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第一章(2)

 悠の異動は新年度の部内方針説説明会で周知された。そうなれば、業務の引き継ぎが発生する。さらに技術部門と品質保証部門通称、品証では仕事をする場所も異なる。席替えどころではなく、引っ越しもしなければならない。

 大型連休もあるし、悠の異動が公になってから異動までの間、あっという間に過ぎてしまった。

「辞令は六月一日だけど、早く仕事に慣れてほしいから」

 そんな理由で五月下旬から品証のフロアにやってきた悠であるが、異動先のメンバーは顔見知りの人間であったため、さほど緊張感を持たずにすんだ。技術と品証は切っても切れない関係である。

 例えば市場品質問題など、そういった情報は品証から入ってくる。技術部門が原因を探って対策を出すが、客に頭を下げるのは品証である。

『客には俺たちがいくらでも頭を下げてくる。だから、技術は早くこの問題を解決してくれ』

 そう言った品証の人間を、今でも悠は尊敬している。だから悠は品証に頭が上がらない。

 その品証のうち、新設された地球環境チームの課長だけは、本社からやってくる人間とのことだった。

「わたしたちはさ、WEB会議とかでも顔を合わせたことがあるから」

 悠の隣の席は、亀田かめだ夏生なつきという女性。彼女には未就学児の子がいるため、時短勤務中である。明るくサバサバした女性ではあるが、悠の机の上にすでに膨大な数の資料を積み上げた。

「新しい課長は、本社の岡田おかだ壱夜いちやさんね。引っ越し休暇とかもあるから、ここに来るのは六月三日の月曜日かな」

「亀田さん……その、亀田さんが、オレの机の上に積み上げているのは……」

「資料だよ、資料。とりあえず岡田さんが来るまで、これに目を通しておいて」

 夏生が資料といって積み上げたのは分厚い本であり、表示にはJISとかIECとか書いてある。

「これって、規格書ですよね?」

 JISもIECも目にしたことはある。JISとは日本産業規格のことで、国際標準規格の一つ。そしてIECは国際電気標準規格のことで、国際的な標準化団体であり、それらが制定した規格でもある。

 つまり今、日本と世界の規格書を、夏生は悠に読めと言ったのだ。

「佐伯くん。初日から亀田さんに捕まったね」

 二人のやりとりを見て言葉を挟んできたのは、清野せいの恵介けいすけ。悠よりも三つ年上で年も近いため、わりと飲み会で顔を合わせている。

「亀田さんて、規格マニアみたいなところがあってね。まぁ、それで俺たちは助かってるわけだけど」

 恵介は一番上の規格書をペラペラとめくると、眉間にしわを寄せた。

「こういった規格の解釈は、亀田さんと佐伯くんにまかせた」

「まかされたって、清野さんは読んでない?」

「読んだけれど、理解しきれてない。必要に応じて参照する。その程度。それに俺は規格認証じゃなくて、環境系の担当だし」

 その程度でいいなら、悠もその程度がいい。

 地球環境チームは、夏生と恵介の他にも、四十代の係長が二人――猪俣いのまた寺村寺村、そこに課長の壱夜を含めた全六名のチームのようだ。

 他にも品質保証部の下には輸出管理チームと品質保証チームができ、これは事前に悠が説明を受けていた内容と一致する。この三つのチームをとりまとめるのが、部長の須田という男である。

 その須田が、早速、悠のところへとやってきた。

「今日の午後一、会議室に集まって。部内に佐伯くんのことを紹介するから」

「わかりました」

 悠が返事すると、須田は満足そうな笑顔で去っていく。

「今、寺村さんとイノさんは、会議中なんだよね」

 夏生が「二人にはあとで紹介する」と言うが、イノさんとは猪俣のことであろうと悠は推測する。

「佐伯くん、それからパソコンの設定をやっちゃおうか。品証は品証でグループ登録とかしなくちゃいけないところがあって。今の設定だと品証のサーバにアクセスできないから」

 夏生も恵介も世話好きのようだ。悠はそれに甘えることにして、午前中はパソコンの設定で終わった。

 午後になれば、新生品証のメンバーが会議室に集められた。

「六月一日付けで、設計から品証になる佐伯悠くん、佐伯くん、簡単でいいので自己紹介を」

 技術部門は、他部署からは設計とも呼ばれている。

 須田に促され、悠は自己紹介を始める。名前と元の職場で何をやっていたか。認証関係に関しては、さっぱりわからないということ。それでもあたたかく拍手で迎えてもらえたので、ほっと胸をなでおろした。

 それから、各チームのメンバーも簡単に自己紹介をしてくれた。といっても、悠から見たらなんとなく顔を見たことのある人たちばかり。

 輸出管理チームは四名、品質保証チームは七名、そして悠の所属する地球環境チームが六名、そこに部長の須田をくわえて全部で十八名の部署となる。

「佐伯くんの指導者は、イノさんと亀田さんね」

 須田はそう言葉を残して、会議室を去っていく。

 残されたのは三人。悠と夏生と猪俣。

「じゃ、あらためてよろしくね。佐伯くん。僕のことはイノさんと呼んでもらってかまわないから」

 悠は今までの業務で猪俣との接点はなかった。顔は知っている、そんな感じの付き合いである。

「あ、はい。よろしくお願いします」

 それでも気さくな感じがして、とっつきやすい。

「でも、佐伯くんも三年目だよね。岬の製品はわかってるよね」

「はい」

「じゃ、あれだね。認証チームがどんな仕事をするか、教えたほうがいいよね」

「なんとなくはわかるんですけれど。具体的な内容はさっぱりわかりません」

 そうだよね、と猪俣は笑う。

 会話が弾むのは、やはり夏生の存在が大きいのだろう。

「イノさんも、三児の父。しかも、男の子三人。奥さんが大変」

「ははは、なっちゃんの家も男の子だから、活発で大変でしょう」

 猪俣と夏生は、なっちゃん、イノさんと呼ぶ仲のようだ。悠の世代の女性であれば「セクハラ」と言われそうな呼び方でもある。

「どうしようかな。岡田さんが来るのが再来週からだけど。先に業務の内容を説明したほうがいいかな」

「佐伯くんに、規格書は渡しましたけど?」

 夏生はしれっとした顔をする。

「規格書はね、別に中身を覚える必要はないよ。どんな内容が書かれているかとか、必要なときに参照できるような使い方をすればいい」

「私は覚えてますけど?」

「なっちゃんは別でしょ? 完全に趣味だよね。だけど、彼女のような人がいるから、佐伯くんは規格書にどういった内容が書かれているのかを理解する程度でいい。他にもやってもらいたいことはたくさんあるから」

 規格書の内容を覚えなくていいのは助かったが、他にもやってもらいたいことがなんなのかが気になった。

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