私とカナデは引っ付くことで『止まった世界の中で魔力を強化しながら一方的に攻撃ができる』という合体技を放てるようになったため、最近の自主訓練ではその練習を行っていた。
それはつまりカナデに後ろから抱きつかれるわけで、その行為自体はいやじゃない。これでも魔法少女になる前は実家でお姉ちゃんをしていたし、妹がよく引っ付いてきたから、そういうのには慣れている…さすがに男性が引っ付いてきたら暴れるだろうけど。
だけど私が悩んでいる理由、それは…『カナデが匂いを嗅いでくること』だった。
この練習中のカナデは後ろから私に抱きついてきて、ちょうど後頭部のあたりに顔を埋めることもあるのだけど…その際はすんすんという音が聞こえる程度の勢いで私の匂いを嗅いでいて、それに対しては人並みには女をしている私にも若干の抵抗感がある。
多分だけど、カナデにとっての私は『臭い』のだろう…いや、これまでそんなふうに言われたことはなかったから、臭いというよりかは『カナデにとっては不快な匂い』なのだろう。人間の味覚は様々な好みがあるように、嗅覚だって苦手な匂いがあったとしても不思議じゃない。
私とカナデはそこそこ仲良くなれたと思うけど、そういう相性は悪かったとしても不思議ではなくて、それならこれからもこういう必殺技を使うと考えた場合、匂いケアもやっておく価値があるだろうと思う。
ちなみにカナデは私に対して直接「臭い」と指摘したことはなくて、彼女は一見するとこういう物言いもストレートに見えるけど、実際は他人を傷つけることを好まない優しい人なのだ。だけどきれい好きでそういう匂いにも敏感だから、私と引っ付くとどうしても気になってしまう…そんなところだろうと判断した。
だから私はこの前の休日、外出中に制汗スプレーを購入した。これは学園内では調達が難しいため、出かけた際にドラッグストアで入手したものだった。ハンドソープのようないい匂いがする上、しかも汗の匂いも抑えてくれるらしいから、さすがにこれを使えばカナデも苦痛ではないだろう…そう信じていた。
…でも、事態は私の思っていた方向とは異なる場所へと向かい、その結果としてカナデは──。
*
「よし、今日も合体技の練習をしよう。カナデ、お願い」
「仕方ないわねっ!」
いつも通りの訓練場にて、私たちは武器とケープを装備して準備を済ませていた。そして軽く体と魔力の調子を確認して適度に温まった頃、必殺技の練習をすべくカナデに確認する。するとカナデはいつもの調子で応じてくれて、いそいそと私の後ろに回った。
…なんだかちょっと食い気味な気がしたけれど、きっと彼女もやる気を出してくれているんだろう。
「それじゃあいくわよ、ブース…ト…?」
「時間よ止まれ」
カナデは後ろから腕を回し、私のお腹のあたりを抱きしめる。その力加減はほどよく、苦しくもなければすぐに離れてしまうほど弱々しくもない。そしてかけ声と同時に私の体へと魔力が伝わってきて、彼女は首のあたりに顔を埋めてきて。
私がすかさず時間を止めるとカナデはいつもの調子ですんすんと鼻を鳴らし、なぜか少し調子が狂ったかのような声音になった。多分、私の匂いが異なることに気づいてくれたのだろう。
すんすん、すんすん、すんす…。
(よし、途中で嗅ぐのをやめてくれたっぽい。さすがに石けんの匂いがするなら悪い気分にはならないよね?)
そう、私は先日購入しておいた制汗スプレーを上半身中心にしっかりとかけておいて、全身から石けんの香りが漂う女子力の高い乙女──実は女子力の定義については詳しくない──へと生まれ変わっていたのだ。
制汗スプレーというヴェールで覆われた私の体は本来の体臭が完全に上書きされていて、おそらくは誰でもいい匂いだと感じられる石けんの香りしかしないはず。私もこのスプレーの香りについてはそこそこ気に入っていて、きっときれい好きなカナデも文句はないだろう。
カナデから鼻を鳴らす音が聞こえなくなった私は様々な攻撃を試し、その動きに伴って発汗も促される。だけど自分から香ってくる制汗スプレーの匂いは決して消えなくて、汗臭いと言われることもないはず。
ここまで気を使わないといけないくらい私の匂いが嫌いという事実については、まあちょっと思うところはあるけど。カナデとは上手くやっていきたいし、それなら私にも譲歩は必要なのだろう。
そんなことに一人納得しつつ魔法を解除していったん体を離し、カナデの様子を確認すると…。
どうしてだか、彼女は不服そうにこちらを見ていた。
えっ、なんで。
「…カナデ? あの、もしかして調子悪い?」
「…別に。ただ、今日のあんた…いつもと違う香りがして、少し気になっただけよ」
「あ、そうなんだ…えっと、今日は石けんの匂いがするスプレーを使ってて。ほら、これならそんなに癖がないし、とてもいい匂いでしょう?」
「……そう」
ようやく体臭を抑えられたはずの私を見るカナデの目は、なぜか…とても冷ややかだった。
これまでの練習だと私から離れた直後は少し上気した顔をしていて、こちらの匂いに不満を持っていたとしても、血色自体は悪くなかった。不快な匂いで怒っていただけかもしれないけど。
なのに今は見るからに不機嫌で、私からいい匂いがするはずなのにそれを喜んでいる様子は微塵もなかった。別に喜ばせるためにそうしたわけじゃないし、詳しい事情も──こんな内容をいちいち相談できない──話していないとはいえ、理不尽すぎる…。
「…ええと、そうだ、まだ時間も余力もあるし…もう一回練習する?」
「…別にいいけど」
いいって感じじゃなさそうなんだけどなぁ…なんて思いつつ、私は彼女から目を逸らすように背中を向ける。真面目なカナデは練習自体には付き合ってくれるみたいだけど、その理不尽な怒りの内訳については教えてくれる気がないのか、無愛想な返事をしてまた私に抱きつく。気のせいなしか、回された腕に力がこもっていて、遠回しな抗議をされているような…。
(…いやいや、怒られる筋合いなくない? だって今の私、石けん女子だよ? 購入する前に試供品で匂いも確かめたけど、きついとか臭いとか全然思わなかったし…)
カナデに抱きつかれてスタンバイしつつ、私は彼女の静かなる異議申し立ての内容を予測する。
…いや、わかるはずがない。『石けんの匂いがする女の子』が悪臭を放つはずがなくて、匂いに敏感なカナデが怒る理由が見当たらない。
ここまで理不尽だと苛立ちの一つくらいは浮かびそうだけど、私はどうもこの扱いづらい気難しい子を嫌いになれなくて、それなら次に私はどうすべきかを真剣に考えそうになっていた。なんだかんだで普段のカナデは私の世話をしてくれる優しい子だから、これまでの積み重ねって大事なんだなぁと現実逃避しそうになる。
「えっと…時間よ止まれ」
「…ブースト…」
そして私は答えを先送りにして、とりあえず練習を再開する。カナデの気持ちはわからなくともこの合体技が強力無比なのには違いなく、たとえ胸の中にしこりが残っていても努力する価値は十分にあった。
(…あれ…カナデ、また…めっちゃ匂いを嗅いでる…)
本来の私はそういう他人の機微にそこまで気を使うタイプじゃないはずで、実務に差し障らないならいちいち深く考えない…なんて思って割り切ろうと努力していたら。
どういうわけかカナデは再び私の首のあたりに鼻を引っ付けて、ものすごい勢いで匂いを嗅いできた。
すんすん、すんすん、すんすんすんすんすん。
その鼻を鳴らすペースについてはこれまでとは比較にならず、正直に言うと…なにを考えているかわからず不気味で、これでカナデでなければランチャーメイスを振り上げるふりをして、そのまま後ろを攻撃しているところだった。
だけども私のために力を貸してくれるこの子へそんなことができるわけもなく、私は何食わぬ顔で練習を続けつつ、新たな不安に駆られていた。
(…やっぱり私、スプレーでも抑えられないくらい臭いのだろうか…)
カナデは匂いにうるさい。そんな子がこれまでになく必死に嗅いでくる…その理由。
私に思い当たるのはやっぱり『ヒナはカナデにとってどうしようもなく臭い。スプレーを使ってもダメ』というものしかなくて、若干しょんぼりとした気持ちを堪えつつ、せめてこの練習だけは上手くこなそうと自分を奮い立たせた。
*
「あの、カナデ…正直に言って。私、そんなに臭いの?」
練習終了後、私は…ストレートに聞いてみることにした。
もちろん女としてその質問は普通につらく、仮に「臭すぎる」なんて言われてしまった場合、リイナに『体臭が完全に消える装備』について相談するくらいにはショックを受けると思う。
だからといって変なところで気を使うカナデは私から聞かない限りは答えられないと踏んで、なけなしの勇気と女子力を振り絞って聞いてみたのだ。
…戦闘や学園のことでもないのに、なんで私はここまで思い悩んでいるのだろうか。
「は? ヒナが臭いわけないでしょ!!」
死刑宣告を待つ囚人のような気分を味わいつつカナデをうつろな目で見つめていたら、案の定…あれ?
え、カナデ…めちゃくちゃ怒ってる? でもその怒りは私の臭さではなくて、私の質問内容に向いている…?
いや、本当にどういうことなんだ。
「あの…カナデさん? 私の匂い、嫌いじゃないんですか? だって、その…抱きついてきたとき、いつも嗅いでいたじゃないですか」
「あっ、あれは、そのっ…わ、私、ヒナの匂い…す、すっ…悪くないなと思ってたわ! というかその敬語なによ!? 調子狂うからやめなさい!」
「あっはい」
なるほど、カナデは私の匂いが嫌いじゃなくて、だから抱きついたときにすんすんしていた…。
あれ? それって『私のこれまでの匂いが好きで嗅いでいた』ってことでは?
その普段であれば指摘されることで自害を図ろうとするような真実にもカナデは気づいていないのか、それとも伝えたいことに夢中で気にしている暇がないのか、私に詰め寄ってきてこれまでにないほど真剣に語ってくれた。
…その語る内容が『私の匂いについて』というのは、どうなんだろう。
「いい? ヒナの匂いはね、間違いなく人を不快にするものじゃないわ。たとえ汗をかいたとしても、そのほうがいい…じゃなくて! とにかく臭くなるなんてあり得ないの! 少なくとも私は! あんたの匂い! 嫌いとか思ったことない!」
「あっそうですか」
「それなのに、なによ! まるで女の子みたいなことを気にして! 私にも気を使って! あんな匂いで上書きすることないじゃない! 嗅ぎ慣れている匂いがなくなったら、あんただって寂しいでしょうが!」
「いや、私はそこまで匂いにはこだわらないよ…というか、私も女なんだけど…」
なんだかとんでもないことをのたまった気がするけれど、カナデの必死の説明を聞いていると、さすがにわかることもある。
少なくとも私は自分の匂いでカナデを不愉快にしていたわけではなくて、汗をかいたとしても気にしなくていいらしい。それは今後も練習を続けていく上で、有益な情報…と言えなくもなかった。
…というか私、カナデに女扱いされていなかったのか…そっちにショックを受けそうだよ…。
「だから私、嗅覚をブーストしてやったのよ! 私の能力はね、人間の感覚も強化することができて…おかげであのスプレーで隠されていたあんたの本当の匂いだってわかったわ! そして! そっちのほうが! 私は好きだった!」
「」
カナデのブーストは汎用性に優れていて、だからこそ私の固有魔法との相性もよかった。これまでも「使い道が多そうな魔法だな」と頼りにしていたけど。
…そんな使い方をしていたのには! さすがに引くよ!
人間は言葉を失うと心の中が代わりに叫んでくれるようで、私は唖然としながらカナデの熱が収まるのを待つことしかできなかった。
「だからもう、そんなことを気にしないで! 私が誤解させたっていうのなら…今回は素直に謝ってあげてもいいわよ! ごめんなさい! でも…あんなスプレーもう使わなくていいわよ! そのほうが、私はっ……あ゛っ」
「あっ、やっと落ち着いてくれましたか…カナデ?」
あのスプレーを使わなくてよくなったのなら、残った分はどうしようかな…なんて思っていたとき。
カナデはようやく自分が勢い任せでなにを言ってしまったのかに気づいたようで、ほんのりと赤らんでいた顔は急速に血の気が引いたように青くなり、私はまた敬語になって声をかけたら。
「……さようなら、ヒナ。あんたとの暮らし、悪くなかったわよ」
「こうなると思ってたよ! いいから落ち着いて!」
「離して! これから同居人に『こいつは匂いにうるさい変態』って思われながら生きていく苦しみ、あんたにわかるの!?」
「わからないよ! というかそんなこと思わないから! むしろ私は『カナデは私の匂いが嫌いじゃなくて好きなんだな』って思ったらちょっぴり安心してるから!」
「コロシテ…コロシテ…!」
カナデはナイフを抜いて首筋に当て、私に儚い笑顔で最後の挨拶をしたら…自害しようとした…。
もちろん私はそれを認められるわけもなく、必死に『カナデを気持ち悪いとは思わない』という気持ちを伝えたのだけど…光を失った目で死を望むだけで、ナイフは今にも首を切り飛ばしそうだった。
結局この日はお互い魔力と体力が切れるまで無意味な押し問答を繰り返し、精根尽き果てたところでやっと自室に戻れた。カナデは負け惜しみのように「あんたの匂いが心地いいのにも問題があるのよ…」なんて言ってきて、私は最後まで理不尽さに頭を抱えることしかできなかった…。