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第一章(1)

 日本の東北地方の山形県米沢市は日本有数の豪雪地帯で、特別豪雪地帯の指定を受けている。この雪の多さを生かした雪灯籠祭りは、米沢城址の松が岬公園にて二月に開かれる。

 子どもの背丈ほど降り積もる雪は音をかき消し、暗闇に雪灯籠がぼんやりと橙色に浮かび上がる景色は幻想的だ。

 特別豪雪地帯であっても住めば都。

 城下町の雰囲気を残した町並み、市の南部に広がる吾妻連峰は国立公園に指定されるほど豊かな自然が残る。観光業も盛んで、食べ物も美味しい。

 また、東京から新幹線で二時間、地方最大都市までも車で一時間という立地条件を生かし、近年では工業団地や学術機関の発展も著しい。

 そんな工業団地の一画にある岬電機工業株式会社米沢工場。主にプリンターの開発設計、製造を事業としている会社である。地元の工業高校や大学を卒業した者たちの就職先としても人気の高い企業である。ペーパーレス化の進んでいるこのご時世ではあるが、まだまだプリンターにも需要はあるようだ。

 技術者が集まる技術本部は、大きく三つの部門からなる。プリンターの筐体を設計する機構設計部。プリンターの制御部分を設計するソフトウェア設計部、そして機構とソフトをつなぐ橋渡し的な存在の回路設計部。

 どの企業の技術開発職も、大きくはこの三つに分類されるだろう。

 そして入社三年目の佐伯さえきゆうは技術本部回路設計部第一設計課に所属している。地元大学の工学部を卒業したあと、この会社に入社した。

 やっとプリンターの回路設計に慣れた三年目であるのに、なぜか本部長に呼び出された。悠が面談する相手は、せいぜい課長くらいだと思っていた。

 そもそも悠は特別目立つような容姿もしていないし、特別目立った成績もあげていない。黒い髪は染めたこともないし、それを清潔に短くしている。視力は悪いのでコンタクトを使用しているが、家に帰ってごろごろするときは眼鏡である。身長は平均よりもやや高めなくらいで、特別太っている体型でもない。

 いたって普通であり目立っていたわけでもないのに、なぜ本部長から呼び出されたのか。心当たりはまったくない。

「佐伯くん。仕事にはだいぶ慣れたよね?」

「はい……」

「そろそろ、部署異動したいな~なんて、思わない?」

「……え?」

 悠は目の前にいる本部長の薄くなった頭を見た。

「いやいや、佐伯くんが技術部門に不要だって言ってるわけじゃなくてね。むしろ、佐伯くんが適任なんじゃないかなって」

「え?」

 本部長は言いにくいのか、頬をぽりぽりとかく。

「まあ、人事に関することだし、会社の戦略にも関係することだから、他の人にはまだ言ってほしくないんだけど。六月から、品質保証部の中に地球環境チームっていうのを作るんだよ」

「たいそうな名前ですね」

「そうそう。僕たちの世代なら、地球防衛軍って呼びたくなるんだけど。まぁ、地球にやさしい製品を作ってますか? っていうのを確認するチームだと思ってもらえばいい」

 説明としてはわかりやすいが、そのチームがどのような仕事をするのかはさっぱりわからない。

「それで、その地球防衛軍ではなかった地球環境チームとは、具体的にどのような仕事をするのでしょうか?」

 学生時代の専門も電子工学であった。そして入社してから二年間、回路設計部門として回路と格闘する日々。

 そんな自分が、いきなり地球環境チームと言われても、やっていけるかどうか不安なところも大きい。それに仕事の内容もわからない。

「認証関係を一手に担うと思ってくれればいい。主に安全認証、環境認証のこの二つ。まあ、これらを細分化するといっぱいあるんだけれどね」

 本部長は額をきらりと光らせ、ははっと笑った。

 悠としては細分化された内容が気になるところだが、安全認証、環境認証で大まかなイメージはついた。現在の業務とも、少なからず関係しているからだ。そして今は、そういった認証業務は、品質保証部が対応している。

 本部長の話によると、品質保証部の業務をそれぞれ専門的に各チームに分けるらしい。

 輸入・輸出に関する案件は貿易チーム、認証に関する案件は地球環境チーム、そして品質問題やクレームなどに対応する品質保証チーム。

 法令遵守コンプライアンスが騒がれる今に対応できるように、というのが偉い人の考えのようだ。

「品質保証部に、それぞれ本社から専門家エキスパートを呼んでね。監査などにも難なく対応できるようにしたいらしいんだよ」

 安全や環境の認証には認証の、輸出入の貿易には貿易の、それぞれの監査が定期的に入る。この監査で問題が起これば、最悪は認証取り消しだったり追徴課税されたりするわけだ。場合によっては外部に公表されることもあって、そうなれば会社の信頼度はがた落ちとなる。

「それでな、やはり認証チームには装置を詳しく知っている人物も必要という話になって。技術部門から人が欲しいと。特にほら、本社の人間はここの装置については詳しくないでしょ?」

 先ほどから本社本社と行っているのは、東京にある岬電機工業株式会社本社のこと。岬電機工業では、プリンター以外の事業も手がけており、そういった事業は東京の本社に集約されている。

 プリンター事業が米沢市にあるのは、製造部門の側に技術者を置くことで、迅速な対応を目指すという目的があるため。特に土地の安い地方に、工場が誘致されることが多い。地方部も工場が建つことで雇用の面で期待ができる。そうなれば人口も増え――と

 さらに会社とは、くっついて離れての合併などを繰り返して成長する。岬電機工業が別会社のプリンター事業を買い取ったのは、今から数十年前のこと。元は、昔から米沢市を拠点としてプリンターを作っていた会社である。雇用はそのままという狙いもあって、プリンター事業は岬電機工業の米沢工場がすべてを担うようになる。

 そんな岬電機工業のプリンターであるが、全世界をまたにかけている。近場でいえば、中国、台湾、韓国。日本の裏のブラジルのある南米、もちろん北米も。欧州にも販売し、アフリカ大陸や中南東にも需要はあって、オセアニア大陸からも受注はある。もしかしたら、南極大陸の基地にも現品があるかもしれない。

 人口十万人にも満たない米沢市から、全世界へプリンターを送っているのだ。

 となれば大変なのが、各国の法令を遵守すること。今も本社の力を借りてなんとか対応しているが、その法令は年々厳しく、複雑になっている。

 そのため、米沢工場の品質保証部を一新して、ここだけで全世界に向けて迅速な対応ができるようにするのが狙いであった。

「そういうわけで、若くて柔軟性に富んだ佐伯くんに白羽の矢が立ったわけだ」

 できることなら、その矢をぽっきりと折ってやりたい。

「ちなみに、オレがそれを断ったら……」

「業務命令だからね。正当な理由がないかぎり、断ることはできないよ。それに、転勤が伴うわけでもないしね。ただ、著しく能力にかけるとか、体力的に耐えられないとか、そういった判断がされれば別だけど。まぁ、佐伯くんにかぎってそんなことはないだろうしね」

 本部長の額にLED蛍光灯が反射して神々しい。

「畑違いの部署で働くのは不安かもしれないけど、認証業務は開発業務にも直結している。ここで得た経験は、設計に戻ったときに必ず役に立つ」

 本部長の言い分はよくわかるし、そうやって認めてもらい、将来に期待を寄せてもらえるのも喜ばしいことである。

 だっけど、やっぱりこれだけは言っておきたいのだ。

「少しだけ、考えさえてください」

 断れないとわかっているのに、それでも考える時間だけは欲しい。

「では、一週間後にもう一度面談をしよう。部署が異動になるからね。給与体系も変更になる。そちらの詳しい数値も欲しいよね?」

「そうですね。今より増えるのであれば文句はありませんが。減るんだったら少し……」

 どころではない。かなり、嫌だ。

 本部長との面談を終え、それとなく実験室に戻っても、悠が席を外していた事実に誰も気にとめない。実験室内はわりと自由だから、居室にいるよりは目立たなくてすむ。

 とにかく、異動の話は他のメンバーには伝えてはならない話。

 今は三月。四月に新入社員が入社し、組織的にも大きな改変がある。それなのに品質保証部への異動は六月。やっぱり上の考えていることはわからない。

「佐伯くん」

 実験報告書を作っていた悠は、パソコンの画面から顔をあげた。

「はい?」

 同じ回路設計部の三年上の先輩社員である。

「三時半から、評価項目のレビューをやりたいんだけど。空いてる?」

「はい。スケジューラーで予定の入っていない時間帯は空いてます」

 そう答えてみたものの、今の本部長との面談はスケジューラーには記載しなかった。

 共有のスケジューラーは岬電機工業で働く全社員に共有される。米沢工場だけでなく、本社の人間も海外拠点の人間も同じシステムを使っていれば。

 とはいえ、悠のような下っ端の人間が本部長との面談、もしくはこんな中途半端な時期に面談とスケジュールに入れてしまえば、勘のいい人間がいろいろと探り始めるのだ。

 そうなれば、今、伝えた言葉は嘘になる。

 情報の共有化とは便利なようで不便な代物である。

 結局、悠は異動を受け入れた。断れない状況でもあるが、心配していた給与面に影響が出ないことがわかったためだ。

 給与は上がって下がって、最終額面的には上がった。岬電気工業では職種級と能力給の二つのテーブルを利用しているからだ。

 職務給とは業務の内容、つまり職種と職務によって給与が決まり、職種グレード給とも呼ばれている。能力給は社員の評価によって決まる給与テーブルのことで、この二つを掛け合わせて最終的な給与が決まる。

 そして技術という職種は、他の職種に比べて職種給が高い。技術から他部署への異動となれば、自然と職種給が下がる。

 その代わり、能力給が今までよりも上がった。技術で培った能力は、異動先では高評価されたということになる。

 給与面で満足はいったものの、仕事をする前から高い評価を得られると、プレッシャーにもなる。

 だけどこれは悠をやる気にさせるため、つまり馬の目の前にぶら下げられた人参のようだと思うことにした。


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