体の一部が引っ付いた相手であれば、時間を停止してもその対象外になる。
先日の戦いではヒナの魔力を『ブースト』するために後ろから抱きついたけれど、その際は私も時間が止まった世界の中で動くことができて、それは新しい戦い方につながる経験でもあった。
ヒナはなんだかんだで真面目だから、仕事のためであれば大抵のことは普通に受け入れる。だからあれ以降は「カナデ、また合体技の練習をしておこう」と誘われることもしばしばあって、私としても訓練を断る理由はなかった。
…だけど。その訓練に付き合うということは、どうしても密着しないといけないわけで。
別に私は引っ付きたいわけじゃない。もちろんいやというわけじゃないけれど、これまで弟や妹以外とは引っ付いたことがろくになかった私は、ヒナと引っ付くことに対しては若干の抵抗感があって。
しかもその理由が『人には絶対言えないこと』であれば、ただ一人で抱えるしかなかった。しつこいようだけど、ヒナと引っ付くのがいやというわけじゃない。
むしろ。いやじゃないからこそ、私は…困っていた。
*
「よし、今のをもう一度やってみよう。カナデ、お願い」
「…し、仕方ないわね」
魔法少女向けの屋内訓練場、そこに私たちはいた。ここでは魔力を使って戦ったとしても相手や施設に被害が出ることはなく、それこそ大技の披露もできる。だから練習のために訪れる場所としては適当で、そこに文句はない。
そして幸いなことに、今は野次馬になり得るギャラリーもいない。一応監視カメラはあるだろうけど、よほどのこと──以前、魔法少女同士で『いかがわしいこと』をしようとしたケースがあったらしい。真実は不明だ──をしない限りはまず怒られなかった。
だから本来なら私に躊躇する理由なんてなくて、今だってきちんとヒナに応じるつもりなんだけど。
(…ヒナの背中。髪が長くて、きれい)
彼女に抱きつくため、その背中を見つめる。ストレートのロングヘアはいつもさらりと伸びていて、チャコールブラウンの落ち着いた輝きがきれいだった。
そして、きれいなだけじゃない。後ろから抱きつく都合上、私の鼻先にはいつも彼女の後頭部があって、それは髪の匂いがどうしても鼻孔に侵入してくるわけで。
(…いい匂い。同じシャンプーを使っているのに、どうしてこんなに)
いい匂いなのだろう、そんな考えばかりに支配される。
そう、私は…この訓練を開始してから、ヒナの匂いがどうしても気になっていた。それは不快だからというものではなく、むしろ臭いのであれば正直に文句の一つでも言っていただろう。私はそういう性悪女なのだ。
でも、匂いに関しては…ヒナには文句の付け所がなかった。同じシャンプーを使っているだけなのに、明らかに私とは違う…甘くて、だけどきつくなくて、どこまでも優しい…落ち着く匂い。
落ち着く一方で心臓はゆっくりと加速して、それに伴って呼吸も若干速くなってしまう。するとすんすんと勝手に鼻が鳴ってしまい、もしかしなくてもヒナは自分の匂いが嗅がれていることに気づいているかもしれない。
それでもこれまではとくに指摘されたことはなくて、ヒナはあくまでも真面目に訓練をしていた。だからこそ…申し訳なくなるわね…。
「カナデ? そろそろブーストをして欲しいんだけど…今日はもう疲れた?」
「っ!…だ、大丈夫よ! いくわよ…!」
ヒナの匂いは、私の思考をたやすく侵食する。この香りを嗅いでいると私は心臓だけでなく脳内まで制圧されて、なにも言われなかったら呼吸を繰り返すだけの植物に近い生き物になってしまっていた。
今だってヒナが声をかけてくれないとじっと抱きついたままになっていて、私は慌てて彼女の魔力をブーストする。すると世界は静止して、ヒナはそんな中で様々な攻撃を試みていた。
大出力のビームを撃つだけでなく、打撃モードに持ち替えての格闘戦も試していて、どうしても彼女の体温も上がっていく。すると発汗も促されるわけだけど、これもまた私にとっては危険な要素だった。
(……どうして……ヒナが汗をかくと、私は……もっと、嗅ぎたいって思うの……?)
自分の魔力だって消費しているのに、私は疲労感を忘れて汗ばんでいくヒナの皮膚の匂いを嗅ぎ取ろうとする。
汗の匂い、それは一般的には『臭い』と表現できるものだろう。私だって汗をかけば臭くなるし、それをヒナに嗅がれたらしばらくは寝込むほどのショックを受けるかもしれない。私も人並みには女をしているらしい。
そしてヒナだって人間なのだから、汗をかけば臭くなるだろう…それは魔法少女であっても当然の摂理なのに、どういうわけか、ヒナは…汗をかいても、いいや、汗をかくと…いい匂いが、濃くなった。
シャンプーや石けんに汗が混ざり、ヒナの『本来の体臭』が香ってくると思ったら、私の鼻はご飯を用意された犬のようにひくひくひくと動き回る。嗅覚がヒナを感じるとやっぱりただ単にシャンプーの匂いだけのときとは異なっていて、熱がこもったような質感が香りに混ざり、それはやっぱり『濃い』としか表現できないわけだけど。
(……嘘でしょ……汗の匂いが心地いいだなんて……わ、私、変態……なの?)
汗はその人の分泌物であって、シャンプーや石けんと違い作り物ではない。それはつまり…つまり。
私はヒナそのものの匂いを好ましいと感じていて、それを嗅ぎたいと思っている?
そしてその行動心理は一般的に変態と呼ばれるそれで、私は変態…なのだろうか?
「……ち、違う! 私は、そういうんじゃない!」
「おわっ!? きゅ、急にどうしたのカナデ?」
自分の変態的な一面を認めそうになったとき、思わず私は声を上げてしまった。そしてまだ攻撃の最中であったヒナはびっくりして体勢を崩しかけ、慌ててメイスを握り直す。武器を取り落としてしまわなかったのは、多分私に怪我をさせないように踏ん張ってくれたのだろう…この子はそういう子なのだ。
私はこれ以上引っ付いているとおかしくなると判断して、慌てて身を離す。するとヒナは動き回ったあとなのか火照った顔をしていて、額にもわずかに汗が浮かんでいる。
(…汗ばんだヒナ、なんか…色っぽいわね…)
まだ彼女の匂いによっておかしくなっていた私は、ついそんなことを考えてしまって。その整いすぎた顔をまじまじと見てしまう。
…考えてみると、ヒナの悪いところって…あるのかしら。
優しいし、強いし、美人だし、いい匂いがするし…それにこいつって女子からの評判もいいから、私以外からもこんなふうに思われているのかもしれない。
そこに気づいたらむかっ腹が立ってきて、ようやくおかしくなりつつあった自分をねじ伏せられた気がした。
「…なんでもないわよ! そ、それより、今日はもう疲れたから…先に部屋に戻っているわ! お風呂を沸かしておくから、アンタも早めに戻りなさいよ!」
「う、うん、わかった…?」
これ以上ヒナの近くにいると、またその匂いと容姿におかしくされてしまうかもしれない。
そう思った私は撤退を決意して、意味不明な怒りに身を任せて部屋へと戻る。
…ヒナがお風呂に入るとき、脱いだ服の匂いを確かめてみようかしら…。
(……いやいや! 私、なにを考えていたのよ!? この変態!!)
あの合体技は有効だけど、私から人間として大切なものを奪っていくのかもしれない。
そこに気づいた直後、私は「これからは使うことがありませんように…」なんて儚く願っていた。
*
(…もしかして私、臭いのかな…)
カナデが訓練場から姿を消した直後、私は先ほどの様子を思い出して小さくため息をつく。
(カナデ、引っ付いているときはいつも匂いを嗅いでくる…きれい好きっぽいから、臭いのが我慢できないとか?)
カナデとの合体技は私たちの切り札になり得るもので、もっと上手く使いこなせれば間違いなく有益だろう。カナデはなんだかんだで真面目な子だから、訓練自体にはいつも付き合ってくれる。
けれど、何度も繰り返すうちに…私は、いつも匂いを嗅がれていることに気づいていた。
(おかしいなぁ…ちゃんとお風呂には入っているし、これまでは周囲に臭いって言われたこともないし…)
私はきれい好きかどうかはわからないしても、少なくとも汚くて平気ということはなかった。それに家にいた頃はよく妹が引っ付いてきたけれど、臭いと言われるどころか「姉さんってすごくいい匂いがする…」なんて褒められていたのに。
だからといってカナデはなにも言ってくれないし、彼女が私の匂いを好んでいるとも思えない。実際、練習後に離れているとすごく微妙な…なにかに悩んでいるような顔をしているし。
となると、やっぱり。
(…匂いって好き嫌いが分かれるだろうし、私の場合は『カナデにとっては不快な匂い』なのかもしれないな…ちょっと悲しいけど、それなら仕方ないか)
どんな人にも好きな匂いとそうでない匂いがあるように、私たちの場合は偶然そういう相性が悪かったのだろう…私はカナデの匂い、嫌いじゃないけど。
ともかく、それならやるべきことは決まった。これまではとくにこだわっていたわけじゃないけど、匂いケアとやらを初めてみるのもいいだろう。
カナデとは長い付き合いになるかもしれないから、それなら彼女が不快に感じる要素を減らすのも相棒の仕事のうち…だよね?
「…とりあえず、次の休みは制汗スプレーを買いにいくかな」
そういう匂いケアができるアイテムは学園内だと調達できるかどうかわからないため、私は次の休みの予定を決めておく。やるべきことが決まったら気分は楽になって、とりあえず今日は「カナデに嫌がられないよう、お風呂では念入りに洗ってみるか」と割り切れた。
…そして私のこの判断が予想外の結果を招くのだけど、それはまた別の話。