこにあったのは――


「この街に来てから何一ついいことが起きないな」


 黒騎士が忌々しそうに、兵士を捻り潰している姿だった。







 シオンは、糸の切れた操り人形のようになった兵士の身体を投げ捨てると、エルリオの傍らについた。そのまま彼に肩を貸し、立ち上がらせる。


「無事か?」

「私のことはいい! それよりもアリスを助けてやってくれ!」


 ぼろぼろになった姿で、エルリオは何よりも姪のことを案じた。

 シオンが、いつになく厳しい表情で、教会魔術師の研究者――フリードリヒ・メンゲルを見遣る。何が起こっているのかは、黒騎士である彼は瞬時に理解できた。


 強烈な殺気を込められたシオンの視線に気付いたのか、メンゲルが我に返った様子で振り向いてきた。


「お? お? これはまたどちら様で?」

「お前、自分が今何をやっているのか理解しているのか? その子はハーフエルフだ」

「もちろん。だからやっているんだよ」


 答えて、メンゲルは再度基盤の操作に戻った。アリスの背中の“騎士の聖痕”は、もうすでに七割がた完成している状態だ。

 エルリオが、シオンの服を強く握りながら懇願した。


「頼む! あれを止めてくれ!」


 しかし、シオンは強く歯噛みするだけでその場から動けないでいた。

 その様子を見たメンゲルが、意外そうに表情を明るくしたあとで、にやにやし始める。


「そこの綺麗な顔のお兄さんはちゃんとわかっているようだね」


 メンゲルの言葉を聞いて呆けるエルリオ――彼は続いて、無言でシオンにその意味を問うた。


「今このタイミングで印章の刻印を止めることはできない。止めれば――」

「このハーフエルフは高確率で死んじゃうかもしれないからね。半分以上刻印が済んだ状態で中途半端にすると、肉体にとてもよくない副作用がかかってしまう。ちなみに人間でも同様の現象が起きるから、エルフの血が入っているとまず間違いなくそうなるだろうね」


 そう言っている間に、アリスの“騎士の聖痕”はほぼ出来上がりの状態まで進んでいた。

 エルリオは、瞳を震わせながら、呆然とそれを見ているしかできなかった。

 そしてついに――


「さあ、出来上がったぞ! ハーフエルフに“騎士の聖痕”を刻んだのは、恐らく二〇〇〇年近い大陸史の中でも僕が初めてだろうね!」


 メンゲルが、満足そうに両手を上げて、自分の偉業を称えた。

 その直後、シオンがメンゲルを床に抑えつけ、首にナイフを近づける。


「な、何をするんだきみは!?」


 驚き、喚くメンゲルだったが、シオンはさっきと打って変わって淡々とした表情で、


「あの子はどうなる?」

「し、知らないよ! むしろ、それを知るためにこの実験をしたんだ! ハーフエルフは人間とエルフの混血だ。人間のように、ゆっくりと体に適合して強靭な身体能力を得るかもしれないし、エルフのように、細胞の異常活性が起こってすぐさま肉体の変形が始まって死んでしまうかもしれない。でもだよ! このハーフエルフの母親はエルフの中でも非常に興味深い記録を残して――」


 余計なことを喋り始めたメンゲルの身体を、シオンが片手で持ち上げて壁に叩きつけた。


「なら、“どうにかなった時”のために備えろ、今すぐに!」


 美女と見紛うほどに整った顔が怒りで酷く歪み、それを見たメンゲルがまるで悪魔と対峙したかのように慄いた。


「そ、備えるって、な、ななな何を備えれば――」


 シオンは何も言わずにメンゲルの身体を投げ捨てる。メンゲルは悲鳴を上げながら駆け出し、部屋の隅に縮こまってしまった。

 それから、シオンは卓上の基盤に目を馳せる。ややぎこちない手つきで備え付けられた文字盤を操作し、アリスを隔離するガラスの壁を床にしまわせた。

 すかさずエルリオがアリスのもとへ駆け寄り、彼女を寝台に縛るベルトを急いで外していく。

 エルリオはアリスを抱えると、ゆっくりと、優しく揺さぶった。


「アリス、大丈夫か!?」


 伯父の呼びかけに応えて、アリスはゆっくりと目を開けた。

 エルリオが、安堵に表情を綻ばせ、うっすらと涙を瞳に浮かばせる。


「アリス、聞こえるか!? 私だ、エルリオだ!」

「……伯父さん?」


 アリスがか細い声を発して、上体を起き上がらせた。それから徐に、エルリオの身体から離れて自立する。その顔は虚ろで、瞳に生気は感じられなかった。


「アリス、どうした? どこかおかしいのか?」


 エルリオが、アリスの華奢な肩を揺すって訊くが、返答がない。


「……アリス?」


 再度、エルリオが訪ねて――


「……お母さんは?」


 アリスが言った。

 彼女の母親がどうなっているのか――そのことは、エルリオはすでに知っている。だからこそ、今この場で言うことはできないでいた。

 エルリオは、力いっぱいに歯を食いしばったあとで、再度アリスを見据える。


「……ソフィアは――お前のお母さんは、今は会えない」

「……お母さんは?」


 エルリオの言葉を聞いても、また同じ質問がアリスから発せられた。

 遠目から見ていたシオンが、妙な雰囲気を察する。

 そこへ――


「シオンさん!」


 ステラが息を切らしながらやってきた。それから少し遅れて、エレオノーラもやってくる。


「領主はどこにやった? ちゃんと連れてきてるだろうな?」

「少し前の部屋に縛って置いてる。アンタがボコった教会魔術師数人と一緒にね。ていうかさ、アンタが人質にするって言ったんだから、最後までちゃんとあのジジイの面倒見なさいよ!」

「シオンさん、一人でさっさと行かないでくださいよ。まあ、おかげで私たちは安全にここまでこれたんですけど」


 エレオノーラとステラが、各々の不満を隠さずに文句を言ってきた。だが、そんな二人も、この部屋の張り詰めた空気を察して、途端に静かになる。

 直後、ステラが、アリスとエルリオの姿を見て安堵した表情になった。


「アリスちゃんとエルリオさん、無事だったんですね! よかったぁ」


 しかし、その傍らでは、エレオノーラがシオンと同様に訝しげに眉を顰めていた。彼女は、すぐさまシオンを見遣る。


「ねえ、何があったの?」

「アリスの背中にはもう“騎士の聖痕”が刻まれている。今は、それから目を覚まして間もない状態だ」


 それを聞いて、エレオノーラの表情は一層険しくなった。

 一方で、


「お母さんは?」


 アリスは、同じことしか話さない。

 ここでようやく、エルリオもその異質さに気付いた。それまでアリスを説得しようと、一生懸命に事情を話していたが――


「お母さんは?」


 もはや正気とは言えない状態のアリスに、言葉は意味をなさないと悟った。

 エルリオは咄嗟にアリスを抱き締める。


「すまない……! お前の母親は……助けられなかった……!」


 アリスが、何も言わなくなった。

 怪訝に思ったエルリオが、徐にアリスを体から離す。

 そして――


「その子から離れて!」


 真っ先に異変に気付いたのは、エレオノーラだった。

 エルリオは一瞬だけエレオノーラの方に振り返ったが、その言葉を受けてまたすぐにアリスの方を見遣った。


 アリスが、急に苦しみ始めた。背中の印章からは血飛沫が吹き出し始め、彼女はそれに耐えきれなくなったように両膝をつく。


「アリス!」


 エルリオがすぐさまアリスの身体を支えるが、呼びかけられた彼女が上げた面は――


「――っ!」


 思わず、エルリオはアリスから距離を取った。

 アリスの顔は、まるですべての筋力を失ったかのような表情をしていた。顎は外れるまで開ききり、そこから舌が劣化したゴムのように伸びている。両目玉は眼窩から零れんばかりに飛び出し、その色はどす黒く変色していた。やがて髪の毛が抜け落ち始め、体の色素も抜けて石膏のような体色になってしまった。

 続けて、異様な音がアリスから発せられる。獣が骨を貪るような、有機的で思わず耳を塞ぎたくなるような音だ。

 間髪入れずに、アリスの小さく華奢な身体が、激しく変形していく。バキバキと音を立てながら、首、胴体、四肢が、もとよりも二倍以上に細長くなった。肩甲骨あたりからは、通常、人体にはないはずの骨が皮膚を破って突き出し、羽毛を失った翼のように露出する。

 最終的に、アリスは、もとの体躯の三倍以上の大きさになり、あたかも、それが“天使に呪われた咎人”のような姿になった。


 辛うじて、顔だけはアリスのままだったが――その光景に、シオンたちはただただ絶句し、戦慄するしかなかった。


「オカア、サン……」


 そして、アリスはただひたすらに、異形の姿になってもなお、母親を求めるだけであった。







 思えば、始まりは逃亡のような旅路だった――いや、実際そうなのだろうと、ステラは思っている。


 ステラには、両親がいない。彼女が物心ついてすぐ、王子である父と、その妃の母は病で亡くなった。ゆえに、祖母――女王は、ステラにとってもっとも尊敬し、模範となる身近な大人であった。


 女王が崩御した後、心の整理がつかないまま、瞬く間に国は乱れていった。

 大国としての地位を維持するために王位継承権を持つステラを担ぎ上げようとする者、一方で、未熟な子供では対外的な示しがつかないとそれを渋る者――国の為政者たちは、日々、彼女の扱いに頭を悩ませ、夜遅くまで議論を重ねていた。

 しかし、それでも、当事者であるステラは一度も“その場”に呼ばれることはなかった。ただ、その結果だけを聞いて、これから先の振る舞いを、言われるがままに為すだけであった。


 それが日常と化して半年ほど経った頃に、ガリア公国が圧力を強めてきた。

 もとより、ログレス王国とガリア公国は隣国がゆえに、長い歴史の中で何度も対立を引き起こしていた。国家元首が不在となった今こそがガリアにとっての好機――長年に渡っての因縁に終止符を打つ瞬間であることは、自明であった。


 そして、ガリア公国はステラの身柄を、保護という名目で要求してきた。国家元首が不在である隣国への救済的な内政干渉――そんなわけのわからない言葉を使って、ガリア公国はログレス王国へ侵攻したのだ。ステラを手中に収めれば、ガリア公国は名実ともにログレス王国を支配下に置けると算段していた。


 ステラは、この時になってようやく、自分の“存在”を知った。

 置物のように生きていれば、あとは誰かが何とかしてくれる――そんな甘い考えの裏側で、何人もの命が散ったのを、目の当たりにした。

 それに何かを思う前に、ステラは王都を追い出され、王国辺境の地へ逃がされた。


 ――貴女さえ生きていれば、この国はすべて元に戻せる。


 その言葉を、大臣は最期に投げかけた。

 ただ、生きていればいい――そうすれば、すべてが丸く収まる。

 “その時”が来るまで――しかし、その時とは――


 エルフの代表者は、自分を最後の希望だと言った。

 神へ背いた黒騎士は、自分の背中を押してくれた。

 双方、自分の考えを否定しなかった。

 これでいいのだと、納得することができた。

 非力な自分にできることなどない、だが、自分の声で誰かが動いてくれる。

 その命を散らしたとしても、それはすべて“大義のための正義”のもとに赦されるはず――


 今、目の当たりにしている光景は、ステラが抱いていたその根本的な考えのすべてを、真っ向から否定した――その象徴でもあった。

 元に戻ることなど、もはや何もないのだ。







 異形の怪物と化したアリスを目の当たりにして、エルリオはがっくりと膝をついた。

 それを、アリスが、どす黒く染まってしまった双眸で見下ろす。


「オジ、サン、オジサン」


 可愛らしい少女の声はどこにもなく、しかしそれでも、そこから発せられるのは無垢なものであった。

 ステラが、堪らずその場で吐いてしまう。隣にいたエレオノーラが、咄嗟に背中を擦った。

 呼吸を整えたあと、ステラは体を震わせながらもう一度アリスを見た。


「何なんですか、何が起こったんですか、“これ”? どうしちゃったんですか!?」

「そうだよ、これだよ!」


 彼女の問いに応えるようにして、メンゲルが歓喜の声を上げた。


「僕が目指していたモノに今までで一番近い結果だ! 変質した骨格と筋肉から見て、おそらくは騎士と同等以上の身体能力を得ているといってもいい! それを騎士のように長い年月をかけずとも得られるというのは非常に画期的だ! まさに新人類の誕生だよ! 発している言葉からして副作用的に若干の知能低下がみられるが、これはむしろ好都合だ! 犬のように、指揮者の言うことを無条件に聞くよう教育することができるぞ! はじめて教皇様にいい報告ができるよ!」


 メンゲルは、アリスの周囲を忙しなく周りながら観察し、両腕を広げて独り言を喋っていた。

 その首を、シオンが片手で掴み上げる。

 メンゲルが短い苦悶の声を上げたが、それでも彼は笑顔を崩すことはなかった。よほど、アリスの実験結果が嬉しかったのだろう。


「いったい何が起こった?」


 シオンの問いかけに、メンゲルは興奮を抑えきれない様子で、


「き、騎士の肉体強化と同じはずだよ、本質的には。亜人に“騎士の聖痕”を施すと急速な細胞の活性化が起こるせいで、すぐに死んでしまうが、ハーフのあの被検体は人間の血が入っているおかげでうまいことそれを抑制できたらしい。僕の仮説は、おおよそ当たっていた」


 首を絞められているのにも関わらず、偉く楽しそうに答えた。


「戻せるのか?」

「戻す? 何を?」

「あの子を、もとの状態に戻せるのか?」

「無理無理。騎士だって、一度その肉体を強化させてしまったら元の身体には戻らないんだ。それと同じだよ」


 シオンは、メンゲルを壁に叩きつけるようにして解放した。メンゲルはすぐに立ち上がってアリスに再度近づこうとしたが、本人が感じる以上にダメージが大きかったのか、力尽きるように倒れてそのまま意識を失った。

 それには構わず、シオンは、今度はエレオノーラを見遣る。


「エレオノーラ、こいつの言っていたことは本当か?」


 不意に話を振られ、エレオノーラは少しだけ驚いた反応を見せる。目を逸らした後で、徐に口を動かし始めた。


「……多分、本当。今の魔術では、異形化した生物を元に戻す技術は何もない。魔物が、そのもっともたる例。魔物も、もとの材料にした生物に戻すことはできないから」


 隣で聞いていたステラの目が、大きく見開かれる。

 それからステラは、アリスの方を見た。


 アリスは、伯父であるエルリオに、懐く小動物のようにしてすり寄っていた。異形の体躯であっても、その顔だけはアリスのままであり、表情はどこか安心しているものだった。


「オジサン、ドウ、シタノ?」


 呆然とするエルリオに近づくアリス――その顔に、エルリオは体を震わせながら両手を伸ばした。


「ナンデ、ナイテルノ?」


 小首を傾げるアリスの瞳には、エルリオの泣き顔が映っていた。

 エルリオは、優しく姪の頭を抱き寄せる。


「――すまない……!」


 声を絞り出すように言って、アリスの頭を撫でた。

 アリスはそれをくすぐったそうにして、笑顔になる。その後で、


「オジサン、オカアサン、ハ? ココニ、イル」


 無邪気に訊いてきた。

 エルリオが嗚咽混じりに歯を食いしばりながら、アリスをさらに強く抱きしめる。


「オジサン?」

「……お前のお母さんは、少し遠いところに行ってしまった。だが――」


 そこで、エルリオは、シオンを見た。

 シオンは、それを待っていたかのように歩みを進めた――ナイフを引き抜いて。

 ステラが、よろめきながら前進する。


「待ってください。何をするつもりですか?」

「アリスを殺す」


 当然のように言い放ったシオンに、ステラが激昂した。


「なんで殺すんですか! この子はちゃんと意思を持って生きている! もとに戻す方法を探して――」

「世話をする時間と労力がどこにある?」

「世話をする時間と労力って、そんな家畜みたいに――」

「何のあてもないのに、この状態のアリスを、どうやって、いつまで守り続ける?」


 シオンの淡々とした問いかけに、ステラは言葉を詰まらせる。


「あのフレデリックとかいう領主は教皇――教会ともつながっていた。これだけの騒ぎになったんだ。すぐに騎士団がやってくる。そうでなくとも、この国の軍がアリスを見れば、貴重な実験体として扱うはずだ。そうなれば、この子が死ぬよりも辛い目に遭うのは目に見えている」


 そう言って、アリスの近くに立った。だが――


「その子は何もしてないじゃないですかぁ……!」


 ステラが、シオンの腕にすがるようにしがみつき、酷い泣き面で見上げてきた。


「こんなの、理不尽すぎます……この子は、アリスちゃんは、ただ、またお母さんと一緒に暮らしたかっただけなのに!」


 シオンがそれをやんわりを振り払おうとするが、ステラがそれを拒む。


「お願いです! 私が、私が何とかします! だから、この子を殺さないでください!」

「今のお前じゃこの子は救えない」


 シオンがはっきり言って、ステラの手の力が弱まった。


「当然、俺もだ」


 その言葉を聞いて、ステラががっくりと腰を抜かした。

 シオンは、エルリオに目を馳せる。


「……いいな?」


 シオンの問いかけに、エルリオは重々しく、はっきりと頷いた。

 シオンが、アリスの喉――青白い肌から浮き上がる血管部分にナイフを添える。ヒトであれば、急所である頸動脈に相当する箇所だ。

 アリスを抱き締めるエルリオの力が、一層強まる。


「オジサン?」

「……もう少しで、お母さんと一緒になれる。また、森に帰れる」

「ホント?」


 また、アリスが笑顔になった。


「――ああ」


 それから、エルリオは、シオンを見た。


「頼む、黒騎士殿」


 シオンは、その言葉を聞いて、腕を振り切った。

 アリスの首筋に通ったナイフが頸動脈を切り裂き、そこから鮮血が溢れ出始める。


「オジサン、ネムイ……」

「……おやすみ、アリス」

「オヤスミ……」


 アリスの身体から力が失われ、その体はゆっくりと地に伏した。







「――こ、これで、この街のエルフ全員、解放したはずだ」


 フレデリックが、執務室の電話の受話器を置き、怯えた声でそう告げた。その喉元には、シオンがナイフを突きつけている。


 昨日の騒動の後――シオンたちはフレデリックを連れて屋敷に戻り、諸々の後始末を強要していた。

 この街の奴隷市場、娼館、収容所にいるすべてのエルフの解放、そしてドミニクの弔いだ。エルフたちに関しては、その生死を問わず、身柄をシオンたちが指定した街の防壁外に送るように指示を出した。

 今の電話は、兵士たちがすべての作業を終えたことを知らせるものだった。今頃、エルリオが、解放されたエルフたちを導いている頃だろう。


「すべて俺の指示通りに動いたか?」

「も、勿論だ! ちゃんと馬車も用意させた! エルフ全員が乗れるように!」

「作業させた兵士に箝口令を出しておけ。もし口外した場合はお前の家族もろとも殺しにいく」

「わ、わかってる!」


 抑揚の欠いたシオンの声と表情は、フレデリックに対してこの上ない脅しとなっていた。その様子を見ていたエレオノーラが、


「ねえ、アンタってマフィアやってた?」


 とまで訊いた始末である。

 いつもならそんな光景も、ステラは笑って見られていたのが、今回に限ってはそうもいかないようで――シオンとエレオノーラが諸々の話を進めている間、彼女はずっと執務室の窓から外を見続けていた。

 だが、感傷に浸っている暇もなく――シオンは続けて、フレデリックから取り上げた書類を取り出した。


「奴隷の売買記録と、実験記録は貰っておく。教皇とガリア公国の不適切な癒着を知らしめる証拠になるかもしれない」

「え、ちょ――」

「文句あるのか?」


 シオンが睨むと、フレデリックはその老体をビクつかせて沈黙した。


「そろそろ俺たちもここを出るぞ。街の外でエルリオと合流しよう」

「はい」


 ステラが短く返事をして、踵を返した。シオンがそれを気づかわしげに見ていると、傍らにエレオノーラが立った。


「約束通り、外に出たらアンタたちが何者なのか教えてもらうからね。収容所で“黒騎士”なんて不穏な言葉も聞いたし――ここまで巻き込んでおいて、今更バックレるのはナシだから」

「わかってる――ただ、首を突っ込んできたのはお前の方だろ」


 シオンが言うと、エレオノーラは露骨に顔を顰めてそっぽを向いた。そのまま、ステラの後を追うように執務室を出ていく。

 シオンは肩を竦め、彼女たちに続こうとした。その時――


「……奴隷を解放して、気分は晴れたか?」


 フレデリックが、低い声で唸ってきた。潰れた左目をそのままに、なんとも言えない表情で凄みを利かせている。


「いいか、よく覚えておけ。貴様らのやったことは正義でもなんでもない。ただの強盗の類だ! この国で亜人の奴隷が認められている以上、貴様の所業は盗人同然の行いだと思え! 亜人なんてものは、人間に管理されて然るべき生き物だ! 人間の社会に馴染めない生き物を、獣のように扱って何が悪い!」


 シオンは足を止め、短く息を吐いた。

 その後で一度、フレデリックの方へ踵を返す。


「そうだな。アンタの言う通りだ。ただ――」


 シオンは、フレデリックの眼前に、顔を近づける。


「ログレス王国と、エルフたちから見れば、それはアンタたちも同じだ。苦し紛れに説教垂れたつもりだろうが、俺たちから見たアンタも、アンタから見た俺たちだ。アンタの正論は、俺たちを納得させる理由にはならない」

「……この青二才が――」

「最後に聞いてほしいことがある」


 突然、シオンがそう切り出した。フレデリックが眉を顰めると、


「両手を重ねて机の上に置いてくれ」


 シオンはそう指示した。

 怪訝な顔をしたまま、フレデリックが従うと――


「――!?」


 フレデリックの両手ごと、机の上にエルフのナイフが突き立てられた。


「アアアアアッ!」


 老人の叫喚が執務室に響き渡る。

 シオンはそれを無視して、執務室を後にした。







 ルベルトワの防壁を出てから少し離れたところに、十台の馬車と共にエルフたちがいた。奴隷として捕らえられていたのは女子供ばかりだった。酷く弱った様子であったが、近くの雑木林で待機していたエルフたちと再会し、双方、感極まって喜びに涙していた。

 それを、シオンたちが少し遠く離れていたところから見ていると、エルリオが近づいてきた。


「御身らには、感謝しきれないほどの借りができてしまったな」


 その言葉に、ステラがぴくりと反応した。

 エルリオはさらに続ける。


「私たちは予定通り、このままログレス王国領域に入って暫くは放浪の旅に出るつもりだ。だが、その前に、一度森に立ち寄り、ソフィアとアリスたちを還しに行く」


 ステラが顔を上げた。


「人間たちが、宗教やしきたりによって愛する者を弔うように、我らにもそうする風習がある。聖王教を信仰する人間たちは、その身が亡びると魂が天へと還るものとしているようだが、我々エルフは違う。自らが生まれ育った大地に還ることで、いつまでも、愛し愛される者と悠久の時を過ごすという死生観を持っている」


 そこでステラが、あ、と小さく声を上げた。


「我々エルフが森にこだわる理由がそれだ。エルフにとって森は、家であり、墓なのだ。人間には、中々理解されないようだがな」


 そこで、エルリオが仲間のエルフから声をかけられた。

 別れの時だ。

 先に手を伸ばしたのは、ステラだった。


「旅のご無事を祈っています」


 ステラの言葉に、エルリオは微笑んだ。


「御身がログレス王国の女王になれることを、我々も心から願っている。どうか、我々の未来を頼む」


 エルリオが力強く握り返すと、ステラはしっかりと頷いた。

 次にエルリオは、シオンの手を握る。


「ログレス王国の中にもガリア兵は大勢いるみたいだ。充分に用心してくれ」

「ああ。もう誰一人として奴隷なんぞにはさせない。御身にも、世話になった。“噂に違ぬ英傑”であることをこの目で知れたことが、私の誉れだ」


 その言葉を聞いたシオンの双眸が、ほんの一瞬だけ曇った。それにエルリオが気付いたかどうかはわからないが――


「“御身の過去の選択”が正しかったことは、いつの日か必ず認められるはずだ」


 そう続けた。

 シオンは一度目を伏せた後で、首を横に振った。


「今更な話だ。俺は教皇の首さえ取ることができれば、あとはどうでもいい」

「……そうか」


 エルリオが少しだけ寂しそうに言って、手を離した。

 二人のやり取りをステラが怪訝に見ていると、その隣から――


「あ、アタシは別に感謝されるようなことはしてないから、別れの挨拶はいいよ」


 エレオノーラが、気を遣っているのかいないのかよくわからないことを言った。エルリオは、はあ、と一言発して、それに同意する。


 そして――


「では、また」


 エルリオたちが、出立した。

 その背を見送っている時、ふとステラが口を開く。


「本当なら、もっと、大勢救えたんですよね」


 悲しむでもなく、希望を述べるでもなく、淡々とした口調だった。

 シオンは、横目でステラを見たあと、


「それはない。数年前から攫われた時点で、何人ものエルフが実験に使われていたはずだ。お前が何も言わなければ、あそこにいるエルフたちは誰一人して助からなかった。お前の選択があったから、“あれだけの数を救えた”んだ。誇りに思え」


 いつもの調子で、簡単に励ました。

 ステラが、シオンを見据える。


「シオンさん」


 その姿は、まるで昨日までの世間知らずの少女とは別人のようだった。

 シオンがそれに少しだけ驚いていると、


「私、必ず女王になります」


 決して大きくはない声だったが、確かに宣言した。


「エルリオさんたちに、また森で平穏に暮らしてもらえるように。もう二度と、アリスちゃんみたいな子を出さないために。だから――」


 王女の瞳が、黒騎士を映し出す。


「私を、王都まで連れていってください」


 そして、黒騎士は首を垂れるように、小さく頷いた。


「ああ」







「あの若造があああああっ!」


 フレデリックが、執務室で一人吠えていた。

 両手に突き立てられたナイフは机まで深く貫通しており、自力で引き抜くことができないでいる。


「クソ、クソ! 必ず探し出して殺してやる! 舐め腐った態度を取りおって!」


 まともに体を動かせない状態で、痛みに悶えながら悪態をつく。


 そんな時だった。ふと、部屋の隅に人影を感じたのは。

 フレデリックが視線をそこにやると――


「ああ、失敬。何やら一人で盛り上がっていらしたので、話しかけるタイミングを見失っておりました」


 一人の男が、ソファに腰かけていた。

 額で分けた黒髪は腰のあたりまで伸びていて、一見すると鬱陶しいとすら思えるほどであるが――それに反して、その顔はいたって涼しげであった。色白でどこか無機質、例えるならまさしく人形のような顔立ちだ。

 男が立ち上がると、それなりの長身であることがわかる――一九〇センチはあるだろうか。

 それだけでも個性的であるにも関わらず、一層目を引くのが、彼の身に纏っている衣装である。

 カソックを模した軍服のような白い戦闘衣装にストールを巻きつけ、大仰なケープマントを羽織っている。その首には剣を模したペンダントが下げられていた。


「だ、誰だ貴様!? いつからそこにいた!?」


 男は、机越しにフレデリックの前に立つと、慇懃無礼に一礼した。


「初めまして、領主殿。わたくし、聖王騎士団副総長にして、円卓の議席Ⅱ番に座す、イグナーツ・フォン・マンシュタインと申します。本日は教皇猊下の命により参りました」

「き、騎士団!?」


 フレデリックが、酷く狼狽して後退しようとする。だが、両手をナイフで拘束されているため、距離を取ることができない。

 それを、イグナーツは珍妙な猿を見るようにして鼻で笑った。


「随分とお困りのようで」

「わ、私を殺しに来たのか!? 私は何も知らんぞ! 私は何もやっていない!」


 まるで会話が成立しないことに、イグナーツは微笑しながら肩を竦めた。


「一応、これでも騎士は大陸の平和と秩序の守護者としていますので、そう露骨に怯えられると、いささか心外ではあります。まあ、そう興奮なさらずに。先ほども申し上げた通り、私は教皇猊下の命で赴いたゆえ」


 その言葉を聞いて、フレデリックはハッとして落ち着きを取り戻す。


「きょ、教皇?」

「ええ。随分と心配してあらせられましたよ」


 イグナーツが言うと、フレデリックは不敵に笑い始めた。


「そうか、そうか! さすがは教皇様だ! すべてはお見通しということか!」

「左様でございますか。ああ、先にお伝えすることがあるのですが――教皇様からこちらに派遣した教会魔術師ですが、すでに教会の方で引き取らせていただきましたので、ご承知おきを」

「構わん、構わん! ははは! まさかここまで私のことを気に入ってくださっていたとは恐縮だな! 不始末の証拠をきれいさっぱり、なくしてくれるということか!」

「まあ、そういうことなのでしょうね」


 イグナーツが同意すると、フレデリックはさらに笑いを最高潮にした。

 それを満足そうに見て、イグナーツは再度、一礼する。

 その後で、何やら手早く、卓上で滴るフレデリックの生き血を使って何かの印章を描き始め、すぐに終えた。


「さて、皆まで言わずとも色々と納得いただけたようで、私としても手間が省けて何よりです」


 そうして、踵を返そうとする。

 だが、そこで、


「お、おおい! すまんが、この手を何とかしてくれないか? 自分じゃあどうにもならなくてな」


 フレデリックが、そう言って自身の両手のナイフへ目を馳せる。

 イグナーツはそこで足を止め、ああ、と言ってフレデリックに近づいた。


「教皇猊下から言伝があったのを忘れておりました」

「いや、それよりも先にこれを――」

「“神は天に知ろしめす。すべて世は事も無し”」

「……は?」


 フレデリックが間抜けな声を出すと、イグナーツもまた、小首を傾げる。


「おや、聖王教の信徒であるにも関わらず、ご理解いただけませんでしたか?」

「……何を言っている?」


 イグナーツはそこで、ふむ、とだけ言い残して、踵を返した。彼はそのまま、執務室を出ようとしている。

 フレデリックが慌てた。


「お、おい! 何をしている!? 早く助けてくれ! 痛くてしょうがないんだ! さっさと――」

「貴方がいなくても、世の中はいつも通り回りますよ、ということです」


 イグナーツがそう言った直後、フレデリックの姿が消えた。ほんの一瞬、光の粒子のような物が飛び散ったかのように見えたが――そこに残ったのは、フレデリックが身に付けていた衣服だけだ。

 イグナーツは懐から出した煙草を咥え、ライターを出すまでもなく、火を点けて軽く吹かす。


「存外に黒騎士はうまく動いてくれたようで、何よりだ」


 そう独り言を呟いて、屋敷を後にした。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?