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第一章 黒騎士シオン

 微かな木漏れ日しか届かない森林の中を、一人の少女が息を切らして走っていた。

 外見はまだ幼く、十五歳前後といったところだ。セミロングに整えられたバーミリオンの髪を激しく靡かせながら、青い目を忙しなく周囲に走らせている。長期の旅を想定していたのか、革製の服を中心とした動きやすい軽装で、丈夫そうな背嚢を背負っていた。


「まずい、まずい……!」


 少女の後方から、さらに二人分の足音が聞こえてくる。少女はそれに怯えるようにして、自分を奮い立たせるように独り言を呟いていた。


 少女は、見通しの悪い複雑そうな道をあえて選び、倒木や岩を飛び越え、ひたすら森の奥へと進んでいった。


「そこの娘! 止まれ!」


 怒号に近い男の声が聞こえ、その直後に発砲音が鳴った。

 少女はそれに短い悲鳴を上げ、一瞬だけ後ろを振り返る。

 数十メートル後方から、青い軍服と小銃で武装した二人の男が迫って来ていた。大陸四大国のひとつ――ガリア公国の軍人たちだ。


 それを認識した少女は、改めて足に力を込めた。

 しかし、片足が岩に乗った瞬間、靴の裏が大きく滑ってしまった。先日の嵐のせいで、乾ききっていなかった岩肌が摩擦を失っていたのだ。


「うわっ!」


 少女はそのまま体勢を大きく崩し、岩の陰に隠れてあった斜面を転がり落ちてしまう。

 咄嗟に頭を両腕で守りながら、落ち葉と小枝を体に纏いつつ暫く転がった。

 ようやく止まったのは、転がった先の小さな崖に落ちて、その下にあった川岸の砂利に体を叩きつけてからだ。顔面を砂利に打ち付け、無言で悶えつつ、涙目になりながら弱々しく地面から体を離す。


「どこにいった!」


 先ほどの軍人たちの声が、崖の上から聞こえる。

 少女は急いで崖の陰に身を縮めて息を潜めた。

 増水した川の流れの音に負けじと、軍人たちと思しき足音が大きくなっていく。少女は口を両手で押さえ、自身の鼓動を強く感じながら、ひたすらにこの場をやり過ごそうと音を殺した。


「もう少し上流の方に行くぞ。また隠れる場所を探して森の奥へ行ったのかもしれない」


 崖のすぐ上から、軍人たちの声が聞こえた。幸いにも崖下が死角となっていたため、軍人たちは少女に気付かなかったようだ。

 軍人たちの足音が遠ざかってから、少女はゆっくりと下流に向かって移動を開始した。


「痛っ!」


 斜面を転がり落ちたせいで、身体の至る所に痛みがあった。どうにか歩くことはできるものの、もう森の中を飛び跳ねながら走ることはできそうになかった。


「なんで、なんでこんなことに……!」


 今の自分の境遇を呪った言葉が自ずと口から零れた。すすり泣きながら、川岸を伝って下流へと足を引きずって歩いていく。

 愚痴っても仕方がない――そう自身を奮い立たせ、腕で乱暴に涙を拭う。


 その時だった。

 ふと、川岸に白い人影が転がっているのを見つけた。ローブのような服を着ており、頭をフードですっぽりと覆っている。右半身を川に浸からせながらうつ伏せに倒れた状態で、生きているようには見えない。


 少女は、恐る恐る、できるだけ距離を取りながら、その人と思しき物体の脇を通り過ぎようとした。そこでふと、嫌な想像が頭を過ぎる。


「……ここで捕まったら、私もこうなるのかな」


 倒れている白いローブの人物を見て、少女は暗い声で呟いた。


「そうならないように、大人しく捕まってくれませんかね。ステラ様」


 少女――ステラは自身の名を呼ばれ、青ざめた顔で振り返った。小さな崖の上に、ガリア軍の兵士二人が、小銃をこちらに向けて立っていた。


「うまいこと引っかかってくれたな。手間取らせやがって」


 兵士たちが崖の上から降りてくる。

 ステラは咄嗟に後退したが、砂利に躓き、尻もちをついてしまった。


「もう逃げられませんよ。大人しくついてくるなら、無傷で王都までお送りすることを約束します」

「どのみち私を殺すつもりなんでしょ!」

「それはうちの国の偉い人が決めることなので。ただ、抵抗が激しかった場合は、最悪死体を連れ帰っても構わないと命令を受けています」


 兵士の回答にステラは強く歯噛みした。

 銃を持った軍人二人を相手取って逃げることなど不可能――彼らの言う通り、大人しく捕まるしか道がないのか。

 両目をきつく閉じ、悲運を嘆くように項垂れた――と、その時だった。


「なんだ!?」


 兵士の一人が、突然声を荒げた。それまでステラに向けられていた小銃の銃口が、彼女の後方へと向けられる。

 ステラが振り返ると、さっきまで死体だと思っていた人間が、少しずつ動き出し始めたのだ。

 その体は長身でやや細身だが、白いローブを纏った上からでもどことなく引き締まった逞しい印象を受ける。

 フードの隙間から覗く顔は、酷く伸びきった黒髪のせいでどんな顔つきなのかよくわからなかったが、辛うじて双眸が赤いということだけはわかった。


「それ以上動くな! 貴様、何者だ!」


 兵士が叫ぶが、ローブの人間は何も応えない。


「まあいい。どのみちこの現場を見られたなら生かしておくわけにもいかない」

「そうだな」


 兵士たちが互いに頷くと、銃口が改めてローブの人間を捉えた。小銃の引き金が絞られ、乾いた音と共に弾丸が撃ち込まれる。


 そして、兵士の一人が、頭から後ろに吹き飛んだ。

 吹き飛んだ兵士がそれまで立っていた場所に替わっていたのは、ローブの人間である。

 吹き飛んだ兵士はというと、頭部を酷く変形させた状態で、砂利の上で沈黙していた。恐らく、もう生きていない。

 なにが起きたのか理解できずにステラは呆けていたが――


「き、貴様――」


 もう一人の兵士が、咄嗟に銃口の向きをステラからローブの人間へと変える。

 だが、小銃はいつの間にか兵士の手から離れており、銃身が剣の如く彼の胸を貫いていた。兵士は困惑した表情のまま口から血を吐き出し、生々しい音を立てて倒れた。


 ここに来てようやく、ステラは状況を理解した。

 このローブの人間が、兵士二人を瞬殺したのだ。あまりにも現実離れした光景だったが、自分の目で見た以上、受け入れざるを得なかった。

 ステラは、目の前にいる得体の知れない存在に、これまでに感じたことのない恐怖を覚えながら、ただ茫然と慄くしかなかった。


 そんな時、ふとローブの人物の視線がステラへと向けられた。ルビーのように鮮明な赤色の瞳に、怯えたステラの姿が映し出される。

 そして、


「ここはどこだ?」


 ローブの人物からその言葉が発せられた。声質からわかったことは、まだ若い男であるということだ。

 ステラは何とかして声を出そうとするが、恐怖でまともに口と舌を動かすことができないでいた。


「聞こえていないのか? ここはどこだ?」


 男が少しだけステラに近づく。

 そこでようやく、ステラは体を動かせるようになった。急いで立ち上がり、咄嗟に男から距離を取ろうとした。しかし、全身の痛みのせいで、すぐにまた転んでしまった。

 そこへ再度、男が近づく。


「こ、来ないで! 殺さないで!」


 ステラが絶叫すると、男は足を止めた。


「あの二人は撃ってきたから殺した。お前が何もしないなら、俺も何もしない」


 異様に落ち着いた男の声に、ステラは少しだけ冷静さを取り戻す。


「ほ、本当に何もしませんか?」

「ああ。それより、ここがどこなのか教えてほしい」


 ステラはゆっくりと立ち上がり、男を正面に据えた。


「ろ、ログレス王国とガリア公国の国境付近にある森林地帯です。国土としてはログレス王国に属している領域で、数年前まで亜人であるエルフ族の独立自治区だった場所です」

「……そんなところまで流されたのか」


 男は増水した川を眺めながら、自身の状況を確かめるかのように呟いた。それから、不意に兵士二人の死体へと近づき、身なりを確認した。


「こいつらはガリアの軍人か。お前、追われているのか?」

「え、えっと……」


 男の問いに、ステラは口籠った。

 それから数秒の沈黙が続いたあとで、唐突に男が下流に向かって歩き出した。

 何の前置きもない突然の行動に、ステラが慌てて後を追いかけた。


「え、あ、ちょっと、どこ行くんですか?」

「さあ? とりあえず、食事と衣服を調達できる場所に出るまで歩く」


 ステラのことなどまるで興味がないように、男は素足のまま川岸を歩く。

 その行く手を阻むようにして、突然、ステラが男の前に立った。


「あ、あの、私、ステラ・エイミスっていいます! 軍人をあっという間に倒してしまった貴方にお願いがあります!」


 男は無言でステラを正面に見据えた。ステラはそれに少しだけ気圧されたが、どうにかして声を発しようと、喉と腹に力を入れた。


「この近くのどこかにエルフたちがいるんです! 私はそこを目指していて、でも、ガリアの軍人たちにも追われていて、だから――」

「エルフのいる場所まで護衛してほしい。そういうことか?」

「はい!」


 ステラがうまく整理できていない言葉を、男が代わって発した。

 男は少しだけ考えるように顔を伏せたあと、


「エルフは人間にあまり友好的じゃない。それに、つい最近あった戦争のせいで二年ほど前から人間との関係は――」

「それでもいかなきゃならないんです!」


 そう言ったが、瞬時にステラが遮った。

 ステラは不安げな面持ちだったが、同時に強い眼差しでじっと男を見つめた。

 その表情に根負けしたのか、


「……わかった。他にあてもない」


 男は少しだけ冷めた口調で了承した。

 途端、ステラの表情が明るくなる。


「ほ、本当ですか!? ありがとうございます! あ、えっと――そ、その、今更なんですけど、お名前は?」


 男はフードを外した。前後左右、肩まで伸びきった直毛の黒髪を少しだけかき分けた先にあったのは、声から予想した通り、二十歳前後の青年の顔だった。声質や体格などから間違いなく男なのだろうが、その中性的な顔立ちは一瞬美女にも見紛うほどに端正で整っていた。表情が読めない希薄な顔つきがどことなく儚げで、その美貌を一層際立たせさせている。

 それにステラが少しだけ驚き、見惚れていると、


「シオンだ」


 男――シオンは、そう名乗った。







「承諾しておいて今更だが、エルフはもうここにはいないかもしれないぞ」


 二人が出会ってから数十分が過ぎた頃、森の奥へと進む中で、シオンがステラにそう声をかけた。


「数年前にあった戦争のあと、大陸に住まう亜人の多くはガリア公国軍に弾圧されたはずだ。その時に、ログレス王国内にあったエルフの独立自治区もガリア軍が根こそぎ奪ったと聞く。さっき殺した軍人二人が堂々とこの森で発砲していたのもその前提があるからだろ」

「エルフの独立自治区がガリア軍に襲われたのは知っています。でも、もしかしたらまだいるかもしれないんです」


 ステラが足を止めずに答えると、シオンはさらに眉根を寄せた。


「根拠は?」

「こ、根拠は……あるにはありますけど、あまり詳しくは言えないです」


 聞かれたくないことなのか、はっきりと濁した表現で返答した。

 シオンは続けて、


「なら、場所のあては? むやみに森の中を歩いているわけじゃないだろ?」


 そう訊いたが、ステラからの即答はなかった。

 シオンは嫌な予感がしつつも小さなため息を吐く。


「ないのか」

「……すみません」


 心底申し訳なさそうな声色でステラが肩を落とした。

 そんな時、不意に、シオンが足を止める。


「どうかしました?」


 ステラが振り返ると、シオンは徐に周囲を見渡していた。


「お前が正しかったみたいだ」

「え?」


 シオンが、ステラの前に移動する。

 そして、


「俺たちに敵意はない。少しだけ会話させてくれないか?」


 微かに張った声で、どこに呼びかけるでもなく、そう言った。

 ステラが訝しげに首を傾げていると、突如、周囲の木立の陰から続々と人影が現れてきた。人数はおよそ十人。そのどれもが弓で武装しており――弦が引かれた状態で、矢先はシオンとステラに向けられていた。

 あからさまでこの上ない警戒のされ方に驚いたが、ステラは彼らのその容貌にも目を丸くさせた。

 その全員が、金髪碧眼で透き通った白い肌をしており、例外なく若々しい見た目で美形だった。また、特徴とするべきは彼らの耳で、人のそれより大きく、翼のように広く尖っている。その特徴的な耳こそが、エルフである何よりの証であった。

 取り囲むエルフたちは全員男のようで、革の軽装で武装している。弓を絞りながら、じりじりとシオンたちとの距離を詰めていった。


 ステラは、初めてエルフを目の当たりにして、緊張から一度大きく唾を飲み込んだ。


「何者だ?」


 エルフの一人が唸るように訊いてきた。

 ステラは、一瞬悩んだ表情になったが、すぐさま口を動かした。


「ろ、ログレス王国から流れてきた難民です。とある事情で国を追われてしまい、どうかエルフの皆さんに匿ってもらうことはできないでしょうか?」

「そっちは?」


 ステラの回答には即答せず、エルフは続けてシオンを見た。エルフたちはシオンの方を強く警戒しているようで、矢先のほとんどが彼に向けられている。


「正直、自分でもよくわかっていない。強いて言うなら遭難者だ」

「ふざけたことは言うな。貴様、教会の関係者か? その身なりは何だ?」


 エルフがシオンの服装について指摘してきた。白いローブ――確かに、一見すると教会の修道僧にも見える。


「自分の意思で着ているわけじゃない。だが察しの通り、教会の衣装だ」

「なら受け入れることはできない。射られる前にここからさっさと立ち去れ」

「立場としては教会に追われている身だ」

「信用できない。そもそも、貴様ら“バニラ”とまともに取り合うつもりは毛頭ない」


 シオンとエルフの会話を聞いて、ステラが不思議そうな顔になった。彼女はシオンに近づき、耳打ちする。


「余計な詮索するつもりはないんですけど、シオンさんって教会に追われてるんですか? それに、エルフが言っている“バニラ”って何ですか?」

「“バニラ”は亜人たちが俺たち人間を識別するために使う蔑称だ。亜人のように、産まれながらに何か秀でた能力がないことをそう揶揄している」


 後者の質問についてはそう端的に答えたあと、シオンは改めてエルフたちに向き直った。


「エルフが教会と人間を嫌っていることは十分に理解している。だから、アンタたちの領域に入っている間は手足を縛って動きを拘束しても構わない。それでも受け入れられないか?」

「エルフってなんで教会嫌いなんですか?」

「少し黙っててくれ」


 無邪気に質問を投げてくるステラを短く制止し、シオンはエルフたちの動向を伺った。

 しかし、シオンの提案を受けてもなお、エルフたちは首を縦には振らなかった。


「無理だ。早く立ち去ってくれ」


 断固として変わらない回答に、シオンは目を瞑って大きく息を吐いた。諦めるしかない――そんな雰囲気が漂った矢先、ステラが突如としてエルフたちに近づいていった。

 エルフたちは一瞬驚きつつ、即座に矢先をステラに向ける。


「あの、エルフの偉い人にだけでもお会いできないでしょうか! どうしてもお伝えしたいことがあるんです!」


 急に声を張り上げたステラに対し、エルフたちの警戒心が一層強まる。

 シオンが咄嗟にステラの肩を掴み後ろに引かせた。

 受け答えをしていたエルフが、弓を降ろしながら首を横に振った。


「私たちの族長はとっくに死んだ。二年前の戦争が終わって間もなくだ。ガリア軍が最初に森に攻め入った時、多くの同胞たちが殺され、連れ去られた。その時にだ」

「あ……」


 前置きなく凄惨な事実を聞かされ、ステラが眉先を下げて声を漏らした。


「新しい族長も決まっていない。今は私がなし崩し的に代役を務めている状態だ。もういいだろう。とにかく、我々は貴様たちをこれ以上森の奥に入れることはさせない。人間とは関わりたくないんだ」


 その言葉が採決であったかのように、一斉にエルフたちが弓を収めた。少なくとも、こちらに敵意がないことはわかってもらえたようである。

 シオンはそれを見て踵を返そうとした。


「ステラ、もう無理だ。ここは引くしかない」

「で、でも――」

「時間の無駄だ」

「私にはどうしても――」


 ステラが何かを言いかけた時、不意にシオンの顔が顰められた。

 それから五秒とせず、エルフたちも同じようにして忙しなく周囲を気にし始める。その特徴的な耳を、それこそ翼のようにぴくぴくと動かし、懸命に辺りの音を拾っていた。

 間もなく、森の外へと続く方角から一人のエルフが焦った様子で駆け寄ってきた。両膝に手を置いて激しい呼吸を何度かした後で、その青ざめた顔を上げる。


「が、ガリア軍の兵士たちが近づいてきている! まずい、僕たちの隠れ家がバレたのかもしれない!」


 先ほどまで受け答えをしていたエルフが、険しい顔つきでシオンを睨みつけてきた。


「おい、貴様ら! ガリア軍の手先じゃないだろうな!?」


 エルフたちが、再度一斉に矢先を二人に向けてくる。その剣幕は、彼らの美貌を鬼の形相へと変えていた。


「答えろ! 貴様らはガリアの人間か!?」

「違う」

「貴様らは敵か!?」

「最初に言ったように、アンタたちに敵意はない」

「それはどう証明する!?」

「ガリア軍のために何かするなら、今ここでこうして大人しくしていない。さっきの押し問答中に、さっさと引き下がって連中と合流している」


 シオンの言葉を受けて、エルフたちは互いに顔を見合わせた。数秒の沈黙の間に視線だけの会議を行ったあと、シオンとステラの両腕を手早く拘束しだした。それから二人の目には布が被せられ、視界を完全に塞がれてしまった。


「え、あ、ちょ――」

「これでいい。抵抗するな」


 戸惑うステラをシオンが宥めると、エルフたちが二人の背を押した。


「これから貴様らを我々の領域に入れる。許可がない限り何もするな」


 エルフに言われるがまま、二人は森の奥へと歩みを進めることになった。







「あの……」


 目隠しの状態で十分ほど歩かされたあと、今度は不意に座らされ、何かに体を縛り付けられた。皮膚から伝わってくる感触から、おそらくは樹木だろう。

 自由を奪われたところで、ステラはエルフたちに語り掛けようとした。

 だが、


「勝手にしゃべるな!」


 間髪入れずに怒号が飛んできた。

 ステラは怯み、思わず身を竦める。


「もう俺たちはエルフの領域に入ったのか?」


 そんな制止には構わず、恐らくすぐ隣にいるシオンが悪びれた様子もなくそう訊いた。

 直後、ステラたちの目隠しが外される。眼前に映るのは、やはり武装したエルフたちが、樹木に縛り付けられた自分たちに向かって弓を引いている姿だった。


「三度目は言わない。勝手に話すな」

「さっきガリア軍の兵士が向かってきているって言っていたな。これから迎え撃つのか?」


 一触即発ともいえるような状況でも、シオンは淡々とエルフたちに質問をしていた。だが、ついにその美麗な顔に蹴りが入れられた。

 ステラが短い悲鳴を上げて咄嗟に目を瞑る。それから恐る恐るシオンを見遣ると――意外にも彼は平然としていた。口を切ったのか、慣れた感じで、血の混じった唾を地面に吐き捨てていた。

 それを見たエルフが、さらに激しい剣幕になる。


「貴様! 我々の領域を汚す――」

「もういい! 今はそれどころじゃない!」


 激昂したエルフを諫めたのは、最初にステラたちと受け答えをしていたエルフだった。無造作にはねた髪にバンダナを巻いた、やや背の低い青年だ。

 そのエルフは同胞たちに弓を収めさせると、ステラとシオンの前に立った。


「貴様らの言う通り、ここはエルフの領域だ。それと、ガリア軍との衝突が避けられないのも、その通りだ」

「そんな状況で俺たちをエルフの領域に入れたのは?」

「貴様らがガリア軍の斥候という可能性も考えられる。だったら管理の手が行き届く場所に置いた方がいいと思っただけだ」

「賢明な判断をするエルフで助かった」


 シオンは相変わらずの無表情で抑揚のない声だった。だが、その台詞が小馬鹿にされていると感じたのか、エルフたちの顔つきが再び険しくなる。


「どういうつもりでいるのかは知らないが、貴様らの命は私たちに握られていることを忘れるな。さっきも言ったが、余計なことはするな。さもなくば、容赦なく射抜く」

「ガリア軍の兵士相手に勝算はあるのか?」


 しかし、そんなエルフの忠告などまったく意に介していないようで、シオンがまた質問をする。

 エルフたちは揃って顔を顰め、話の通じない獣を見るような視線を向けてきた。もはや怒鳴る気力も失った、といった様子だ。

 そんな時だった。

 ふと、ステラが縛られた縄を目いっぱいに伸ばすようにして前のめりになる。


「あの! こんな時に何ですけど! 話を聞いてほしいんです!」

「何なんだ貴様らは!? 自分たちの状況を理解しているのか!? 冗談抜きで今すぐ射殺――」

「私はステラ・エイミス! 一年前に崩御したログレス王国の女王――ビクトリア二世の直系に当たる孫娘です!」


 半ばやけくそに、ステラは声を張り上げた。

 彼女の言葉を耳にし、シオンとエルフたちは揃って目を丸くさせる。

 一国の王族が何故こんなところに――その場に居合わせたステラ以外の全員が、まったく同じ疑問を頭に浮かべた。

 驚愕から生まれた数秒の沈黙、ステラはここぞとばかりに口を動かし始めた。


「さっきは嘘を吐きました! 私は難民ではないです! 謝ります、ごめんなさい! でも、匿ってほしいのは本当なんです! 今この国はガリア公国にいわれのない侵略を受けている状態で、このままだと王族の私が殺されてしまい、国が滅んでしまいます! かくいう私も王都から追い出されてしまった状態で、もう国内に安全な場所はほとんどなく、エルフの方々に頼るしか生き残る手段がないんです!」


 ステラが怒涛の勢いで次々と事情を話す。

 初めこそ突然のカミングアウトに固まっていたエルフの面々だが、一秒、また一秒と経つにつれ、互いに顔を見合わせ、しまいにはステラのことを珍妙な動物を見るような眼差しで見遣るようになった。


「……あ、あの――」


 ステラが冷や汗をかきながら戸惑っていると、エルフたちは無言でその場から立ち去り始めていった。


「あれ!? ちょっと! 何で離れていくんですか!?」

「誰もお前の言うことを信じていないんだろう」


 シオンが隣で、ぼそりと言った。それを聞いたステラが、ああ、と諦めたようにがっくりと項垂れる。


「やっぱり、そうですよね。いきなり王族だなんて言っても、信じるはずないですよね。まして、相手は人の社会に疎いエルフだし……」

「信じてもらえなくてよかったかもしれない。ここで下手に信じられたら、お前は交渉材料にされていた可能性がある」

「交渉材料?」


 ステラが首を傾げると、シオンは視線だけを彼女に向けた。


「なんでガリア軍がここに向かっているのかは知らないが、エルフたちがお前を引き渡すことで自分たちを見逃してもらうよう計らう可能性は十分に考えられた」

「あ……」

「もう少し慎重になるべきだったな」


 シオンの見解を聞いて、ステラは自身を誡めるように眉根を寄せてしょんぼりとした。しかし、彼女はすぐさま何かに気付いたように顔を上げる。


「あれ? もしかして、シオンさんは私の言うこと信じてくれてます?」

「半分くらいは。お前がガリア軍の兵士に狙われていたことが気になっていたからな」

「……そうですか。ありがとうございます」

「今俺が信じたところで何ひとつ状況は変わらないがな」

「……言わないでください。それ、私も思ったんですから」


 さらに落ち込むステラだったが、そんな彼女を尻目に、シオンはエルフたちの方を見遣った。

 エルフたちは二人のいる場所から数十メートル離れたところで、何やら必死に話し込んでいた。恐らくはガリア軍の兵士を迎え撃つための作戦会議を立てているのだろう。

 そこへ、伝令と思しき一人のエルフがその中に加わった。その顔は、酷く青ざめていた。


「想像以上に事態は深刻だ! 兵士の中に“教会魔術師”がいる!」


 伝令の言葉を聞いた他のエルフたちも、彼と同じように表情を曇らせる。


「それは確かか?」

「間違いない! 教会魔術師が魔術で爆発を起こして、森の木々をなぎ倒しながらここに迫ってきている! しかもそれだけじゃない、武装した兵士たちが五十人近くもいた! かなりまずい!」


 エルフたちが一斉にざわめく。

 その一方で、ステラは何が大変なのか理解していないような顔で、説明を求めるようにシオンを見た。


「“教会魔術師”って何ですか?」

「教会からこの大陸での魔術の行使を認められた魔術師だ。魔術は便利な一方で、習熟した術者であれば家ひとつ楽に吹き飛ばすことができるようになったりする。教会はそうした強力な力を持った魔術師を管理するために、大陸共通の免許を用意した。それが“教会魔術師”だ」

「あの……私、魔術がそんな危険な使われ方しているところ見たことないんですけど、たった一人の人間がそんなことできるんですか?」

「ああ。大国の各国軍に数人は人間兵器として在籍している。そして今、ガリア軍に在籍する教会魔術師がここに迫ってきているんだろう」


 その言葉を裏付けるかのように、突如として大気が震えた。微かな地震と、木々がなぎ倒されていく音が、少し離れたところから聞こえてくる。遅れて漂ってきたのは、硝煙の臭いだ。

 ステラとエルフたちが揃って怯む。

 そこへ――


「さっさと逃げた方がいい。教会魔術師相手だと、さすがに勝ち目がないだろ」


 シオンが、静かに、諭すようにそう言った。

 エルフたちもその言葉自体には同意しているようで、誰もが悔しそうに俯いている。だが、その内の一人が鋭い視線をシオンに返してきた。


「私たちはここを離れるわけにはいかない。亡くなった同胞たちが眠る地であり、連れ去られた同胞たちを迎える場所がここだからだ。“バニラ”の蛮族たちの手に自ら明け渡すくらいなら、いっそこの地と運命を共にする。貴様ら人間には理解できない価値観だろうがな」


 そう言いながら、シオンとステラのもとへ近づいてくる。エルフはそのまま二人を縛る縄を解くと、とある方角を指差した。


「こっちの方角に行けばガリア軍とは接触せずに森を抜けられるはずだ。状況が状況だ、もう貴様らに構っていられない。逃げるなり何なりしてくれ」


 エルフはそれだけを言い残して、仲間のもとへと帰っていった。彼のそんな背中を、ステラが何とも言えない神妙な面持ちで見守る。

 一方で、


「今でこそこんな状況になってしまったが、お前はエルフに匿ってもらってどうするつもりだったんだ?」


 シオンが、縛られていた箇所を撫でながら、唐突にステラにそう訊いた。


「どう、って……正直、よくわからないです。でも、大臣とかは、ほとぼりが冷めた時に私を女王にして、国の主権を取り戻すつもりでいるみたいでした。でもまさか、隠れ家として頼みの綱だったエルフたちの領域までこんなことになっていたなんて」

「……仮に、女王になれたとして何をするつもりだ?」

「は?」


 突拍子もない質問に、ステラは思わずといった様子で間抜けな声を上げる。対するシオンは、いたって真剣な面持ちだった。


「例えば、このエルフたちの惨状を見て、女王になったお前は何をする?」

「そりゃあ、こんなもの見せられたら、エルフの人たちの居場所をちゃんと認めてあげたいですよ。少なくとも私の知っている限りでは、エルフは何も悪いことをせずにただ静かに森の中で暮らしていただけなんですから」


 ステラがそう答えた直後、少し離れた場所にいるエルフたちから、一斉に雄叫びが上がった。どうやら、戦地に赴く覚悟ができたようだ。弓と矢を携えて、爆音のする方へと勇ましく向かっていく。

 ステラがその様子を悲痛な顔で見ていた矢先――何故か、シオンもまた、エルフたちと同じ方向に歩き始めた。


「え!? ちょ、どこに行くんですか!? そっちは危ない方ですよ!」

「お前はここにいろ」


 シオンはそう言ってステラを制止させた。


「このまま大人しくしていても埒が明かない。話を進めてくる」


 そう言い残した彼は、これから何かの運動でも始めるかのようにして、軽く首や肩を鳴らしていた。







 奇妙な二人組だった――二年前に族長が死に、自分がその代役を務めるようになってから今日この日まで、あんな人間は見たことがなかった。

 エルフのエルリオは、戦場へと向かいながら、先刻逃がしたばかりの人間二人を脳裏にちらつかせていた。

 だが、すぐにその意識は戦場へと強制的に向けられる。


 激しい爆音が、木々の葉を震わせた。地を伝わる振動から、相当な威力の爆発が起きているのだろう。

 エルリオの後を追う他のエルフたちの表情が、意を決したものから徐々に不安と恐怖に変わっていった。


 木々の隙間から、森を抜けた先の平野が見えてきた。ログレス王国――もとい、エルフの独立自治区として認められた領域と、ガリア公国との国境が存在する場所だ。

 昨日までは緑に覆われた澄んだ平野であったが、今となってはその見る影もない。至る所で地肌が露出し、平野と森の境にある木々が無残になぎ倒されている状態だ。

 エルリオたちは平野に出る手前で、大木の陰に各々身を潜めた。


「さっき聞いたよりも想像以上に数が多いな」

「問題は数じゃない。奥で馬に乗っている奴だ」


 仲間の一人に言われて、エルリオは目を凝らした。人間よりも数段身体機能が優れているエルフであれば、遠眼鏡がなくとも目を細めるだけで数百メートルの人を識別することができる。


「……確かに、あれは“教会魔術師”みたいだな」


 彼の目に映ったのは、馬にまたがった一人のガリア軍兵士だ。他の兵士と同様に青を基調とした軍服を身に纏っているが、唯一銃器による武装をしていない。その代わりに身に付けていたのは、首から下げられた“銀のペンタクル”――教会魔術師の証だ。

 教会魔術師の兵士が、不意に手をかざす。その数秒後に、どこからともなく爆発がいくつも沸き起こった。

 木々がなくなって見通しが良くなると、そのたびに一気に兵士の行軍が進んだ。その有様は、まるで戦車が一台投入されているかのようだった。


「人間兵器とはよく言ったな。弾数が無制限の砲弾が飛んでくるようなものか。このままだと、あと数時間もしないで俺たちの住処にまで到達してしまう」


 エルリオが歯痒そうに声を絞り出す。と、その時、突然、少し離れたところにいたエルフの同胞が木立の陰から勇ましく飛び出ていった。恐らく、この危機的な状態の緊張に耐えきれなくなったのだろう。

 飛び出したエルフは雄叫びを上げながら弓を引き絞り、ガリア軍に向かって矢を放った。

 だが、すぐさまガリア兵たちが、そのエルフに向かって無数の弾丸を小銃から撃ち込む。勇ましく飛び出したエルフは、瞬く間に血と肉片に塗れ、無残に散っていった。


 それは完全な悪手だった。エルフが間違いなくいることを、ガリア兵たちに確信させてしまったのだ。

 その証拠に、銃剣を構えた兵士たちが、獲物を捉えた獣の如く駆け出し始める。それを見たエルリオは、覚悟を決めたように表情を引き締めた。


「もうやるしかない! あいつらを迎え――」


 そう言って皆を鼓舞しようとした時、不意に、脇を通り抜けた人影があった。

 エルリオは目を疑った。

 先ほど逃がしたはずの人間の男が、隠れる素振りも全く見せずに、堂々とガリア軍の兵士たちに向かって歩いているのである。

 エルリオは咄嗟に、男の肩を掴んだ。


「おい、何をしている! 逃げ先はさっき教えただろう!」


 男は、その黒い長髪を靡かせながら振り返り、日の光のような赤い双眸で視線を返してきた。


「あそこにいるガリア軍を黙らせる。その代わりに、あとであいつの話を聞いてやってくれ」

「は?」


 言っていることの意味が分からず、エルリオは思わず呆けた声を上げた。

 その直後に、


「し、シオンさん! やっぱりそっちは危ないですって!」


 もう一人の人間の少女がやってきた。

 この非常事態に輪をかけて何を面倒なことを――そう憤った矢先、エルリオは自身の目を疑った。


 黒髪の男が、ガリア軍の兵士たちに向かって、真正面から走り出したのだ。







 シオンは森を抜けるのと同時に駆け出した。黒い長髪と白いローブを激しく靡かせながら、裸足であることを意にも介さずに平野を走る。


 銃剣を構えたガリア軍の兵士たちが何事かと、一瞬だけ前進を躊躇う。迫りくる白い人影は、彼らが目的としているエルフではない――しかし、そんなことなどどうでもよいと思えるほどに、異様なプレッシャーがそれから放たれていた。


 ズドン、と一発、シオンの足元で大きな爆発が起こる。それから立て続けにさらに二発――まるで、地雷原を突っ切っているかのような有様だ。そうやって、教会魔術師が疾駆するシオンを爆発で捕捉しようとする一方で、


「構え!」


 指揮官と思しき人物が、腕を上げて号令を出した。直後、侵攻する兵士たちが一斉に銃剣の先をシオンへ向ける。


「撃て!」


 無数の発砲音が鳴った。銃剣の照準は間違いなくシオンを捉えていた――にも関わらず、弾丸は一発もシオンに掠めることすらなく、彼は何事もなかったかのように走り続けていた。


 ガリア軍の兵士たちはここで違和感に気が付いた。シオンの走力が、明らかに人の速度ではないことに。豹などの獣、あるいは隼の如く、生物の限界に迫る速さである。


 指揮官が慌てて次の発砲の号令を出そうとした。再度腕を高く上げ、兵士たちに銃剣を構えさせる。


「撃て!」


 二回目の射撃音に混ざって聞こえたのは、鈍い打撲音――シオンが、兵士の一人に向かって飛びかかったのだ。

 シオンは兵士の一人を踏み台のようにして足蹴にし、さらに奥にいたもう一人を強襲する。強襲された兵士は胸から踏み潰され、血を吐き出して絶命した。

 シオンはそのまま走る勢いを殺さずに、潰した兵士の銃剣を拾い上げてさらに直進する。


「何をしている! よく狙え!」


 指揮官から怒号が飛んだ。

 兵士たちが三度シオンへと狙いを定めるが、その時彼はもうすでに指揮官の所へと到達していた。

 シオンは銃剣の砲身を両手で握り、指揮官の脇を通り抜け様にストック部分で殴りつける。指揮官は前歯全てを失い、鼻を大きく陥没させながら激しく後ろに吹き飛んだ。

 それには構わず、さらにシオンは駆け抜ける。

 次の標的は、教会魔術師だ。


 シオンと教会魔術師の間には、もうガリア軍の兵士はいない。

 教会魔術師はにやりと不敵に笑い、勢いよく馬から飛び降りた。直後に、地面に手を置く。すると、シオンを中心にして地面が小刻みに隆起し始めた。


 それから一秒とせずに、大爆発が起きた。牛舎ひとつを簡単に消し飛ばすくらいの威力はあっただろう。辺り一帯が、激しい黒煙と土煙に塗れる。


 その場にいた誰もが、シオンの死を悟った。

 教会魔術師が満足げに笑みをこぼし、立ち込める硝煙の臭いを肺一杯に鼻から吸い込む。両目を瞑り、あたかも葉巻の臭いを嗜んでいるかのようだ。


 シオンが黒煙の中から飛び出してきたのは、そんな時だった。教会魔術師が驚きで見開いた瞳には、シオンが銃剣の刃先を向けて跳躍している姿が映っていた。

 迫りくる死を目の当たりにし、教会魔術師の表情が恐怖に変わろうとした瞬間、その顔面に勢いよく銃剣が突き立てられた。


 直後、一陣の風が平野を駆け抜ける。黒煙と土ぼこりの一切を払いのけた先には、教会魔術師の顔に銃剣を突き立てるシオンの姿があった。


 シオンがゆっくりと立ち上がると、身に纏うローブは先の爆発の影響で上半身がぼろぼろになっていた。彼はそれを、煩わしそうに自ら剝いでいく。

 そして、その背中から覗いた地肌――そこには、絵画のような美麗な印章が刻まれていた。


 騎士の剣を模した巨大な印章、それに貫かれるように描かれた黒い悪魔――“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”を同時に宿す者、それが意味するところは――


「く、黒騎士……!?」

「間違いない、黒騎士だ! 黒騎士がいるぞ!」


 ガリア軍の兵士たちが、戦慄の声を上げた。

 シオンはそれに応えるようにして、彼らの方へと振り返る。


「あと、六十二人か」


 破り捨てたローブの一部を使って後ろ髪を一本に束ねたあと、シオンは再び目にも止まらぬ速さで駆け出した。






 もはやそれは戦というより、一方的な狩りと化していた。

 指揮官と、主力である教会魔術師を失ったガリア軍の兵士たちは、それこそ蜘蛛の子を散らすようにして退散を始めた。


 だが、それをシオンは許さず、誰一人としてこの場から逃がすことはなかった。

 黒騎士が飛びかかれば一人が死に、黒騎士が引き金を引けばまた一人が死に、黒騎士が銃剣を投げればまた一人が死に――シオンが行動ひとつ起こすたびに、兵士が確実に屠られていったのだ。


 時間にしてものの三十分――最後の兵士の背中に銃剣が投擲されたことで、平野には再び静寂が取り戻される。


 ガリア軍の小隊ひとつが、生身の人間一人に一時間とせず全滅させられた――悪夢と形容するしかないその事実に、森の木立で一部始終を見守っていたステラとエルフたちが、揃って言葉を失っていた。


 そのようなことなどいざ知らず、シオンは日常の一仕事を終えたかのような足取りで、徐に森の方へと踵を返す。

 ステラとエルフたちは思わずといった様子で後退った。対してシオンは、嘆息気味に小さく息を吐き、目を伏せる。


「背中の印章の通り、俺は“黒騎士”だ。だが、アンタらに危害を加えるつもりは毛頭ない。それだけは信じてくれ」


 シオンの言葉を聞いて、エルフたちが困惑した顔を互いに見合わせる。妙な膠着状態が数秒続いた直後、不意に、ステラが恐る恐る手を上げてきた。


「あ、あの……」


 シオンとエルフたちが、一斉に彼女へ視線を向ける。


「く、“黒騎士”って……なんですか?」







 森に戻った一同――エルフたちはシオンのことを警戒しつつも、初めて会った時よりは幾らか軟化した態度で森の奥へと招いてくれた。どうやら、エルフたちは彼らの居住地まで案内してくれるようだ。

 そんな中で、


「あ、あの。さっき言ってた、“黒騎士”って何なんですか?」


 ステラが、恐る恐るシオンに訊いた。エルフたちとは異なり、彼女の場合は初対面の時よりもさらにシオンのことを警戒している様子だ。

 もっとも、生身で軍人五十人以上を屠った人間を隣にしていることに、怯えない方が無理と言うべきか。


「“騎士団”のこと、どれだけ知っている?」


 シオンが唐突にそう問いかけると、ステラの肩が少しだけ跳ね上がった。


「え? あ、あまり詳しいことは知らないですけど――騎士団は、聖王教会が保有する軍事組織、であってますか? あと、騎士一人ひとりがとんでもなく強いってことくらいしか……」

「俺はもともとその騎士団に所属していた騎士だ。だが、今はもう破門されて、大罪を犯した騎士――黒騎士に認定されている。二年前にこの大陸で何があったかは、お前も知っているだろ」

「教皇派と分離派による騎士団分裂戦争……」

「俺はその時に分離派に与していた騎士だ。結果は知っての通り、分離派は教皇派の騎士に惨敗した。その後、分離派の生き残りだった俺は異端審問にかけられ、黒騎士になった」

「ということは、黒騎士って言うのは、教会に敵対した元騎士ってことですか?」


 シオンは頷いた。


「そんなところだ。本当なら数日前に死刑が執行されてこの世にはもういないはずだったんだが、乗っていた輸送列車が濁流に飲まれて、身一つでここまで流された。それがお前に出会うまでの経緯だ」

「な、なんて波乱万丈な……」


 どこかポンコツな感想を言って、ステラは唖然とした顔になった。

 二人がそんなやり取りをしている間に、ふとエルフたちの足が止まる。そこは、巨大な木の根に覆われた洞窟の入り口だった。


「この先に、我々の居住地がある」


 先頭を歩いていたエルフ――エルリオと名乗った彼が、端的にそう説明した。

 それから数分、洞窟の中を進んだ先にあったのは、地底湖を中心とした集落だった。地底湖の周りには大木の根が至る所に張り巡らされており、そこをくり抜くような形で家となる住処がいくつも作られている。大木は地上へとその枝葉を伸ばしており、貫いた洞窟の天井からはいくつもの木漏れ日が差し込んでいた。森の中より暗かったが、周りの燭台の火と合わさって、洞窟の中にしては思いのほか視界は良好だ。


 続けてエルリオが案内したのは、空き家と思しき部屋だった。何もない部屋の床に、シオンとステラは、ポツンと取り残される。


「な、なんだか凄いですね! エルフの隠れ里って感じで、昔読んだ絵本とかで見たやつそのまんまです!」


 ステラが若干興奮気味に話し、一方のシオンは、


「さすがに少し冷える。こんな場所に案内されるなら、殺した兵士から上着を剝いでおけばよかった」


 と、若干の肌寒さに不満を漏らした。ローブの上半分が戦闘によって失われ、今なおシオンは上半身裸の状態だった。

 そんな彼を見て、ステラが苦笑する。


「ま、まあ、すぐにエルフの人たちも上着くれますよ。ガリア軍倒してここを守ったんだし、それくらいのことは……」

「だといいな」


 淡い期待を乗せた言葉をかけられ、シオンは軽く肩を竦めた。

 エルリオが部屋に入ってきたのは、そんな会話の直後だった。彼は入ってすぐに、シオンに毛布を一枚手渡してきた。


「助かる」


 シオンがそれを羽織ると、エルリオは少し離れたところに腰を下ろした。それからやけに神妙な面持ちで二人を見遣る。


「……先ほどまでの非礼、どうか許してほしい。ガリア軍から我々を守っていただけたこと、本当に感謝する」


 突然の謝罪と感謝の言葉に、シオンとステラは少しだけ驚いた顔を互いに見合わせる。その後すぐにシオンが開口した。


「不躾なのはお互い様だ。それより、あの時の俺の言葉、覚えているか?」

「ああ。約束通り、その少女の話を聞こう」


 そして、シオンとエルリオが同時にステラの方を向く。

 青年二人に見つめられ、ステラが思わず両手を顔の前で振り、慌てふためいた。


「そ、そんな、二人同時に見んといてください! 恥ずかしいです!」

「御身がログレス王国の王族であるという話は本当か?」


 エルリオが真面目なトーンでそう訊くと、ステラはすぐに表情を引き締めた。彼女はどこか気まずそうに頷き、視線を外すように少し俯く。


「はい、嘘は言っていません。私は現時点でログレス王国の王位継承権第一位を持つ王女です」


 それを聞いたエルリオが、落胆したように項垂れた。


「まさか、こんな人間の少女が我々の最後の希望になるとは……」

「す、すみません、こんな人間の少女で……。っていうか、最後の希望って言うのは?」


 ステラの問いに先に反応したのはシオンだった。


「お前が女王になることでログレス王国がまた大国としての地位を確立できれば、エルフの独立自治区も再承認されると考えているんだろ」

「ああ、なるほど――あ、いや、そんな簡単な話じゃないんです! 今まさにその問題に直面していて――」

「落ち着け。これからちゃんとゆっくり話を聞く」


 シオンに宥められ、ステラは一度姿勢を正す。その後で一度咳払いをし、口を動かし始めた。


「最初に会った時に話した通り、私はここに匿ってもらうために来ました。理由は、ガリア軍が王都に入ってきたためです。奴ら、国家元首不在による隣国の非常事態だから代理統治だとか何とか理由をつけてますけど、実態はただの侵略です。私もあと少しで殺されるところでした。そこを何とか逃げてここまで来たんですけど――」

「申し訳ない。御覧の通り、残念ながら我々エルフもガリア軍に攻め入られている状態だ。貴女を助けることはできそうにない」


 ずーん、と、ステラとエルリオが自分の言ったことに気を落とす。

 シオンが自身の髪を結い直しながら、


「もうログレスは実質的にガリアの支配下ということか。二年間檻に入れられている間に、随分とこの大陸の時世も変わったな」


 呆れたような、辟易したような声色で言った。

 と、そこへ、


「黒騎士殿」


 エルリオが唐突にシオンに呼びかけた。


「突然の申し入れになるが、聞いてもらいたい。どうか、我々エルフの反ガリア運動に手を貸してもらえないか? 我々エルフは、黒騎士である御身が教会の意に反してまで騎士団分裂戦争に参加した理由を知っている。“あの志を持つ御身”であれば、だからどうか――」

「俺はもう騎士じゃない。戦うことはともかく、政治的な力は何も持っていないし、アンタらが期待するようなことは何もできないぞ」

「しかし――」

「さっきは話をするためにやむなく手を貸した。だが、これ以上俺が出張れば、アンタらエルフは、今度は騎士団にも狙われるかもしれない。教会は逃げ出した黒騎士を許さない。俺と一緒にいれば、早晩、騎士団との衝突は避けられないはずだ。アンタらも、ただでさえガリア軍を相手にするのに手いっぱいの状況で、騎士団みたいな化け物連中を相手にするのは嫌だろ?」


 シオンの淡々とした回答に、エルリオは歯痒そうに顔を顰めた。

 そんな二人の様子を、ステラが覗き込むように見る。


「あ、あの、今更なんですが、何故エルフまでガリアに狙われているんですか? 確かにエルフの独立自治区はログレス王国の領土内にありますけど、王都をほぼ陥落させたガリアがわざわざエルフを個別に侵略する必要ってあるんですか?」


 何気ない無邪気な質問――だが、エルリオはさらに表情を険しくて拳を強く震わせた。

 代わって説明を始めたのは、シオンだった。


「奴隷にするためだ。ガリア公国はエルフを始めとした亜人の奴隷化を未だに合法としている」

「奴隷!?」


 思わず、といった様子でステラが声を張り上げる。それもそのはずで、ログレス王国では如何なる種族においても奴隷として扱うことは三百年も前から違法とされているからだ。


「この住処を見渡した時、極端にエルフの女と子供の姿を見なかった。もうすでに何人も連れ去られているんだろう」

「な、何でエルフを奴隷に――」

「エルフは見ての通り、亜人の中でも人間とほぼ姿かたちが同じなうえ、例外なく美形ばかりだ。さらには三百年近い寿命を持つ長寿で、青年期が長くいつまでも老いることがない。だから、女と子供を――」

「それ以上はやめてくれ!」


 シオンの淡々とした説明を、エルリオが遮った。シオンは詫びを入れるように目を伏せて、それきり黙る。


「黒騎士殿の言う通りだ。もうすでに、何人もの女子供がガリア軍に連れ去られている。ここも平時の住処ではなく、非常時に使う隠れ里だ。人間の町村ほどではないが、我々も森の中にそれなりの文明を築き、家屋を建てて暮らしていた。それを、奴らは全部奪っていったんだ……」


 そう言ったエルリオの瞳は、悔しさに滲んでいた。そこへシオンが、


「水を差すようで悪いが、この隠れ里が見つかるのも時間の問題だ。教会魔術師を含めて編制したガリア軍の一個小隊がいつまでたっても帰ってこないことに、いずれ本隊も疑問に思うはずだ。三日としないで次の兵隊たちがこの森に攻め入ってくるぞ。生き残りを連れて早くこの森を離れた方がいい」


 無慈悲な現実を突きつけた。

 エルリオは即座に反応して、表情をより険しいものにした。


「駄目だ……それはできない! もしかしたら、何かをきっかけに皆が戻ってくるかもしれない! そうなった時、誰が連れ去られた彼女たちを迎えるんだ!」


 それを聞いたステラが、恐る恐るといった面持ちで身を乗り出す。


「……もしかして、エルリオさんの身内が攫われたんですか?」


 エルリオは一瞬話すことを躊躇うように口の動きを止めたが、僅かな間を開けて、


「……妹が連れ去られた。一年前にな」


 そう答えた。

 途端、ステラが、何か意を決したかのようにシオンを見遣る。


「シオンさん!」


 突然の呼びかけに、シオンは眉を顰めた。


「エルリオさんの妹さん、助け出してあげられませんか!?」

「無理だ」

「そんな、即答しないでください……」

「事実だ。どこに連れ去られたかもわからないのに、どうやって助け出す。それに、助け出したあとはどうする? ログレスがこんな状態である以上、助けてもすぐにまた連れ去られるのがオチだ」

「そ、それは……」


 何も考えず、思わず感情のままに提案してしまったことを後悔するステラ――先ほどまでの威勢をなくして、ゆっくりとまた床に座り直す。

 しかし――


「ここから徒歩で半日ほどの場所に、ガリア公国のルベルトワという城塞都市がある。そこに亜人の収容所があるんだが、恐らく、ここから連れ去られたエルフは一度すべてその街に収容されたはずだ」


 エルリオがその答えを出した。


「ガリア公国では奴隷はすべて一度国営の収容所に入れられる。そこから奴隷商人を経て、ガリア国内の奴隷市場へと出回るのが一般的な出荷ルートだ」

「アンタの妹は一年前に連れ去られたって話だが、さすがにもう収容所にいないんじゃないのか?」

「収容所から出回ったエルフの奴隷は耳にタグが付けられ、どこから誰の手に回ったのか生涯管理されていく。その記録が手に入れば、もしかしたら……」


 そう言ったエルリオだが、望みは薄いと、その表情が物語っていた。

 一方で、ステラがまた嬉々として立ち上がる。


「ほら! シオンさん、これなら――」

「お前はお前でさっきから何をしたいんだ?」


 シオンがぴしゃりと言い放った。


「ここに来たのは匿ってもらうためと言っていたな? それがどうして、いつの間にか連れ去られたエルフを救い出す話になっている。しかも俺を巻き込んで」

「そ、それは……」


 もごもごとバツが悪そうにステラが話すが、シオンはさらに容赦なく問い詰める。


「それに、お前はさっきの問いにも答えていない。助け出したところでまたすぐに連れ去られるのは目に見えている。ログレス王国の現状をどうにかしない限り、今直面している問題は何も解決できない」

「……だ、だったら、私がちゃんと女王になってエルフの皆さんの特別自治区を再認可します!」

「どうやって女王になる?」


 その短い問いかけに、またしてもステラは返す言葉を見つけられないでいた。ぐぬぬ、と勝手に苦悶の表情になった。しかし、それでいて引き下がるつもりはない、といった様子だ。

 シオンはそんな彼女を見て、呆れたように嘆息する。


「このユリアラン大陸で名実共に一国の女王になるには、王都で戴冠式を受ければいい。国内で即位を表明した上で、教皇、あるいは聖女のどちらからか戴冠を承れば、大陸の他国はそれを認めざるを得ない」

「お、王都で教会の偉い人から戴冠、ですか……」


 つまり状況としては、完全に詰んでいると言わざるを得なかった。

 エルフを真にこの状況から救い出すにはステラが女王になり、ログレス王国の庇護下で独立自治区を認めるしかない。ステラが女王になるには、王都で戴冠式を受ける必要がある。一方で、ステラは王都が陥落させられたことでエルフに助けを求めている。

 堂々巡りの悪循環となっていた。

 ステラが意気消沈となって、再び床にへたり込む。

 打つ手なしか――そんな雰囲気が部屋に漂ったが、シオンが、一呼吸してからステラに向き直った。


「お前、本当に女王になるつもりあるか?」


 不意な問いかけだったが、ステラは勢いよく首を縦に振った。


「も、もちろんです! こんな状況、王族として絶対に見過ごせません!」

「……戴冠式を王都で何としてもやり抜くという意思があるなら、協力する」

「本当ですか!? でも、急にどうしてまた協力する気になってくれるんですか?」


 ステラの問いかけに、シオンはすぐには答えなかった。静かに目を瞑り、答えるべきかどうか思案しているようにも見えた。それから数拍おいて、徐に口を開く。


「戴冠式に引きずり出した教皇を殺す。それが叶うなら、お前を命がけで王都に連れて行く」

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