「俺が暴れてる間に全力で、走って逃げてくれ」
小声でリノンに言った。
セゲアたちはトカゲだから当然日本語を理解しない。
だから俺が話しかけても内容は伝わらない。
「無理だよ。それに、二人を置いてけないよ」
俺の両腕の中でリノンのか細い声が聞こえる。
飯島は、トカゲに咥えられた腹に歯が食い込んで血をダラダラ流しつつもまだ活きていた。
濱口はトカゲに引きずられ、ぐったりとしている。
浅く呼吸は続いているが、首が変な曲がり方をしていてたぶんもうじき死ぬ。
この樹海の中で、人間はあまりにも非力で弱い生き物だった。
「二人は諦めろ。きみだけでも逃げるんだ……」
「だってそんな……」
セゲアが勢いをつけて尻尾の先端を振り下ろしてきた。
「キョロキョロコソコソしやがって。逃げられねえよ。逃げられるわけねえだろ、無駄だ無駄ァ!」
生まれてからまだ一度も自切していない、見事な尻尾だった。
リノンを後ろに庇い、前に出て身体を広げ、全身で尻尾を受けた。
彼女に当たったらひとたまりもない。
「ウホッ、硬ぇ」
セゲアは余裕といった口ぶりだが、俺の皮膚が想定より硬かったのだろう、微妙に口元が歪んだ。
「その人間を置いていけば助けてやる——ってのは今回はナシだ。人間はここで全部食う。アキヲ、お前はいたぶってから殺す。片眼潰されて生かしておいたんじゃ示しがつかねえからよ。俺に傷をつけた奴はただでは済まねえってのを見せてやるよ……」
「きぃええええええええええ!!」
俺は奇声を上げた。
なるべく俺に注目を集め、リノンが逃げやすいようにするためだ。
「やる気かよ、アキヲ……」
「やってやんよォ——!」
俺は覚悟を決めた。
セゲアたちと戦い、その隙にリノンを逃がすのだ。
武器は四肢の爪、そして固く鋭い鱗。
脱皮はまだまだ真っ最中だが、攻撃を受ける箇所に金剛身の力を集中させれば、ダメージは相当軽減できるはずだ。
リノンが逃げ切れるまで戦い続け、時間を稼ぐ——。
「後方に向かって走れ」
「だって、あたしだけ逃げるなんて、そんなことできないよ」
「他の二人はもう死んでる。君だけでも逃げるんだ」
「でも、マミイは?」
「どうせ俺も死ぬ。あの片眼のトカゲは俺を絶対殺すマンなんだ」
「マジで言ってんの」
「こうなる運命だった。きみが逃げ切れたら、ムラサキを保護してやってほしい」
「マミイ……」
「助けに行ってやってくれ。たぶん新種の猛禽だから調査隊にとっても価値があるだろう」
「一人で逃げるなんて無理……」
「逃げないなら、俺がきみを食う」
「はぁ?」
「セゲアに食われるくらいなら、俺が食う、いま、ここで」
「最悪」
「俺はレッドドラゴンだ。そうだろ?」
「そうだよね、マミイはそういう生き物だったよね。一瞬忘れてた」
「食われたくなきゃ、行け」
「あたしが殺すまで、死なないで」
「簡単に死ぬかよ」
俺は後ろ手にリノンを押し出し、
「走れ!」
叫ぶと同時にセゲアに突進した。
セゲアは脚を踏ん張り、構えた。
「きぃえええええええええええ!!」
俺の渾身の咆哮は、やっぱり朝を告げるニワトリみたいだった。
◇
リノンは、カフェのテラス席に腰掛け、なにやら注文の複雑そうな限定フラペチーノを細長いスプーンの先で掬う。
口に運んで、冷たさにほんの少し眉を寄せ、「うまっ」と言ってすぐに笑顔になった。
リノンは調査隊のときとは別人のように可憐で、美しかった。
「落ち着かないの? マミイ?」
リノンはマミイと呼んだ。
俺はただのアイスコーヒーを、臭い紙製のストローでちまちま啜っている。
なぜか迷彩服を着ていて、周りからどう見られるだろうと気にしてばかりいた。
「俺たち、ちゃんと親子に見えてるかな? パパ活とか思われてないかな?」
「そんなこと気にしてんの? 誰もあたしたちのことなんて見てないよ?」
言われて周りを見渡してみる。
みんな家族連れで楽しそうにして、俺たちのことなんて気にしてない。
彼女の言うとおりだ。
「マミイ。見て、となりの席」
促されるまま、隣席に眼をやった。
「あたしが、最初に人間に転生したときの家族なの」
「はっ?」
俺はその家族の顔を何度見かした。
「パパとママと弟。あたしは大学に合格して、東京に行くはずだった。でも東京はレッドドラゴンが最初に襲った場所なんだ。あたしはその日、パパと一緒に部屋探しに行って、中央線に乗ってた。そこに、レッドドラゴンが飛んで来た。あれは動くものから襲うから、乗ってた電車が狙われて、高架から落とされたの。乗ってた人の殆どは動けなくて、それをレッドドラゴンが窓から口突っ込んで食べてた。パパは血だらけだったけど、あたしを引っ張って、割れた窓から這い出て、逃げようとしたの。車両の中の人を食べるのにレッドドラゴンは夢中で、パパとあたしは気づかれなかった。パパに手を引かれて、二人で走り出したところで、別のが飛んできて、パパが食べられた。あたしはその場で座り込んで、放心状態っていうか、諦めちゃったの。生きること。もう無理だって。もう逃げらんないって。知ってる? レッドドラゴンって食べた人間の服を、ちゃんと吐き出すんだ。パパの着てた服が落ちてきて、血だらけで、靴とか。あたしは死ぬまで、それから眼が離せなかった……」
俺はこれ以上聞きたくなくて、アイスコーヒーを飲むことに集中した。
リノンは周囲の席を順に見ていった。
みんな家族連れで、みんなこれまで転生してきた彼女の家族だった。
「あたしの人生。それぞれの人生にそれぞれの家族がいて、友達がいて……みんな死んだ。レッドドラゴンに殺された。食べられた。みんなとは、夢の中でしか会えない。あたしも死んだ。あたしは転生8回分死んだ。だから、今回で決める。この、9回目の人生で」
「ラストイニングってわけか」
俺もなに落ち着いてうまいこと言おうとしてんの。
うまいこと言ったつもりだったけどリノンは少しも笑わなかったし、よく考えたら別にうまくもなかった。
「マミイが、たった一回死ぬだけでいいんだ。それで、みんなが救われるんだ」
「他に、なにか、方法はないのか?」
「あたしが転生を繰り返したのは、マミイを殺すためなの。どう考えても。残念だけど。それが運命なんだって思ってる」
「だったら俺にだって運命くらいあるだろ。人間から二回も転生した、三度目のトカゲ生だ。人間は二回やったがどっちも人生の半ばで死んだ。山本アキヲはこの島で死んだんだぞ。大したことも成さないまま。俺の転生に意味があるとしたら……」
「それは、レッドドラゴンに転生して、あたしに殺されるためだろうね」
「ムラサキぃ……」
「死ね。あたしのために。死ね。人類のために死ね。お前が死ね」
「きみ、本当に、ムラサキ、だよな……?」
「ムラサキ? そんな鳥どうでもいいでしょ。あたしはリノン。ムラサキじゃない。お前を殺しに来たんだ」
「リノン!?」
いったいどこから取り出したのか、リノンが右手で拳銃を構えている。
狙いは俺の頭にピタリ。
片手とはいえこの至近距離ではまず外れまい。
1ミリの躊躇もなく彼女は射った。